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レキジョ入門?
09-0331

先日、「レキジョ」なる言葉があることを知った。「歴史(日本史)にはまっている女子」のことだそうだ。

また、男女に関わらず、戦国武将人気が高まっているらしく、マニアックなショップが繁盛しているとのこと。男性と女性では好きな武将の違いがあり、男性では織田信長が、女性では伊達政宗が一番人気らしい。

かくいう私も日本史はけっこう好きな方だ。勉強らしいことをしたのは高校時代までだが、日本史関係のテレビ番組は割と見る方だと思う。

現代の戦国武将人気は、ゲームソフトによる影響が少なからずあるようだが、まあ、いつの時代にも平凡な人々は英雄に憧れるものだ。また、平穏な時代よりも不安定な時代、英雄たちが組んず解れつ戦っていた時代の方が、ドラマとして見るなら数倍おもしろいに決まっているし。

鳴かないホトトギスをどうするかで信長、秀吉、家康の人柄が喩えられるのは誰でも耳にしたことがあると思う。短気の信長、遊び心がある秀吉、忍耐強い家康、といったところだろうが、誰が好きかは人それぞれだろう。

個人的には、やはりキッチュ志向の信長が一番好きかな。秀吉は楽しい人だと思うし、人間的な魅力はありそうだが、ちょっと下品なところがどうも。家康は政治家としては一番能力がありそうだが、おもしろみに欠けるかな?

戦国時代もおもしろそうだが、私は平安から鎌倉、室町時代も好きで、平家物語はもう一度読んでみたいと思っている。平家の御曹司たちも、戦国武将に負けず劣らず魅力的だと思う。

ところで、女子に一番人気の伊達政宗、ちょっと検索してみたが、かなりしたたかな武将だったようで、こちらも気になっている。「独眼流」っていう言葉もカッコいいしね!(なんてミーハーな)。

*本屋に行ったらNHKのカルチャーラジオのテキストがあって・・・
*「関ヶ原合戦と直江兼続」があったので購入。
*ちょうど今日からの放送だったので聞いてみた。
*けっこうマニアックな気がするけど、来週も忘れなければ聞こう。
*違う曜日にプルーストの「失われた時を求めて」もやるようだ。
*こちらも聞きたいが、読んでいないのでどうかな。
*ダース・ベイダーのマスクって、伊達政宗のカブトがモデルだったのね。
*今日は午前中、珍しく腹痛でダウン。午後に復調。何だったの?
*胃腸はいたって丈夫なので痛くなるとちょっと焦る(^.^;)

| - | 23:13 | comments(0) | - |
輝く花〜七つの水仙
09-0330

ベランダから見える農家の庭の延長なのか市民の森の一部なのかわからないところで、水仙が見頃を迎えている。

ここ綱島はかつて桃の産地として名をはせた(といってもローカルな範囲だろう)こともあり、今でも桃の木が多い。水仙が咲いている場所にも、2月に花を咲かせる野梅や花桃、ほうき状に枝を伸ばすほうき桃(ほうき性の花桃)などが植えられていて、こちらも今が見頃となっている。

水仙は花桃の根元あたりに植えられているのだが、一列に並んでいるところがなんともかわいらしい。日を浴びて淡い黄色の花を輝かせながら、それぞれが身振り手振りを加えながら、思いのままおしゃべりしているように見える。

別の場所になるが、これも近所の畑の縁でも黄色い水仙がまとめて植えられており、西日を浴びた姿がはっとするほどきれいだ。「輝いている」としかいいようがない透明感のある花を見ていたら、中学生のころよく聞いていた「七つの水仙」という曲を思い出した。歌詞の最後の方に“Seven golden daffodils”という言葉があるからだろう。
Seven daffodils

I do not have a mansion
I haven't any land
Not one paper dollar
To crinkle in my hand
But I can show you morning
On a thousand hills
And kiss you and give you
Seven daffodils

I do not have a fortune
To buy you pretty things
But I can weave you moonbeams
For necklaces and rings
And I can show you morning
On a thousand hills
And kiss you and give you
Seven daffodils

Seven golden daffodils
Shining in the sun
Will light our way to evening
When the day is done
And I can give you music
And a crust of bread

