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日々の内側
copyright sumigon all rights reserved
24-90
09-0430

何の数字かは後ほど。

ベランダの薔薇の枝も急速に伸びて、花が咲いていても部屋の中からは気付かないこともある。外からベランダを眺めて、「あ、咲いてる!」てなことも度々だ。コンパクトなブッシュタイプよりも、のびやかな品種の方が好きなので自ずとこういうことになる。

外階段から見ると、ベランダの一番奥においた薔薇にきれいな花が・・・これは撮っておかなくては!と身を乗り出すも、手持ちのレンズでは届かない。残念!200ミリくらいのレンズがあればなぁ、と思う。

望遠レンズが欲しいと思うことが時々ある。前述のような、遠くで咲く花を撮りたい時。高い木の枝にとまっている鳥を撮りたいと思う時。それから・・・と、ここで止まってしまった。

つまり、私にとって望遠レンズは「あればまあ便利だが、必ずしもある必要はない」レンズだということなのだろう。三脚を据え、望遠レンズをつけ、望ましいシーンをじっと待ち続ける・・・そんなこともできそうにないし。

望遠レンズは、遠くのものをいながらにして目の前に引き寄せるレンズだ。そして、私はどちらかというと、撮りたいものがあったら自分がそちらに動いていって撮る方が性に合っているから、望遠レンズに必然性を感じないのかもしれない。

自分の視力で見えるものを見えたように撮る。そういうスタンスが基軸だ。90ミリレンズは多用するが、離れたものを引き寄せるためというよりも、レンズのボケ具合が好きだからだ。また、近づきたくても近づけない(近づくといなくなってしまう)猫を撮る時にたいへん便利だという理由もある。

いずれにしろ、当分私は手持ちのレンズ、24ミリから90ミリで充分写真を楽しめそうだ。今年はそれらのレンズを使って、少し動きのあるシーンを撮りたいと思っている。

*あーあ、4月も終わりかぁ。
*美しき5月がやってくる・・・というわけだが。
*歩いていても、自転車で走っていても、緑がきれいだもんねぇ。
*久しぶりに実家へ。実家から病院へ。自転車でも行けるな。
*と思ったら、家人もめでたく土曜日には退院できそう。
*なんだか長い一ヶ月だったなぁ。ふひー
*荷物もそれなりに増えてしまったので、明日は宅配で送る準備をせねば。
*昨日の夜、テレビでやっていた煮豚を作ってみた。
*3時間かかったが、なかなか美味いぞ!
薔薇記、更新。
| - | 20:13 | comments(2) | - |
「事実などない。認識だけだ」
09-0429

数日前、asahi.comをつらつらと見ていたらこんな言葉に出会った。「勝間和代の人生を変えるコトバ」というコーナーのタイトルで、経済評論家である勝間さんが影響を受けたという『Life Strategies』という本に出て来るコトバだそうな。

勝間さんはかなりこのコトバに救われたようで、『史上最強の人生戦略マニュアル』というタイトルで、翻訳本を出したらしい。読んでみたいような気もするが、なにせ「マニュアル」という言葉を見ただけで数歩さがってしまうので、どうするかは未定だ。

読んでいないのでなんともいえないのだが、「事実などない。認識だけだ」という言葉だけについて言えば、かなり共感できる。

「事実」にしろ「真実」にしろ、それらは受け取る側に因るものだと思っている。その人が置かれている環境、状況、性格、思考の方向性、好み、育ち方・・・それらにより、とらえかた(認識)は違う。ひとくくりにして、「これが事実だ」「これが真実だ」とは言えないだろう。

世の中には理不尽なことも不公平なことも、たくさんある。それが人生だ、と私が言う時、この人はなんと否定的な人なんだろうと思う向きもあるかもしれない。しかし当人はさほど否定的になっているつもりはないのだ。ただ、私の認識を語ったに過ぎない。

また、私のように物事をとことん追求しようとせず、浅い部分をこちょこちょと探ってお終いにしがちな人間にとっては、「事実」「真実」よりも「認識」の方が親しみやすいということも・・・たぶん、あるだろうなぁ(^.^;)
| - | 20:42 | comments(0) | - |
アウトドア派
09-0428

本家todayの日記サムネイルをつらつらと見て、このブログで、文章とともに掲載している写真は8割方自宅外で撮ったものであることを再確認した。自宅内で撮った写真は、多い月で5日、全くない月もある。

