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日々の内側
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たかが・・・されど・・・
09-0227
・・・拘りなんぞ全然関係なさそうで、ちょっと羨ましいかも・・・

世の中には「たかが・・・されど・・・」がたくさんある。多くの人が共感するものから、ごくごく個人的なことまで数え切れないほどあるのかもしれない。

話を聞けば「なるほどねぇ」といたく同感するものもあれば、「なんでまた?」と不思議に思うものもある。いずれにしろ、「たかが・・・されど・・・」に共通するのは、「・・・」に対する拘りや執着であり、その拘りや執着が一定レベルを越すと、思わず「たかが・・・されど・・・」と言いたくなってしまうのである。

長い前置きをしておいて、くだらない話で申し訳ないが、今日はひさびさにこの「たかが・・・されど・・・」を痛感した。今日の「・・・」は「ビール」である。この際「アルコール類」とおおざっぱに言ってもかまわない。今日の場合は。

今日は生憎の天気だったが、予定されていた撮影に立ち合うため、都内のスタジオに出向いた。スタジオは予想どおり冷え込んでおり(エアコン暖房は入れているのだが効かない)、超厚手の靴下を履き、上着を着たままでも寒い。外は霙交じりの雨で、とにかく寒かった。

この仕事の撮影は今日が最後であった。そのため、撮影が終わってもすぐに解散とならず、スタジオ内でいつものスタッフがあれこれ・・・今更言っても仕方ないが言わずにはおれないあれこれ・・・を話し、各人が自分を納得させ、漸くまたいつか!と解散になった。

この寒さに加えて気分もなんとなく重く、さほど働いたわけでもないのに疲れを感じた。こんな日は早く帰ってビールでも飲もう!と思った。荷物が多いし傘をささなければいけないし寒いし疲れているし・・・で、買い物をせず、ビールのつまみになりそうな唐揚げと息子の夕食用弁当のみを買って帰宅した。

一服した後、さてビールを飲もう!といそいそと冷蔵庫をあけたが・・・ない。昨日の夜確かに入れたはずのビールが・・・ない・・・そんなはずは!と冷蔵庫をごそごそ探ってみても・・・ない。昨日見たビールは幻だったのか?

しかしないものはない。冷たい雨の中、買いに出る元気もない。しかたない。家人がいつも飲んでいる焼酎でも少しもらおうか、と思ったらそれもない。料理用の紹興酒はないかと探ったがそれもない。それらしく置いてあった菊水の缶を持ち上げたら、空しくスカッと軽い。ああああああ・・・がっくし。

私は毎日といっていいほどビールを飲むが、ビールそのものに固執しているわけではない。固執しているとえば、夕方に軽くアルコールを体内に入れることに固執しているだけだ。ビールはそれに一番適切だと思っているだけだ。今日はすでに夕方という時間帯ではなかったが、疲れて帰宅した身体がアルコールを常以上に求めていた。ああそれなのにそれなのに。

この腹立たしさは、たとえば特別な日に飲もうと思って開けずにおいた高価なワインを、知らない間に飲まれてしまったに等しい。楽しみにしていたデートのために新調した洋服に、猫が爪を立てて穴をあけてしまったに等しい。 

もし昨日見たビールが私の幻ではなかったら、どうしてくれようか。当分機嫌が悪いことは確かだ。ああ、がっくし。

*それにしても寒かったー
*でも、冬が意地を張っているのかと思えばお名残惜しや。
*この冬は積もるような雪が降らなかったなぁ。残念。
*さて、明日は確定申告の準備を一気にやるか!
| - | 23:16 | comments(2) | - |
教育ママの系譜
09-0226

4月から通う学校が決まり、解放感にひたっている学生たちが街に溢れている・・・ような気がする今日このごろ。

選ばなければいずれかの大学に入れる時代だが、やはり受験という経験は緊張と不安に満ちた重苦しいものなのだろう。楽しい、という人もいるかもしれないが、一般的には。

受験で思い出したのだが、中学・高校と同級生だった友人の母親は、絵に描いたような教育ママであった。遊びに行けばまず勉強方法はどうしているか云々の質問が矢継ぎ早に浴びせかけられ、父母会などで会った私の母も同様の経験をしていたらしい。

