夜7時過ぎ、外出先からクタクタになって帰宅し夕刊を広げると「浅沼事件50年 検証と美化」という見出しが目に飛び込んできた。なんとタイムリーな!と一瞬思った。
というのは、しばらく前なじみの店に居合わせた客とこの事件の話になり(事件というより犯人の話)、事件をテーマとしたノンフィクション「テロルの決算」(沢木耕太郎著)を急に読み直したくなったということがあったからだ。
さっそく本棚を探ってみたが、いくら探してもない。単行本で持っていたはずなのに・・・今まで何度か読み直しているので処分してしまったのか・・・仕方ないので文庫本を取り寄せて今読んでいるところなのだ。
事件について知らない方は検索していただければすぐに出て来るので、ここでは書かない。が、新聞記事にもあったように、この事件は「右からも左からも過度にシンボライズされた」事件だという考え方には共感を覚える。
壇上の浅沼稲次郎を刺殺した犯人がまだ17歳であったこと。自衛官を父に持つこの少年は、学校を中退してまで日本愛国塔に入党したこと。事件の一ヶ月前に脱党し、逮捕後鑑別所内で自死したこと。すべてがセンセーショナルであり、誰にとっても忘れ難い出来事だったと思う。
昨年11月に、犯人(称賛する人々にとっては「烈士」)の没後50年を記念する五十回忌が青山で行われたという。また、ネット上で彼の行為を称賛し、最も尊敬すると宣言する人たちもいるという。「過度にシンボライズされた」所以だろうか。
この事件やその後の動向について思うことがないわけではないが、ここでは記さない。興味を覚えた方は調べるなり本を読むなりしていただければと思う。
もしかしたら、こうした最近の動きを件の客が新聞記事になる前にどこかで見かけ、それでその話になったのかもしれない。その可能性は大きい。ということは、なんたる偶然!と思ったのは思い違いで、再読しているのも偶然ではないのかもしれないと今は思っている。