家の中が雑然としていて、何かを撮れば余計なものが入り込んでしまう、というのも理由の一つとして数えられなくもないが、もともと家の中ではあまりカメラを手にしない習慣が身に付いているようだ。

外に出ることそのものが好きだということもある。加えて、外で写真を撮る時感じるワクワク感がストレス解消にもなり、表現する上でのいい刺激にもなること、これが私の基本スタイルの根っこにある。

一期一会ということを突き詰めて考えれば、どこであろうと出会いは一度だけのはずである。しかし、外に出た時により強くそれを感じるのは否めない。

今日は、自宅から隣駅まで歩きながら写真を撮った。近くの寺に牡丹があることを思い出したので、もし咲いていれば撮りたいと思ったのだ。確か藤棚もあって、運が良ければ藤の花も撮れるかも・・・そんな期待を胸に出かけたのだが・・・

残念なことに、牡丹も藤ももう終わっていた。去年の今ごろは満開だったので、今年はずいぶん早かったことになる。残念だが仕方ない。

気を取り直して歩けば、新鮮な発見はたくさんある。思っていたよりハルジオンの花がたくさんあること。木漏れ日を浴びながら咲くその群生がとてもきれいなこと。寺の中にある弁天堂に施された彫刻がかなり凝ったものであること。様々な色に彩色されているが、東照宮などに比べたらどこか稚拙で、その稚拙さがほほ笑ましいこと。

高台の住宅地に抜けるため比較的最近できた階段を上っていたら、竹やぶの縁にムクロジの木があるのを発見。下を向いて上っていたら、見覚えのある実がいくつか落ちているので見上げたらなんと!農家の庭にある木は植えられたものだが、こちらは自然に芽を出し、はるかに見上げるほどにまで成長した木なのかもしれない・・・そう思うととても嬉しい。

階段を上る前、どこからか白黒の猫が出てきて山に上っていった。軽く呼びかけると、しばしこちらを見つめ、何もなかったように去っていった。レンズを向ける隙も与えずに。

夏の気配が漂いはじめた。まだ暑くなるには少し時間があるようだ。できるだけ外に出て、英気を養えればいいなと思う。

*昨日か今日あたり、仕事の直しが入るだろうと思っていたのに・・・
*予想に反して梨のつぶて。いいのか!GWモードになっちゃうぞ!
*こういう時に限って、不意打ちを食らうから用心しなくちゃ。
*病院に向かい途中の小さい園芸店でイタドリの鉢植えを発見。
*手ごろな値段だったのでゲット。
*だいぶ持ち込んでいるようなので、鉢から抜いて根洗いにしよう。
猫ブログ、更新。
薔薇記、更新。
| - | 22:29 | comments(0) | - |
夏への扉
09-0427

午前中、やれ水やりだ、洗濯だ、片づけだ、とバタバタしながらテレビをつけたら、俳優・地井武男さんの散歩番組で青梅が取り上げられていた。

青梅といえば、昨年行って思いのほか楽しかったので、しばし手を休めて画面を見ていると、番組の終わり近くである喫茶店が登場した。青梅鉄道公園に行く途中、青梅線を見下ろす橋を渡ったところにあった店だ。看板に猫の絵が描かれていたことも心惹かれた理由のひとつだが、なんといっても店の名前がいいと思った。

夏への扉」。これがその店の名前である。言葉だけだと、なにか小説のタイトルにでもありそうだなぁと思うくらいなのだが、店の名前として突然現れると、特別のものに出会ったような、新鮮な驚きを感じたのだった。

夏への扉・・・なんとも明るく、期待に満ちた名前ではないか。夏が苦手な私さえ、その扉をくぐり抜けたいと思えるほどに。

潮騒の音。キラキラ輝く海。入道雲。あるいは、風になびく草原。木漏れ日。一瞬の風。麦わら帽子。黄色い蝶。朝露に濡れた花。そんなイメージが次から次へと浮かんでくる。

この扉は、「夏への」扉でなくてはならない。「春への」でもなく「秋への」でもなく「冬への」でもなく。

もうすぐ、夏への扉が目の前に現れる頃だ。それを見る能力があれば。それを感じる感性があれば。「夏」と聞くと、ノスタルジアを感じつつ気持ちがどんよりする私ではあるが、今年はちょっと違う気分で夏を迎えることができればいいと思いはじめた。
| - | 20:42 | comments(6) | - |
上るは易く、下るは難し
09-0426