夏季講習や模擬試験などにも積極的で、母親に行けと言われたけど1人では嫌だからとよく誘われたものだ。

友人自身は、そんな母親に対して反感をもっており、時折愚痴をこぼしていた覚えがある。しかし、あえて母親の指示に反するという行動に出なかったところをみると、友人自身も実はいい成績をあげていい学校に行くことにかなりのステイタスを感じていたのかもしれない、と今になって思う。

というのは、かれこれ5年くらい前になるが、久しぶりに高校の時仲がよかった者たちが集まる機会があり、横浜の喫茶店であれこれ長話をした時のことがあるからだ。

私は、こういう集まりに行くのはちょっと気が重い。卒業してからはみな違う大学に行き、違う職業についたが、結婚と同時に仕事をやめた人が多い。話は自ずと家庭の話が多くなり、わけても子どもの話に終始しがち。それがあまり面白くないし、彼女たちと自分との間の距離感を空しく感じるだけになってしまいそうで、声をかけてもらっても行かないこともある。

しかしその時はなつかしさが先に立ったのか、出かけていった。会えばごく自然に互いをニックネームで呼べる友人たちの顔には過ぎた年月がはっきりと表れていたが、そこはお互い様。とりあえず近況をざっと話はじめたのだが、やはり話は子どものことに移っていく。

調度、受験が終わったころのシーズンで、4人のうち私を含め3人が受験生をかかえていた。やっと終わったという安堵が一瞬漂ったが、先の友人がその雰囲気を破った。

彼女には3人の子どもがいる。女・女・男、で末の男の子はうちの息子と同学年だ。夫の仕事の関係で静岡に住んでいるが、上2人は優秀で県内でもトップクラスの高校に進み、長女はその後お茶の水大学に入ったらしい。

そこで彼女は末っ子もぜひ姉たちと同じ高校に入ってほしいと思っていたという。しかし、結果的に末っ子である彼はその高校の受験に失敗して、すべり止めに受けた高校に入った。そこまではまあ、ごく普通に聞いていられる話である。

が、その後の彼女の嘆きぶりがあまりにひどいので、他の3人は気持ちが引いてしまった。あっけにとられ、言葉がでない私たちのことなど気にしないように、彼女は延々と話し続けた。いかに期待していたか、いかに落胆したか。不合格がわかった日から翌日にかけては鳴き続けていたと聞いた時には、心底驚き、息子も大変だなぁと同情の
気持ちを禁じえなかった。

それほど特定の学校に執着し、他の話など頭にないかのように受験のことばかり話す彼女・・・中学高校時代の彼女と同じ人だとは思えないくらいであった。人はこんなに変るのか、あるいは彼女にあのような面があったのか、と驚き、強く印象に残っている。あれほど反感を口にしていた母親そっくりになったというわけだ。

期待されていた高校に入れなかったからとはいえ、あれほど教育熱心な親の子どもである。今ごろは、名の通った大学に合格し、4月からの大学生活を楽しみにしながら旅行に行ったり友人と遊んだりしているのではないだろうか。

次に会う時、彼女はどのような話をするのだろう。そろそろ、自分自身についての話にしてもらいたいものである。

*今日もどんより〜
*明日は雨?いやだなぁ、出かけるのに。
*明日に予定されている撮影のことを、ぽかーんと忘れていた。やばいやばい。
*後回しにしていた仕事を今日終わらせた。ほっ。
*昨日は午後10時に地元駅に着き、そのまま「へちま」へ。
*客同士の話が盛り上がり、帰宅したのは0時過ぎだった。へへへ。

| - | 19:47 | comments(3) | - |
川辺の死
09-0224

15日の日記で話題にした、近所の川辺にあったブルーハウス焼失の件。住人の安否がわかった。焼身自殺したそうである。

昨夜家人がなじみにしている店で聞いてきたことだが、地元で代々商売をしている店であり、住まいも現場にごく近いので確かな話だろう。話を聞いた時、一瞬何も言えず、次に出た言葉が「あらら」という実に間が抜けた言葉だった。