A pillow of piney bows
To rest your head

A pillow of piney bows
To rest your head

なんともまあ、恥ずかしくなりそうなくらいロマンチックな歌詞だが、当時は恥ずかしさなど感じることなく素直に楽しんでいた。ウブだったのね・・・

*そろそろ桜が見頃になってきたかな・・・
*明日あたり某結婚式場の庭の桜でも撮りに行くか。
*ラッパ水仙はウェールズの国章なんだってね。
*ギリシア神話が有名で花言葉が「うぬぼれ」「自己愛」
*花を見る限り、そんな感じはあまりしないんだけど。
*高速料金値下げも、なんとも不公平だよね。
*ETC普及をもくろむどこぞ団体(天下り多数)の目論見か?
*ところで千葉県は元気になるのかな?
(追記)ちょー久しぶりに猫ブログを更新しました(^.^;)

| - | 19:31 | comments(4) | - |
春宵にチェットを聴く
09-0329

ことジャズに限っては、あまりヴォーカルを聴かない。特に理由はないが、なんとなくあまり聴かないで今に至っている。が、最近は数少ないジャズ・ボーカルのお気に入り、チェット・ベイカーを聴いている。

チェット・ベイカーはヴォーカリストというよりも、本来はトランペッターだ。かのチャーリー・パーカーに認められて彼のバンドで演奏していた時期もあったとのことなので実力はあったのだろう。

しかし、死ぬまでドラッグと縁が切れなかったようで、その死についてもあれこれ言われているようだ(ホテルの窓から転落したということになっているらしいが)。

当然のことながら、トランペッターとしての活動がメインだったようだが、「中性的」と言われるあのヴォーカルのファンも多い。私もそのひとりだ。なんとなく気だるそうな、ヤンキー(差別用語?)らしからぬ女性的な声と歌い方がなんともいえない。

ボサノバのジョアン・ジルベルトは、彼の「マイ・ファニー・バレンタイン」を聴いて感動し、強くインスパイアされたという。あのボソボソとした歌い方を聴くと、なるほどと思わせる。

冬の冷たい風が去り、ぼんやり暖い春風が吹く夜に、チェットの歌声は良く似あう。美味しい酒があれば、なおさらよい。
| - | 19:01 | comments(2) | - |
歯車
09-0328

芥川龍之介の晩年作品を集めた「河童・或る阿呆の一生」(新潮文庫)を昨夜やっと読み終えた。

芥川といえば教科書にも多く登場する最も有名な小説家の1人だろうが、恥ずかしながら晩年の作品を読んだのは今回はじめてであった。

卓越したストーリーテラーであり、超技巧派だと言われる芥川の作品は国語の教科書にはうってつけの素材なのかもしれない。私の記憶では、「杜子春」と「蜘蛛の糸」を教科書で読んだ。

今昔物語、宇治拾遺物語などの説話を題材とした物語は読み手をぐいぐいと引き込んでいく力があり、文字通り大人から子どもまで幅広い年齢層の支持される作家でもあると思われる。日本の古典のみならず漢文学の造形も深かったらしく、まさに秀才であり「理知の人」であったのだろう。

そんな芥川も心身ともに衰弱した晩年は、ストーリーらしいストーリーのない作品をめざしていたという。今回読んだ作品集を見ても、物語というよりも自伝的要素が強い私小説のような感が強い。中でも「歯車」は、神経が衰弱するというのはこういうことなのか、その果てに死を予感するのはこういうことなのか、という痛みにも似た読後感を持たせる作品だ。

何気ない日常のいたるところに、恐怖を感じさせるものとの出会いがある。何を見ても不吉な出来事の予兆のような気がしてくる。そして半透明の歯車が見えてくる・・・
僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖(ふ)やし、半ば僕の視野を塞(ふさ)いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失(う)せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない二十(はたち)前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の瞼(まぶた)の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。

少し神経質になっている時にこのような小説を読むと、神経衰弱が伝染しそうでちょっと怖い。芥川にはとうてい及ばないが、自分の中に同じような素質があることを知っているので、充分気をつけなければならないなと思っているところだ。今回はなんとかセーフ!