自転車でガーデンセンターに向かう途中、100メートルくらい先の大きな木に人が上っているのが見えた。

あら、今どき剪定するのかしら、と思ったが、近づいてみればそれは子どもが木登りしているのであった。木登りしている子どもを見るのは久しぶりだ。私が子どものころは別に珍しくもなんともなかったが、最近の子どもは親が心配してやらせないからなのか、木に登らない。

木登りというと、今でも思い出すことがある。子どものころ遊び場にしていたK大学の構内にある木に登った時のことだ。

メタセコイアの木の中ほどに真っ赤に色づいた烏瓜があって、それが欲しくて上った。メタセコイアはご存知のようにまっすぐ伸びる木で、枝も割りと規則的につく。登るにはさほど難しい木ではなく、私もすいすいと登っていった。途中で下を見下ろしたら思っていたよりも高いところにいるようで少し足が竦んだが、目的があったのでずんずんと登っていった。

お目当ての烏瓜を無事ゲットし、いざ下りようとした時気付いた。下りるのは登るより難しい、と。どうしても下を見なくては行けないので、こわごわ、のろのろ・・・登る時の勢いはどこへやら、であった。

木登りだけでなく、登山においても登りよりも下りの方が難しいだろう。体感的には登りの方が辛いかもしれないが、下りの方が滑落しやすく、膝なども傷めやすい。滑らないよう気を使いながら下りるので、精神的には登りよりも疲れるかもしれない。

上り下りとは少し違うが、物事を始めることと終えることについても、似たようなことが言えるような気がする。

つまり、始めるのはけっこう簡単で、終わりにするのは案外難しいということだ。始めるのは勢いだけでもできる時があるが、終えるのはそうはいかない。たとえば、結婚は勢いでもできるが、離婚となるとそうはいかない。

人生そのものも、もしかしたらそうなのかもしれない。生まれる時は記憶がないのでなんともいえないが、記憶がないということは辛くはないということだろう。しかし、死を迎えることは多かれ少なかれ苦痛を伴うし、上手に死ぬのはなかなか難しい。

半世紀以上生きてきたということは、人生の往路はなんとか走り切り、折り返し地点を通り過ぎて復路を走っているということだ。この人生を自分なりに上手に終わらせるためにはどうしたらいいか・・・それが復路の一番大きな課題かもしれない。
| - | 19:35 | comments(3) | - |
週末雑感
09-0425
たまにはわが家の猫を。末っ子まめこ。何か言いたそう・・・

書く予定にしていたことをつらつらと考えていたが、まとまらず埒が明かないので、最近の雑感を脈絡なく書き散らす。

■有名人で社会的影響、経済的影響が大きいのはわかるが、なにもあんなに大騒ぎしなくても・・・なんだか報道の知的水準を見せられた感じ。

■かの大臣の発言に対しては、今更何かを言う気もおきない。政治家なんてあんなもの、と慣れてしまうのも危険なのだが。

■自殺の原因は介護疲れ・・・「かもしれない」と断定を巧みに避けてはいるが、何度も繰り返せばほとんど断定したに等しい。確率的には高いかもしれないが、本当の理由は当事者にしかわからぬ。

■安易に断定するのは危険だし信用性に欠けるが、かといって断定表現を避けた断定も感心しない。むしろこちらの方がタチが悪い。

■介護問題を少しでも解決する機会になればいいのかもしれないが、あまり期待できない。自殺という衝撃性が時間とともに薄れたらさっさと忘れられてしまいそうだ。

■サヤ付のグリーンピースが出回るようになって嬉しい。サヤをむいた時、整然と並んでいる豆の、なんというかわいらしさよ。

■ゆで上がったらすぐザルにとらず、鍋ごと冷水に浸して冷ませば豆にシワが寄らない・・・って、これ常識?

■最近、赤が気になる。元気になりたいのだろうか。先日自由が丘のプチバトーで真っ赤な半袖Tをゲット。赤と白の水玉模様のスカーフが欲しい。真っ赤なデイパックも欲しい。

■ユニクロが元気。ヒートテックのインナーとデニムくらいしか買わないけれど。

■ユニクロのデニムは評価がいいらしい。安くなっていたのでスキニー2本購入。浅めの股上が私好み。

■丈詰めもしてもらった(いつもはそのままにして、足首辺りでダブらせる)。

■コンバースを履いて、早足で歩きたい。サッサカサ!

