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日々の内側
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完全に風邪モード
07-1130
・・・歳末の銀座はやはりきれいだ。ちゃんと撮るために来月出直そう・・・

不覚にも完全に風邪をひいたらしい。早めに寝たのだが、朝起きたら昨日より確実に症状が進んでいた。が、休むわけにもいかないので昨日スタイリストさんにもらったマスクを装着して出かけた。

昨日、今日と食品の撮影があったのでスタジオはその間暖房なしになる。厚めの靴下持参し着膨れ状態で臨んでも寒くて・・・昼休みに薬局で風邪薬を買って飲んだが今のところ効果なし!(そんなに早く効かないか・・・)

一番風邪をひきたくない時に限ってひいてしまうとは、本当に情けない。月曜日も朝から撮影なので土日になんとかしなくてはと思っているところだ。書きたいことはいろいろあるが、頭がぼーっとしていてまとまらないので治ってからのお楽しみとしたい。

コメントをいただいた方々には申し訳ないが、レスポンスはしばらくお待ちくださいまし。今日はもう寝る!(^.^;)
| - | 21:11 | comments(4) | - |
江戸に惹かれて
07-1129
・・・江戸を語る腕で忘れられない場所、上野。不忍池の蓮は今こんな感じ・・・

なんだか風邪気味だ。打ち合わせの帰り、電車に乗っていたら急に鼻がむずむず。くしゃみが出て・・・少々寒気。が、待ち合わせした地元駅前の店でビールと日本酒を飲みごまかす。が、やはりおかしい。早寝して明日に備えるべきだろうなぁ。

それはさておき、電車に乗っている時読む本として、以前読んだ「江戸を歩く」(田中優子著・石山貴美子写真)を持ち歩いている。内容は以前も書いたことがあると思うので割愛するが、いろいろな意味で“江戸”を感じる場所を著者が歩き、当時と現在を比較しながら東京が“江戸”と呼ばれていた頃への愛着が記されている本だといえよう。

興味深い読んでいるが、少しもどかしさを感じることが多い。当時の様子を語る文章に出会う時、江戸時代の地図が頭に入っていないとわかりにくいのだ。日本橋の三越あたりは・・・くらいだったらなんとか想像できるが、それ以上詳細な記述になってくると頭がついていかなくなる。

江戸東京重ね地図」というものがあるらしきことを知ったので、今日銀座に出て探してみた。以前何度か古い地図を販売しているところをみかけた教文館に行ってみたが、古い地図はなかった。とりあえず、観光案内的ではあるが現在の東京と当時の地図が見開きで掲載されている「江戸散歩・東京散歩」(成美堂出版)というムック本を入手したので、当分これを読み込むことにしようと思っている。

「大奥」がテレビドラマ化され映画化されるよりかなり前から、江戸ブームというものがあったように思う。現在はどちらかというと江戸よりも昭和ブームだろうか。「三丁目の夕日」が拍車をかけるかたちで昭和ブームも盛り上げている感がある。

ちょっとその盛り上がり方に食傷気味だからだろうか。なぜか私のマイブームは“昭和”よりも“江戸”なのだ。

「江戸を歩く」は実に面白い本で、かかれている場所すべてに行って見たいと思う。現実的には無理だと思うが、江戸時代その地がどのようであったかを頭に入れてから出かけていきたいところがたくさんある。しばらくは机上で知識を蓄えることに注力し、ある程度把握したら少しずつじっくり歩く江戸散歩を楽しみたいと思っている。

*地図は見つけられなかったが、「岩波写真文庫」の復刻版を発見。
*とりあえず4冊買ってみた。なかなか面白そう。
*眠いしだるいし・・・今日はもう寝よう。明日も早いし。
*明日はマスクをつけて出ようかな。ラッシュ時間にぶち当たるし。
*コメントへのレスは明日。ごめんちゃい。
| - | 23:44 | comments(2) | - |
コットン問題
07-1128
・・・2階の玄関先で、ひそかにチューする憎いお二人さん・・・