*2週続けて金曜日の猫写真を忘れていた!
*で、今日と明日は猫写真を。
*今日は予定通り公園で桜まつりが催された模様。
*歓声やら音楽やら歌声やらがうちまで聞こえるのよ。
*高速料金値下げですごい人出とか。
*あまり差し迫っていない人たちもたくさんいるということなのね。
*しかし今日は寒かったなぁ。ムートンブーツはいちゃったもん。
| - | 20:23 | comments(0) | - |
去年の桜にはあらず
09-0327

桜の開花宣言が早々と出たと思ったら気温が低い日が続いて、この分ならギリギリで入学式に間に合うかな?といったところの今日このごろ。

この辺りには桜のビューポイント(といっても、ごく個人的な)がいくつかある。エドヒガン2ヶ所、ソメイヨシノはたくさん、ベニシダレ2ヶ所。サトザクラは公園に開山とおぼしきものが1本と普賢象らしきものが1本。山桜もあるが、先日書いたように木が大き過ぎてよく見えない。かろうじてなんとか見える1本は、ここ数年で樹勢が目に見えて衰えており、毎年気をも揉ませる。

とくに桜が好きなわけではないが、なんとなくこの時期になると気になり、カメラを持ち出して撮り歩く。被写体としてかなり難しい部類に属すると思うが、そのとらえどころがない難しさがかえって撮る者の関心を引くのかもしれない。

しかし、振り返ってみると年々桜を撮る熱意が失せてきているようだ。桜が嫌いになったわけではなく、あのとらえどころのなさに半ばお手上げ状態であること、それ故安易に妥協して撮っているのでいつも同じような写真になりがちなこと、毎年同じ場所の花を見ているので少々飽きてきたこと、などが理由として挙げられる。

しかし、今朝ベランダから、およそ二分咲きくらいのソメイヨシノを見下ろしていた時ふと思った。今年の桜は去年の桜とは違う、今日の桜は昨日の桜とは違う、と。

同じように見え、同じような写真しか撮れないのは私の目が、その奥にある心がだらしないからである。弛んでいるからである。鈍っているからである。

撮った結果として同じような写真になったとしても、撮る時の心持ちが違えばそれでよいではないか。今年の、今日の桜は対峙した時にしか見ることができない。そんな気持ちで撮りたいと思い、午前中1時間ほどかけて桜を訪ねてきた。

先日行った時は咲いていなかったエドヒガンは八分咲きくらい。日当たりのいい駐車場の奥でおおらかに咲いていた。この桜の気取りのなさはなかなかいい。ソメイヨシノより少し小さく、微かに紅色を帯び、花びらが少しねじれているように見える。やあ、今年も会えたね!と心の中で挨拶し、何枚か写真を撮った。

次は公園のソメイヨシノ。広場は親子連れですでに賑わっているので、手前の数本を見て歩き、数枚の写真を撮る。途中、淡く上品な花を咲かせるサトザクラ(普賢象?)の幹を撫で、今年もがんばって咲いてねと頼む。この桜はソメイヨシノよりも日当たりがよくないところにあり、今一つ元気がない。幹もなかなか太くならず、どこか病んで
いるのかもしれないと思い毎年心配する。

細い階段を下り農家の庭に出る。そこはベニシダレとヤエベニシダレのポイントだ。数本植えられているが、今はまだ一重のベニシダレが1本花を開いているのみ。来週あたりが見頃だろう。どういうわけか、シダレザクラを撮ろうとすると風が吹く。ゆらりと揺れる枝も趣深いが、撮る身にとってはちょっと辛いところだ。来週また行ってみようと
思う。

最後にベランダから見たソメイヨシノを見に行った。山の斜面にある桜で歩道からはよく見えない。見ようと思うとワイヤーで張り巡らされた柵をくぐり抜けなければならないのだが、辺りをうかがってからひっそりと柵の中に入ってみた。これは公園の木よりずっと大きいので、花に近づくことはできない。しかし、公園の桜よりも静かで神秘的な趣があり、どちらかというとこちらの方が私は好きである。

今年はもう、西行のことも、梶井のことも、安吾のことも考えまい。ただひたすら、目の前にある桜と真剣に対したい。

*今週末は公園の桜まつり。毎年すごく賑やか〜
*仮設ステージでハワイアンを踊るは(元)お嬢様たち。
*焼き鳥やトウモロコシの屋台も出て煙いので最近近づかない。
*公園の猫たちもしばらくは出てこないな・・・
*来月2日に手術が予定されている家人、今日繰り上げ入院。
*前日のはずだったのだが、今日予定されていた検査の後そのまま病室へGO!
*病院としては手術までに様々なデータが取りたいらしい。
*それなら最初からそう言ってくれればいいのに。
*明日あたり、しばらく行けない「へちま」に行こうと思っていたのになぁ。
*ま、仕方ないか。明日からまたしばらく病院通いだ。
*家人がいない分、少し猫たちの相手をしてやらないと。
*仕事はヒマだが、なにかと忙しくなるかもしれないなぁ。やれやれ。
| - | 18:57 | comments(0) | - |
考えない人
09-0326