間が抜けてしまったのは、私の中で、あのような暮らしをしている人たちと「自殺」を結びつけて考えていなかった・・・なのかもしれない。栄養失調や病気(具合が悪くても金がないので医者にかかれない)などは頭にあったが、自ら死を選ぶということは予想外だったのかもしれない。

しかし、思えば「底辺」の人々である。世の中の景気が良い時でも、さほどその恩寵に預からず、逆に悪い時は一段と暮らし向きが悪くなる・・・のかもしれない。明るい陽射しの中で寛いでいる姿を見れば、存外気楽なのかなと思うこともあるが、やはりギリギリの暮らしであることは変わりないのだ。

それにしても、自分の身体と自らが集めてきたものを焼いてしまおうと思うまで、彼はどのようなことを考えていたのだろうか。どのようなことを考えながら生きてきたのだろうか。そして、その日、その時間、彼が火を放つ時、彼の目は何を見ていたのだろうか。

あの日、私の脳裏を一瞬過った、暗黒の中で燃えさかる炎の幻影は、彼の身体を焼いた炎だったのだ。

自殺の方法はいろいろあるが、焼身という手段はいかにも激しい。高いところから飛び降りる時、人は途中で気を失うものだという話を聞いたことがある。それなら地にたたきつけられた時の痛みは感じないのだろうか。入水自殺をする場合、人はどれくらい苦しむのだろうか。

夫であった人の知りあいは、焼身自殺をしようとして空き地で灯油をかぶり火をつけたが、辛さに耐えかねて死に切れず、くすぶった身体で近くのビルの屋上までのぼって飛び降りたという。それほど、焼かれるというのは堪え難いものであろうに・・・

先日写真を撮った時、そういったことに鈍感である私でさえ、何か怨念めいたもの、情念の残滓のようなものの存在を微かに感じた。燃えてからだいぶ日数が経ってもなおざりにされているのは、片づける人がいない・・・この世にいない・・・からだったのだ。そういうことだったのだ。

彼が自分とともに燃やし尽くそうとして燃え残ったものたちの姿を、あらためて思い出そうとしてみる。胸が悪くなるような感覚とともに、何故か怒りのようなものが微かな炎のように立ち上る。悲しくもない。哀れだとも思わない。そんな安易な同情は不要だ。それくらいはわかっている。この怒りは何に対してなのだろう。社会に対してでもなく、彼の周辺に対してでもなく、ましてや彼自身に対してでもない。

やがて、焼け残ったものたちも片づけられて、川辺はそれまでと似たような風景になるだろう。真相を知る人たちも、徐々にこの衝撃的な出来事を忘れていくだろう。ごく限られた人たちが、記憶の底にこの川辺の死を刻みこみながら生きていくのだろう。

*今日もはっきりしない天気。夕方から雨。
*一日中仕事をしていたが、夕方傘をさして買い物に。
*これから雨が降るごとに、春が近づいてくるのだろう。
*明日は打ち合わせのため千葉方面へ。
*アポが午後6時だって・・・ひえ〜
*いつもけっこう長引く打ち合わせ。何時に帰って来られることやら・・・
| - | 18:52 | comments(2) | - |
教科書嫌い
09-0223

「教科書」とは学校で使うアレではなく、比喩としてのアレ。「教科書どおり」の「教科書」。これがどうにも嫌い・・・というよりも苦手だ。

比喩としての「教科書」の代表がいわゆるハウツー本である。ハウツー本といっても種類は非常に多いが、ここ数年よく買う手芸関係の本も、作り方・編み方が出ているという点ではハウツー本であるともいえるだろう。使い方は人それぞれだと思うが、とりあえず本に出ているとおりの材料と作り方で作る人が多いのではないかと思う。

が、私にはなかなかそれができない。いいな、と思うものがある本を買うわけだが、いざ作るとなると材料を変えてみたり作り方を変えてみたり、と「教科書」から逸れてしまう。私にとって「教科書」とは基本的な設計の仕方とアイデアを参考にするもの、である。

