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ある古本屋からの手紙
09-0831

ナガサキについての記事を書きながら、関連書籍を検索しいくつかを購入した。すでに絶版になっているものもあり、値段を見ながら、古本の中から選んだものもある。amazonのマーケットプレイスは、手軽に古本も購入できるので、こういう時ありがたい。


その中に、「長崎(11:02)1945年8月9日」という写真集がある。新潮社の「フォト・ミュゼ」というシリーズの中の一冊で、撮影は東松照明氏。発行は1995年6月である。


この写真集について、というよりも東松氏が長崎の写真を撮ったということはすでに知っていた。1961年、原水協の以来を受けて採られた写真で、広島を担当したのは土門拳氏である。東松氏のキャリアの中でも代表的な仕事なので、知っている方も多いのではないだろうか。


写真集の話はまた後日することにして、今日はそれが届いた時同封されていた「古本屋からの手紙」について書きたいと思う。


業者の規模がわからないので、古本屋という表現が適切かどうか判断できない。が、単に事務的な対応に留まらないこの「手紙」を読む限り、あまり規模の大きな業者ではないだろうと推測する。もしかしたら1〜2人で細々とやっているのかもしれない。


手紙はA4のコピー用紙2枚に、びっしり文字が書かれているものである。これだけのボリュームを手書きで書くのは、けっこう手間暇のかかることだと思う。


まず、本の状態はマーケットプレイスでも簡単に説明されているわけだが、手紙においてより詳しく書かれている(以下引用)


初版、帯付キ。微ヤケや軽いめくりじわなどはあるものの、よく見られるタイプの本としては良好です。傷つきやすい本ということもあり、本体表紙に少しキズがありますが、中はよい方です。最後の方の厚紙部分に極わずかな薄いはがれ跡がありますが、気になるレベルではありません。帯内側には織り目があります。カバーもコーティングなどがしてあるタイプの本ではなく、傷みやすいのでビニールカバー、パラフィン紙をつけてお送りしました。


また、この写真集を「歴史を知る貴重な一冊」であるとし、手紙の書き手がいかにこの本に魅力を感じているかが嫌みのない文章(押しつけがましくないところがいい)で綴られている。原爆、そして戦争という過去のものとしてとらえられがちな不幸な出来事を、次の世代にもしっかり伝えてゆくべき、という強い気持ちが表されており、共感を感じつつ読み終えた。


加えて、朝日新聞が今年6月8日、夕刊紙上でこの写真集にまつわるエピソードを掲載したという情報もいただいた。ちらりと見た記憶があるものの、記事はうかつにも読んでいなかったので、これはたいへんありがたい情報だった。古い新聞はすでに捨ててしまっていたので、先日図書館に行き縮刷版のコピーをとってきたところだ。その記事についても、写真集の話をとりあげる時に書きたいと思っている。


ネットで何かを買うのがごく普通のこととなりつつある現代。やりとりは迅速で正確であればとりあえず文句はない。が、今回のように業者の顔のようなものが見えることもあるんだなぁと思い、思いがけなく嬉しくなったことを伝えておきたい。


| - | 19:48 | comments(6) | - |
ポジショニング?
09-0830

8回という異例の連載を昨日終えたわけだが、書く内容を考えつつ、長々と書きつつ、自分のブログ(公開日記?)についても少し考えていた。


今にはじまったことではなく、時折、何故自分はこうしてブログで何らかの情報を発信しつづけているのか、このブログは自分にとってどのような意味があるのか、等々は考えている。また、多くの人がそうなのであろうとも思っている。


たとえば、自分のブログを訪れる人が全くいなくなった時、自分はどうするか。読む人がいないなら意味がない、と考えて止めてしまうか。それとも虚空に向かって独り言を言っているようになるかもしれないと思いつつ続けるか。結論はなかなか出ない。


ブログという体裁を選ぶ前から、私の日記については反応が鈍い・・・というか反応しにくいようだ。その理由を察することができる時もあれば、何故なんだろうなぁと不思議に思うこともある。


が、これは読む側の問題で私の問題ではない、と思っているので・・・つまり、「アクセス数を増やしてなんぼ」というブログでもなく、訪れる人との交流を主目的としてブログではないと考えているので、あれこれ考え、内容を検討し、善処するというものでもない。


私の日記やブログについて過去言われたことの一つに、「ボリュームがあるので読むのが精いっぱい」というのがある。なるほど、と思う。満腹になっちゃってもう食べられませーん!といったところだろうか。


では、腹八分になるような内容にすればいいのだろうか。いやいや、腹八分がどの当たりなのかは人によって違うし、そのような微妙なさじ加減は不器用なのでできそうにない。


「理路整然としていて、自分がこれ以上何かを書く気になれない」というのもあった。私の日記が理路整然としているかどうかは当事者としては多いに疑問を持つのだが、そのように感じてそのような行動をとる人もまた存在するということは想像できる。


まだ聞いたことはないが、「下手に書き込むと突っ込まれるのではないか!?」「バカにされるのではないか」と思う人がいても不思議ではないだろうし、違う意見をもちつつ反論するのが面倒だと思っている人もいるかもしれない。


読者はありがたい存在だと思っているし、感想を聞くのは楽しいし、似たような感覚を持っている人と話すのは楽しいし、批判についても感情的なものでなければありがたく受け取るつもりではいる。知らないことを教えてもらうのは私にとって大きな意味があるし、間違いの指摘もそれが納得のいくものだったら、素直に自分の非を認めたいと思う。


しかし、やはり読者とのやりとりは、私にとって二次的に意味のあることであり、知っている人を含めて不特定多数の人々に対して、つまり「読者」という全体像に対して考えたことや感じたことを発信することが主目的であることに変りはない。


だから基本的に勝手気ままな内容になるが、かといって自分の部屋で楽器を演奏してうっとりするようなものではない。常に「読者」がいることを意識しているし、すべきだと思っている。


今回いろいろ考えて、時々本文の後に書いている(「*」をつけて書いている箇条書き)ものを、しばらくやめてみようと思う。


この「ひとりごと」的なつぶやきは、ブログにする前の日記で「本日のひとりごと」として書いていたものを引き継いでいるのだが、私にとっては書いても書かなくてもどうでもいいことなのである。


ただ、私にも「ねえねえ、聞いて!」と思うことはあるし、本文以外にもちょっと知らせたいなぁと思うこともあるにはある。が、それをオマケのようにつけることは中途半端だと前々から思っていた。