この日記でも日常的な会話でも、「考える」という言葉をよく使っている。「ちょっと考えたんだけどさぁ」とか、この件についてじっくり考えてみた」とか。

しかし、「考える」という行為が単に頭脳を少し動かすことではないのであれば、私はほとんどといっていいくらい「考えていない」人間なのかもしれないと思うことがある。考えているつもりでも、ほんの少し頭を動かしたくらですぐに別のことに気が移る。

そうしなければ生活していけないということもあるかもしれないが、そう言ってしまうと何やら言い訳めいたことを言っている感が否めない。

哲学というのは、「考える」ことをとことんやる学問であると思うのだが、私はさしずめ哲学からはほど遠い人間であるということになろうか。

人生における枝葉末節について考え、結論を出すことはさほど難しいことではないのかもしれない。しかし、本質的なことは考えることを考えるだけで疲れてしまいそうだ(^.^;) 

幼い子どもの「なぜ」攻撃に大人がたじろいだり嫌気がさしたりするのも、幼いゆえ本質をついた「なぜ」が飛び出しがちであるためだと思う。

また、女性は男性よりも考えることが苦手だというのは真実だと思う。女性の哲学者という人がいるかどうか知らないが、いたとしても数は非常に少ないのではないか。だから頭が悪いというわけではなく、女性は現実的で、生きるのが男性よりも上手だということになるのかもしれない。

しかし時には、ほんの少しだけ哲学的に頭を使いたいこともある。「善」とは何だろう。「悪」とは?などなど。

しかし、なかなかこれといった結論が出ずに飽きてしまい、考えるのをやめる。たいていの人がそうなのではないかと思うが違う?とにかく、それを諦めずに続ける哲学者という人たちは、尊敬すべきなのか呆れてしまうべきなのかわからない不思議な人たちである。

などと思っていたら、こんな文章に出会った。
ふたたび問おう。悪について「机上の空論」を重ねることに何か意味があるのだろうか?私なりにずっと考えてきたことである。そして、最近おぼろげながらわかってきたことがある。哲学は一般生活にほとんど役立たないが(いや、かえって円満な市民生活を妨げるが)、別の効用がある。それは宗教的な「救い」とも別であり、ごまかさないで真実を見る勇気を持つという効用である。
(中島義道「狂人三歩手前」)

やさぐれているばかりだと思っていたら、中島先生、実に深いことをおっしゃる。ごまかさないで真実を見る勇気か・・・

これはなかなか難しいな。しかし、難しいからこそ試みてみる価値はありそうだ。と、考えない人である私が言っても説得力は・・・なさそうだが(^.^;)
| - | 22:03 | comments(0) | - |
弔いも悼みも悲しみも
09-0325

先週は春の彼岸とあって、外に出ればどこからともなく線香の臭いが漂ってくることが多かった。墓参りの花を携えた人にすれ違い、ああ、父の墓参りもずいぶんしていないなと思った。墓参りどころか、すぐ近くの実家にもなかなか行かず、最後に仏壇に手を合わせたのは先月はじめ、それも今年になってはじめてのことだった。

行く時間がないわけでもないのに、バスで40分もかければ行ける実家の菩提寺に行かないのは、たぶん私が不信心だからだろう。つい目先のことを優先して、いつでも行けると思ってしまう。そして、内心それでいいのだとも思っている。

長い間墓参りに行かないと、何かすべきことをしていないような、大切な義務を果たしていないような、人の道に背いているような、妙な気がすることがある。その気持ちがある程度高まって、墓参りに行く。なんだかすっとする。肩の荷が下りたような気持ちになる。

たぶんそれは、生まれた時からの刷り込みによるものなのだろうと思う。亡くなった親しい人をいつまでも忘れないこと、(仏教徒でもないのに)供養の気持ちを忘れないこと、これらが人の道なのだという刷り込みだ。