少し前の話になるが、先日新宿に出たときに念願の「THE BIG ISSUE」を入手した。以前から買いたいと思ってはいたのだが、どういうわけか売っているところを見かけない。

巻末の販売場所を見ると都内ならけっこういろいろな街角で販売しているように・・・販売していた人の感じも非常によく、内容もなかなか濃い。これからも積極的に買っていこうと思っている。

ともあれ、今回入手した83号で非常に気になったのがウズベキスタンのコットンに関する記事。10億ドル産業と言われているかの国の綿花栽培が、深刻な児童労働や環境破壊をもたらしている、というものだ。

記事によると、1991年のソ連解体により独立したウズベキスタンでは、独立当初から未だに政権を握っている大統領の独裁状態にあるらしい。

国民の3分の1が強制的に綿花栽培に従事させられ、収穫期にの3ヶ月は学校も休校、子どもたちはノルマを課せられて厳しい労働を強いられているというのだ。

子供たちは有毒な農薬が入ったボトルを渡され散布を命じられる。かなり強い農薬なのだろうか、散布時にやけどをしたり、一時的に失明したりする子どもたちもいるという。空気中に残る農薬は大人の健康をも脅かし、ウズベキスタン人の死因の半分が空気中に残る殺虫剤や肥料の成分を吸い込んだことによる呼吸器疾患によるものであるというEJF(Environmental Justice Foundation:環境公正基金・・・ロンドンに本部を置く国際環境NGO)の報告もある。

また、環境への悪影響もかなりひどい状況にあるらしい。ウズベキスタンのカザフスタンにまたがるアラル海は、かつて世界で4番目に大きな湖だったが、綿花栽培の潅漑により湖面積はかつての15%にまで減少。24種の生物が絶滅し、生計を失った漁民は経済難民になっているという。

うーん。コットンといえば一番身に付けることが多い繊維なのではないだろうか。とくに素肌が触れる肌着やTシャツはコットンに限るという人も多いことだろう。私も年々化繊離れしており、冬以外はほとんどコットン製のものを着ているし、Tシャツはなくてはならぬ存在である。

自分が着ているものが、かの国で栽培されたコットン製でないとはいえない。これからは、やさしい肌ざわりを単純に楽しむことができなくなるかもしれないなぁ。

世界屈指のTシャツメーカーであるコンチネンタル・クロージングを率いるフィリップ・チャールズ氏が、現在ウズベキスタン産のコットンをボイコットする活動を展開しているようだ。

また、EJFのジュリエット・ウイリアムズ氏は、消費者が着ているものの素材がどこで生産されたかの情報を得られるようになれば事態は変ると考えているとのことだ。しかし、現実的にはアパレルメーカーに対して産地証明書を出すように求めても、自社が使っているコットンがどこで生産されたのか把握していないメーカーが少なくないという。

食べ物の産地に対する意識はかなり変ってきていると思う。が、私たちの生活にかかわるのは食べ物だけではない。自分たちのためだけでなく、生産している人々のことを慮ることも大切なことだとつくづく感じた。

とりあえず・・・で申し訳ないが、値段が少々張ってもオーガニックのコットンが使われているものを選ぶところからはじめてみようか。

*次号(12月1日発売)は、オノ・ヨーコのインタビュー。
*買い忘れないようにしなくちゃ。
*スタイリストが使っていて便利そうなので、ハンガースチーマーを購入。
*メイクさんが持っていたハンドクリームもよさそうだ。
*あまり毛糸で帽子を編むことにした。さらに余ったらリストバンド?
*仕事もちょっと一段落かな。
*どんどん出かけよう!風邪ひかないようにしなくちゃ。
*家の中のこともしなくちゃいけないんだけど。
*バラの植え替えも、今のうちなら楽なんだけど。
*そうだそうだ。今日カラスウリを4つもゲットしちゃった。
*近くのアパートの入り口付近の植え込みの中にあった。
*独身男性が住むようなアパートだったし、遠慮なくいただいてきた。
*どうして私って実の類いに弱いんだろうなぁ(^.^;)
| - | 19:55 | comments(5) | - |
職人失格
07-1127
・・・きれいな母子だなぁと思って。無断で撮って失礼しました・・・