読者からすると、もしかしたら本文より「ひとりごと」の方が面白いかもしれない。それは十分ありうる。それならはなおさらのこと、やめたほうがいいというのが、とりあえずの結論である。いじわるをしたいわけではない。


読者の方がどのように思おうと、書く方は本文に集中して書いている。「ひとりごと」は、集中した力を抜くための作業としての意味合いはあるが、それを加えることにより読者の意識がそちらにもっていかれるのだとしたら、不本意なのである。


ある程度頭と時間を使って書いた本文に対してコメントがあるのを発見する・・・お!どんな意見、感想が聞けるのかな、と期待して見てみると「ひとりごと」へのコメントに終始している、ということがよくある。一瞬あっけにとられ、苦笑し、少しがっかりする。


これは偏に、そのように中途半端なことをしている自分に責任があることで、当たり前だが読者には一切の責はない。また、「ひとりごと」へのコメントもまた嬉しいものであるには違いはないのだ。


しかし、やはり中途半端はよくないのである。堅苦しいと言われようが、なんだかすっきりしないのだからよくないに違いない。自分で納得しての「ちゃらんぽらん」ならいいが、納得できない「ちゃらんぽらん」は、やはりよくない。


ということで、これからは本文と本文に関する付録的な箇条書きのみになるかと思うので、どうぞよろしく・・・と思ったら、写真をどうしようか・・・写真は本文に関連するものを用意するのが困難なので、このままにするしかないか。まだまだ中途半端だが、どうぞよろしく・・・なんだかおマヌケな終わり方だなぁ(^.^;)

| - | 16:54 | comments(9) | - |
「ナガサキ」について(8)総括
09-0829

ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』という本に出会ったことは、ひとつの幸運だったと思う。


日本という国に生まれ、今という時代を生きる者として、知っておかなくてはいけないのに知らずにいたこと・・・もちろんそれは非常に個人的な価値観によるが・・・を知ることができ、それを機会としてある程度まとまった“考える時間”を持てたこと。これは幸運であり、幸福なことである。


なぜ、ここまで長々と、退屈だと思われるかもしれない話題を引っ張ったのか。その理由はいくつかあるが、その一つに、ナガサキのことはもっともっと、広く知られるべきだと思ったというものがある。


長崎には一度だけ行ったことがある。高校2年生の修学旅行だ。修学旅行なんてそんなものなのかもしれないが、どこへ行ったかはかろうじて覚えているものの、その時感じたことや考えたことはほとんど記憶の外となっている。浦上天主堂にも行ったはずだ。しかし、異国情緒溢れるきれいな教会だなぁ、程度の印象しか残っていない。


その印象と、中学校の修学旅行で法隆寺に行き、百済観音の前で動けなくなった時の印象を比べれば、後者が前者をはるかに凌駕する。今までそのギャップを考えたこともなかったが、後年広島に行き、原爆ドームや原爆資料館をまわった時のことを考え合わせると、浦上天主堂がもし、現在の場所でなくても、廃虚のまま残っていたら・・・と思わざるを得なく

なる。


ヒロシマの印象は強烈だった。強烈すぎて具合が悪くなりそうだった。感性が鈍っているであろう中年になっても。若いころこれを見たなら、一体どうなっていただろう。何を考えただろう。未熟な頭脳なりに様々なことを考え、歴史観さえ変ったかもしれないし、その後少しずつ育む価値観も変ったのではないか。そう思う時、浦上天主堂の廃虚がこの世から消えてしまったことを、非常に残念に思う。


残念に思うのみに留まっていることができず、それなら何故消えてしまったのかを知る必要があると思った。その背後にあったものもまた、歴史の一部であるのだろうから。


『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の終わり近くに、「劣等被爆都市長崎」という言葉が出て来る。前長崎大学教育学部享受で「新・長崎学」を提唱している高橋眞司氏が、広島に比べて存在感のない長崎を喩えた言葉だ。


反核運動が高揚した1980年代のはじめ、ニューヨークで開催された「広島の被爆者を支援する文化の夕べ」というイベントが開催された。その時、高橋氏は何故このイベントのタイトルに「長崎の被爆者」は入っていないのか、と問い合わせたという。

その時返ってきた答えは、「長崎は広島に“含まれている(included)”だったそうだ。その時の衝撃を氏は鮮やかに記憶し、常に注目される広島に比べ影が薄い長崎、忘却と無視と誤解のうちに放置されてきたと言っても過言ではない長崎の状態を「劣等被爆都市」と呼んできた、と書いている(「続・長崎にあって哲学する」)。


ウランとプルトニウムという原料の違いや、原爆投下までのいきさつは横に置いておいても、広島と長崎には大きな違いがあり、それが印象の明暗を分けたと私は思っている。


たとえば広島の原爆ドーム保存については、市民による大きなうねりのような熱意があり、それが保存を実現したのではないだろうか。これも調べてみなくてはならない案件の一つで、予備知識なしにこのようなことを言うのは軽率かもしれないとも思うがそんな気がする。


原爆投下を正当化し、世界各国からの非難を可能な限り少なくしたいアメリカにとっては、広島の原爆ドームもまた目障りな存在であったはずだ。しかし、原爆ドームは残った。それを思う時、やはり当時の施政者のみならず、市民の力があったと思うのだ。


高橋氏によると、「原爆は長崎に落ちなかった」という言葉があるそうだ。これも驚きである。子供のころから、原爆といえば「広島と長崎」であったのだから。しかし、そういう言葉の背景にあるものが、ナガサキの影の薄さと多いに関係があることを知った。


つまり、「広島の原爆」は広島に落ちたが、「長崎の原爆」は長崎ではなく、浦上に落ちたという意識が市民の間にあるということだ。長崎市民の間に、団結しにくいものがあったということだ。


西日本新聞の馬場記者は、本来原爆が落とされるはずであった長崎市の中心部と浦上の地域文化の隔絶を、「長崎には断層がある」と断じたという。


長崎におけるキリシタン弾圧の歴史は長い。そして、信徒たちは弾圧を「崩れ」と呼び、崩されても崩されても立ち上がってきた。それは苦しみの歴史であるとともに、信徒たちにとっては大きな誇りでもあるはずだ。


しかし周囲はどうか。周辺の地域は、昔から「お諏訪さん(諏訪神社)」を信仰する人々が営々と暮らしてきた場所なのだ。一部の市民ではあるが、「(原爆が)市街に落ちなかったのは、お諏訪さんが守ってくれたおかげ」と言い、「浦上に落ちたのは、お諏訪さんに参らない“耶蘇”への天罰」であるという差別的な言葉さえ聞こえたという。