供養が心だけによるものであるなら、何も墓参りに行く必要はないのではないか。そもそも、墓など必要ないのではないだろうか・・・とも思えるが、やはり目に見える何か(わかりやすい何か)が必要なのだろう。それが人間だ。

話は変わるが、最近最も気色悪いと思っているCMに、「残そうよ、僕らの物語」とほざくものがある。浜辺で遊ぶ孫らしき子どもたちを眺めながら、まだ当分元気でいそうな初老の夫が突然言い出すのだ。墓地か墓石のCMだと思うが、見るたびに身の毛がよだつ。

僕らの物語が墓とは恐れ入るが、そもそも自分の過去を残そうという気持ちが、私にはないからだろう。だいぶ前から葬式も墓もいらないと公言している。

しかし実際のところ、葬式も墓もいらないと言っていた人が死んだ時、生前の思い通りになるかというと、必ずしもそうではないことが多いような気がする。残された人たちの思いというものがあるからだ。

この残された人たちの思いというのは、とりもなおさずその人たち自身のための思いということになる、と私は思っている。故人のためを思えば、故人が望んでいたようにすればいいわけだが、それでは自分の気が済まない。気が済まない、という言い方は冷たく突き放すようだが、それが愛情からのものであれ見栄そのものであれ、残せた人のエゴ(自我)には変わりない。

人の死に際しての弔いも、その人の死を悲しむ悼みも、長く胸の内に秘める悲しみも、所詮自分のためのものである。それが人間というものなのだろう。面倒臭いものである。

「うらやまし思い切る時猫の恋」という俳句があり、「麦畑けなげに朽ちる猫の骨」という川柳がある。動物たちは静かに健気に死んでいき、残された者たちは潔くその死を忘れる(ように思われる)。時折それが、とても羨ましく思える時があるが、それは私が上記のようなものをかかえた人間であるゆえだからだろう。

*桜が咲き始める頃って、天気が悪いし寒い。
*花冷えっていうやつね。
*家人が「らくラジ」というラジオを聞くソフトを買ってくれた。
*テレビよりラジオの方がいいかも〜
*電車の中で見かけた4〜5歳くらいと思われる男の子。
*おとなしく座っている姿もかわいらしいが、長靴がまたかわいかった。
*お姉ちゃんのおさがりなのか、きれいなピンク(^.^;)
*内側にその子の名前とおぼしき男の子の名前がマジックで書いてある。
*親が与えたものを素直に身に付ける年齢は短い・・・
*近所のモッコウバラ(黄モッコウ)がもう咲いていた!
*早い!まだ3月ですぜ。
| - | 20:08 | comments(2) | - |
チャットって・・・
09-0324

何かのはずみに思い出した。昔よくやっていたチャット(ICQなども含む)って、今はどうなっているのだろう。

ちょっと調べてみると、チャットルームやソフトはまだあるようだが、チャットをやったという話をあまり聞かない。私の周りだけのことなのか、それともチャットそのものが廃れてしまったのか・・・

10年くらい前になるだろうか。毎日(正確には毎晩)のようにチャットを楽しんだ時期があった。同じ趣味などを持つ不特定多数のチャットルームもたくさんあったが、私が主に参加していたのは、知りあい同士のチャットだ。

実際に会ったことがある人、メーリングリストのメンバー、ポスペの仲間などなどで、深夜まで多いに盛り上がった記憶がある。

知りあいだけの閉鎖的なチャットなので安全性も高く、嫌な思いをしたことはない。むしろ、なんであんなにまで夢中になったのかと思えるほどだ。

たいていは、誰かがチャットルームを作る(そのようなサービスを利用する)。次に、チャットに誘いたい相手にチャットルームの場所とパスワードをメールなどで知らせる。ICQなどインスタントメッセンジャーを使うことも多かった。

参加したい人はそこに行ってみる。入室している人がいるか、誰が入室しているかがわかるようになっており、中に入りたければパスワードを入力して入る(ここでドアが開く音がしたりする)。チャットの画面には「○○さんが入室しました」とかなんとか出て来る。

「こんばんはー!」「お、こんばんは!」てな感じで会話が始まり、それまでの話題をそのまま続けたり、新しい話題に移ったりする。盛り上がるとかなり長時間に及ぶので、途中で一端退室する人がいたり、夜食を食べながら入力している人がいたりする。チャットをしながらネットサーフィンをして、おもしろいサイトを教えあったりもする。

