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日々の内側
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ちくちく、ちくちく・・・
08-0831
・・・カラーで見たいというご要望があれば(^.^;)、どこかにアップします・・・

以前ほどではないが、マイペースで針仕事をしている。さすがに似たような袋物などを作るのは飽きてきて、最近はちょっと手の込んだものをじっくり作りたいと思うようになった。

手の込んだ、と行っても面倒臭がり屋の私のことなので、新たに難しいテクニックを習得しようというわけではない。デザインはあくまでもシンプルにして、素材の組み合わせや細かい細工に少し工夫を施そうという程度である。

できるなら、すべて時代を経た素材にしたいのだがこれがなかなか難しい。こればかりはある程度素材の数が集まらないと思うような組み合わせはできないようだ。とりあえず古い素材と違和感なく合う現行の素材を選んで作ってみようと思う。

ネットでアンティークの布などをいろいろ見てみると、気の遠くなるような手仕事を発見することがある。手編みのレースやカットワーク、手で紡ぎ手で織られた布、繊細な刺繍・・・ほとんどが、家事の合間に女性たちが少しずつ丁寧に作ったと思われるものだ。

そうした素材を使うなら、使い方もまた丁寧であるべきだろう。さっとミシンで縫ってお終い、では味気ない。私のできることといったらかなり限られるが、ちくちく、ちくちく、ゆっくり取り組みたいと思っている。

写真は、ブツログで過日紹介したバッグと同じフランスのティキング・ファブリックを使って作った小さいポーチ。布がある程度余ったので、何か作りたいと思っていた。裏地は昔のパターンを復刻させたというチェコの細かい花柄、中央のチロリアンテープと左右のレースはチェコの現行のもの。ボタンはアンティークのガラス。

ティキングは昔マットレス(敷布団)などをくるむ布として作られたものらしく、様々なストライプ柄が特徴だ。多色使いのものもあるが、私は2色のものが好きで、今日紹介したのはネイビーとホワイトのストライプ。インディゴとホワイトのストライプが欲しいのだが、まだ販売されているのを見かけない。

昔のものはマットレスの中身(羽毛が多かったらしい)が出てこないよう、高密度に織られたものだったらしく、そのような布が何度も水をくぐった時の風合いがたまらなくいいのだ。アンティークのものは1900年代前半のものが多いらしいので、かれこれ100年近く経過していることになる。値段もそれなりだが、はぎれ程度の大きさなら私にもなんとか買えるので、少しずつ集めてみたいと思っている。
| - | 19:18 | comments(7) | - |
涙を流せる人は幸いである
08-0830
・・・午後少し天気が持ち直した時の空。波乱含みの空・・・

昨夜の激しい雷雨がひとまず収まって、今日は朝から曇りがちの天気。時折パラパラくるものの、日が差したりもして油断成らぬことには変わりないのだが。

今日はなんとか天気がもちそうなら、写真を撮りに行きたいと思っていた。が、午後になると今にも降りそうな空模様になってきたのでいったん諦めた。テレビで北野武監督の「菊次郎の夏」をやっていたので行儀悪く寝ころんでそれを見た。

番組が終わったころ、薄日が差してきてなんとか天気が回復したように見えた。どうせまた降り始めるのだろうが、数時間は大丈夫であるような気がして、カメラを持って外に出た。近所を歩いて1時間くらいで戻るつもりでいたが、30分も歩いたころ東の空がただならぬ雰囲気になってきて、こりゃまずい!と家路を急いだ。

が、途中でポツリポツリと来たと思ったら、いきなり大粒の雨が・・・まあ仕方ない。用意しておいたスーパーの袋をカメラにかぶせ、ひたすら家をめざして歩く。行き交う人はみなさん用心深く傘をもっていると見えて、私のように濡れ鼠になっている人はいない。

他人にはどう見えるかわからないが、カメラさえ濡れなければOK!だと本人は思っていて、ずぶ濡れになっていることもさほど不快には思わない。頭に、肩に、背中に雨を感じることなんて、滅多にない経験だ。私は触覚人間なので、自分の皮膚で感じたのが一番確かだと思っている。自分の身体で雨を感じるのも、時と場合によるが決して嫌いではない。

髪の毛がすっかり濡れて顔にしずくが流れる。汗かきではないので、額の汗が顔を伝うという経験がないから、似たような経験といえば幼いころ大泣きした時だろうか。小学校にあがるくらいまで、私はけっこう泣き虫であった。