■猫たちが、やけにフレンドリー。嬉しいことだが、忙しいときにまとわりつかれるとつい粗っぽく扱ってしまう。ダメ飼い主。

■北側のベランダで咲いているのは、ほとんどが白い薔薇。白い花はいつ見てもいい。

■サブタイトル下に著作権についての1行を入れた。ちょっと鬱陶しいけれど。あんまりうるさいことは言いたくないけど、一応ね。

■基本的に、真面目なサイトであれば著作者をリンクして明記することを条件に転載は許可。ただし、可能であれば事前に問合せを。親しい方なら事後でも可(^.^;)

■明日は天気になぁれ!

| - | 18:31 | comments(2) | - |
ネーミングの妙
09-0424

引き続き花の話。今日は名前の話。

私たち1人1人に名前があるように、ほとんどの植物には固有の名前がある。非常に覚えにくい名前もあれば、一度聞いたら忘れられない名前もある。実物よりも名前の方が格段によいイメージで受け取られるものもあれば、名前からは想像もつかないほどステキなものもある。

「陰陽師」で、安倍晴明は名前は「呪」である云々と言っていたと記憶している。良きにつけ悪きにつけ、名前をつけられた時から、なんらかの束縛を受けるということだろうか。

園芸植物の多くは、「普及」という目的によって作り出されるから、名前は重要である。商売柄、商品やサービスのネーミングを行ったことが数回あるが、名前をつけるというのは想像以上に難しい。

基本的な条件(覚えやすい、発音しやすい、など)に加えて商品の特長を表しているか、イメージはコンセプトに合っているか等々の条件があり、商標登録する場合は同業種で同じか似たような名前がないかという厳しい基準がある。

商売を二の次に考えても、名前はまだその商品を実際に見ていない人にとって、おおまかなイメージを確定する際の重要な基準になるだろう。そういう意味で、やはり名前は「呪」であると思う。

そうそう、花の名前について書こうと思っていたのだった。ついつい横道に逸れてしまって(^.^;)

古くから女性を花に喩える習慣?があることからか、花の名前には女性の名前が使われるケースがとても多い。中でも薔薇は有名人から作出者の家族に至るまで、女性の名前だらけである。薔薇をいくつか育てていれば、必ずといっていいほど女性の名前がついているものがあるのではないだろうか。

私が偏愛する原種はさすがに女性の名前がついたものが少ない(というか、ない?)。原産地だったり、外見的な特長であったり・・・ラテン語の「rosa・・・」をそのまま使っているケースがほとんどだ。

しかしハイブリッドとなるとやはり人の作為が入るので、思いをこめた名前が多い。レディなんとか、マダムなんとか、マドモアゼルなんとか等々。イングリッシュローズを生み出したデビッド・オースチンはことごとく自分の家族の名前をつけているし。

作出者が自分の妻の名前を付け、妻に捧げた薔薇には傑作が多いという話を聞いたことがある。ダマスク系のオールドローズ「Mme.Hardy(マダム・アルディ、あるいはハーディ)」はその代表だろう。

名前にまつわる悲しいエピソードで有名なのが、「のぞみ」だろうか。作出者である小野寺氏は幼くして命を落とした姪の名前を可憐な小花を咲かせるバラの名とした。

私が今までで最も傑作だと思われる薔薇の名前は、モスローズの「Deuil de Paul Fontaine」か。暗い紫色の花を「喪服」に喩えたセンスは特筆すべきものだと思う。
薔薇の名前について書きはじめると、頭の中があっちへ行き、こっちへ行きとせわしない。今日はこのへんにして、また機会があれば後日。

*今日はけっこう涼しかった・・・肌寒かった?
*昨日ほどではないが、相変わらずバタバタバタ。
*午前中仕事。午後から病院、買い物。帰宅したら・・・
*仕事のファクスとメールがどっちゃり。あああああ
*GW直前となるといつもこうだ。
*さっさと流しちゃって休もうっと!というクライアントばっか。
*こうなったら、こっちもさっさとやろう。
*夕方から雨になるかと思ったら降らなくてラッキー。
*傘を持って出なかったので。相変わらず傘嫌い。
*明日は天気悪そうだなぁ。
猫ブログ、更新。
薔薇記、更新。
| - | 22:03 | comments(0) | - |
Hybridについて
09-0423

昨今話題の自動車のことではなく、主に植物の交配について考えてみる。

珍しく結論から書いてしまうと、私は「交配」という行為の恩恵をこれまで数多く受け、今なお受け続けているが、ぶっちゃけて言うと心のどこかに「交配」に対する抵抗感がある。

