ゴーギャンについてはとりあえず終止符を打ったのだが、「軽佻浮薄も・・・」の記事にコメントをいただいたので、その返信もかねて再度書くことにする。しかも、長文で失礼をば。
まず、ゴッホとの関係の前に、「月と六ペンス」で描かれている画家像との違いについて。
この小説での画家(ゴーギャンをモデルにしていると思われるストリックランドという名の画家)は、徹底して傲岸不遜な人物として描かれている。
主人公は、まず画家の妻と知りあい好感を持つ。好感といっても恋愛感情ではなく、きちんとした感じのいい女性だという程度ではあり、この印象は徐々に変わっていくのだが、それについては割愛する。
ある日突然夫が出ていってしまい途方に暮れた画家の妻が、主人公である「僕」に夫を探してほしいと頼む。気乗りしないまま「僕」は画家を探し、ついに見つけ、その人を食ったような態度に圧倒され為す術なく帰ってくる。
その後、「僕」は画家に会う機会が何度かあったが、印象は似たり寄ったりだ。積極的に画家を知ろうとも思っていなかったし、「僕」は「僕」で自分のことで忙しかったので、次第に疎遠になり年月は過ぎていく。
画家の死後タヒチに行ったのも、画家のことを知りたいと思ったからではなかった。が、タヒチに行ってみて、急に画家の晩年が知りたくなり、彼を知る人たちに話を聞くことになる。
物語の中では、画家は突然家を出て一切連絡をとらず、家族のことなどまるでお構いなしで、自由気ままに自分の道を歩いていく人間として描かれている。そして、そこが事実とは大きく違う点だ。
「ゴーギャンの世界」を読むと、ゴーギャンは常に妻に連絡を取り、子供たちのことを思っていたことがわかる。むしろ、妻の方からの連絡が極端に少なく、いきなり出ていった夫に対する怒りが感じられる。
妻の立場からいえば、家族を捨てた夫として許しがたいというのはわからないでもない。妻にとって夫は常に自分勝手な人間であり、夫が追い求めていた芸術についてはほとんど理解していなかったし、理解しようという気持ちもなかったようだ。
夫婦のことは、ゴーギャン夫妻についてだけでなく、結局は他人にはわからない。私の印象としては、夫も夫なら妻も妻、といったところか。
「夫はこうあるべき」「家族はこうあるべき」「人間はこうあるべき」だという考えに固執し、北欧プロテスタント的な潔癖さをもっていた妻。社会主義運動家の女傑フローラ・トリスタンを祖母に持ち、幼年期の一時期をペルーで過し(祖母フローラはペルーの貴族の私生児)、権威に対する反抗心と自由を愛する心を受け継いだ夫。この2人は育った環境も気質も違い過ぎていた。それが不幸だったとしか言えない。
さて、漸く本題(^.^;) ゴーギャンとゴッホについて。
コメントをくださったmikiさん同様、私もまず最初はゴッホに興味を持った。高校生のころだったと思う。その後も、折に触れて絵を見たり評伝を読んだのはゴッホについてで、ゴーギャンについて詳しく知ろうとしたのは今回がはじめてかもしれない。
今思うと、それは当然のことのような気がする。なぜなら、ゴーギャンよりもゴッホの方が「わかりやすい」からだ。
精神を病みながら純粋に自分の芸術を追求したゴッホ。報われない愛に傷つきながら、狂気に襲われながら、懸命に生きたゴッホ。その気性の激しさを物語るうねるようなタッチ。そして、自殺。膨大な書簡を読んでいないので明言はできないが、ゴーギャンとの比較において、ゴッホは「わかりやすい」し、共感を持ちやすい。
ゴーギャンとゴッホといえば、やはり耳切り事件が有名で、ゴッホのファンから見ると、「かわいそうなゴッホを捨てたゴーギャンはいけ好かないヤツ」という印象かもしれない。が、この事件も、二人の大きな違いが招いた不幸な事故だとしか私には思えない。
当時ゴッホは、芸術家たちの共同生活に憧れ、アルルに家を借りた。憧れというよりも、熱望していたといった方が近いかもしれない。一人暮らしには不相応に広い家を借り、家具を調え、共同生活の準備を着々と進めた。が、誰もアルルに行こうとしない。ゴッホは悲嘆に暮れる。
ゴーギャンがアルルに行く気持ちになったのは、もう一人のゴッホ(ヴィンセントの弟テオドール)の熱心な依頼によってであったらしい。ゴーギャンはテオに恩義があったし、窮乏極まる生活を送っていた。ある意味で、この話は渡りに船だったともいえるだろう。また、ゴッホ自身がゴーギャンを尊敬しており、ゴッホの依頼で絵を描いて贈っていたこともあり、誰かと一緒に描くことが好きではないゴーギャンも腰をあげたのではないだろうか。
ゴッホは、生涯を通して誰かと一緒にいたいと熱望していたという。一人でいる孤独に耐えられず、常に誰かを求めていた。弟の家に押しかけ、無理やり一緒に住もうとしたこともあるようだ。