なぁんて書くとカッコいいのだが、まず教科書どおりにやってみるのが正統な方法だと思うことも多々ある。教科書どおりにやらない理由のひとつに、たとえば自分がよくわからない編み方が指定されていたり、とても手の込んだ段取りが解説されていて、それが面倒!というのがあるからだ。面倒がらず、まず「教科書どおり」にやった方が結果的にマスターするのが早いのではないかと思う。

思うのだが、アバウトで無謀な性格ゆえか、なかかか「教科書」どおりにはならない。最初はそのつもりで始めても、気付けば「自己流」。「自己流」で満足しているうちはかわいいもんだ、と半ば自嘲気味に笑ったりしている。こうなったら自分なりに無手勝流を極めるか!?くすくす。

*写真も自己流。自己流の最たるものだな・・・わはは
*今日は寒かったですね。
*屋外撮影に立ち合っていたら、手がしびれてきた。
*雨もなかなか上がらないしさー 
*帰るころに止んでくれてもなぁ。ち。
*肋間神経痛はでてくるわ、膝が痛くなるわ、で参った。
*明日はぬくぬくと家で仕事じゃよ。
| - | 20:27 | comments(3) | - |
直感の世界
09-0222
・・・今日は猫の日。うちにもあります、コレ・・・

千利休 無言の前衛」を読んでいて、常日頃自分の中で燻っていた疑問のような、抵抗のような、時には反感のようなものに対する答えを得たような気がした。

疑問のような、抵抗のようなものというのは、文章を読んでいる時にふつふつと沸いてくるものだ。新聞や雑誌の美術評論、映画や音楽のレビューから個人のブログに至るまでそれはあり、理路整然とした、どちらかといえば難しい言葉や専門用語を駆使した文章なのに、「どこか違う」と思い、その「どこか」がわからずにもどかしさに似た落ち着きのなさを感じる。

答えは利休が死ぬ直前に言ったとされる言葉を受けての考察の中にあった。「私が死ぬと茶はすたれる」と利休は言い残して死んだという話があるらしい。少し長くなるが引用する。
この利休の言葉は、そのことを言おうとしているのではないか。つまり言葉で言えぬことこそが茶の湯の大本であると、それを言葉で言ったのだろう。それを言葉で言うと「私が死ぬと・・・」となってしまう。
誤解されるすれすれのところを言葉が横切る。
つまり直感の世界のことだ。直感とは論理を追い抜く感覚にほかならない。言葉を追い抜くし、言葉をすり抜ける。言葉の論理からはあるかなきかの、あるといえばそれはまやかしではないかと思えるほどの危ういものである。しかしあてずっぽうではなく、それはあくまで言葉の延長上にあることはあるのである。
ある基本的な感覚基盤をもった集合があって、その上でのほんのわずかな変化によってメッセージが飛び交う。それが直感の世界でのやりとりである。それを分析的に言葉に置き換えていくことは、長い時間を待てばできなくはない。しかしその言葉の分析を積み重ねた末に直感に至る、ということはないのである。つまり閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない。言葉にとっては、ほとんど幻想世界だ。つまり言葉の届かぬ先で意味の沸騰している世界である。

「どこか違う」と感じたのは、やはり当然のことだったのだと今なら思える。追うことはできても、追いついても、ましてや追い抜いてもいないものを、さも追いついたように書いてある・・・そんな文章に抵抗を感じるのは、今にして思えば当然すぎるほど当然なのである。

私の仕事は、言葉を道具として使う仕事である。それを25年以上もやってきたわけだが、言葉は使えば使うほど、限界を度々感じるようになるのではないかと思う。思うというよりも、実感している。

もともと、どちらかというと感覚的な人間なのでよけいにそう思うのかもしれないが、感覚、それも瞬間的な感覚を言葉で理路整然と説明するのは不可能に近い。そんな時は黙っているのが一番いいのだが、時として説明を求められて往生する。