先日買っておいた毛糸でマフラーを編んだ。在庫処分なのか半額以下になっていたロイヤルブルーの並太毛糸を入手してから、空いた時間をみつけて少しずつ編んでいたが、今日でき上がった。

その糸だけだとちょっと物足りなかったのでネットでモヘアを探し、黒に近い紺のキッドモヘアを注文。並太毛糸にモヘア2本の3本どりにし、15号の棒針でザクザクと。同系色ながら、色の濃淡と糸の質感の違いにより微妙なニュアンスのあるマフラーになったと思っている。

編み物だけではないのだが、私は作り始めるまでが好きだ。作るのも楽しいが、誰かがやってくれると言ったらありがたくお願いしてしまうかもしれない。

作りながら様相が変っていくものは別にして、設計に基づき忠実に作業するということが苦手なのだ。設計するまでが楽しくて、設計後の制作段階になると義務感がある程度介入してきて飽きてしまいがちなのである。

昔セーターなどを編んでいた時もそうだった。まず、自分が作りたいものに近いものが掲載されている本を探すことから始める。頭の中では、すでに糸の種類や色、デザインもほぼ決まっているのだが、自分で編み図を作ることができない。だから近いものを参考にしながら編むことになる。

本に掲載されている糸を使用し、編み図通りに編めば失敗も少ないだろう。それはわかっているのだが、糸も編み方も自分のイメージに合せてしまうので編んでいて不具合が出たり、でき上がったサイズが予想とは違っていたりすることも一度ならずしてあった。

スケッチブックに下手なイラストを描いて、自分が欲しいセーターやカーディガンのイメージをふくらませたりもしていた。しかし、やったのはそこまでで、自分で編むところまではいかなかった。結局のところ面倒になってしまったのだ。

そんな私とは対照的なのが妹で、彼女は編み図に正確に、一目たりともおろそかにせず編んだ。凝ったアラン模様のセーターなども実に上手に編んでいた。編み物を始めたのは私の方が早かったのに、あっという間に彼女の技術は私を追い越した。地道に根気よくやることの大切さは重々わかったのだが、自分もそうなろうと努力したかというと・・・

たぶん私は職人向きではないのだろう。根気も根性もないので、単調(に見える)作業は苦手なのだ。単調に見えても実は奥が深いということが往々にしてあり、その深みへ入って独自の境地を開く人もいる。そういった態度に感心しつつ、憧れつつ、私は自分の質に甘えているばかり。

これじゃいかん!と思うこともあるが、人には得手不得手があるんだから仕方ないと居直っているのが現状か。

仕事でいえば、昔から私は企画およびディレクション志向で、コピーワークは付随するものにしたいと思っている。が現状は後者の方が金になりやすい。会社員の頃もフリーランスになってからも「手」よりも「頭」に金を払ってもらうべく努力はしているが、なかなか難しい状況である。

私は職人による仕事が好きである。長い年月をかけて技を磨き、なによりも自分自身に妥協せずものを作り続けている人が好きである。たぶん自分がそんな人間にはなれないから、かもしれない。

*毛糸が中途半端に余ってしまった。どうするかな。
*帽子くらいは編めるだろうが、ニットの帽子って似合わないのよねぇ。
*最近はおしゃれな手編みの本がたくさん出ている。
*見ていると楽しいが、作るところまではなかなか行かない。
*昨年何度も洗濯機で洗ってフェルト化させたシマシマセーターがある。
*ちょちょんと切って小さなバッグを作ろうと思っているのだが。
*持ち手をどうするかお悩み中。
*前から話題になっているけど、マレーグマのツヨシ君がかわいい。
*ほれ、あの頭をかかえるツヨシ君ですよ。
*得意技がたくさんあって・・・真っ黒ボールっていうのもおもしろーい!
*頭のシワもまたかわいいの。
*お会いしたいものだが、徳山は遠いなぁ。
| - | 19:06 | comments(8) | - |
レンズ地獄から離れて・・・
07-1126
・・・ミッドタウンの雑貨ショップ。ウインドーディスプレイが楽しい・・・

