2008.07.31 Thursday
犬の記憶
・・・動物園土産のフィギュア。さすが海洋堂、の出来栄え・・・
昼頃テレビを見ていたら、千葉県のどこぞで起こっている(他の地域でも多かれ少なかれありそうな)猫問題をピックアップしていた。
野良猫20匹くらいが出入りする家があり、周辺住民が猫の被害(排泄物の臭気、庭の損害など)を訴えているというとりたてて珍しくもない話題。やり玉に上がっている人の言い分は、自宅前に猫を捨てる人が後を絶たない、保健所に連絡して殺処分させるのはしのびない、できる限り避妊手術はやっている、等々であった。
このような問題は、猫を多数飼っている場合でなくても起こり得る。完全室内飼いにしていない限り、自分の猫が外でやらかすことには目が届かず、周辺にはそれを快く思わない人がいても何の不思議もない。飼っているというより、来るから餌をやる、というような付き合い方をしている人も多く、その家に集まる猫がなにかすれば非難はそこに集中する。
犬に関しては登録制があり、予防接種の義務があるから、違反者には罰則がある。が、猫については未だに法律がなく、立入り調査をするのが精いっぱいであるようだ。なかなか難しい問題ではあるが、人にとっても猫たちにとってもいい方向を探ってほしいと
思う。
そんなニュースを見ていて、ふと昔見かけた野良犬を思い出した。野良犬というものが存在したのは、小学生のころまでだったと記憶している。
私が見た野良犬たちは、みな一様に痩せこけ、悲しげな目の犬たちだった。噛まれそうになったことはなく、怖いと思ったことはなかったし、大人たちも子供が野良犬に近づいてもあまり神経質にならなかった。
が、やはり野良犬を快く思わない人たちはいたのだろう。時折、棒の先に針金をつけた捕獲道具を持った男達が現れ、仲良くしていた野良犬を捕まえて連れて行った。たぶん保健所の職員なのではないかと思う。
定期的に巡回しているというわけではなく、通報があると出向いて捕獲し連れ去る・・・子供ながらそれを知っていたので、捕獲者よりもむしろ通報した誰か、誰だかわからないが確実に存在する誰かを私は激しく憎んだ。
その記憶がかなり強烈だったのだろうか。私にとって犬とはどこか哀しい動物だ。柔順であればその柔順さが哀しく、卑屈であればその卑屈さが哀しく、猛々しければその猛々しさが哀しい。
私は動物の中にある“野生”がとても好きなので、身近なところで最も好きなのは野良猫である。野良犬はすでにいないし。動物園で見る野生動物に“野生”を見るのは無理であるような気がするし。
先日家人が北海道に行った時、旭山動物園に新しくできた狼館に寄ったという。狼はいい。好きな動物だ。動物園で見る狼がどのようなものが知りたい気持ちもあるが、野生の狼を見る機会があったらぜひ見てみたい。危険が伴うとしても、見てみたい。
今日のタイトルは、森山大道氏の写真(本のタイトルにもなっている)から拝借。森山氏が撮った犬は、黒く大きな野良犬で、野性味たっぷりの面構えがなんともいえずよかった。写真展の帰り、その写真のポストカードを5枚買って帰ったくらい好きな写真である。
狼に会うのも難しいが、あんな犬に出会うのも同じくらい難しい時代になったことを残念に思う。
狼のことを思っていたら、ある詩の一節が頭に浮かんだ。
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢見む。
(「八月の石にすがりて」伊東静雄)
もうひとつ、狼のことではないと思うが狼をイメージさせる詩も。
せめていっさんに駆けていきたい
われを産みし者の室をすてて
永遠に帰るべき家をもたない
いさぎよかった者の眼のような
暗天の星にみちびかれて
(「愛なき者の走法」鮎川信夫)
*今日は朝から何故か眩暈・・・
*回転性の眩暈ではないので、起きていることはできるのだが。
*起きていても、「ちゃんと立っている」「歩いている」実感がない。
*横になって眼を閉じると余計にひどい。やれやれ。
*去年もこういうことがあり、すぐに治ったのでたいしたことないだろう。
*仕事の資料を読んだり調べものをしたりしなくてはならないが・・・
*明日か明後日にしよう。うん、そうしよう(^.^;)
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