往生している自分が嫌になることもたまにあったが、これからは少し楽になるような気がしている。
| - | 19:30 | comments(0) | - |
自由が丘
09-0221

昨日も行ったし、何だかんだといいつつ近いこともあって行くことが多い街。このところ長居しないので新しい店を発見することもないが、なじみ深い店や好きな店もいくつかある。今日は、土曜日気分(て、どんな気分だ?)で、比較的よく行く店や好きな店をざっと紹介したい。

●洋服・ファッション雑貨
基本的に自由が丘で洋服はあまり買わない。が、いくつかの店は行けば立ち寄る。

<GAP>
ご存知の通り。シンプルである程度トレンドを入れたアイテムが多く、価格も手ごろなので時々利用する。最後に買ったのは、ネイビーブルーのダウン。以前はパンツの丈が短かったが、今はどうかな? コットンリブのタートルセーターもかなり愛用したが、ここ数年はMANGOのものの方が気に入っているので、とんと買わなくなってしまった。
<B'2nd>
けっこう老舗のモード系ショップ。銀座のマロニエゲートにも入っている。モード系であることとお値段がけっこうするのでなかなか手が出ない。が、何故だか好きな店。一番最後に買ったのは(かなり前)、プリントのギャザースカートとカットソー。
<プチ・バトー>
フランス生まれのTシャツの店。プラザなどでも買えるが、色やサイズはやはりショップの方が揃っている。毎年春と秋に1回ずつ利用。

●雑貨
自由が丘に行く目的のひとつは、やはり雑貨。「アフタヌーンティー」「私の部屋」にも以前は行っていたが最近は足が遠のいている。

<イデー・ショップ>
見ているだけでも楽しい。買うのは小さいものばかり。リネンのトートバッグや紙物(ノート、カードなど)を買った。一番最近買ったのは杉製の割り箸(昨日)。
<CIBONE>
見るだけのことが多いが、こちらも楽しい。気の利いたプレゼント探しにもいいかも。ソックモンキーをいち早く見せてくれた店でもある。
<キャトルセゾン>
名前のとおりパリっぽい雑貨が多い店。食器類は買わないが、時々置いてある糸(フォグリネンワークスのもの)を買うことあり。
<SIX>
狭いながらも充実した品揃え。ステーショナリーが中心。私は包装用の紙や袋を時々買う。
<J.>
昨日も紹介した和モダンな雑貨ショップ。家具から手ぬぐいまで幅広い品揃え。ギフト用の風呂敷ラッピングがなかなか。炭(チップやスティック状のもの)を売っているので、時々購入。今まで買ったのは・・・箸、箸置き、お香、手ぬぐい、グラス、タオル(ギフト)、炭チップなどけっこう多い。昨日は和三宝を(^.^;)

●本
<青山ブックセンター>
やっぱりここでしょ。懐が淋しい時は一番近寄りたくない店なれど・・・一番最後に買ったのは、「包む文化と
贈る文化」(仕事用)。

●花
<サンクスネイチャーガーデン>
自由が丘では老舗なガーデニングショップ。駅からちと離れているので、最近行っていない。サンクスネイチャーバスというのがあるのをご存知かな?
<エストガーデン>
品揃えはさほど多くないが、ツボを抑えているなという感じ。ガーデニング好きのマダムがまとめ買いをしていたりする。
<ブリキのジョーロ>
洒落た花屋さん。ギフト用のラッピングもおしゃれ。普通の花屋にはないような品種が多い。

●手芸
<マーノクレアール>
ピーコックの2階にある布の店。その他小物もある程度あるので時々立ち寄る。実は新宿の手芸店・オカダヤの経営。
<mieux>
ヨーロッパのアンティーク小物の店。私が買うのは、シェルボタンのシート。良心的な値段だと思う。
<h・47(アッシュ47)>
自由が丘デパートの地下にあるアンティークのファブリックを扱う店。買ったことはないが、時々のぞく。