相変わらずブツヨクに惑わされる日々を送ってはいるが、カメラ関係のブツヨクは今のところ不気味に収まり静かなものである。

嵐の前の静けさでなければいいのだが、と思いつつ何故だろうと考えてみる。

たしか今年の初め頃までは、あのレンズが欲しい、あのカメラが欲しいと考えていたはずだった。それがいつのまにか今持っているボディとレンズに不足を感じなくなり、Yちゃんがローライを買ったと聞いても“ああ、ローライいいよね。ステキだよね”とは思うものの自分が欲しいとは思わない。某掲示板でレンズの話が出ても、少し離れたところにいる自分がいるだけだ。以前ならそんな話にはぐぐっと近づいていったのに。

仕事が忙しく写真に向ける意欲が減退してきたのかというと、そうでもない。金がないからかというと、そんなこといつも同じなのでそれも理由にならぬ。はてさて・・・理由らしき理由が思い当たらず、今まであれこれ欲しがっていたので自分ながら不思議である。

考えられるのは、興味の対象が道具であるカメラやレンズよりも撮影する方法や対象そのものに移っているのではないかということだ。それだけ慣れてきたということなのかもしれないが、一眼レフのデジカメを入手して2年。手持ちのレンズでいかに自由に、いかに自分がイメージしたように撮るかに今は興味のベクトルが向いているようだ。

荷物はできるだけ少なくして軽快に動きたいので、私はいつも替えのレンズはもたない。もともと4本しか持っていないが、通常使うのはそのうち2本のみなので替えを持つ必要もないし。24ミリを付けたら24ミリのレンズをいかに使いこなすかに集中すればよい。ボディと一緒に購入したズーム(17〜85)は最近では仕事用(取材時の撮影)にしか使っておらず、もっぱら単焦点レンズを楽しんでいる。

単焦点レンズは自分が動かなければならず、撮る対象にも制限が多いと思う。が、制限があった方が無制限よりもおもしろい。制限がゆるいと私のような怠け者はついそれに甘えてしまい、撮り方が雑になるような気もする。ストロボも全く使わず、三脚もほとんど使わない。

商品としての写真ではないという言い訳をしながら、手持ちでサクサク撮るのが好きである。

今は撮りたいものがたくさんあって困るほどだ。まだ出会ったことがない何かに出会い、それを撮ることができたらという夢も多い。いずれはモノクロフィルムに戻っていくような気がしないでもないが、今はお手軽なデジタルで撮影経験を積み、自分の感性に磨きをかけられたらいいなぁと思っている。

*レンズはとりあえずいらないけど、もうひとつボディが欲しい。
*壊れたら修理中撮れなくなるし。
*同クラスかひとつ上か。ひとつ上はお高いのよねー
*ま、そのうちということにしよう(^.^;)
*某店のサーモテック肌着、けっこうあったかいかもー
*これからの季節はビーエービーエーシャツが必須だわね。
*下着といえば、メタボに悩む男性用補正下着が人気とか。
*45000円だって。きゃー!
Walkin'、更新。
*出し惜しみするといいつつ(^.^;)
*今日は菊特集。この辺の農家や畑や住宅の庭の菊。
*ちょっと野暮ったいけど、それでいいと思う。
トップページのギャラリーも更新。たまには見てたもれ(^_^)

| - | 19:39 | comments(6) | - |
顔施
07-1125
・・・ネクタイの善し悪しって、女にはわからないものなのかしら・・・

なにも願わない手を合せる」(藤原新也著)を少しずつ読んでいる。

この本は、兄を見送った著者が四国巡りをした時に思ったことが綴られているエッセイである。

それまでも何度か四国巡りをしてきたというが、所謂お遍路とは違う著者ならではの旅で、様々なものとの出会いを通して自分の内面を見つめ、人生を見つめている。こういう本はじっくり読みたいので、逸る気持ちを抑えなければならない。

