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日々の内側
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犬の記憶
08-0731
・・・動物園土産のフィギュア。さすが海洋堂、の出来栄え・・・

昼頃テレビを見ていたら、千葉県のどこぞで起こっている(他の地域でも多かれ少なかれありそうな)猫問題をピックアップしていた。

野良猫20匹くらいが出入りする家があり、周辺住民が猫の被害(排泄物の臭気、庭の損害など)を訴えているというとりたてて珍しくもない話題。やり玉に上がっている人の言い分は、自宅前に猫を捨てる人が後を絶たない、保健所に連絡して殺処分させるのはしのびない、できる限り避妊手術はやっている、等々であった。

このような問題は、猫を多数飼っている場合でなくても起こり得る。完全室内飼いにしていない限り、自分の猫が外でやらかすことには目が届かず、周辺にはそれを快く思わない人がいても何の不思議もない。飼っているというより、来るから餌をやる、というような付き合い方をしている人も多く、その家に集まる猫がなにかすれば非難はそこに集中する。

犬に関しては登録制があり、予防接種の義務があるから、違反者には罰則がある。が、猫については未だに法律がなく、立入り調査をするのが精いっぱいであるようだ。なかなか難しい問題ではあるが、人にとっても猫たちにとってもいい方向を探ってほしいと
思う。

そんなニュースを見ていて、ふと昔見かけた野良犬を思い出した。野良犬というものが存在したのは、小学生のころまでだったと記憶している。

私が見た野良犬たちは、みな一様に痩せこけ、悲しげな目の犬たちだった。噛まれそうになったことはなく、怖いと思ったことはなかったし、大人たちも子供が野良犬に近づいてもあまり神経質にならなかった。

が、やはり野良犬を快く思わない人たちはいたのだろう。時折、棒の先に針金をつけた捕獲道具を持った男達が現れ、仲良くしていた野良犬を捕まえて連れて行った。たぶん保健所の職員なのではないかと思う。

定期的に巡回しているというわけではなく、通報があると出向いて捕獲し連れ去る・・・子供ながらそれを知っていたので、捕獲者よりもむしろ通報した誰か、誰だかわからないが確実に存在する誰かを私は激しく憎んだ。

その記憶がかなり強烈だったのだろうか。私にとって犬とはどこか哀しい動物だ。柔順であればその柔順さが哀しく、卑屈であればその卑屈さが哀しく、猛々しければその猛々しさが哀しい。

私は動物の中にある“野生”がとても好きなので、身近なところで最も好きなのは野良猫である。野良犬はすでにいないし。動物園で見る野生動物に“野生”を見るのは無理であるような気がするし。

先日家人が北海道に行った時、旭山動物園に新しくできた狼館に寄ったという。狼はいい。好きな動物だ。動物園で見る狼がどのようなものが知りたい気持ちもあるが、野生の狼を見る機会があったらぜひ見てみたい。危険が伴うとしても、見てみたい。

今日のタイトルは、森山大道氏の写真(本のタイトルにもなっている)から拝借。森山氏が撮った犬は、黒く大きな野良犬で、野性味たっぷりの面構えがなんともいえずよかった。写真展の帰り、その写真のポストカードを5枚買って帰ったくらい好きな写真である。

狼に会うのも難しいが、あんな犬に出会うのも同じくらい難しい時代になったことを残念に思う。

狼のことを思っていたら、ある詩の一節が頭に浮かんだ。

雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢見む。
(「八月の石にすがりて」伊東静雄)

もうひとつ、狼のことではないと思うが狼をイメージさせる詩も。

せめていっさんに駆けていきたい
われを産みし者の室をすてて
永遠に帰るべき家をもたない
いさぎよかった者の眼のような
暗天の星にみちびかれて
(「愛なき者の走法」鮎川信夫)

*今日は朝から何故か眩暈・・・
*回転性の眩暈ではないので、起きていることはできるのだが。
*起きていても、「ちゃんと立っている」「歩いている」実感がない。
*横になって眼を閉じると余計にひどい。やれやれ。
*去年もこういうことがあり、すぐに治ったのでたいしたことないだろう。
*仕事の資料を読んだり調べものをしたりしなくてはならないが・・・
*明日か明後日にしよう。うん、そうしよう(^.^;)
| - | 20:32 | comments(2) | - |
妹と語り合う
08-0730
・・・私はたまにしか通らないが、妹は毎日のように通っている場所・・・