植物とのつきあいは長い。「園芸」と言えるかどうかわからないが、自分の金(子どものころは小遣い)で植物を買い、育て始めてからほぼ40年だ。その間、いろいろな植物に出会い、あるものは見ているだけにし、あるものは身近に引き寄せた。

若い頃はあれこれと目移りしがちで、短いサイクルで違うジャンルの植物を育てつづけた。それがなんとなく落ち着いたのは20代後半。野草を育てる楽しさを知り、つい数年前までは野草中心の園芸活動!をしていた。

野草だけでなく、野草的に扱える木にも手を出して草物と合わせて盆栽風に仕立てたり、野草の寄せ植えを楽しんだり・・・

数年前、花屋の店先で見かけたミニバラを買ったことから、薔薇にはまり出したのだが、自分でも何故なのか未だに説明がつかない。野の草から、品種改良の代表のような薔薇への飛躍は自分でも思いがけなく、内心戸惑いがあった。

しかし、薔薇を育てはじめたころから、結局私は野草に戻るだろうという予感はあった。薔薇の中でも、原種と言われるものに落ち着くだろうと思った。そしてその予感はわずか3年で現実となっている。

薔薇を育て始めたころは、とにかく手当たり次第(といってもオールドローズに限る)の薔薇を見、買い、育てた。育てるというよりも身近に置いたといった方がいいのかもしれない。せっかちな私は、長い目で薔薇たちを見つめることができなかったように思う。

誰でもそうだと思うが、ある程度の数を見ているうちに自ずと自分の好みの方向が定まってくる。私の場合は、花の見事さよりも葉の美しさへシフトしていった。枝ぶりもしっかりごついものよりも、ナヨナヨとしたやわらかいものに。芸術とでもいいたくなるような見事な八重咲きも嫌いではない。が、今は短期間ではらりと散る一重の花に惹かれる。

この好みの変化は見た目だけのものだと思っていたが、時折、野草を育てていたころに感じた野趣に対する郷愁が影響しているのかもしれないと思うこともある。「交配」という作為を経ていないものの趣が、私には一番合っているようだ。

もちろん、この「交配」に対する私の感覚は「抵抗感」であって「嫌悪感」にまではいかない。抵抗感を感じさせながらも、それ忘れさせるほどの魅力がある花はたくさんある。ただ思うのは、もっと年齢を重ねたら、薔薇にしてもそれ以外の植物にしても、「交配」されていないものだけしか育てないかもしれないということ。

だたひたすら早く走るために交配を繰り返すサラブレッドは美しいが、その美しさの中に悲しさがある。「交配」が感じさせる悲しさに胸を突かれることなく、あっけらかんとした原種の大らかさに包まれていたくなるような気がしている。

*ここでいう「交配」に自然交配は含まない。
*あくまでも人為的な「交配」に限る。
*今日はなかなか忙しかった。忙しいのはいいことだ!
*睡眠不足気味&眼精疲労気味で眠い。
*久しぶりに12時前に寝るか!?
| - | 22:42 | comments(0) | - |
山滴る
09-0422

春の季語に「山笑う」という言葉がある。冬の間しんと静まっていた山の木々が、いっせいに新芽を吹いて日に日に、一刻一刻命の輝きを増していく状態を「笑う」とたとえたのは秀逸な表現だと思う。

今年は芽吹きがいつもの年寄りも早かったように思われ、もはや山は「笑う」状態を過ぎた感がある。若葉はまだみずみずしさを垣間見せるが、明るさの中にも落ち着きをみせはじめているように思う。

春の「山笑う」は比較的有名だが、夏の「山滴る」、秋の「山粧う(よそおう)」、冬の「山眠る」は案外知らない人が多いのではないだろうか。私も知ったのは数年前である。

この山にたとえた表現は、中国北宋の画家であった郭熙(かくき)がその著書「臥遊録」で絵画の極意として書いた文章だとのこと。
春山淡治(たんや)にして笑うが如く
夏山蒼翠(そうすい)にして滴るが如く
秋山明浄(めいじょう)にして粧うが如く
冬山惨淡(さんたん)として眠るが如く

