『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』という本に出会ったことは、ひとつの幸運だったと思う。
日本という国に生まれ、今という時代を生きる者として、知っておかなくてはいけないのに知らずにいたこと・・・もちろんそれは非常に個人的な価値観によるが・・・を知ることができ、それを機会としてある程度まとまった“考える時間”を持てたこと。これは幸運であり、幸福なことである。
なぜ、ここまで長々と、退屈だと思われるかもしれない話題を引っ張ったのか。その理由はいくつかあるが、その一つに、ナガサキのことはもっともっと、広く知られるべきだと思ったというものがある。
長崎には一度だけ行ったことがある。高校2年生の修学旅行だ。修学旅行なんてそんなものなのかもしれないが、どこへ行ったかはかろうじて覚えているものの、その時感じたことや考えたことはほとんど記憶の外となっている。浦上天主堂にも行ったはずだ。しかし、異国情緒溢れるきれいな教会だなぁ、程度の印象しか残っていない。
その印象と、中学校の修学旅行で法隆寺に行き、百済観音の前で動けなくなった時の印象を比べれば、後者が前者をはるかに凌駕する。今までそのギャップを考えたこともなかったが、後年広島に行き、原爆ドームや原爆資料館をまわった時のことを考え合わせると、浦上天主堂がもし、現在の場所でなくても、廃虚のまま残っていたら・・・と思わざるを得なく
なる。
ヒロシマの印象は強烈だった。強烈すぎて具合が悪くなりそうだった。感性が鈍っているであろう中年になっても。若いころこれを見たなら、一体どうなっていただろう。何を考えただろう。未熟な頭脳なりに様々なことを考え、歴史観さえ変ったかもしれないし、その後少しずつ育む価値観も変ったのではないか。そう思う時、浦上天主堂の廃虚がこの世から消えてしまったことを、非常に残念に思う。
残念に思うのみに留まっていることができず、それなら何故消えてしまったのかを知る必要があると思った。その背後にあったものもまた、歴史の一部であるのだろうから。
『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の終わり近くに、「劣等被爆都市長崎」という言葉が出て来る。前長崎大学教育学部享受で「新・長崎学」を提唱している高橋眞司氏が、広島に比べて存在感のない長崎を喩えた言葉だ。
反核運動が高揚した1980年代のはじめ、ニューヨークで開催された「広島の被爆者を支援する文化の夕べ」というイベントが開催された。その時、高橋氏は何故このイベントのタイトルに「長崎の被爆者」は入っていないのか、と問い合わせたという。
その時返ってきた答えは、「長崎は広島に“含まれている(included)”だったそうだ。その時の衝撃を氏は鮮やかに記憶し、常に注目される広島に比べ影が薄い長崎、忘却と無視と誤解のうちに放置されてきたと言っても過言ではない長崎の状態を「劣等被爆都市」と呼んできた、と書いている(「続・長崎にあって哲学する」)。
ウランとプルトニウムという原料の違いや、原爆投下までのいきさつは横に置いておいても、広島と長崎には大きな違いがあり、それが印象の明暗を分けたと私は思っている。
たとえば広島の原爆ドーム保存については、市民による大きなうねりのような熱意があり、それが保存を実現したのではないだろうか。これも調べてみなくてはならない案件の一つで、予備知識なしにこのようなことを言うのは軽率かもしれないとも思うがそんな気がする。
原爆投下を正当化し、世界各国からの非難を可能な限り少なくしたいアメリカにとっては、広島の原爆ドームもまた目障りな存在であったはずだ。しかし、原爆ドームは残った。それを思う時、やはり当時の施政者のみならず、市民の力があったと思うのだ。
高橋氏によると、「原爆は長崎に落ちなかった」という言葉があるそうだ。これも驚きである。子供のころから、原爆といえば「広島と長崎」であったのだから。しかし、そういう言葉の背景にあるものが、ナガサキの影の薄さと多いに関係があることを知った。
つまり、「広島の原爆」は広島に落ちたが、「長崎の原爆」は長崎ではなく、浦上に落ちたという意識が市民の間にあるということだ。長崎市民の間に、団結しにくいものがあったということだ。
西日本新聞の馬場記者は、本来原爆が落とされるはずであった長崎市の中心部と浦上の地域文化の隔絶を、「長崎には断層がある」と断じたという。
長崎におけるキリシタン弾圧の歴史は長い。そして、信徒たちは弾圧を「崩れ」と呼び、崩されても崩されても立ち上がってきた。それは苦しみの歴史であるとともに、信徒たちにとっては大きな誇りでもあるはずだ。
しかし周囲はどうか。周辺の地域は、昔から「お諏訪さん(諏訪神社)」を信仰する人々が営々と暮らしてきた場所なのだ。一部の市民ではあるが、「(原爆が)市街に落ちなかったのは、お諏訪さんが守ってくれたおかげ」と言い、「浦上に落ちたのは、お諏訪さんに参らない“耶蘇”への天罰」であるという差別的な言葉さえ聞こえたという。
そのような断層の中で信仰に生きる者として、信徒を導く者として、山口大司教は再建を急いだのではないだろうか。保存を熱望する声に耳を貸すつもりは全くなかったような印象を受けるが、そこにはこの「浦上五番崩れ(原爆のこと)」から見事に立ち上がってやろうじゃないか、という意地のようなものさえ感じられてくる。
宗教というものは、信者にとってはありがたいものなのであろうが、私のような者にとっては恐ろしいものである。恐ろしく、どこか悲しいものである、というのが今の気持ちだろうか。
さて、今回でナガサキについての連載は終えることにする。しかし、ブログではとりあえずピリオドを打つが、私の中ではまだまだ区切りがついていない。今回の連載を機に知ったことを考え、出会った本を読むという生活が続くだろう。
永井隆氏の「長崎の鐘」(「マニラの悲劇」合刷版)はすでに入手し、今呼んでいるところだ。ジョン・ダワー氏をはじめとする海外の研究者の著作も読んで見たいと思っている。それゆえ、またひょっこり関連した話題をブログにアップするかもしれない。あらかじめ言っておこう。
それにしても、長々と書いた。私にしては異例である。知りえた情報を整理し、自分の考えも整理することにある程度の時間はかかったが、充実した時間であった。あまりに長いので、いいかげん飽きてきた方も、最初からパスした方もおられることだろう。
しかし、私は書きたかった。自分のためにだけでなく、多くの方々にナガサキについて少しでも知ってもらいたく、また一緒に考えていただきたく、書いた。できるだけ冷静に書いたつもりだが、相変わらずぶっつけ本番で見直しも校正もほとんどしていない。誤字脱字のみならず矛盾していることもあるかもしれない。それにもかかわらず最後まで読んでくださった方がいらっしゃるとすれば、心から感謝したいと思う。
最後になるが、著者について。『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の著者である高瀬氏は、長崎出身者である。通っておられた高校が爆心地公園から10分くらいのところにあるカトリック系の学校だったとのこと。母上は爆心地付近で被爆されたが幸運にも生き残り、著者を生むことになる。
私と同世代である著者は、母親の話を耳にしつつも、屈託のない青春時代を過し、原爆についてさほど深く考えずに大人になったという。しかし、3年ほど前にNBCが制作したドキュメンタリー「神と原爆」を見て、浦上天主堂の廃虚が何故保存されずに終わったかに大きな疑問を持つ。そして、書き上げられたのが本書である。
単なる偶然と言えばそれまでだが、私にはひとつの運命を感じさせる。そして、長崎出身者によってこのような本が書かれたことは大きな意味を持つような気がしている。