昨日の夕方、妹と待ち合わせをして居酒屋に行き、久しぶりに、本当に久しぶりに2人だけで話をした。

いろいろな理由から、10年以上妹はほとんど家にいる状態だ。近所への買い物は母と毎日行っているようだが、それ以外ではほとんど外出らしい外出はしない。たまに、商売をやっている亭主の仕事仲間(主に若い連中)と地元で飲むようだ。が、子供もなく仕事もしていない人間が、必要最小限の外出しかしないというのは、私からすれば俄には信じられない。

しかし、そればかりは本人の考えがあってのことなので無理やりどうこうすべきことではない。たまに実家に行った時、小一時間世間話をして、互いの生活に干渉しないという付き合いが今でも続いている。

妹と私は、とても似ているところと、正反対のようなところがある。年齢があまり離れていない(2歳半)ということもあり、子供のころや若いころはよくケンカもした。罵り合いもしたし、憎み合いもした。

ぶつかることが多かった姉妹だが、ほんの一時期ではあるが、誰よりも信頼できる相手としてむつまじく付き合っていた時もあったのだ。互いの価値観を認め、違いを面白いものとしてとらえ、共感しあい・・・そんな日々もあったのだ。

しかしやがて、それぞれ自分のことを考えるのが精いっぱいになり、互いへの関心が薄れ、住む場所も別々になり、精神的な距離感も広がった。私自身も、そんなものかなと思う程度で深刻に考えたことはない。

お互い中年と言われる年齢になり、老後について思うことも多くなると、そろそろ姉妹という関係を見直してもいいのではないかと思うようになったのかもしれない。私も妹も相変わらず自分のことで精いっぱいだが、最適な距離感を保ちつつ今までとは違う付き合いをしていこうという流れが生まれてきたような気がしている。

急に何かが変るということはないだろうが、昨日のような時間をもつ機会を少しずつ増やしていきたいという思いはどうやら共通して持っているようだ。姉妹というのはなかなか厄介なものだが、近くに住んでいることもあり、互いの気持ちに寄りそう時間を作っていきたいと思っている。

*占星術でいえば、私は風の宮の住人、妹は火の宮の住人だ。
*水と油ならぬ、風と火。
*地に足がつかない姉と、情が厚い妹、ってところかな?
*今日は比較的涼しくて、外を歩いていても楽だった。
*夕方より打ち合わせ。3時間も!
*家についたら10時だもんね。なんだか疲れたわー
*みなさんがお盆休みのころ、バタバタしそうな気配。
*新規の仕事なのでがんばらなくちゃ!バテないようにしなくちゃ!
*打ち合わせ先の会社で、「後ろから見たら高校生みたい」と言われた。
*「前から見たら?」と・・・聞けなかった(^.^;)
| - | 23:32 | comments(2) | - |
ペトリコールとジオスミン
08-0729

雨のにおいの正体を知りたくて検索してみると、いくつか似たような説明があった。それらによると、雨のにおいには、「雨が降る前のにおい」と「雨が降った後のにおい」があるらしい。

「雨が降る前のにおい」は、ペトリコールという物質のにおいで、雨が降らない間に植物が土の中で発する油だという。湿度が高くなるご鉄分と反応してにおいを発し、雨が降り始めると油が流れてにおいはなくなるとのことだ。ペトリコールはギリシア語で
“石のエッセンス”という意味らしい。

一方、「雨が降った後のにおい」は、ジオスミンという土壌中に存在する細菌が出す物質。この物質そのものがにおいを出すのか、何かと反応してにおいを出すのかわからないが、“大地のにおい”という意味の言葉だということなので、土のにおいといってもいいかもしれない。

さて、私が感じる雨のにおいが、この2つのうちのどちらかだとすると・・・たぶん、前者のペトリコールだと思われる。雨が降る前ではないが、ポツリポツリと降り始めた時に感じるので。いやいや、植物があまりなさそうなところでも感じるところを見ると、また別のにおいなのか・・・つまり、以前としてわからないままだ。

ちなみに、私は土のにおいがけっこう好きだ。鉢植えの植物を植え替える時、鉢から株を抜いた途端ににおう、あのにおい。わけのわからぬ物たちが土の中で元気に成長し、土を豊かな状態に保っていてくれているような、いわば豊饒なにおいだ。