笑う山もいいが、滴るようなみずみずしい緑が溢れる夏の山もすばらしい。今年の夏は遠出できそうにないが、近場の山にいけるようだったらぜひ行ってみたい。

*GW間近だからでもないだろうが、最近入ってくる仕事はせわしない。
*せわしないのはスケジュールだけではなくて。
*発注準備が充分ではない。つまり、ちょっといいかげん。
*ということは、後で直しが発生する可能性が大きい。
*そういうのはイヤだが、イヤといえない立場の悔しさよ(^.^;)
*そんなこんなで今日は病院に行けず。
*明日都内で打ち合せがあるので、帰りに寄るとするか。
*そいでもって夜はまた仕事だぜぃ。
新島襄の夫人(八重さん)て、ステキな人だったのね・・・
*19日に話題にした19世紀の布で誂えたバッグ、散歩サイトの掲示板にアップ。
| - | 22:48 | comments(3) | - |
牡丹と芍薬
09-0421

昨日、病院へ向かう途中にある小さな園芸店の入り口近くに牡丹の鉢植えがひとつ置かれていた。

牡丹は今までとくに関心をひく花ではなかったが、やはりあの花容である。この時季になると、どうしても目に入るし、私の方も年を重ねて自分の内面も変ってきたせいか、惹かれることが多くなってきた。

昨日もそうだった。花の色は紫紅色とでもいうのだろうか。紅でもなく紫でもない深みのある色で、花はまさに今が見頃といった風情。その色と牡丹の花の大きさ、形、花びらの質感がとてもマッチしていて、ぼんやり歩いていた私の気持ちの中にぐっと強く入ってきた。

牡丹といえば、似ているものに芍薬がある。あまり植物に興味のない人たちにとっては区別がつけにくいかもしれない。ほぼ同じ時季に咲くし、大きく豪華な花も似ているといえば似ている。

しかし、牡丹が木の仲間であるのに対して、芍薬は草の仲間である。牡丹が分岐しながら横に広がっていく姿であるのに対し、芍薬はすっと上に延びていく。まさに、「立てば芍薬、座れば牡丹」なのだ。

似ているが印象はかなり違っていて、芍薬の方が草の仲間だけあって軽やかである。切り花として気軽に使えそうだし、洋風にも和風にも仕立てられそうだ。華やかな装いを凝らした娘といったところだろうか。

それに対して、牡丹はもっと臈長けた女性をイメージさせる。華やかでありながら、格調が高い。「花王」と言われる所以だろう。お世辞や追従をゆったりと受け入れながら、そんなことどうでもいい、自分の本当の美しさがわかる者にしか私は興味ないの、といった感じ?

個人的な好みから言えば、断然牡丹が好きだ。自分の身近には置かないが(置ける環境にあったら、たぶん欲しい花)、どちらかを選べと言われたら迷わず牡丹を選ぶ。

牡丹は栽培が難しそうに思えるが、けっこう一般的に栽培されているようだ。寺の境内などでよく見かけるが、一般家庭の庭でも存外咲いている。うちの近所だけとってみても、けっこう牡丹を咲かせている家は多い。

その中のひとつに、毎年この時季になると牡丹の株に傘を立て掛けている家がある。今ではちょっと珍しい平屋の一戸建てで、さほど広くはない庭になつかしい植物をいくつか植えている。牡丹が開花するころになると、きれいに晴れた日でも庭にいくつかの傘が広げられており、それを見て「ああ、牡丹が咲いているんだな」と気付く。外からよく見えないのは残念だが、やさしい思いやりだと思う。

その家にはバラも2株あって、どちらも古くから日本で育てられている品種だ。ピンクのバラはオールドブラッシュ、深紅のバラはスレイターズ・クリムゾン・チャイナ(たぶん)である。どちらも四季咲き性が高く、冬でも咲いている。

とくにオールドブラッシュは、四季折々の表情が微妙に違っていて、通るたびに目を楽しませてくれている。年に2〜3回、大ざっぱに剪定しているといった感じの緩い管理も、その庭には似つかわしい。住んでいる方は、たぶんかなりお歳を召した方。人と家と庭と花の見事な調和を見るような気がする。

これから夏までの間は、各地からいろいろな花の話題が届くだろう。花の名所には、大勢の人が訪れるだろう。そういったところで見事に手入れされ、咲き誇る花を見るのもいいが、ご近所を歩くだけでもかなり多くの花を見ることはできる。他所の家の庭で咲いている花の写真を撮るのは、ちょっと気が引けることもあるが、当分は手軽な場所で花を楽しみたい。
| - | 20:08 | comments(6) | - |
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