そのような断層の中で信仰に生きる者として、信徒を導く者として、山口大司教は再建を急いだのではないだろうか。保存を熱望する声に耳を貸すつもりは全くなかったような印象を受けるが、そこにはこの「浦上五番崩れ(原爆のこと)」から見事に立ち上がってやろうじゃないか、という意地のようなものさえ感じられてくる。


宗教というものは、信者にとってはありがたいものなのであろうが、私のような者にとっては恐ろしいものである。恐ろしく、どこか悲しいものである、というのが今の気持ちだろうか。


さて、今回でナガサキについての連載は終えることにする。しかし、ブログではとりあえずピリオドを打つが、私の中ではまだまだ区切りがついていない。今回の連載を機に知ったことを考え、出会った本を読むという生活が続くだろう。


永井隆氏の「長崎の鐘」(「マニラの悲劇」合刷版)はすでに入手し、今呼んでいるところだ。ジョン・ダワー氏をはじめとする海外の研究者の著作も読んで見たいと思っている。それゆえ、またひょっこり関連した話題をブログにアップするかもしれない。あらかじめ言っておこう。


それにしても、長々と書いた。私にしては異例である。知りえた情報を整理し、自分の考えも整理することにある程度の時間はかかったが、充実した時間であった。あまりに長いので、いいかげん飽きてきた方も、最初からパスした方もおられることだろう。


しかし、私は書きたかった。自分のためにだけでなく、多くの方々にナガサキについて少しでも知ってもらいたく、また一緒に考えていただきたく、書いた。できるだけ冷静に書いたつもりだが、相変わらずぶっつけ本番で見直しも校正もほとんどしていない。誤字脱字のみならず矛盾していることもあるかもしれない。それにもかかわらず最後まで読んでくださった方がいらっしゃるとすれば、心から感謝したいと思う。


最後になるが、著者について。『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の著者である高瀬氏は、長崎出身者である。通っておられた高校が爆心地公園から10分くらいのところにあるカトリック系の学校だったとのこと。母上は爆心地付近で被爆されたが幸運にも生き残り、著者を生むことになる。


私と同世代である著者は、母親の話を耳にしつつも、屈託のない青春時代を過し、原爆についてさほど深く考えずに大人になったという。しかし、3年ほど前にNBCが制作したドキュメンタリー「神と原爆」を見て、浦上天主堂の廃虚が何故保存されずに終わったかに大きな疑問を持つ。そして、書き上げられたのが本書である。


単なる偶然と言えばそれまでだが、私にはひとつの運命を感じさせる。そして、長崎出身者によってこのような本が書かれたことは大きな意味を持つような気がしている。

| - | 15:52 | comments(0) | - |
「ナガサキ」について(7)正当化と批判
09-0828

いよいよ7回目に突入(^.^;) 今日は、『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)に触れながら、ナガサキだけでなく、日本が経験した「原爆」が世界でどのように受け取られているかを少し紹介したい。


日本においては、私の知る限り、原爆は決して使用してはならない「悪」としてとらえている人が多いように思う。が、そのとらえ方はかなり漠然としており、ヒロシマやナガサキの被害に関する情報のみに基づき、「こんな残酷なことがあっていいはずはない」程度の感覚であるように思われる。


実際のところ、私もそれに近かった。被爆作家の本や原爆に関する本を読んだり、記録映画を観たり、写真集を見たり、その程度のことで「原爆は残酷なもので、決してその使用は許されるものではない」と思っていたのだ。


が、戦争には勝者と敗者はいるが、一方にのみ責任がある場合はほとんどないことを考えると、原爆を落とされた国の者としての被害者意識におぼれることなく、歴史的な背景や自国がしてきたことを含めた全体的な視野に立って考えなくてはいけないと思うようになった。


ご存知の方も多いと思うが、アメリカにおいては原爆の使用は正しかった、と考えている人が相当数存在するようだ。アジア各国においても、日本軍の残虐な行為からの解放としてとらえる人も多いと聞く。


すべての意見、考えを聞くのは無理だろうけれど、自分とは違う意見に耳を傾ける態度は原爆問題に限らず必要であると思うので、今後も折りに触れていろいろ情報を探し、考えてみたいと思っている。


『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)では、原爆を正当化している論調として、「ハーパース」の記事(1947.2月号)を挙げている。その論旨は概ね以下のとおり。


米国は戦争末期2つの日本上陸作戦を計画していたが、実行すれば多くの犠牲者が出ることが考えられた。それを回避できたのは原爆投下によって戦争を終わらせることができたからだ。


このような論調は他にもたくさんあり、「本土でも沖縄のような地上戦になれば、日本の被害も相当なものになったに違いなく、戦争を終わらせるための原爆使用は正しい」「先に戦争をしかけたのは日本だし(真珠湾)、アジア各国を侵略したのも日本。だから犠牲者のようにいうのはおかしい」など。


一方、アメリカにおいても原爆使用を批判する立場をとる個人や団体ももちろんおり、その例がいくつか紹介されている。宗教界からの批判として、「カトリック・ワールド」の編集長であるジェームズ・M・ギリス神父によるコメントは以下のとおり。


仮に「犯罪」という言葉が罪を暗示し、罪には必ず良心の呵責が伴うという前提がないならば、私はそれを犯罪と呼ぶだろう(略)合衆国政府がとった行動は文明社会の根幹を成している情のすべて、罪の自覚のすべてをことごとく無視するものだ。


原爆の是非を巡る論争といえば、スミソニアン博物館の原爆論争が有名だ。


1995年、第二次世界大戦終結50周年を記念し、核兵器が現代の社会においてどのような意味があるのかを問う特別展が企画されたのだが、その際、ヒロシマやナガサキの被爆の様子も大きくとりあげられる予定だった。被爆者の遺品なども展示され、悲惨な出来事にも光を当てることにより、核兵器の全体像をとらえようという意図があったという。


しかし、この企画は大きな反発を招き(退役軍人が中心となって反対したように記憶しているが)、原爆展は勇敢に戦ったアメリカ兵を侮辱するものだとされ結局中止された。


この結果を受けて、様々な論議が交わされ様々な本が出版されている。NHKスペシャル(TV)の取材班による「アメリカの中の原爆論争〜戦後50年スミソニアン展示の波紋」もこの大論争を扱ったものだ。未読だが読んでみたいと思っている。