それなのに、いつからか声を出して鳴かなくなり(少なくとも人前では)、母親には「子供らしくない」と言われるようになった。大人になってからは、「何を思っているかわからない」と言われるようになった。喜怒哀楽をはっきり示す人はわかりやすいが、その正反対といったところか。

特に我慢しているわけでもなく、何かを決意してそうしているわけでもなく、人目を気にしているわけでもない。自分でも何故だかわからぬが、今や私は涙を流さずに泣くようになった。悲しいという感情はもちろんあるのだ。それなのに涙が出ないのは何故なのだろう。人目もはばからず声を出して泣く人の隣にいるような、どことなく居心地の悪さを感じながら自問自答してみたことも何度かある。

が、答えは見つからず、また問うことにも意味を感じなくなった。それが私の泣き方だというだけのことだろう。ただ、遠い記憶が呼び覚ます、涙を出し尽くすかのように泣いた後の爽快感を思う時、わんわん泣ける人が少し羨ましくもなる。幸せなことだと
思う。

涙を流さずに泣く。その状況をどのように表現したらいいだろう。冷たい水の流れが自らの奥底で微かな音を立てているような感じ。微かではあるが、その音が琴線を絶えず揺らし、その揺れを感じながら立ち尽くしているような。そんな自分を見ているもう一人の自分が疎ましいような。
| - | 17:14 | comments(8) | - |
地球の逆襲
08-0829
・・・「ね」のポーズのコ。おじさん連れの犬が気にしていますよ・・・

集中豪雨の被害が相次いでいる。この数年、大雨の被害が非常に増えたような気がしていたが、だいぶ以前から地球温暖化の影響として降雨量の増加は言及されていたらしい。それを真面目に受け止めていた人が少なかったということか。

家が水浸しになり家財道具が使い物にならなくなる。家そのものが流される。車が水没する。走行中濁流にのまれる。土砂崩れがおき、道路が閉鎖され電車が止まる。けが人、行方不明者、死者がでる。「自然の猛威」と簡単に人は言うが、この猛威を引き起こしたのは人間なのではないか、少なくとも一因になるのが人間なのではないかと思えてくる。

災害の被害に遭われた方々はお気の毒だと思う。大事に蓄えてきたもの、築いてきたものが一瞬にして流されてしまった絶望感はいかほどのものだろうかと暗い気持ちにもなる。物ならまだいい。命を奪われるとはなんと不運な・・・と、同情の念も湧く。

が、やはり私の中には、このような状況はもやは地球の逆襲なのではないかという思いが強い。個人個人は善良に暮らしていても、人間全体として見た場合、地球に対してひどいことをしすぎてきた。いつ、どこで、どのような形で逆襲されても文句が言えないような気がするのだ。

自分が被害に遭っていないからそんなことが言えるのだ、と思われる向きもあると思う。それは、あえて否定しない。が、いつ自分が何らかの被害に遭ってもおかしくないとは思っているし、自分を含めて、人間は少し数が減った方が地球のためにはいいとも思っている。

こんな時は、反時代的毒虫(車谷長吉氏)の言葉がやけに心地よく感じる。
人の隠された本質は弱肉強食の畜生である。牛や豚の屍体を「お肉」と言い換えて、平気で喰うている畜生以上の畜生である。
(「蟲の息」より引用)

| - | 19:41 | comments(2) | - |
今回は私の負けです。
08-0828

2日前の夜10時頃、息子からの携帯電話が入った。アルバイトの帰りにコンビニに寄り自宅に向かう途中、迷い犬に出会ってしまったという。

「どうしようかなぁ・・・」
「どうしよう、って言ったって・・・」
「すごく人懐こいんだよ」
「どんな犬?」
「小さい。子犬かなぁ・・・」

見つけた場所の話などをしばらくしたものの、何の解決策もないので仕方なく私は言った。
「うちに連れてくるわけにいかないんだから、見つけた場所に戻ってなにかで気を引いて、さっさと帰ってくるしか ないんじゃないの?」
8時間以上働いて明日も仕事であることを思うと、できるだけ早く帰ってきて休んだ方がいい・・・そう思ったのだが。