身近に土がない、という生活も珍しくなくなった。今のところ、私の近くにはけっこう土があるが、これからもこのままであって欲しいと思う。土の近く、つまり木や草が育つところで過したい。マンションの高層階に住みたいと思わないのも、高所恐怖症気味であることもあるが、土を感じないおぼつかなさが少し怖く、淋しいからかもしれない。

*驟雨を待つ、と書いたら早速来てくれたみたい。
*雷がすごかった。思わずMacの電源を落とした。
*けっこう大粒の雨が勢いよく降った。やっぱり爽快だわー
*でも、すぐに止んじゃった。あと1時間くらい降っていてもいいのにな。
*あんな雨の中でも蝉が鳴き続けていた。短い命だもんね。
| - | 14:05 | comments(0) | - |
驟雨を待つ
08-0728

昨日も一昨日も、夕方近くにポツリポツリと雨が落ちてきたが、それ以上降ることなく変に曇った天気が続いている。

こう暑いと、周りの木々や草も疲れ果てているように見え、傘を持たぬ身を一瞬忘れて一雨欲しいと思う。

北陸地方では豪雨の被害が出ているという。こちらの都合がいい量の雨を望むのは土台無理な話だが、俄にかき曇り激しく降る雨を待ち望む気持ちが日々強くなってきている。

夏の夕暮れ時、突然雨が降り始める。土ぼこりをあげていた地面から、かすかなにおいが立ち上る。あれは何のにおいなのだろう。雨のにおい?それとも土のにおい?いずれにしろ、私はあのにおいが嫌いではない。

部屋の中から激しく降る雨を眺めているのも好きだが、夏の驟雨を見ていると、そのただなかに出て行って思う存分濡れてみたいような衝動を感じる。カメラなど濡れては困るものを持っている時以外なら、夏の雨に濡れることは厭わない。

まるでシャワーを浴びているように降り注ぐ雨の中にいると、ある種の爽快感を感じ、愉快になってくる。日々の中で知らず知らず身につけてしまった余分なものが洗い流され、ただ1個の生物として存在する爽快感。それはどこか官能的ですらある。

ぽつりと一粒雨が落ちただけで傘を広げる頭でっかちの者たちへの哀れみを感じながら、どこか遠くで、はるか遠くで、雨に濡れながら空を見上げる人たちがいるのではないかと、夢見るように思う。そんな経験を最後にしたのはいつのことか。
| - | 20:21 | comments(3) | - |
石内都の“ひろしま”
08-0727

今日の新日曜美術館は、カレンダーに印をつけて絶対に見逃すまいと思っていた。好きな写真家である石内都さんを取り上げているだけでも必見なのだが、今回は彼女がとらえた「広島」について、である。これはもう見るしかない!

石内さんの写真に出会ったのはいつのことだったか・・・たしか「時の器」と題された写真展を見に行った時で、たぶん私はまだデジタルカメラを使っていなかった頃だと思う。そのモノクロームの世界にぐいぐい引き込まれたのは、当時は意識していなかったが、撮影対象についての志向が似ているからだと今日はっきりわかったような気がしている。

番組の中で、石内さんは「私は人が見たくないもの、目をそむけたくなるものにどうしようもなく惹かれる」と話していた。その志向は、私が自分の内に以前からはっきり意識しているものと同じだと思う。

ただ違うのは、私がそういったものに近づこうと努めながらも結局中途半端なところで立ち止まっているのに対して、石内さんはぐいっと対象に寄り、大きな存在感のあるものとして撮り続けていることだろう。もちろん、プロの写真家である石内さんと私の違いは他にもたくさんあり、こうして比べるのはいささかおこがましいのは先刻承知だ。

番組では、何の縁もなかった広島について写真を撮らないかという依頼を引き受けた石内さんが、広島に出向くところから始まる。広島を知るために、彼女は原爆資料館に行く。そこで展示されているいろいろなものの中から、被爆した人たちの衣服に目を留め、それらを撮ろうと決める。

この、衣服を選んだというあたりがいかにも石内さんらしいと思った。様々な展示物の中で衣服は最も人の気配を感じさせるものである。時計よりも鞄よりも、直接身に付けていた衣服に漂う気配は濃厚だ。石内さんに撮られることにより、それらは単なる遺品ではなく、今も行き続けている時代の証人になった。