このスミソニアン博物館の原爆論争を振り返りながら、中高生に原爆の是非を考える演習を行った方のサイトを見つけた。


歴史学者・ジョン・ダワー氏の意見をはじめ、マスコミなどで取り上げられた代表的な意見がまず紹介され、生徒たちのレポートも数例紹介されている。「原爆の使用は正しかった」「原爆の使用はまちがっていた」双方の言い分をまず同等に扱うことで、生徒たちにじっくり考える機会を与えており、内容も非常にわかりやすいのでここで紹介しておきたい。


●「スミソニアン原爆論争 原爆の使用は正しかったのか?」

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/genbaku.htm


| - | 23:56 | comments(0) | - |
「ナガサキ」について(6)報道
09-0827

引き続き、『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)を中心に。今日は、田川市長と山口大司教の訪米中の発言を扱った報道について。


前にも書いたが、当時の長崎市長であった田川氏は、長崎市とセントポール市の姉妹都市提携をきっかけとして訪米、米国事情を知る同伴者を連れて、アメリカ各地を約1ヶ月にわたって訪問した。帰国後市長は、市議会で渡米報告を行っており、その記録は「長崎市政展望」(長崎市役所秘書秘書課・1956年10月10日発行)として残っている。


内容は主な訪問先と簡単な感想であると思われるが、「ナガサキ消えた・・・」の著者の目を引いたのは、ワシントン訪問についての記述が極端に短いことである。


ワシントンにおいては、国務省関係者が空港まで出迎え、その後の行動は一切国務省の仕切りで行われたらしいが、訪問先や接触団体、関係者のことについての記録が全くないという。国務省関係者の仕切りであれば、政府関係者とも会見を持ったはずだが、「各方面の視察ができした」としか書かれていないとなれば、不思議だと思って当然だろう。


市長訪米中のアメリカにおける報道では、著者がセントポール市のパブリックライブラリーで発見した記事が紹介されている。


まず、「デイリー・クーリエ」(1955年8月9日付)では、「長崎の市長が広島のイメージ戦略を批判」というタイトルで以下のような記事を掲載。


「原爆が投下された第二の都市の市長、田川務氏が今日、広島が破壊を利用し利益を得ようとしている、と語った。“広島は原爆投下を宣伝のため利用しようとしている” 長崎は広島に原爆が投下された3日後に、プルトニウム爆弾によって破壊された。長崎では約74,000人が殺害され、公式には広島では78,000人が殺害された。広島の名前は世界中で知られているが、長崎の悲劇についてはほとんど忘れられている。田川市長は、原爆投下記念日の文章の中で広島を批判し、原爆で焼かれてしまった女性は、広島の25人の女性のように、整形手術のために渡米する要請などしないだろう、と語っている」


配信はUP(現在のUPI)か、とのことで、16日の日記で紹介した「TIME」の記事も出所は同じだと思われる。


一方、山口大司教訪米中の報道としては、「ニューヨーク・タイムズ」(1956年5月5日付)が紹介されている。タイトルは「長崎に新しい大聖堂を」で、内容は以下のとおり。


「港町に伸びる22,000人のローマカトリック教徒の町では、8,500人が原爆によって殺された。“多くの日本人が、比率でいくと最大のクリスチャンコミュニティである長崎を原爆が襲ったことに対し、皮肉に感じている”と、長崎司教区の大司教、ポール山口が振り返った。“しかし、カトリック教徒はこの試練を戦争を終わらせるための殉死とみなし、罪に対しての神の最後の鎮静だと考える”と述べた。“私たちは、広島で日本人が受けた犠牲は、神の前では十分ではなかったのだと感じている”山口司教は新しい教会は米ドルで約25万ドルかかるだろうと見積もっていた。彼は“最近の訪米で4万ドルを得ることができた。日本からの募金でもかなりの額を集めることができたが、まだ10万ドルの資金が不足している”と語った。」


どうだろう。非常に限られた情報ではある。しかし、それだけに基づき判断することは危険だということを念頭においてもなお、二人のうち一人は広島を批判し、もう一人は広島の犠牲では不十分と語っていることに妙な感じを抱きはしないか。


個人的には、アメリカに気に入ってもらうための発言であり(市長)、アメリカからできるだけ多くの建設資金を得ようとする目論見(司教)が感じられる。そして、よりによって、同じ苦しみ、痛みを体験したであろう広島を「出汁」のように使っていることに、なんともいえないイヤな感じを覚える。


| - | 17:58 | comments(0) | - |
「ナガサキ」について(5)教会
09-0826

『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)を中心に。すでに5回目である(^.^;) 読んだ本の内容を細かく書くというスタイルは、ボリュームだけあって内容が薄い読書感想文のようで避けたいのだが、今回は例外としたい。私の中では重要な意味を持つ内容がたいへん多かったので。今日はこれから出かけて夜遅くの帰宅になりそうなので、今のうちに更新しておきたい。


* * * * *


被爆後、浦上天主堂の廃虚では廃虚をそのままにして仮聖堂が建てられていた。細かい煉瓦の破片などの瓦礫は1949年のザビエル祭までに片づけられていたが、原爆資料保存委員会の強い要望により壁などはそのまま残されていた。


1954年7月には、「浦上天主堂再建委員会」が発足し、会長には主任司祭であった中島万利氏が就任。新しい天主堂は鉄筋コンクリート造、建坪400坪で総工費は6000万円の見込みとなったが、どうやっても3000万円不足する事態が予測された。


そこで、山口愛次郎司教が渡米し、再建資金を集めることになった。司教はアメリカ各地を訪問しながら、随時リポートを送っていたという。滞在期間は1955年5月から翌年の10月までの約10ヶ月に及ぶ。


山口司教は田川市長同様(司教の渡米の方が若干早いが、ほぼ同時期)各地で歓迎され、ロチェスター市の戦没者記念ホールが落成した際に行われた「布教展覧会」に招待され、ミサを執り行ったという。その時の感動を司教は、「かつて敵国であった日本の司教が戦争犠牲者記念堂にこの歓迎を受けミサを捧げる。ふっと胸が熱くなった」とリポートに記していたとのことだ。


注目すべきは、「ナガサキ消えた・・・」の著者が発見したセントポール訪問時の新聞記事。「セントポール・サンデー・パイオニアプレス」の1955年12月11付で、山口氏の以下の発言が紹介されている。