「うーん。付いてきちゃうんだよね。公園の近くに迷い犬の貼り紙あったと思うんで、それを見てくる」
「貼り紙の犬と違っていたらどうするのよ」
「警察に電話してみる」
「警察に電話したってさぁ、迷い犬のことで相談に乗ってくれるとは思えないんだけど」
「とにかく言ってみるわ。また電話する」

そう言って電話を切って1時間。なしのつぶてなのでこちらから再度かけてみる。出ないのでメールを送る。今どきの若い者がみなそうなのかは知らないが、息子に関していうと電話よりもメールの返信率が高い。

「今、警察を待ってる」の返事。あれま、本当に警察に電話したんだ。で、警官が来ることになったんだ。未成年なのに夜遅くまで外にいて、薮蛇になっちゃうんじゃないのかな。全くもう・・・などと思いながら次の連絡を待つがなかなかこない。またこちらからメール。

「まだ警察がこない」「今飼い主を探しているところ」「もうすぐ帰れる」と断続的にメールがきて、本人が帰宅したのは12時を回っていた。

どうやら、警官と一緒に周辺の住宅を一件一件当たっていたらしい。そして、めでたく飼い主が見つかったとのこと。おかしかったのは、その飼い主というのが、息子が帰りに寄ったコンビニのオーナーだったということ。やれやれである。

飼い主が見つかったからいいようなものの、見つからなかったらどうしたのだろう。見つからなかったからといって、そのままにして帰ってくるとは思えない。もうちょっと大人になった方がいいんじゃないのかなぁ、とも思うが、親バカなのでこういう子がいてもいいかなとも思う。

昨夜、飼い主の方が息子さんとともにお礼の挨拶にわざわざみえた。犬はダックスフントで、名前はナナちゃん。室内飼いなのだが、ちょっと油断した隙に網戸をあけていなくなってしまったそうだ。家族総出で探したが見つからず、とても心配していたところだった、いい人に見つけてもらってよかった、としきりに礼を言うので息子は照れるばかりだ。

ナナちゃんは体毛が黒っぽいので、車に轢かれてしまうのではないかと気が気ではかなった、とのこと。私も心からよかった、と思った。

なにかにつけて不器用で中途半端で弱気なところもあり、そのくせ妙に強情でぶっきらぼうな息子。腹が立ったり情けなくなったりすることも多かったが、今回は母の負けです。素直に認めて「キミは偉い!」と言ってやろう。心の中で。飼い主の方たちが帰ってから、「よかったねぇ」と言うと「うん」とだけ答えて自室に入ってしまったが、母の気持ちは通じたと思っている。

*「今回は」ね。次回はどうかわからんぞー!
*一日中はっきりしない天気。降ったり止んだり。
*気温はけっこう高く、蒸し暑くて不快指数も高し!
*昨日の夜中にまたザコッチが・・・痛いようなだるいような感じ
*熟睡できなかったので、今日の昼間はうとうと昼寝ー
*週末は晴れるかな。そろそろ写真を撮りに行きたいんだけど。
| - | 20:27 | comments(5) | - |
案外キャラに弱いぞ
08-0827

目の前に炊き立ての白いご飯があるとする。さて、相棒として一番ふさわしいのは何だろう。

私なら、「梅干し」「焼きのり」「納豆」「佃煮」「ふりかけ」当たりだろうか。ちょっと手を入れて「シラスおろし」もいいなぁ。「サンマの塩焼き」もいいが、これは季節が限られる。

ところで、「あったかごはん」「ほかほかごはん」という言葉を聞くと、アレを思い浮かべるのは私だけだろうか。アレってアレですよ。「のりたま」ですよ。

ふりかけは子供のころから好きだが、やはり一つだけ選べといわれたら「のりたま」でしょ。かつお系も好きだし、大人なわさび系もいいけど、一つだけとなるとやっぱり「のりたま」。だから、わが家ではほとんど常備しているといっていいほどなのだ。

いつだったか、スーパーのふりかけ売り場でかわいい容器に入った「のりたま」を発見。「手のりたま」という商品で、携帯用に作られたものだと思うが、これがなんともかわいくて袋入りがすでにあるというのに買ってきた。こういうシンプルでかわいいのに私は弱い・・・(^.^;)

今日同じスーパーに行ったら、以前1種類だけだと思っていた「手のりたま」が顔の表情により数種類あるのに気付き、割高なのを承知で2つカゴに入れた。置いてあるものをすべてチェックしなかったのだが、帰宅してサイトを見たら5種類あるらしい。残り2種もぜひゲットしなければ!