ボロボロに破れたワンピース。黒い色のところだけ抜けた水玉模様のブラウス。石内さんはそれらが愛おしい存在だと言っていた。それらを身に付けていた人たちの気配を悲しむのではなく、愛おしく思うことができること。それ自体が才能であるように思う。

しかし、さすがにそんなものたちと真剣に対面し、写真を撮るということは疲れる作業だったろう。見ているだけでも、これは疲れるなぁと思っていたが、最後の写真を撮り終わって感想を聞かれた時、「疲れました」とまず彼女は答えた。そして、「これらに出会えてよかった」「写真を撮ることができてよかった」と。その後汗を拭いたタオルで顔を覆い、石内さんは静かに泣いた。

「石内都展 ひろしま Strings of Time」は8月10日まで広島市現代美術館で開催されている。さすがに行くことはできないが、11月になったら東京に来るようなので、忘れずに行こうと思う。カレンダーに書いておかなくちゃ。

*今日は久々に月島まで行ってきた。
*もんじゃ、食べましたよ、もちろん。
*シンプルな「ベニショウガもんじゃ」がなかなか美味しかった。
*もんじゃ焼きは祭の味。だから、やっぱり食べるなら夏だね!
*バテ気味の身としては、けっこう歩けたかな。
*さっき、ドーンという音がしたと思ったら遠くの空に花火が。
*どこの花火だろう。遠花火、いいもんですな。
Walkin'、更新
| - | 20:34 | comments(4) | - |
東京、カッペね
08-0726
・・・太陽が西に傾きはじめる。雑草と呼ばれる草が輝くひととき・・・

仕事で横浜の観光地や文化について書いていたら、ふと昔衝撃を受けた広告コピーを思い出した。横浜駅西口にオープンすることになったMORE'Sのポスターで、チーターがゆるりとこちらを向いている写真の真ん中にコピーが1本・・・“東京、カッペね”

もう一度その広告について知りたくていろいろ検索し、やっと探し当てたサイトは、以前ヨコハマメリーについての記事にコメントをくださった方のサイトだった。日付は今年の4月。コメントをいただいた時お邪魔したものの何のコメントもつけずに失礼していたが、なにか縁のようなものを感じる。

その記事によると、この広告は1982年11月のオープンに向けてのもので、コピーは中畑貴志さん。当時糸井さんとともにコピーライターという職種を世間に知らしめ、花形職業のような錯覚をもたせた、つまりとても優秀なコピーライターだ。サントリーの子犬シリーズや“風邪は社会の迷惑です”も確か中畑さんの手になるコピーだと記憶している。

それはともかく、この“東京、カッペね”はとてもインパクトの強いコピーだ。今でもその新鮮さは色あせない。

当時はすでにファッションの先端は東京にあり、横浜は東京にはない個性がるものの先端ではなかった。少なくとも私の感覚ではそうである。が、以前書いたように横浜を愛する人たち、いわゆる生粋の浜っ子と言われている人たちには妙なプライドがあり、そのプライドをガツンとついた表現としても秀逸だと思う。

“東京、カッペね”に続いて“大阪、イモね”が登場したが、大阪の方には申し訳ないが、こちらは前作に比較してインパクトは弱い。浜っ子たちもはじめから大阪は見ておらず、ひたすら“東京、カッペね”に狂喜乱舞したのではないだろうか。それほど、彼らにとって東京は目の上のたんこぶ、自分たちのプライドを脅かす憎い存在だったように思う。

それほど東京を憎む人たちも今では少なくなったような気がする。それとともに、横浜はかつての横浜らしさを失った。彼らの妙なプライド、先のサイトの表現を借りれば「不埒なほどのプライド」は鼻持ちならなかったが、それが横浜らしさを維持してきたのだと思うと許せるような気もしてくる。

話は変るが、今回縁を感じたサイトを紹介しておこうと思う。「メリーさんの故郷の写真」(管理人:槙原さん)。何度か無言でお邪魔しているが、興味を持ったメリーさんについて、丹念に調べ続ける姿勢には頭が下がる。メリーさんの故郷に行ったり、メリーさん縁の人々に会ったり、時にはヤクザの事務所にまで出向くというのはなかなかできることではない。

何かに興味を持ったとしても、ネットや本でささっと調べてお終いにしてしまう自分の薄っぺらさを知る思いである。私は典型的な「広く浅く」タイプだと思うが、こういう人間にとって物事をじっくり深く掘り下げる人の粘り強さは尊敬に値するものだ。だからといって自分がそうなれるかというとなかなかそれは難しそうで、結局感心するばかりなのだが(^.^;)