「長崎とセントポール市が姉妹年の関係を結んだことにより、再建プロジェクトを進め、残りの爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる」


著者も書いているが、私もこの発言にはかなり引っかかった。山口司教はこの時点ですでに「傷跡を消し去る」、つまり天主堂の廃虚は保存せず撤去することを決めていたのではないか、と驚きを持って感じる。


山口愛次郎氏は浦上の出身だそうで、別の土地での新天主堂建設は考えられなかったのかもしれない。また、先にも書いたように、この天主堂は数々の弾圧を受けながらその度に信者たちが忍耐強く立ち上がり、信仰を貫いてきた場所であり、天主堂が建てられる前は、弾圧の象徴ともいうべき踏み絵を行っていた庄屋があった場所だ。


そんな場所だからこそあえて天主堂建設の場に選び、30年の歳月をかけて建てたのだ。だから、浦上天主堂は浦上の地に再度建設されなければならないと考えても不思議ではない。


しかし、何故廃虚の「移築」ではなく「撤去」を望んだのだろう、という疑問が残る。不思議なことに再建に関する決定権を持っていたにもかかわらず記録は一切残っていないという。


著者は現在の浦上天主堂に取材し(2007年)、平野勇主任司祭から、山口司教の渡米及び資金集めは、廃虚を取り壊すことが条件で実現したのではないか、そんな話が口から口へ伝わっている、という話を聞いている。


田川市長とほぼ同時期渡米した山口司教の考えが「撤去」で一致していた背後に、大きなものを感じるのは著者だけではないだろう。浦上天主堂の廃虚は、その大きなものの都合により撤去されるべくして撤去された・・・そんな印象を持つ。

| - | 06:51 | comments(0) | - |
「ナガサキ」について(4)市長と議会
09-0825

『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)を中心に。昨日、あと2回くらい続くと書いたが、ブログを書くために再度気になるところを読み、整理してみたら、もう少し長引きそうだ。


最後に私自身の考えをまとめて総括したいので、たぶん今週いっぱいは同じ話題が続く予定。このような話題には興味がない、読むのが鬱陶しい、等々とお考えの方は、週が明けたらちらりとのぞいてみていただければと思う。


8月16日の日記で触れたように、浦上天主堂の廃虚は戦後13年経た1958年に撤去されてしまった。その間、廃虚には仮聖堂が作られてはいたが、廃虚そものもはまだ残っており、どういう形にせよ保存の方向に向かっているように見えた。


まず、1949年9月に長崎市長の諮問機関として「原爆資料保存委員会」が発足。構成メンバーは、市会議員、教会関係者などで、取り壊された1958年まで9回にわたり「保存すべき」という答申を出し続けていたという。


当時市長だった田川務氏も当初は保存の方向で考えていたと思われ、技師である丹羽漢吉氏に廃虚の保存方法を検討するよう依頼している(NBCの取材に対する丹羽氏談)。また、当時浦上天主堂の主任司祭であった中島万利氏も市長と歩調を合わせていたらしい。


しかし、この市長の態度が一変する。1956年8月22日から約1ヶ月間に及ぶ渡米から帰国した田川市長の態度は「保存」から「撤去」へと180°の転換を見せたのだ。


この渡米は、その前年である1955年にミネソタ州セントポール市と長崎市が姉妹都市提携を結んだことを受けてのもので、同じ年の9月3日にはセントポール市から市長へ招待状が届いている。


この招待に関しては、9月30日、定例市議会最終日に全員一致で承認されたが、何故か市長はその年に渡米はしなかった。その理由がわかる資料がないので真相は不明だが、「ナガサキ消えた・・・」において著者は、渡米にかかる莫大な費用がネックになっていたのではないかと推測している。サラリーマンの初任給が1万円にもならない時代、渡航費用は現在のレートにすると800万円近く必要だったからだ。


セントポール市との姉妹提携についてもいえるのだが、市長の渡米に関してもアメリカは異様なくらい積極的だったように思われる。1956年2月、ミネソタ大学教授がわざわざ長崎を訪れており、同年8月にめでたく?渡米の運びとなったといういきさつがある。


市長の渡米は先に書いたように約1ヶ月に亘る大旅行で、セントポール、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、そしてハワイを巡るものだった。各地で盛大に歓迎されて帰国した市長は、浦上天主堂の廃虚保存に対して否定的な態度を見せ始める。


渡米中における市長の発言は後日紹介したいと思うが、廃虚保存を願う議員たちにとって、その心変わりは青天の霹靂だったのではないだろうか。


「ナガサキ消えた・・・」では、当時議員一期目の岩口夏夫氏と市長のやりとりが紹介されていて(1958年2月17日の臨時議会)、たいへん興味深い。保存にかける並々ならぬ熱意を感じさせる岩口氏の言葉に対し、市長の答弁は何がいいたいのかわからないような、曖昧で支離滅裂にさえ私には感じられた。


岩口氏の主張は「観光的価値というよりも、歴史的価値を深く考えなくてはいけないのではないか」「(天主堂の廃虚は)古いゆえ尊いのではなく、その時代を語り、歴史を教え、新しい時代への警告を発するところに価値がある」「戦争の愚かさを語る20世紀の十字架として残すべきもの」というものだった。


それに対して市長は「原爆の悲惨さを物語る使用としては適切ではない」「保存より再建して1日でも早く信者の心の拠り所を再興すべき」とし、果ては核兵器については賛成派と反対派に世界が二分されている状況云々という妙な論旨まで展開し、「これ(天主堂廃虚)は平和を守るための唯一不可欠のものではないという観点に立つ」と述べている。


16日に私が見たテレビ番組で紹介されていた、保存を願う議員の声(録音テープ)は、岩口氏を擁護する荒木徳五郎議員のもので、再度文字で読んでもその願いがいかに切実であったかをひしひしと感じることができる。


市長の心変わりとその答弁に、保存を願う議員は危機感を抱いたのだろう。翌18日、岩口、荒木氏他32名の議員により、「旧浦上天主堂の原爆資料保存に関する決議案」が市議会に上げられ、全回一致で可決。市議会の脇山議長が浦上司教区の山口愛次郎司教に決議文を渡し、原爆資料保存委員会を開催して3案の保存案を作成する。素早い動きだ。


同年2月26日、臨時議会では撤去の方針を明らかにした田川市長ではあったが、市議会の決議を受け、山口司教と会見し、天主堂の廃虚を現地に保存することを要請した。3月5日、市長より会見の内容についての報告があり、現状のままでの保存は不可能なので、移転して保存するための具体案を出すよう要請があった。