キャラクターものに騒ぐ年齢でもないのだが、気に入ると手を出したりしている。とりたてて傾向はないと思うが、ディズニーやサンリオには興味なし。どちらかというとマイナーなキャラの中に好きなものが多い。チチヤスのチー坊とか。

キャラといえば、最近所謂「ゆるキャラ」が大人気のようだ。彦根の“ひこにゃん”がモテモテだが、これは!というキャラにはなかなか巡り合えないような気がする。奈良の“せんとくん”・・・ちょっと・・・(以下略) ポンキッキのキャラであったガチャピンもリバイバルなのか人気のようで最近ガチャピングッズをよく見かける。あの強烈な緑色に囲まれるとクラクラするんだけど、まあ愛嬌があるキャラであることに変りはないだろう。

できるだけ大勢の人に注目され、支持されるためには“わかりやすさ”が必須であり、感性に訴えるビジュアルが必要なのだろう。だから、キャラクターというのは商品にしても自治体にしても、今後もどんどん出てくるんだろうなぁ。キモかわいいのはまあ妥協するとして、キモいだけのものはちょっと勘弁してほしいかも・・・

*昨日は「自殺」で今日は「のりたま」
*この落差が私の身上ということで(^.^;)
*どちらも同じくらい真剣に書いていますよ。ほんと。
*シリアスな話題も軽い話題も、長く引きずるのが嫌いであり苦手でもある。
*今日は気持ちいい日でしたね。家で仕事しているのがもったいなかった。
*空はもう秋。気温はまだ晩夏かな?
*家人が久々に三毛猫ハナちゃんを見かけた由。
*元気だったそうで、よかった。
*公園猫を世話しているKさんにも昨日久しぶりに会った。
*全然会わなかったので心配してたんだけど、こちらも元気そうで。
*公園の猫たちは、毎日Kさんがもってくる餌が頼り。
*それでも十数年(数十年?)年続けているというのは尊敬に値する。
*ハナちゃんは、Kさん宅に半分居着いているような状態らしい。
*うちだったら外には出してやれないので、よかったね・・・
| - | 18:53 | comments(2) | - |
「切望」
08-0826

一度もお会いしたことはないが、ネット上で何度かやりとりをしたことがある方の話。さしさわりのないようにしたいので、ある程度ぼやけた表現になると思うがその点はご理解いただきたい。

以前ちらりと書いたかもしれないが、その方は相次いで突然の不幸に見舞われた。海外に生活の拠点を置いている方だが、日本に一人残した老母を気遣い、体調や母親の気持ちを考えつつ老人施設への入所を決めて来日。さて、これからという時に等の母親が急逝した。

住み慣れた家を離れる母への気遣い、より快適な老後を過してもらいたいと願う気持ち。様々な葛藤の後に選んだ道を歩もうとしているさなかの出来事は、大きな打撃だったことだろう。

さあやるぞ!という緊張感からの急激な下降。母がいなくなったことの空虚。押し寄せる疲れ・・・葬儀や家の整理などをしながら、少しずつ立ち直ろうとしていた時。

今度は、海外で自分を待っているはずの夫が急死したとの知らせ。これこそ、まさに青天の霹靂といえるだろう。信じられない。信じたくない。だが・・・混乱の中で彼女がネット上に残した日記のタイトルは「未亡人になってしまいました」だった。

それから数ヶ月間、彼女は沈黙した。もうネットには復帰しないかもしれないと彼女自身も書いていたし、私もそれはそれでいいと思っていた。ただ、少しずつでも気持ちが上を向けばいいなぁと思うことしかできずに。

しかし、最近になって彼女は復活した。少なくともネット上においては。まだまだ、その傷口には血がにじんでいることだろう。親身になってくれる友人たちやかわいい猫たちが彼女を慰め、少しでも明るい気持ちになる一助となっていることを嬉しく思う反面、淡々と、説きには微かなユーモアを含んだ日記を読むと、その背後の悲しみがひしひしと伝わるように思われる。

少しずつ、彼女は事の顛末を記しはじめたが、それもまた苦痛であるに違いない。が、文章にすることによって自分の中でさざめく様々な思いを整理しようと思ったのかもしれない。