●スイーツ
探せばやたらあるように思うが、私はぐっとオーソドックスな2店を利用。

<モンブラン>
自由が丘といえばモンブラン?最近はケーキは買わず、もっぱらティーコンフェクト(ドライケーキ)のみ。バレンタインの時はマダムで混雑する。
<ロール屋>
最近ちょっとご無沙汰なので近々行きたい。ここのロールケーキは美味いですぞ。
| - | 21:52 | comments(4) | - |
檸檬
09-0220

はるか昔の、かなり限られた時期に聴いた曲がまた聴きたくなることがある。無性に聴きたくなる。とても好きだった、というわけでもないのに、突然無性に。

今回は「検察側の証人」(さだまさし)だ。曲の中のワンフレーズは今でも好きで、たまに思い出す。で、気が短いのですぐにiTune Storeへ。さっそくダウンロードしてきた。ついでにダウンロードできる曲のリストをつらつら眺め「檸檬」というタイトルで立ち止まった。この曲もかつてよく聴いたなぁ、と。一緒にダウンロードして、しばらく繰り返し聴いている。

作者であり歌い手である、さだまさしについてはほとんど興味がない。昔の曲をいくつか聴いた事があり、山口百恵の「秋桜」がベストアルバムに入っているので聴き、「北の国から」を見た時テーマ曲を聴き・・・と、その程度である。

あらためて「檸檬」を聴いてみると、なかなかよくできた曲なのではないかと感じた。梶井基二郎の同名小説を意識して作られていることは明白だが、梶井が丸善の画本コーナーに置いたまま立ち去った檸檬をこの曲では少女(たぶん)が聖橋から投げる。

たぶん、その唐突さは梶井作品とは全く反対の状況にしようという意図があるのではないか。手榴弾の形と似ていなくもない檸檬を投げる・・・梶井が檸檬を爆弾に見立てたように、歌の中の少女もまた、終わりの見えた恋に終止符を打つために檸檬爆弾を投げたのだろうか。
「捨て去る時にはこうしてできるだけ遠くへ投げ上げるものよ」
「消え去る時にはこうしてできるだけ静かに堕ちていくものよ」

そんな気の利いたセリフを言う少女が現実的にいるか、となるといささか疑問でかなり作為的であると感じるが、もしいたとしたら、こういう人は好きかもしれないとも思わせる。

また、歌詞全体を見ればわかるが、言葉の使い方、漢字使いなどから作者の文学青年ぶりがほの見えて、今となってはほほ笑ましい。

しかし無理を承知で梶井作品と比べてしまうと、物語の深さひとつ取っても梶井作品の方がはるかに上だ。

「えたいの知れない不吉な塊」に終始圧えつけられていた私。「みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられていた」私。「安っぽい絵具で赤や紫や黄や青谷、さまざまの縞模様を持った花火の束」やガラスのおはじきや好きになった私。それまで夢中になっていた、舶来のオードコロンや切り子細工などが並ぶ丸善がやけに重たい存在になっていた私。そんな私が、あたりまえの八百屋で買った檸檬ひとつ。

その檸檬の冷たさは肺病病みで常に熱っぽい私にはたとえようもなく心地よく、檸檬を握った瞬間から常にまとわりついていた不吉な魂がいくらか弛み、元気が出てくる。何度も深々とその匂いを胸一杯に吸い込み、汚れたマントの上にあてがってみたり、手ぬぐいの上へ載せてみたりする。

そして、檸檬の「重さ」は「すべての善いもの美しいものすべての美しいものを重量」に換算して出来た重さなのではないかなどと馬鹿げたことまで考えて愉快になる。

気付けば丸善の前。私は調子にのって避けていた丸善に入っていく。すると、心を満たしていた幸福感はだんだん消えていき、憂鬱が立ちこめてくる。なんということだ!
疲れ果てた私はふと、袂に入っている檸檬を思い出す。そして、積み上げた画集の城の上に檸檬を置いてみる。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかかっていた。

「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾」をしかけた悪漢である私は、美術の棚を中心とした大爆発を想像する。熱心に。そして、いつもの街に消えていく。