市議会は「浦上天主堂原爆廃虚保存委員会」設置を決定、3月8日に役員を決め、脇山議長が山口司教を訪ねて保存を要請した。3月10日には廃虚を視察し、保存方法などを検討している。しかし・・・


わずか4日後の3月14日、教会側の意向により廃虚の撤去が開始された。場所を変えて保存されたのは、高さ13m、幅3mの遺壁の一部のみ。あれこれ議会に注文をつけながら、教会の意向ははじめから取り壊しにあったとしか思えない早急さであった。

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「ナガサキ」について(3)米国の介入
09-0824

引き続き、『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)を中心に。あと2回くらいは続く予定。


同じテーマを長々と書くのは基本的に止めたいところなのだが、この話題については書きかけたらある程度のところまで書かないといけないような気がしているので、ご容赦いただきたい。


昨日触れた永井隆氏のベストセラー「長崎の鐘」は、すんなりと出版されたわけではなく、紆余曲折を経て発行されたものだった。


『ナガサキ消えた・・・』によると、「長崎の鐘」が出版されるまでの経緯を取材した記事が、被爆から59年後の2004年8月、西日本新聞記者である馬場周一郎記者により新聞に掲載されたという。記事は3回にわたる連載で、「原子野の聖者」としてあがめられていた永井氏とは一定の距離をとった客観的なものだったとのことだ。


その記事によると、「長崎の鐘」という作品が生まれるきかっけは、45年10月、地元新聞社から永井氏へ当てた原稿依頼に始まる。「原爆の惨状について書いてほしい」というのが依頼の主旨だった。永井氏は体調が良くなかったようだが、被爆からちょうど一年あまり経過した46年8月、「原子時代の開幕」というタイトルの原稿を完成させた。


しかし、依頼した新聞社が解散してしまい、原稿は一端宙に浮く形になってしまった。そんな時、永井氏は人を介して日比谷出版社の社主であり医師でもある式場隆三郎氏に出会い、熱心な売り込みをかけたという。


なにしろ、永井氏が式場氏に送った手紙が50通保存されていたというのだから、これはもう「熱心な売り込み」以外の何ものでもなかろう。その手紙の中で永井氏は「原子爆弾が落とされた直後の状況についてまだほとんど知らされておらず、歴史的な一記録文献として書いたもので、その意図は原爆の威力を如実に物語り、将来戦争を夢にも思わないものにしたい」と書かれていたという。


式場氏は原稿を読み、これは世に出さないといけないと思ったらしい。そこで実務に携わっている弟・俊三氏に相談し、タイトルを「長崎の鐘」に変えて出版しようと試みた。新しいタイトルは、永井氏の短歌にヒントを得たものだった。


新しく朝の光がさしそむる荒野に響け長崎の鐘


しかし、当時本を出版するに当たっては、GHQに許可申請をしなくてはならなかった。日比谷出版社は1947年3月下旬、GHQに申請を出したが、GHQでは容認派と反対派に別れた。容認派が評価したのは、原爆を神の摂理ととらえ、「地震や噴火といった自然災害のように描いて政治問題にしていない」点。一方反対派の主張は、「被爆者の様子や死者のことを

詳細に描いており、米国に対する怒りや憎しみを増幅する」という点。


結局GHQでは結論が出せず、発行は一端保留となり、その後本国ワシントンの陸軍省に判断がゆだねられることとなった。そして、ワシントンからの条件提示がもたらされる。それは、「ある条件を飲めば出版を許す」という強制力のあるものだったという。


ある条件とは、太平洋戦争末期、フィリピンのマニラにおいて日本軍が住民やカトリック教徒を大量に惨殺した記録を永井氏の原稿とセットにして出版すべし、というものだった。その記録とは、「マニラの悲劇」と題されたGHQ諜報課作成のリポートである。


前述の馬場記者の記事によれば、その内容は、日本軍のマニラでの蛮行は江戸時代の長崎・島原におけるキリスト教徒弾圧で受けた苦しみ以上のもので、この殺戮を止め、戦争を終わらせるために米国と世界が原爆を使わざるを得なかった、云々といった内容だったという。


『ナガサキ消えた・・・』の著者は実際に「マニラの悲劇」の原本を閲覧したそうだが、内容の凄惨さは目次を見れば一目瞭然だ。ボリュームは、「長崎の鐘」が160ページ、「マニラの悲劇」が159ページということなので、ほぼ同じ。


第一章 スペイン人居住民の蒙りたる被害

第二章 ラ・サール学校の虐殺

第三章 日本軍によるキリスト教会の破壊

第四章 日本軍による赤十字病院の破壊、看護婦および患者の殺戮

第五章 地下牢における餓死

第六章 日本軍による幼児刺殺および街路上の非戦闘員射撃

第七章 日本軍の婦女子に対する縛手、殴打、殺害の事実

第八章 日本軍の器物への放火、婦女子の焼殺

第九章 日本軍による一般市民の大量虐殺

第十章 日本軍による少女の乳首および幼児の腕の切断

第十一章 これらの事実は否定できない


「長崎の鐘」の著者である永井氏は、この「マニラの悲劇」を絶賛したという。日比谷出版社へ送った手紙の中で、「まことに得難き文献であり・・・おかげで私の著述『永久の平和を!』という叫びがより強く、より広く響くことになりました・・・」と書いているそうだ。


ここからは私見であるが、「長崎の鐘」が当初著者が言っていたように「歴史的な一記録文献として書いたもので、その意図は原爆の威力を如実に物語り、将来戦争を夢にも思わないものにする」ためのものであるならば、やはり単独で出版されるべきものだと思うのだ。


日本軍による蛮行は許されるものではないが、それはGHQからの命令によってではなく、日本人の良心から出版されるべきものだったと思う。セットにすることにより、原爆を正当化しようという米国の意図を感じなかったのだろうか。感じていても、それよりも自著を発行することの方に大きな意味を感じていたのだろうか。その真意は今となっては知る術がない。


*今日は湿度も低く気持ちいい日・・・だったのだが。

*夕方より強風を伴う雷雨。すごかったなぁ。

*これから何度か、ゲリラ豪雨っていうのがあるのかしら。

*びろーんと伸びた薔薇の枝が折れそうで心配。

*夜にはもう秋の虫の音が聞こえる。もうすぐ秋。

| - | 19:02 | comments(2) | - |
「ナガサキ」について(2)浦上の聖者
09-0823
・・・此岸から彼岸へと行こうとしているように見える蝉。飛ぶ力は、もう、ない・・・