*1982年といえば、私がコピーライターとして仕事をし始めた年だ。
*だから、なおさら記憶に残っているのかも。
*今日も暑かった。この夏一番の暑さという言葉、これから何度聞くことか。
*午前中病院に行っていろいろ調べてもらった。
*血液検査、心電図、レントゲン・・・とくに異常はない模様。
*単なる夏バテか。帰りにドラッグストアでビタミン剤を購入。
*これで少し様子を見てみよう。
| - | 22:31 | comments(4) | - |
ゲリラ・ガーデニング
08-0725
・・・生存競争が激しいエリアなので、野良猫たちの表情も厳しい・・・

イギリスで生まれた「ゲリラ・ガーデニング」という活動があるそうな。緑が少ない公共エリアやスラム街などにおいて、勝手にガーデニングをして緑を増やそうというボランティア活動の一種らしい。

庭がないがガーデニングがしたい、というイギリス青年が深夜その行動を起こしたことがはじまりといわれているようだが、「ゲリラ・ガーデニング」という言葉がはじめて登場したのは、1973年アメリカのニューヨークにおいてリズ・クリスティとそのグリーン・ゲリラ・グループによってだったという。

その後、この活動は世界中に広がり日本でも行われているというが、私はまだその事例を見たことも聞いたこともない。ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたいと思う。

自分勝手にガーデニングをする、といっても土地の所有者にはきちんと許可をとっての活動のようだ。ポイントは深夜に活動し、翌朝にはそれまでとは見違えるような空間になっているということ。昨日までとはまったく異なる緑溢れる空間のプレゼンテーションは思いがけない喜びを多くの人に与えるものだろう。活動する方も、何を植えるか企画を練り、ワクワクしながら翌朝を待つなんてなかなかいいではないか。

うちの近くにも畑がまだ残っているが、農作物をきちんと作っているところはそのうちの半分くらいか。あとは自宅用とおぼしき野菜を気まぐれに作っていたり、苗を植えたものの収穫もせず腐るに任せていたり。何も作らず放置され、草ばかりが茂っている
畑もある。見るたびに、もったいないなぁと思う。

1ヶ所だけだが、市民農園のように借り手を募っているところがある。が、そこでは作る野菜も指定され、畑の持ち主の指導のもとに野菜を作るシステムらしい。その方が楽だという人もいるだろうが、私にとってそんなのはつまらない。好きなように使わせてくれる畑はないものかと以前から思っているのだが、なかなか見つからない。

市の広報などを当てにせず、自分でこつこつと情報を集める必要がありそうだ。思い切って直談判するのが手っ取り早いのかもしれないと思いつつ、腰が重くて・・・ゲリラ・ガーデニング活動をしている人たちを見習わなければなぁ。

*今日も暑かった・・・バテバテ
*絵を見に行くどころではなくて、午前中は布団の中だった。ち。
*夕方自転車で買い物に行こうと思ったら後輪がパンクしていた。
*仕方なく自転車屋まで押していくと混んでいるとのこと。
*買い物などをして時間を潰し1時間後に取りに行った。やれやれ。
*写真を撮りに出かけたいところだが、しばらくはおとなしくしているかな。
| - | 21:47 | comments(5) | - |
忘れ潮
08-0723
・・・これは違うと思うが、なぜか“忘れ潮”という言葉が似合うような気がして・・・

昨日紹介した「ことのは四季暦」で先月取り上げられていたのが、“忘れ潮”という言葉。

“磯にたまった海水が、潮が引いた後もそのまま残っているもの。潮溜まり”と解説されているから、おそらく遠浅の砂浜ではなく、岩場が多い海岸でよく見かけるもののことだと思う。

水着を着て泳ぐ海よりも、思いがけない生物に出会う海の方が子供のころから好きだったので(あまり泳げないということもある)、潮溜まりと聞くとなんだかなつかしい。

一見したところ何もいないように見えても、じっと見つめていると小さなイソギンチャクやカニ、魚などが見えてくる。細い海藻が揺らめき、陽射しを反射してキラキラ輝く潮溜まりは、小さな宇宙のような不思議な世界だ。

潮溜まりという言葉から受ける印象は、昔の思い出などもあって懐かしさや楽しさが主体である。が、ひとたびそれが“忘れ潮”という言葉になると、そこはかとなく淋しげな、静かな、少し切ない感じが懐かしさに入り交じり、鮮やかな余韻を残すように思われる。