本の中で「顔施」という言葉に出会った。「和顔施」とも言うらしいが、仏教の世界でいう「無財の七施(お金を使わないで行う七つの布施)」のひとつらしい。穏やかな顔で周囲の人の心を和やかにすることを意味するようだ。

私が小さな仏を見て思わず手を合せたくなったのは、その仏の顔施のおかげかもしれない・・・この言葉に出会った時そう思った。立派なご本尊からは受けることがないのに、何故古びた小さい仏から顔施を受けるのか。自分でもわからないが、本を読んでいて思い当たることがある。

同書の中で藤原氏は野仏について以下のように書いている。

この野辺の地蔵の面白さは、人間と自然の合作だということである。つまりそれは長年そこに据え置かれていることにより風化し、自然と一体化し、造形の妙を醸し出している。そしてあるものはあたかも草木の相を見るような趣のものさえある。時にそれは本尊仏に匹敵するのではないかと思われるほど豊かな表情を持つものがある。そういうものが無名のまま人知れず草木のように佇んでいるわけだから尊い。

本尊といってもいろいろで、有名な仏像の中にも手を合せたくなるものがないわけではない。中学校の修学旅行ではじめて百済観音を見た時私はなぜか動けなくなった。あの不思議な体験は何だったのか、今でもなかなか説明がつかない。顔施だったのか、眼施だったのか、それとも・・・

しかし、それ以来手を合せたいと思う(というか意識する前に手を合せている)のは、小さな古い石仏であることが断然多い。風化し、崩れそうになってなお穏やかに静まりかえった顔。深い深い悲しみを湛えた顔もある。そんな顔を見ると、私はどうしようもなく手を合せたくなり、何も祈らず手を合せる。

ああ、そうだ。ここまで書いて思い出した。しんしんと冷え込む冬のある日見た小さな地蔵を。壮絶なほど風雨にさらされた微笑みを。見に行かなくては・・・千住小塚原延命寺にある首切地蔵(延命地蔵)の下に並ぶ小さな地蔵たちを。あれらの地蔵から受ける顔施は果たしてどういうものなのか。それを知りたいと思う。

*延命寺に行くならやっぱり冬の寒い日だな。
*「なにも願わない・・・」の文庫版表紙は野仏の顔
*今日は、いつもDMが送ってくれるギャラリー「(そら)」へ。
*今回のDMがとてもかわいらしかったので。
*ギャラリー縁の作家たちによる「手のひらサイズの宝物」展だ。
*欲しくなったものがいくつか。でも我慢、我慢(^.^;)
*その後、一度だけ行ったことがある蕎麦屋「吉法師」へ。
*酒(綿屋)1合弱、天ぷら、湯葉刺し、花巻そば。
*けっこうよかったが、客がうるさかった。日曜だから仕方ないか。
*重いものをもったわけではないが、やけに肩がコリコリ。
*こういう時は軽いダウンがありがたいー
*日曜恒例のキッチュ写真、とりあえず今日でおしまい。少し飽きた(^.^;)
| - | 21:13 | comments(2) | - |
合掌
07-1124
・・・立派な仏像よりも、私はこの手の仏に弱い・・・

昨日に引き続き今日も天気がよかった。さすがに風は冷たいが、明るい陽射しを見ると外を歩きたくなる。用事もあったので散歩がてら隣町まで行くことにした。もちろんカメラを持って。

盛りはすぎたようだが、まだまだ菊がきれいに咲いている。他様の庭で咲く菊、フェンスからはみでて光を浴びる菊、畑の端でひっそり咲く菊・・・たいていは小輪の平凡な菊だが、晩秋の陽射しを浴びている姿は澄んだ明るさに満ちている。

隣町にある大学構内の銀杏並木と陸上グラウンドを取り巻くように植えられているモミジの様子が気になっていた。できるだけ静かなところを選んで遠回りし、大学構内の裏手から入るルートを選んだ。住宅街の急坂をゆっくり上っていくと小さな墓地がある。その道ははじめてではなかったはずなのに何故今まで気付かなかったのだろう。