昨日に引き続き、『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)に記されていることを中心に。


永井隆という人をご存知だろうか。名前は聞いたことがある、という人は多いかもしれない。では、「長崎の鐘」はどうだろう。映画にもなり、歌にもなったこのベストセラーのタイトルの方が、作者の名より広く知られているような気がしないでもない。


永井隆(1908-1951)

医学博士。「長崎の鐘」他、原爆に関連した著作多数。

島根県松江市出身。長崎医科大学で放射線医学を専攻。日中戦争時、軍医として従軍。満州事変に参戦し、ノモンハン、華北、華中、華南と中国大陸を転戦。戦闘に参加した回数72回。1934年に入信、洗礼を受け、浦上のキリスト教信者・森山緑と結婚。1945年8月9日、長崎医科大学付属病院本館の部長室で被爆。右側頭部に重傷を負いながら、三ツ山地区

で被爆者の救援に当たる。妻は原爆で死亡。

(「ナガサキ消えた・・・」から一部省略して引用)


被爆した信者追悼のミサにおいて感動的な弔辞を読み上げ、「神の家族400年」(浦上小教区沿革史・1983年)には以下のような記述が残っている。

原子病の体にボロ服をまとい、声涙あふれる弔辞を読み上げられ、参列者一同は涙を流して慟哭した


「浦上の聖者」と呼ばれ、その献身的な、慈愛に溢れた、態度は信者はもちろん、浦上の、長崎の、もしかしたら全国の、多くの人々から称賛され、尊敬されたのではないかと思われる。しかし一方で、この人の態度に異を唱える人々もまた少なからず存在すると思われる。小説家、劇作家、放送作家である井上ひさし氏もそのひとりだ。


井上氏は、幼少時を仙台のカトリック系養護施設で送っている。修道士たちの献身的な

生き方を目の当たりに見て育ったわけで、永井隆の活躍は彼にとって嬉しく、感動的なことであったろう。しかし、先の弔辞において永井が原爆を「神の恩寵」だととらえたことに対して大きな疑問をもったという。


長くなるので迷ったが、意味あると判断し、永井の合同慰霊祭における弔辞を書き起こしたもの(たぶん一部)を引用する。


「(日本の戦力に止めを刺すべき最後の原子爆弾が急遽予定が変って長崎に投下され、しかも軍需工場を狙ったのが少し北に偏って天主堂に流れ落ちたのだという説があるが)もしこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。終戦と浦上潰滅との間に深い関係はありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やされるべき潔き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか。智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血を承け伝えた人類が、同じ神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎み互いに殺しあって喜んでいたこの大罪悪を終結し平和を迎えるためには、ただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神にお詫びせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったのでありましょう。然るに浦上に屠られた瞬間、始めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下され給たのであります。信仰の自由なき日本に於て迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか」


思わず、「うーん」と唸ってしまった。感動したからではない。被爆の生々しい傷を負った人々が集まる合同慰霊祭での、自らも妻を失った人としての、「日本唯一の聖地」の拠り所であった天主堂を失った信者としての、医者として多くの人の死を見つめてきた人としての気持ちはわからなくもない。


しかし、否だからこそ、私は「信仰」というものの怖さを見る思いがする。信じるということは、思い込むということだということを、それはどこか狂気じみているという考えを強くする。思い込みが悪いというのではない。が、ここまでくると、常軌を逸しているように私には思える。


原爆が浦上に落とされたのは、単なる偶然だ。不幸な偶然が連続した結果だ。またアメリカは原爆を3個保有していたらしいから、長崎投下後日本がまだ降伏しなければ、最後の1個をどこか別の都市に落とした可能性は否定できない。


永井の弔辞を読んでいると、彼が「人間」「人類」としてとられているのは、キリスト教信者だけなのかと思ってしまう。


また、ヒロシマの被爆者やその他の、日本国中にいた負傷者、死者たちは、無駄に負傷し犬死にしたのかと言いたくなってしまう。


こういった話をしはじめるとだんだん怒りが立ち上ってくるので、この辺にしておく。が、この永井の姿勢はアメリカにとってはかなり都合のいいものだったらしいことは書いておこう。


被爆の様子を綴った「長崎の鐘」の出版は、当初GHQに拒否された。が、その後ある条件の元に許可される。その条件は提案というよりも命令という形で出版社にもたらされたらしい。それについては後日。


*長い日記が続きすみませーん。
*が、書くべきことは書いておかないとと思って。
*書く方もけっこう大変なんです・・・て。好きでやってるだけだろう!>自分
*「長崎の鐘」も読まないとね。
*今日は昨日より湿度が低く夏らしい日。
*でも、日中散歩に出たら気持ち悪くなった。途中で帰ってきた(^.^;)
*散歩しても猫がいない。当たり前かー
| - | 16:51 | comments(0) | - |
「ナガサキ」について(1)ナガサキの原爆
09-0822

16日の日記に書いた『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著)を読み終えた。


先述したテレビ番組である程度予備知識は得ていたつもりだったのだが、いざ読み始めてみると自分がいかに原爆を単純に(簡単に、という意味ではない)考えていたかを実感してばかりであった。覚えておかなければならないこと、書いておきたいことが次々と現れて、まだ頭の中の整理がついていないのだが、特に印象的だった内容を拾って数回に分けて書こうと思う。


以下に記した文章は、主に同書に拠り、一部Wikipediaを参考にしている。


初回の今日は、ナガサキの原爆について。これはもうお恥ずかしい限りなのだが、私はヒロシマの「原爆」とナガサキの「原爆」は同じものだと思っていた。同じものをヒロシマとナガサキに落としたと思っていたのだ。


が、これは大きな誤りで、ヒロシマに落とされた原爆の原料はウラニウムだったのに対し、ナガサキに落とされたものはウラニウムより威力があるプルトニウム爆弾だった。プルトニウム型の原爆はそのしくみも、投下するまでの手順も複雑で、爆撃機に搭載するためには安全装置をはずして発火状態にしたままにする必要があったらしい。ぞぞぞ。


加えて、重量も嵩み、ナガサキの原爆は「ファットマン」と呼ばれていることからもわかるように、重さ4.5トン。ヒロシマのもの(「リトルボーイ」)より500キログラム重たかったそうだ。従って、搭載する戦闘機の燃費が当然悪くなり、これがナガサキの、しかも浦上地区に原爆が落とされた遠因のひとつになっているように思われる。