筆者の山下さんは、「忘れ」が頭につく他の言葉も紹介している。“忘れ扇”“忘れ水”の「忘れ」は文字通り忘れられたもの、置き去りにされたものを意味し、“忘れ貝”“忘れ草”では、忘れさせてくれるものという意味。“忘れ霜”“忘れ音(ね)”の「忘れ」
は、思い出したように出会う、あるいは最後の名残を意味するという。日本語とはなんと豊かなことだろう。

ちなみに、“忘れ水”とは水たまりのこと。水たまり、という言葉も好きだが、“忘れ水”の情緒にはかなわない。最近はどこもかしこもきれいに舗装されてしまって、水たまりを見つけるのも一苦労だが、これからは“忘れ水”という言葉を思いながら探してみたいと思う。

*ちなみにちなみに、“忘れ草”と“忘れな草(勿忘草)”は別物。
*忘れな草は、ムラサキ科の青い可憐な花。
*忘れ草は、ユリ科の萱草のことらしい。ノカンゾウとかヤブカンゾウとか。
*“忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため”大伴旅人(万葉集)
*さて、今日はけっこう仕事したぞ。終日、じゃないけど。
*残りを明日やって、金曜日は・・・絵でも見にいくかなぁ。
| - | 20:04 | comments(2) | - |
遠花火
08-0722
・・・コスモスも、もはや秋の花ではなくなったのか・・・

“東急沿線のスタイリングマガジン”という、いささか気恥ずかしいキャッチフレーズの「SALUS(サルース)」。とりたてて楽しみにしているわけでもないのだが、駅にたくさん置かれているのでつい手に取る。毎号沿線各地にスポットを当てて注目ショップなどを
紹介しているが、まだそれを参考にして行ったことはない。

そういったメインの情報よりも、私が最近楽しみにしているのは作家の山下景子さんによる「ことのは四季暦」である。毎回、季節感豊かな言葉がひとつ紹介されており、その言葉にまつわる山下さんのエッセイが綴られている。

今月号で取り上げられているのが、今日のタイトルにした「遠花火(とおはなび)」だ。

花火大会にわざわざ出かけて間近に見る花火の迫力も捨て難いが、喧騒を遠く離れて静かに見る花火には一種独特の風情がある。

高層建築が激増した昨今、遠くの花火を眺めるといった経験はなかなかできなくなった。が、今住んでいるところは高台であるため、かろうじて見えることがある。

仕事部屋でディスプレイに向かっていると、ドーンという花火の音が微かに聞こえたような気がする。ふと窓辺に寄って遠くを見回す。高く上がったものだけだと思うが、遠くの空が一瞬明るくなり花火がぱっと咲くのが見える。たぶん、ここから見えるのは多摩川の花火だろう。

十数年前まで、地元でも花火大会があった。駅近くの川の自動車教習所近くで打ち上げる。地元企業、商店会、東急電鉄などが金を出して行われる花火大会は、規模こそ小さいが、地元で、しかも間近で見られる花火として人気があった。

が、川沿いにマンションが続々と建設され、安全上の理由なのか花火大会は取りやめになった。残念なことである。

幼い息子を連れて、3回ほど見に行った。まだ明るいうちに行くのだが、すでに昼過ぎから場所取りをしているらしくいい場所はほとんど残っていなかった。が、大人1人と子供1人なので、隙間をどうにか見つけて小さいビニールシートを敷き、暗くなるのを待った。

午後7時過ぎくらいからはじまり、9時には終わったと思う。息子が小さかったので最後まで見ず、たいてい8時くらいに引き上げてきた。花火会場から遠ざかっても、ドーン!ドーン!という音が背後に聞こえる。振り返ると、建物の間から花火が見える。

自宅(今住んでいるところからほど近い場所)は今と違って高台ではなく、しかも住んでいたのが1階だったので自室からは見えない。まだ物足りなさそうな息子と、階段を上り3階と4階の間の踊り場から遠花火を見た。なつかしい思い出である。

山下さんも書いているが、「遠花火」という言葉には、どこか切なくなつかしい風情がある。過ぎ去ってしまった過去に、ぽっと浮かぶ鮮やかな花火。いつまでも忘れたくないと思いながら、いつの間にか忘れかけていた・・・そんな遠い思い出が一瞬煌めく。遠花火か・・・いい言葉だ。