周りを見回して気付いた。墓地の向こうに経っていた建物が壊されていたのだ。たぶん、墓地はその建物の影になっていて常に薄暗く、おまけに入り口の間口が狭いので気付かなかったのだろう。遮蔽物がなくなった今、墓地は燦々と秋の陽射しを浴びている。

そっと入ってみた。昔からこの辺りに住んでいる家の先祖代々の墓らしい。新しい墓はほとんどなく、小さな古びた石がぽつりぽつりと置かれていた。たまに花を手向ける人がいるらしい。枯れかけた菊が斜めになり風に揺れていた。

墓誌を読みながらひとつひとつ墓を見ていくと、江戸時代後期のものがけっこうあった。その頃からずっとそこにあったのだろうか。もしかすると本当の墓はここにはなく、墓石だけ置かれているのかもしれない。

しかし、そんなことはたいした問題ではない。戒名しかわからぬが、かつて生きた人々が静かにここにいるのだ。

墓石の傍らに小さな石仏があった。その顔、その手をじっくり見てから手を合わせた。別に何を祈るでも願うでもなく、心の中で何か言うでもなく、ただ手を合わせた。

以前から時々こういうことがある。仏前や神前で手を合わせる時は、たいてい心の中で何か言っている。困った時のなんとやらだよなぁと思いつつ家族の健康を祈ったり、死んだ父や伯母、伯父に現況報告をしていたり。が、墓地で小さな古い仏に出会う時、ほとんど何も考えずに手を合せる。その小さな手のしぐさを真似るように。

手を合わせる、という行為は一体何のためのものなのだろう。少なくとも私にとって。

ふと、以前読んだ「何も願わない手を合せる」(藤原新也著)を思い出した。読んだのがだいぶ前なので細かい内容は覚えていないのだが、作者が四国巡礼をした時のことが書かれていたと記憶している。読むべき本が山積みになっているが、この本はもう一度読まなくちゃ。

*陸上グラウンドは工事中のため周辺にも入れず。ち。
*モミジがきれいに紅葉しているのは見えた。近くで見たかったなぁ。
*無印良品に湯たんぽを買いに行った。が、品切れだって!
*いつ入荷するかもわからないんだって!
*予想をはるかに超える売れ行きなのね。いいや、別のところで買おう。
*袋は・・・自分で作るかな。
*そういや、PLAZAにもあったような気がする。湯たんぽ。
*珍しく、猫ブログ連日更新。
*今日のは7コマ漫画風。
| - | 17:54 | comments(0) | - |
おとりさま
07-1123
・・種類は多種多彩だが、私は江戸の女神・おかめの熊手が一番好き・・・

ちょっと風邪気味のような気もするので躊躇したが、やはり行ってきました浅草・酉の市。最近どういうわけか「市」の賑わいに心惹かれる。人ごみが嫌いだったはずなのに、「市」の人ごみはあまり気にならない。

恥ずかしながら、私は今まで浅草の酉の市は浅草寺の近くでやっているものと思っていた。「浅草酉の市」という名称なので単純に。

が、実は最寄り駅が入谷の鷲神社だったというわけで・・・行く直前になって地図を調べたりあたふたしてしまった。が、行ってみたらそんなことする必要がなかったと知った次第。駅に付いた途端構内放送で鷲神社方面の出口案内をしていたし、出口を出ればもう人が行列になって歩いていた。迷いようがない。

去年の熊手を高々と掲げて歩く人もかなりいて、否が応でも気分が盛り上がる。よぉし!撮るぞ!とワクワクしはじめたところで鷲神社が面する国際通りに突き当たった。う!こ、これは!