ごく最近になって、彼女の夫君の死が自殺であることを知り、軽いショックを覚えた。人もうらやむような仲のいい夫婦であったようなのに、偶然の出来事が歯車を大きく狂わせ、悲劇的な出来事が彼女を襲ったといいうことだろうか。

年老いた親の病死という出来事なら、多くの人が経験することである。それぞれに大きな悲しみを伴うことなので、ひとくくりにすべきではないのだろうが、ひとつの経験として見た場合そうのようなことだと思う。が、長年連れ添い、まだまだこれから一緒に生きていくことが当然のように思っていた人が死ぬということは、しかもそれが自殺だったということは、そうそう誰にでも起こるものではない。

以前から書いているように、私は自殺を否定する者ではない。自殺する者には当人にしかわからぬ事情があるものとして、その死はやはり尊重したいと思っている。が、残された人のことを思う時、やはり自殺はある意味で残酷な行為なのかもしれないとも思う。

しかしまた、残されるであろう人のことを思うことができれば、人は自殺以外の道を選ぼうとするのではないだろうか。残されるであろう人のことを思う余裕がなかったり、思うことはできても死にたいという気持ちがそれをはるかに上回った時、人は自殺するのではないか。その時の、「死にたい」という気持ちは、「切望」という言葉で表現するにふさわしいものなのかもしれない。

切望・・・切なる願い。それが「死」であるなら、誰がその願いを否定できるのか。何の責任も負わない場で。

「切望」という言葉を思い浮かべた時、私は別の「切望」を思い出した。何度か日記でも書いている鮎川信夫氏の詩である。

若い頃一度その詩をみかけたのだが、タイトルだけ覚えていて正確な内容を知る術がない・・・知りたいという願いは常に頭の中にあるのだが、検索しても見つからない。誰か知っている人がいたら教えてほしい。昔そう書いたと記憶している。

その詩に私が出会ったのは、二十代前半のころかと思う。その時の私は「死に損ない」の体だった。生きることも死ぬこともできないというような、底知れぬ淵を見つめながら動きがとれないような、ぽっかりと空いた穴がどれだけ大きくなるのが計り知れない思いに呆然としているような、そんな状態だった。

その時、ふと手にした文芸春秋に、その詩は掲載されていた。著名人が短文を寄せているようなページに片隅に、囲み記事のような体裁で掲載されていたこととタイトルしか覚えていなかった。ただ、その詩に書かれていた内容にひどく共感したことは確かな記憶として存在し、それなのに印刷されていた言葉を朧げにしか覚えていない自分がなんとも歯がゆかった。

今日、気を取り直して様々な検索を試みた結果、幸運にもその詩について書かれているブログを発見することができた。これは最近の出来事の中では一二を争う幸運であると思う。新たに読んでみて、やはりいいなぁと思う。この詩に描かれている「切望」は、
二十年以上経過しても未だに私の「切望」でもあるのだった。
「切望 」鮎川信夫
 欲する処にしたがい
 欲する時に
 欲するように死ぬ
 こののちは訪うべくもないゆえに
 たしかな消息という
 無縁のいのちを
 どこにもない場所に預けにいく
 なにげなく交信した
 あれが最後の挨拶になったと
 この世の外で呟くように


*「激務中」などと某所では書いたが、8時には一応終了。
*考えている時間が半分くらいを占める仕事は、そうそう長くできない。
*神経的な高ぶりと疲労感が残るので、なかなか眠れないのよね。
*まあ、予定していたより少し多めに進んだのでよしとしよう。
*秋の長雨?でもないでしょうけど、そんな感じ。
*大好きなアリスター・ステラ・グレイという薔薇につぼみがいっぱい。
*仮置き場で咲かせるのはもったいないけれど。
*雨に濡れて咲く風情は天下一品なのにね・・・
*妙に神経が高ぶっている時って、衝動買いしがち。
*また、誰かにケンカを売りたくなりがち(^.^;) くわばら、くわばらー
| - | 20:49 | comments(0) | - |
車谷長吉との出会い
08-0825

ひょんなことから、車谷長吉の作品を読むことになった。名前はなんとなく聞いたことがあるような気がしたが、文学雑誌も新聞の書評もさして熱心に読まないので、著者についても作品についても知識は全くといっていいほどなかった。