弟の結婚に反対し、弟夫婦に子供ができれば精神に不調をきたした。自殺(自殺ではないという考えもある)の遠因も、弟を独占できないことへの絶望感があったのではないかという人もいる。
誰かと一緒にいるということは、時には自分を抑えなければならないということだ。が、ゴッホにはそれができず、常に干渉しようとした。ゴッホより5歳年上であり、人から干渉されることが嫌いなゴーギャンにとって、それは堪え難いことだったのだろう。ついに共同生活を解消して出て行こうと決意する。
それを知ったゴッホがカミソリを持ってゴーギャンを引き止めようとする。ゴーギャンは逃げる。ゴッホは発作的に耳を切る・・・この事件にまつわる言及の多くにおいて、ゴッホへの同情が感じられる。ゴッホの熱意に背を向けたゴーギャンの冷たさに対する非難が感じられる。が、この点においては昔から私はゴーギャンに同情的だった。
ゴッホは明らかに病的なくらい激しい気性を持った人で、常に冷静であったゴーギャンがそれを鬱陶しく思い、ある時は恐怖感を覚えたとしても不思議ではない。耳を切ったゴッホが被害者で、その原因を作ったゴーギャンが加害者であるという図式は見当違いであるように思う。全く異なる気質の二人が共同生活をしたところに、この悲劇の原因があったとしか思えない。
ゴッホは誰が見ても普通ではない。その普通ではないところに魅力を感じるのであるが、さて、こういう人と一緒に暮らしたいかと聞かれて即座にOK!と答えられる人は何人いるだろうか。
ゴッホは純粋かもしれない。が、生涯自分で自分を食わせていかなければならないという生活苦を背負ってはいなかった。ゴッホには、物心両面で支えてくれる分身のような弟がいた。しかしゴーギャンは、自ら選んだ道とはいえ、常に生活苦を感じながら暮らしていた。
自分の道に自信があり、プライドもある。しかし絵は売れない。金はない。生きるための手段として共同生活を選んだとしても、それを打算的だという一言で済ませるわけにはいかないだろう。
福永武彦氏は、この共同生活の悲劇について、「金がかからないで暮らせるという動機が働いていたことを、忘れてはならない」とした上で、ヴェルレーヌとランボーの関係を引きあいに出し(二人は同性愛の関係にあり、ヴェルレーヌがランボーをピストルで撃つという事件があった)、ロマンチックとプリミティフという対照において、共通しているのではないかと書いている。
襲撃された側の二人、ランボーとゴーギャンとには一脈の似通った性質があった。それは、原始人的、野蛮人的な傾向であり、常に束縛されることを嫌い、此処にないものに憧れ、自由に、独立して、生きようとする傾向である。それが相手を一層苛立たせることを知っていても、相手がのぼせればのぼせるほど一層冷静にならざるを得なかっただろう。ロマンチックとプリミティフという対照は、二人の象徴派詩人の場合にも同様にあてはまるだろう。
(「ゴーギャンの世界」講談社文芸文庫84ページ)
ロマンティックなゴッホとプリミティフなゴーギャンは、かくして破局を迎えた。ゴッホにとってその痛手は「耳切り」という「わかりやすい」形で表現されたが、ゴーギャンは多くを語らず、それがまた冷徹なイメージを喚起するのではないかと思う。ゴーギャンはゴッホの死を伝える手紙の返信として以下のように書いているという。
ヴィンセントの死んだ通知を貰った。君がその葬儀に立ち会ったのを、私は嬉しく思う。この死は実に悲しむべきだが、私はそれほど悲嘆に暮れているわけではない。私はこのことを予想していたし、あの可哀想な男が狂気と闘う苦しみをよく知っていた。この時期に死ぬのは、彼にとっては一種の幸福なのだ。それは彼の苦しみに終わりを告げさせた。もしも彼が来世に生まれ変わるとすれば、彼はこの世の善行の報いを受けるだろう(仏陀の教えに拠れば)」
(1890/8 エミル・ベルナール宛て)
この文章を読むと、やはり冷静で客観的な視線が感じられ、それを「冷たい」と思う人も多いだろうということは容易に想像できる。が、果たしてゴーギャンはゴッホの死を手紙の文面どおり最初から冷静に受け止めたのだろうか。これはちょっとわからないと私は思っている。ゴーギャンのような人間は、ショックを受けてもそのままの気持ちを手紙には書かないような気もする。
長くなってしまったが、最後に文筆家のジャン・ドランが著書「怪物たち」の中で以下のように書いていることを紹介しておこう。「ヴァンサン」とは「ヴィンセント」のフランス読みである。
ゴーギャンが「ヴァンサン」という時、その声はやさしい。