好きな小説は?と問われて、「檸檬」と答えるのはいささか気恥ずかしい年齢になって久しい。しかし、やはり私はこの小説が大好きである。

*上記サイトでは「こうしてあっけなく静かに堕ちていくものよ」になっている。
*しかし歌を聴く限り、どうみても「こうしてできるだけ」だ。
*久しぶりに読んでしまいましたよ、「檸檬」。青空文庫だけど。
*今日は急遽午後から自由が丘へ。本や撮影小物を探しに。
*本来すでに用意されておくべきものなのだが・・・ふがふが
*「見解の相違」と「理解不足」は違うんだけどなぁ。
j.(ジェイ・ピリオド)で「讃岐和三宝」っていうの買っちゃった。
*1日1つにしよう・・・かな?


| - | 23:09 | comments(0) | - |
聴きくらべ
09-0219
・・・子ども用バイク。補助輪付き(^.^;) よくできているなぁ・・・

るごさんのブログで、ムッシュかまやつの歌が取り上げられていて、ちょっと私も聴きたいかなぁと思ってiTunes Storeに行って検索してみた。「ムッシュかまやつ」で検索するとズラズラと出てきたので数曲試聴していたら、一番下(ダウンロード回数が一番少ない!)に「ROUTE 66」なる曲があるのに気付いた。

「ROUTE 66」とは、アメリカ大陸を横断する国道として、かつて重要な役割を担っていた道路で、1985年、州間高速道路の発達により役目を終えて廃線になった、とある(Wiki)。

廃線になった後も人気があったらしく、この道にちなんだテレビドラマが作られたり、ガソリンの名前になったりもしたそうだ(フィリップス66)。スタインベックは「怒りの葡萄」でカリフォルニアに向かう一家の西への移動に一節を割き、内容をオクラホマシティとROUTE 66に集約させたとのこと。

また、ジャズピアニストで作曲家のボビー・トゥループが「ROUTE 66」という曲を作り、ナット・キング・コールが歌ってヒットしたらしい。

実は、私はすでにこの曲を知っていたのだが、オリジナルが誰の曲か知らないままだった。知ったのは元ゴールデンカップスのエディ藩氏のソロアルバム「ブルー・ジェイド」の中のカバー。このアルバムはけっこう気に入っており、中でもアルバムタイトル曲と「ROUTE 66」が好きだ。

その後、マンハッタン・トランスファーがカバーしているのを聴き、同じ曲でもずいぶん印象が違うのには感心した。マンハッタンの曲は、いかにもそれらしく都会的に洗練されている。

そんなこんなで、今日ムッシュかまやつがカバーしているのを知り、聴きくらべてみたいと思った。おっとその前にオリジナルともいえるナット・キング・コールのも聴かなくちゃ・・・そう思って今度は曲名で検索したら・・・あるわあるわ、リストには150アイテムがズラズラと並んだ。それほど有名かつカバーしたくなる曲だったんだと妙に納得(^.^;)

結局、コール版とかまやつ版、そして意外なところでヤードバーズもカバーしていたのでそれをダウンロード。しばし聴きくらべてみた。

好みからいうと、やはりコールはいいなぁと思った。あの軽妙洒脱な雰囲気はさすがである。あとは、最初に聴いた強みなのかエディ藩がやはりいい。彼は中国人だが高校時代からR&Bのバンドを作って活動していたこともあり、黒っぽい音楽は得意なのではないかと思う。

それにしても聴きくらべはけっこう楽しい。だいぶ前(20代前半)に、FMラジオで「Cry Me A River」の聴きくらべという企画をやっていて録音した記憶がある。ジュリー・ロンドンの代表的なヒット曲で、確かレコードは家のどこかにあるはずだ。

いずれにしろ、他人の曲をカバーするということは、ある意味で実力を試されるということになると思う。すでに有名になっている曲ならなおさらだ。

多くの人の耳になじんでいる曲をいかに自分のものにするか。それは単に歌の上手下手によるものではなく、感覚の鋭さやクリエイティビティによるものであるように思われる。誰の曲を歌っても自分の歌にしてしまう・・・これが本当の歌手だと思い、そんな歌を聴いた時は嬉しくなる。