読んでいるのは、「鹽壺の匙(しおつぼのさじ」という作品集で、三島由紀夫賞と芸術選奨文部大臣新人賞を受賞したとのことなので、著者の作品の中では有名な部類に属するのだろう。

まだ読んでいる途中なのだが、これがまあ、何というか、残酷なまでの私小説でその残酷さに心をとらえられると、ちょっとやそっとでは離れられなくなりそうである。作品の印象は明るくはない、というかはっきりいって暗いのだが、その暗さがなんともかんとも私好みである。

新潮文庫「鹽壺の匙」の裏表紙に記載されている作品紹介は以下の通り。
吉祥天のような貌と、獰猛酷薄を併せ持つ祖母は、闇の高利貸だった。陰気な癇癪持ちで、没落した家を背負わされた父は、発狂した。銀の匙を堅く銜えた鹽壺を、執拗に打砕いていた叔父は、首を縊った。そして私は、所詮叛逆でしかないと知りつつ、私小説という名の悪事を生きようと思った・・・反時代的毒虫が二十余年にわたり書き継いだ、生前の「遺稿」6篇。三島由紀夫賞受賞。

私はamazonでこの本を買ったのだが、紹介文のスペースにはこの文章がそのまま引用されていたように記憶している。そして、これを読んで、ああこの本は読まねばと思った。今回はまだ読んでいる途中だし、まだ自分の中での感想がまとまっていないのでいずれ書きたいと思っている。

今日の日記を書くに当たって検索してみると、松岡正剛さんが例の「千夜千冊」でこの本を取り上げていて、白洲正子さんがいち早く車谷氏を評価したことを知った。白洲さんは車谷氏の文章を「こわい」の一言で批評したといい、松岡さんによれば、これは絶賛に近いとのことだ。

そんなことを知ると、なにか縁のようなものを感じる。白洲贔屓という言い方はおこがましいが、以前より好きな作家であり尊敬の的である白洲さんであるからにして。

また、江藤淳氏が車谷氏を高く評価したとWikipediaにはあり、なんとなくではあるが、どこか納得するものがあったことを記しておきたいと思う。

*バタバタの1週間が幕開けした。
*とりあえず、今日は打ち合わせ2つをこなした。帰宅は午後9時。
*明日から超特急で原稿を書きつつ、新しい仕事の打ち合わせ。
*こんな時に限って足場組みの音がうるさいのよね・・・
*ノートパソコンを持ってどこかに非難するかなぁ。
*蒸し暑いといえば蒸し暑いが、真夏の暑さではないのに。
*電車の冷房は真夏並。どうにかしろよぅ。
| - | 22:03 | comments(0) | - |
日本的ブログ
08-0824

日本において発信されているブログの特徴は、私的な日記というスタイルが多いということである・・・という記事を以前どこかで読んだ記憶がある。「蜻蛉日記」「土佐日記」を生んだこの国の人々は、どうやら自分の日常をなんらかの形で公にするのが好きであるらしい。

私自身、ブログというスタイルを取ったのは2007年の3月からだが、それ以前も自分のサイトの主要なコンテンツとして日記を続けてきた。日本人の特質を立派に受けて生きているということになるのだろう。

話をブログに戻すが、読者として見た時、個人的な日常を綴る日記としてのブログは実に玉石混淆だ。もちろん私自身の価値観においての話ではあるが。よくまあこれだけの内容の記事を毎日書けるなぁと思うものもあれば、こんなものを(失礼ながら)全世界に垂れ流して恥ずかしくないのかと思うものものまで実に様々である。が、誰もが気軽にブログを始められるシステムが提供されている以上、そうれはそれでいいと思ってもいる。

内容の濃さに目を見張るブログの多くは、日記というよりも数々の社会的現象についての筋が通った分析であることが多い。分析という行為は客観性を求められる行為だが、完全に客観的には成りえない。どこかに主観が入るわけだが、その入り方に無理がなく、全体として客観性を保つような分析は読んでいて気持ちいい。

後者(垂れ流し組)についても、私がそう思うだけであって、存外訪れる人が多く和気あいあいとした雰囲気で続いているところも多いだろう。私とは違う世界の人たちがいるというだけのことだ。