予想はしていたがすごい人である。神社の入り口から左右に長蛇の列。一列5人以上並んでいるので一体何人が並んでいることやら。当然のごとく警官が何人も警備と誘導に当たっていてスピーカーから流れる声も心なしか緊迫している。せっかく重いカメラを担いできたのに中に入れないのかしら・・・心配になってきた。

そこで少し耳を澄ましてみた。周りにいる人はどうするのだろう・・・混雑している様子を見ながら皆一様に驚いているようだが、今年がはじめてではないらしい家族連れが“あっちからぐるっと回っていこう”などと言っているので後ろからこっそりついていった。

どうやら神社に入る入り口は列をなしているものの、熊手商が集まっている場所は別の入り口から入れるらしい。気合いを入れ直していざ!と賑わいの中に入っていった。さすが一番有名な酉の市、熊手商の数もすごい。見事な熊手に圧倒されながら、なんとか写真を撮ってきた。

熊手といってもいろいろあって、その意匠を見ているだけでも楽しい。縁起物盛りだくさん。キンキラキン。色の洪水も縁起物なら楽しく見ることができる。買いに来ている人たちや熊手商たちの様子を見るのもまたよし。熊手には値段がついておらず交渉して買うというのが酉の市の決まりらしく、あちこちで駆け引きが行われている。

顔なじみの熊手商とにこやかに話している人もいれば、小さな熊手を手に迷っている若い人もいる。めでたく手締めをしてもらった人はみな嬉しそうだ。

熊手商エリアをぐるぐる回っているうちにどこにいるかわからなくなってしまい(^.^;)、やっとのことで外に出た。帰宅してからもう一度酉の市のサイトを見たら、市は鷲神社と隣にある長國寺の両方でやっていることを知った。昔から“神も仏も酉の市”と言われているそうな。

事前にきちんと把握していれば両方行けたのかもしれないとも思ったが、あの混雑。ちょっと難しいかもしれない。参拝は次回に、ということにして今日は行っただけで良しとしよう。

*それにしても、すごい人だったー
*写真撮るために立ち止まることができない。押されるし!
*人の流れをせき止めちゃいけないしね。けっこう大変でした。
*みなさん、商売が繁盛すればいいね。私も!
*小さな熊手が欲しかったが、波除様の“かっこめ”があるし・・・
*今年は義理立てして!浅草のは買わず。
*一度買うと翌年返しにいかないといけないしねー
*ありとあらゆる縁起物がびっしり詰まった熊手もいいが・・・
*私はおかめメインのシンプルなのがお気に入りだわ。
*ぬいぐるみがいっぱいついた超デカデカサイズの熊手もあった。
*言わずとしれた「サンリオ様」のものだった。
*念のためポケットにハンドウォーマーを入れていった。
*でも、予想していたより寒くなかった。
*ボロ市の時は必須ですな。今年も行くぞ!(仕事でなければ)
猫ブログ、更新
Walkin'、更新
| - | 22:29 | comments(2) | - |
大地の味
07-1122
・・・柿の木はたくさんあるが、収穫されたらしき姿をまだ一度も見ていない・・・

このところお世話になっているカメラマンの方に、里芋をたっぷりいただいた。知人が千葉で畑を持っており時々手伝っているとのこと。その畑で採れたばかりのものらしい。

昨夜家人がそれを調理してくれた。皮付きのままゆでたものと他の野菜や肉と煮たものの2種。どちらも美味しかったが、とくに茹でただけの芋の味には感動してしまった。皮を指でつるりんとむいて塩や醤油をつけるだけ。それなのになんと豊かな味がすることか。大地の味・・・という言葉が思わず浮かんだ。

私は野菜ならたいていのものは好きである。特に好きなのが大根、牛蒡、里芋、ジャガイモ、南瓜あたり。夏野菜よりも秋から冬にかけて収穫される、根菜類が大好きだ。調理法も出汁を効かせて煮ただけのシンプルなものが一番好きかもしれない。

が、調理法や味付けがシンプルであればあるほど素材の質が問われる。昨今スーパーで普通に売っている野菜は概して味が薄く非個性的で物足りない。先日いただいたような豊かな味に出会えることは稀であり、幸福なことだと言わざるをえないだろう。

米、野菜、豆類、野菜や豆の加工品(佃煮、豆腐、納豆など)、味噌、醤油、それに海苔。それくらいあれば私は満足できるタチである。できれば小さい地魚などがあればなおよい。シラスおろしラブ。丸干しラブ。サンマの塩焼きラブ。なのである。