*今日は一歩も外へ出ず仕事。買い物にも行かず。
*月曜の撮影のための小物探しをデザイナーがしているのだが・・・
*途中経過をメールで連絡してくれたのだが・・・
*ちょっと隔靴掻痒(^.^;)
*不安なので私も土曜日あたり探しに行くかな。
| - | 20:24 | comments(3) | - |
上村一夫にはまり・・・そう?
09-0218

だいぶ前にKさんからお借りしていた「関東平野」(上村一夫)を昨日やっと返却した。読了したのはだいぶ前だったので、一昨日の夜再度読みたくなり、全4巻のうちの後半(3、4巻)を寝る前に読み返してみた。うーん、いいなぁ。最初に読んだ時よりも断然いい。何故だかわからないけれど。

上村一夫については、「同棲時代」の作者だということ、きれいな線で官能的な絵を描く人だということ、くらいしか知らないのだが、かなり有名な人なので作品はどこかでいくつか読んだことがあるように思う。

そして、男女が中心になってはいるが、人間の情念と心の襞を鮮やかに描くことにおいて、あきらkに好きなタイプの作家だ。しかし、否だから、手を出すとはまりそうなので避けていた節がある。

とはいうものの、関東平野を読んでしまうともはや避けて通るわけにもいかなそうだ。しらみつぶしに、とまではいかなくてもいくつかの作品は読みたいと思っている。

実は、最近杉浦日向子の作品を追っかけてみようかなと思っていた。どちらを先にするか、多いに迷うところである。いずれにしろ今月は仕事上読まなければいけない本もいくつかあり、すでに読む予定で購入した本も数冊あり、書籍代が嵩んでいることもあり、なので読み始めるのは来月になってからだろう。

借りる、という手もあるのだが、本には借りて済ませられる本と、やはり自分で持っていたい本がある。杉浦、上村両者とも後者に当たるのでちょっと困りものである(^.^;)

*昨日楽しい思いをしたので、今日は仕事!
*いい天気で散歩でもしたいところだが、仕事!
*昨日買ってきた「◦餅(えんもち)」をつまみながら、仕事!
鈴懸の菓子はどれも美味しそうでみんな食べてみたくなる。
*色がきれいな「五鈴(いすず)」もなかなかであるぞよ。
*金曜日までは仕事にいそしんで土日は出かけたい・・・かな。
| - | 22:52 | comments(2) | - |
寒いけど猫日和
09-0217
・・・肉屋周辺をうろうろしていたコ。店の中をそぉーっとのぞいたり・・・

猫友Kさんの案内で杉並区某商店街に行ってきた。こじんまりした商店街で、ぐるりとひとまわりしてもさほど時間はかからない。平日とあって人影はまばらだが、沖縄にテーマをしぼった街づくりをしているところが個性的。どこからか三線の音が聞こえてくると思ったら、三線屋があり、そこで若者たちが練習をしていた。

それにしても猫が多い街だった。ちょっと歩いただけで、あちこちに猫がいる。風が当たらぬ日だまりを選んで、みんなのんびりくつろいでいる。私たちが近づいてもほとんど動かないコ。ちょっと不審そうな表情を浮かべて身体を硬くするものの様子を見ているコ。そろりそろりと逃げ去るコ。写真を撮るため座り込むと、知らない間に近づいてきてニオイを嗅ぐコ・・・

猫たちの様子は様々だったが、表情に険しさがなかったことが何より嬉しかった。飼い猫のように過保護にも晒されず、かといって無視されたり邪険に扱われたりもしていない・・・そんな環境を感じさせる猫たちの態度だった。野良猫のあり方として、もしかしたらこういった姿が一番いいのかもしれない。

街歩きの後は新宿に出て、伊勢丹の地下やサブナードをうろうろ。ジュンク堂に入って、Kさんの友人Sさんと落ちあい、餃子の店へ。ビールや紹興酒を飲みながら、楽しいい時間を過してきた。

いろいろ案内してくれてありがとう>Kさん
これからもどうぞよろしく!>Sさん
| - | 23:08 | comments(3) | - |
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