ナガサキはヒロシマと対照的に、様々な偶然の要因が重なって原爆の被害に遭った町だということも、この本を読んではじめて知った。


米軍資料である「原爆投下の経緯」(奥住喜重・工藤洋三訳)によれば、マンハッタン計画(アメリカの原子爆弾製造研究のコードネーム)の最高責任者であるレスリー・リチャード・グローブスにより設置された投下目標都市剪定委員会の第一回が開かれたのは1945年4月27日。


その時は、東京湾、川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、呉、山口、下関、八幡、小倉、福岡、熊本、長崎、佐世保の17都市がリストアップされた。東京より西のエリアに限定されるのは、米軍の基地からの距離が関係しているのだろう。


第二回は同年5月10日、11日で、対象がかなり絞られ、京都、横浜、広島、小倉の4都市になっている。そして、この4都市への通常爆撃は留保するという決まりだったのだが、通達が伝わっていなかったのか5月29日には横浜が、8月8日には小倉が爆撃されている。


第三回は同年5月28日。京都、広島、新潟が選ばれたが、京都は陸軍長官スティムソンの強固な反対によってリストからはずされ、新潟は遠いということで7月25日にリストからはずされたそうだ。そのためなのか小倉が復活、当初は広島、小倉の2都市に落とされる予定であった。


ヒロシマへの原爆投下が比較的スムースに行われたのに対し、ナガサキの原爆は様々なトラブルに見舞われた揚げ句の出来事だった。


まず、直前になって爆弾投下機であるボックスカーに異常が発見された。後部弾倉にある燃料の予備タンクの移送ポンプが作動せず、予備燃料4000リットルのうちその半分に当たる2000リットルが使えなくなっていたのだ。修理には時間がかかるため、ボックスカーを任されたチャールズ・スウィーニー少佐は、予備燃料2000リットルで強行した。


次に、原爆投下は三機編成で行うことなっていたが、合流地点である屋久島上空で爆弾投下機と観測機は集合できたものの、撮影機が来ないというトラブルに見舞われたのだ。撮影機ビッグ・スティングを任されたのはホプキンス少佐という人だったらしいが、スウィーニー中佐はこの人事を知った時驚いたという。ホプキンス中佐は、B29への搭乗歴が浅く、その力量に疑いを持っていた。


「もし私が第392連隊の15人のパイロットに順位をつけるとしたら、優秀だと考える者たちの中にすら入っていなかっただろう」と、著書「私はヒロシマとナガサキに原爆を落とした」に記しているという。


力量とは違う問題なのかもしれないが、出発直前になって写真撮影機にトラブルが起きた。こちらは機械的なトラブルではなく、同乗する予定になっていた写真の専門家であるロバート・サーバー博士がパラシュートを忘れてきていたのだ。全員パラシュートを携帯することになっているため、ホプキンス中佐は博士を飛行機から降ろして飛び立った。


原爆計画がスタートし、一番機(投下機)も二番機(観測機)もすでに出撃した後のことで、かなり手間取ったのではないだろうか。


合流地点で、スウィーニー少佐は撮影機をハラハラしながら待っていたことだろう。それでなくても燃料に不安があるのだ。しかし、待てど暮せど撮影機の姿は見えない。たまりかねて二機での決行を決め小倉方面に向かったのだが、その時のロスタイムは40分とも45分とも言われる(「ナガサキ消えたもう一つの」では45分。Wikipediaでは40分。出所は不明)。


さて、予定時間をかなりオーバーして小倉上空に着いた時、またしてもトラブル。今度は視界不良だ。原爆はレーダーで目標を探りはするが、「目視で投下」が規則だったという。視界不良で目標が見えないと投下できない。


視界不良の原因は、スウィーニー少佐によれば大量の煙によるものだった。前夜、八幡製鉄所が爆撃されて火災が発生し、未だに燃え続けていたのだ。何度か旋回を繰り返し投下を試みるがうまくいかない。対空砲火や十数機のゼロ戦による迎撃を受けながらも目標の目視可能な状態を待ったが、無理だった。三回目のトライが失敗したところで、スウィーニー少佐は小倉爆撃を中止し、長崎へ向かった。


不思議なのは、小倉攻撃に関する資料の多くが噴煙については触れられず、単に「雲がかかっていた」としているという。私見だが、自然現象による投下中止であるなら、スウィーニー少佐はその手記にそう書いたはずだ。原爆投下の目標となっている都市への通常爆撃は留保されているはずであることを考慮すると、前夜の爆撃による噴煙と書く方が問題なのだから。ともあれ、原爆投下目標は、ここではじめてナガサキになるのである。


ナガサキへの原爆投下の目標地点は、長崎市街中心部だったようだ(以下Wikipedia)。しかし、予定通りの時間に到着していれば好天が予想された長崎上空の天気は変わりつつあり、一時間半以上遅れて到着した時には、厚い雲に覆われて目視が難しい状態になっていたという。


しかし、燃料の残量はすでに危険な状態にまで減りつつあった。必死で雲の切れ間を探す搭乗員・・・ついに命令違反のレーダー爆撃をしようとした時、雲の切れ間から長崎市街が見えた。この時しかない・・・スウィーニー少佐は投下を指令した。結果的に、原爆の落下地点は当初の目標を約3キロ逸れた地点となった。


こうして原爆はナガサキに、しかもカトリックの聖地である浦上に落とされた。普通に考えれば、なんと不運な!ということになると私などは思うのだが、この偶然の重なりが「神の恩寵」だという妙な、全く共感も納得もいかないものとして表されることになる。これに

ついては日を改める。


最後に、1945年8月5日深夜、原爆投下のためヒロシマへ出撃する509爆撃隊の乗員に対して行われたミサにおける牧師の言葉を引用したい。出典は「神と原爆」(NBC長崎放送)。これを読んでどのようなことを感じたか、いろいろな人に聞いてみたいように思う。


私たちは祈ります

戦争の終わりがくることを

私たちは知っています

まもなく地球上に平和が訪れることを

出撃する爆撃機の乗組員たちに

神のご加護がありますように

そして彼らが無事任務を終えることができますように

私たちは神を信じて出撃します

神が私たちを永遠に見守り続けてくださいますように

キリストの名のもとに

| - | 18:24 | comments(1) | - |
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