オンタイムの会話なので、タイピングが遅いとなかなかついていけなくなったりもするが、それで鍛えられることもある。それぞれの会話は当然短めで、ある程度その場の雰囲気をさっと感じて反応する必要があり、所謂KYさん向きではない(^.^;)

ああ、楽しかったなぁ。今どうなっているんだろう。知っている方、やっている方がいらっしゃったら教えてくだされ。
| - | 22:19 | comments(3) | - |
石を褒める
09-0323-2
・・・中央が“ナスビ”。一番お気に入りの石・・・

大磯の海岸で拾ってきた石を、当日の夜に家人と見せあいっこ(こんな言葉ないか)した。

海岸の石はどれも稜がない丸みを帯びたものばかり。丸い石が好きな私は、どれもこれも欲しくなったが、物が多過ぎると選べない法則があるようで、選ぼうとするとかなり苦労する。そこで、直感的に手が出たものを次々とポケットに入れることにした。

同じ場所を歩いても見るものが違うように、撮る写真が違うように、拾う石ももちろん違う。それが面白そうだったので、見せあいっこしよう!となったのだが、これがなかなか楽しかった。

テーブルに自分たちが拾ってきた石をずらりと並べ、勝手気ままに感想を言いあう。

「お!こいつ、ニヤリと笑っているね」
「うーん、なーんも考えていないヤツだな、これは」
「そのボーッとしている感じがいいね」
「これはザラにあるようでいて、なかなかない。平凡の美!」
「うへへ、これ、美味しそう!」
「きれいな色。南国の海のような色だね」
「このみっちりとした質感がたまらん!すべすべーつるつるー」
「これとこれは、夫婦みたい」
「よくまあ、こんな模様が入ったねぇ」
「これはナスビだ、ナスビ、ナスビ!」
「あ、この一番大きな石、ちゃんと“大”って書いてある!」

よくもまあ、これだけ褒められるものだと思えるほど、石を称賛しまくった。酒が少し入っていたとはいえ、小一時間ずっと褒めあっていたとは驚きである。

海岸で拾った時、いい天気だったこともありどの石もここちよく暖かった。波の音を聞きながら、太陽の恵みとはこういうことかと思いながら、その温もりを楽しんだ。

拾っている時はもちろん、持ち帰ってからもこんなに楽しいなら、また石を拾いに行きたい。今度は入れるものもしっかり持っていかなくちゃ。
| - | 21:33 | comments(7) | - |
人の死を願う、ということ
09-0323

テレビの画面いっぱいにアップになった母親の顔は青ざめ、静かな疲労をにじませているかのように見えた。しかし、その胸のうちには、激しい憎しみが渦を捲いているのだろう。

闇サイト殺人事件の公判で、犯人3人のうち2人に死刑、自首した1人に無期懲役の判決が下った。永山基準がどのような影響を及ぼすか気になっていた裁判だったが、個人的には妥当もしくは少々厳しいかもしれないが、犯罪抑制のためには望ましい判決なのかもしれない、といった印象だ。

殺すほどの深刻な動機もなく、遊び感覚と言われても仕方ない理由で残虐な行為を行ったことは決して許されることではない。永山基準における「殺害手段の残虐性」「社会への影響」には明らかに該当する。

しかし、「結果の重大性(とくに殺害人数)」は、被害者が1人であるため該当するか
否かは判断が難しいところだ。

自分の子どもが突然、何の落ち度もないのに殺される。殺人をゲームのようにしか考えない奴らに突然命を奪われる。その悔しさと喪失感は、子を持つ親としてある程度わかるような気がする。許せない、という気持ちも当然だと思う。

しかし。1人が死刑を免れたことを「悔しいとしかいいようがない」と静かに語った母の姿に、自分を重ねることはできなかった。躊躇いなく共感することはできなかった。他人事だからだろうか。

人が人の死を願う、ということは悲しいことである・・・そう簡単に言って終わりにすることもできそうにない。

私は今まで、殺したいと思うほど人を憎んだことがない。できるなら死ぬまでそうありたいと思っている。今はそれくらいしか言えない。
| - | 22:40 | comments(2) | - |
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