日記ブログを見てみて思うのは、内容もさることながら、コメントに対する対応の仕方がいろいろあるということだ。最初からコメントを受け付けないブログもあり、そういったブログの多くはブログというスタイルをとらなくてもいいのだが、合理的で簡単なので利用しているに過ぎないといった印象を受けることが多い。最初からコメント欄がないので、訪れる方も読み物を気軽に読むつもりで訪れているのではないかと思う。

コメント欄を設けたり閉じたりの繰り返しをしているブログもある。それぞれ理由があるのだろうとは思うが、訪れる方はちょっと落ち着かない気持ちになる。忙しくて返信できないという理由を掲げていることもあるが、返信がなくても言いたいことは言いたいと思う人もいるはずで、個人的には一度コメント欄を設けてある程度そのまま推移したのであれば、返信できようができまいがそのままにしておいた方が親切であるような気がする。

また、あからさまではないにしても、自分が書いた日記に対する批判めいたコメントを排除しようとする人もいる。悪質な誹謗中傷はもちろん許したくないが、真面目な気持ちでの批判に対しては、自分がどのような状況であっても受け入れるのが筋でる・・・と、私は今まで考えてきたが、このあたりになると人によって意見は様々であろう。

以前にも書いたと思うが、ブログにしろ違う形であるにしろ、個人的な日記をインターネットの世界で公開するということは、全世界に向けて自分自身をさらけ出すということである。さらけ出し方を考えなくてはいけないし、書いたことによって起こり得ることに対する想像力を働かせねばならないだろう。また、それなりの覚悟も必要かと思う。

以前、ある人のブログを訪れていたら、「来ないでください」と言われたことがある。コメントしたわけではなく、読んでいるだけでも不愉快であったらしいが、全世界に向けて公開していることの意味を理解していないとしか思えない。そういう人は、mixiなど限られた読者に向かって公開する場を利用するか、閲覧を限定するようなしくみ(たとえばパスワードなど)を利用すればいいのに、と思う。

私自身のことを書けば、以上のようなことを言った以上、それなりの覚悟はしているつもりである。あきらかに悪質なコメントや商業的なコメント、ゴミのようなコメント(いろいろありますよね)以外は、自分がどのような状態であっても一応受け止める。

すべてに返信するつもりだが、返信の仕方はいろいろであると思う。逃げていると思われる返信もあるかもしれないし、はっきり「あなたとこの話はしたくないです」と言うかもしれない。ただ、その時はそれなりの理由を書くが。

まあ、ネットの世界ごときで!人ともめたくないのは誰しも同じであろう。それなら当たり障りのない内容の日記を書けばいいのだが、それはそれでつまらない。自分なりに調整し、試行錯誤していかなければならないのかもしれない。

*今日も涼しくて、けっこう、けっこう、コケッコー(^.^;)
*雨が降ったり止んだり。
*ベランダを離れた薔薇たちの上に、静かに雨が降る。
*ベランダから見えるところにあるので、時々見てはほっとしている。
*ザコッチも胃も調子も気分も今ひとつではあるが・・・
*明日からバタバタしそうなので、気分を変えなければね。
| - | 16:59 | comments(4) | - |
ベランダはベランダでしかない
08-0823

残りの鉢植えの移動をなんとか済ませ、ベランダから緑がなくなった。ある意味すっきりしてきたわけだが、毎日見ていた緑が目の前からすっかりなくなるというのは、かなり味気ない。

とくに、仕事部屋にいるときは、頻繁に外を見るような暮らし方をしていたので、これから足場が組まれてシートがかぶせられることを思うと憂鬱になる。

今年の春ごろからはっきり意識しはじめ、今度の鉢植え移動で決定的に思ったことがある。それは、ベランダは所詮ベランダでしかないということだ。

ある程度広さのあるルーフバルコニーなどは別かもしれないが、ごく普通の、洗濯物をなんとか干せるくらいのベランダでは、小さな鉢植えをいくつか育てるのにふさわしい場所である。置き方にあれこれ工夫を施しても、できることは限られている。

そのようなことは、はじめからわかっていることである。当然のことなのだ。が、無謀にも私は、そのベランダに私なりに工夫を施し庭を作りたかったように思う。鉢植えしか置けぬベランダで、鉢植えを組み合わせることで庭(のような風景)を作りたかったのだ。ただ鉢植えを並べて楽しむというのは嫌だったのだ。