*マンションの裏手から横浜方面の花火が見えることも。
*いずれにしろ、たまたま見えたら見るけど、わざわざ見に出るのが億劫だわ(^.^;)
*そういえば、「恋は遠い日の花火ではない」というキャッチコピーがあったな。
*いいコピーだと思うが、いかにも中年の気持ちを掴もうとする計算がほの見える。
*まあ、計算して作るのがコピーだともいえるけど。
*今日は久々の実家へ。
*親戚の誰かが入院したとか、老後はどうするかとか、そんな話ばかり(^.^;)
*血圧を測らせてもらったら、84-65。力が抜けた。
*こりゃ、血圧計を買って毎日きちんと計らないといけないかなぁ。
| - | 19:34 | comments(2) | - |
缶を集める人々
08-0721

午前中の比較的早い時間帯に散歩していると、ゴミ収集場の空き缶を拾い集めている人たちに出会う。

今日は7時過ぎに出てみたのだが、丁度彼らの活動時間だったようで何人もの姿をみかけた。ゴミはだいたい午前8時までに出すようにとお達しがあるので6〜8時くらいが彼らの勝負時なのだろう。

ぶらぶら散歩していると、同じ人に何度も出会う。自転車をゆっくり走らせながら、住宅街を何度も巡回しているのだろう。確実に荷物は増えている。

ある人はイヤホンを耳に入れながら、ある人は自転車の前かごに愛犬を乗せて、ある人は伏し目がちに通行人の横を通り過ぎていく。散歩中の犬が興味を示して寄っていっても、決してそちらに目を向けずひたすら自転車のペダルを踏んでいる。

ゴミ置き場や自動販売機の横で缶とペットボトルを選り分けている人もいる。背を向けて黙々と選り分け、いらない分はまたきちんと元に戻している。通り過ぎる人は一瞬視線を彼らに向けるが、話しかける人もない。

私が住んでいるマンションのゴミ置き場は鍵がついた扉の中で、暗証番号を押さないと解錠できない。しかし、ゴミを持っていかないようにとのはり紙があるところをみると、時々他所から来た人が持っていっているのだろうか。鍵をこじあけてまで持っていくのはいかがなものかと思うが、路上に集められた缶を持ち去ることについては少し多めにみてもいいのではないかと思う。

空き缶やペットボトルといえども、資源ゴミとして集められるものを持ち去るのは犯罪なのかもしれない。市のリサイクル活動に支障をきたすことになるという意味では問題かもしれない。が、空き缶が彼らの生活の糧になるのであれば、禁止するだけでなく何かいい方法はないのだろうか。

リサイクルも複雑な問題をはらんでいるようだ。先日テレビで、国内のリサイクル業者(加工業者?)が悲鳴をあげていたのを見た。回収されたペットボトルのほとんどが中国に渡っていて工場が稼働しないというのだ。ペットボトルを買いあさる中国企業の社長は満面の笑顔をうかべ流暢な日本語でインタビューに答えていた。お手上げだ、という国内業者の暗い表情との対照が印象的だったと記憶している。

ゴミも決められたルールを守って出すだけでなく、出したゴミがどのように活用されているのか(あるいは、どのように無駄にされているのか)を知ろうとしなければいけない、と常々思う。思うがなかなかそのための努力をするところまでいかない。が、中国企業を含めて結局は営利目的に利用されているだけなのかと思うと、なにやら腑に落ちない。

それにしても、ふがふが言っているだけの自分も情けないなぁ・・・こんなことが多過ぎる。

*昨日の横浜の花火、たいへんな人出だったようで。
*バイトから帰ってきた息子が愚痴をこぼすことしきり。
*人は多くても商売には結びつかないかもね。飲食関係以外は。
*食中毒騒ぎもあった模様。やれやれ・・・
*午後から久しぶりに隣町のユニクロへ。
*ユニクロで買い物をしたの、久しぶりだな。
*ちょっと短めのジーンズをば。ご近所用に。
*夕食は家人が全身全霊をこめて!カレーを。
*本人、作り終えてしばらくしたら疲れて寝ちゃった┐(´ー`)┌
*私もまだ食していないので、もう少ししたら食べよう。
*明日は火曜日だよな・・・最近曜日の感覚が薄れちゃって。
| - | 21:12 | comments(0) | - |
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