しかも私が好む庭とは、整然と植物が植えられている庭ではなく、様々な木や草が渾然一体となって作り出す庭なのだ。そんな庭がベランダでできようはずがない。それなのに、それをはっきり認めるのが嫌で無駄な抵抗をしつづけてきたというわけだ。

だが、無駄な抵抗にも限度があるようで、春から夏にかけて無気力とも諦めともいえるような倦怠感が私の気持ちの中に流れはじめた。その流れを感じつつ、まだ目の前にある植物たちのことを思いつつ、今後の方向性を考えつづけている。

私は、どちらかというと諦めが早いほうだと思う。気分の切り替えが早い方だと思う。が、こと自分が所有する植物に関しては諦めが悪く、長いことぐずぐずしすぎてきたのかもしれない。きっぱり諦めること。今こそ、それを学ぶ時なのかもしれない。そこからまた、新しい何かが見えてくるような気がしている。

*今日も涼しかった。週明けからまた暑くなるとか。ち。
*昨日から珍しく胃の具合が悪い。重いような痛いような。
*出かけるまえに食べたカットスイカが冷た過ぎたのかなぁ。
*今日は朝から眩暈だ。くーらくら。
*ザコッチも治らないし・・・こんな時に限って!!ぷんすか!
*ベランダ、鉢植えは移動したがまだまだ物が置いてある。どうするんだ?
*今日は南側の足場が組まれた。早業だー
*明日は雨のようなので家の中でも少し片づけるかな。
| - | 17:38 | comments(3) | - |
ついに始まった・・・
08-0822

マンションの大規模修繕がついに。春ごろからやることは知らされていたが、具体的な日程について回覧が回ってきたのは7月になってからだったと思う。いろいろ検討したり調整したり大変なのだろうが、具体的な説明をもう少し早くしてくれたらよかったのに・・・

工事そのものはいつからはじまってもかまわない。が、その準備がわが家の場合大変なのである。ベランダがジャングル状態なので、すべてをどかすというのは非常に手間がかかる。手間だけでなく、今更家の中に鉢植えやら棚やらを入れるわけにもいかず、行く先を考えなくてはならないのだ。

幸運なことに、鉢植えの置き場所は管理組合の方で敷地内に用意してくれた。水やり用のホースも用意され、体勢としては一安心。が、場所が用意されたのが昨日だというのはちょっと遅過ぎる。22日から足場を組み始めるという知らせは前々から通達されていたので、内心ヤキモキしていた。

今日は午後から打ち合わせの予定が入っていたので、午前中に家人の協力を得て一部の鉢植えを仮置き場に移動した。北東側のベランダのものを運んだわけだが、これがまた大変。

小さめのものはまだいいが、大きいつる性のものは伸ばし放題伸ばしていたので枝と枝が複雑に入り組んでいる。しかも薔薇なのでトゲがあり、いちいち引っかかる。枝を思いきって切り詰めつつ、まずは玄関へ。

その後3階から1階まで階段を降りて運び、仮置き場まで階段をさらに下る。今日の涼しさがありがたかった。明日は残りの南側ベランダの鉢植えと空いている鉢いくつかを運ぶ予定。早くしないと場所がふさがってしまわないかとこれまた気が気ではない。

鉢植えの数は徐々に減らした。数えてはいないが、10鉢以上減らしたと思う。基本的に原種とそのハイブリッドだけ残し、あとは処分と相成った。すまん<薔薇工事終了は10月半ばの予定。秋薔薇がきれいな時期だが、四季咲きのものはほとんどないので今年の秋は淋しいものである。家に戻す時に窮屈そうなものは鉢増しし、少しは前よりもゆったり置ければと思っている。

それにしても、坐骨神経痛が出てきて、仕事もそこそこ忙しい時にベランダの整理をするのはちょっと辛いなぁ。が、やらねばならないので明日も早起きしてやるぞ!雨が降るとの予報だが、午後からにしてほしいものである。

*いやー それにしても涼しいこと。いいねぇ。
*長袖のタートルネックセーター(薄手コットン)を着ても全然暑くない。
*9月下旬の陽気だとか。9月下旬までこのままでいてくれるといいな。
*が、蝉たちはちょっとかわいそう。ヒグラシの声が一層染み入るなぁ。
*来週の納涼会、こんなに涼しくていいんだろうか。
*ビアガーデンよりビアホールがいいね。きっと。
| - | 21:16 | comments(6) | - |
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