*年々、焼き肉やすき焼きを食べたいと思わなくなってきた。
*年のせい!と言うなかれ。もとから肉はさほど好きではないのよ。
*寒くなってきたので湯豆腐食べたい。
*でも、美味しい酒がない。湯豆腐とくれば・・・ねぇ!
*里芋、今日は雑煮風でいただく予定。けんちん汁もいいね。
*テレビで“ルー語”なるものが流行していると見かけたら。
*マイミクさんがタイムリーに紹介していた。
*ちなみにここをルー語変換すると、こうなる。
*「蕾にしてフォールせんも亦インタレスティング」が笑える(^_^)
*私は大柴さんより長嶋さんを連想しちゃうんだけど。
*明日は二の酉だ。浅草かぁ・・・

| - | 19:38 | comments(4) | - |
笑うも泣くも
07-1121

先日「鳥獣戯画」を見て思わずくすくす笑い、同時展示されていた「勝絵絵巻」を見てくすくす笑い(大衆の面前でなければ声を出して笑ったかも)・・・見終わったらなんだか気持ちが軽くなったような気がした。何の抵抗もなく、邪念のかけらもなく笑うことは人の気持ちを柔らかくする、ということに今更ながら気付いた。

箸が転がっただけで笑うと言われている年齢をはるか超えて、気付けば滅多なことでは笑わなくなってしまった。いつも機嫌が悪い人間だと思われてしまうかもしれないが、形だけの笑いなら日常茶飯事である。が、心から、腹の底から笑うということは稀になってきている。

愛想笑いというのも、どうやら私は苦手なようである。どうやら、というのは自分では普通に笑っているつもりでも、そうは見えないらしいという経験を何度かしているからだ。

仕事をしていれば仕事上の付き合いやら何やらがある。クライアントの下手な冗談や決して品性があるとは思えない話にもにこやかに笑って対応すべきことが多々ある。私とてクライアントの機嫌を損ねるのは得策とは思わないので、一応笑う。

が、後から同僚などに「馬鹿にしているように鼻で笑っていたぜ」とか「笑いながら顔が引きつっていたよ」とか言われる。クライアントが敏感な人なら見抜かれて多いに嫌われていたかもしれない。まあ、そういう人は少ないので今まで事無きを得ているが。

逆に笑うつもりはなくても多いに笑ったという経験も、少ないながらあるにはある。息子がかなり笑わせてくれたのだ。3歳から小学校低学年にかけてだと思うが、涙が出るほど笑ったことが何度かある。当人は母親を笑わせようとしていない。無邪気に、懸命にやったことの結果だからこそ、こちらも無邪気に笑えるのだろう。

笑うこととは対極にある泣くことも、昨今はほとんど経験しなくなった。ほんの幼いころ私は泣き虫であったそうな。自分では全く覚えていないのだが、親や妹に「すぐ泣くんだから」と言われたことだけは朧げながら覚えている。が、物心ついてからというもの、少なくとも声をあげてわんわん泣いたという記憶はほとんどない。

大人になってから、“こんな時大泣きできたら楽だろうな”と思ったことが数回ある。心が塞がれるほど哀しい出来事があった時でも、涙がうっすらと浮かび、あるいは静かに流れることはあっても声をあげて泣くことはできなかった。そうすることが恥ずかしかったからではない。単純にそうならなかったのだ。

泣くということは、笑うことと同様気持ちの発露である。思いきり泣いた後は、どこかすっきりする。悲しさは残っていたとしても、それが泣く前よりも乾いて大雨の後の大気のように気持ちが澄んでいるような気がすることがある。

数少ないそんな経験を思い出し、私は思う。思いきり泣けたら、と。が、思うだけでやはり泣けないのだった。

思いきり笑ったり、泣いたり、怒ったりできなくなって久しい。が、これは自然の成り行きなのかもしれないと今では思っている。

数年前までは、なかなか感情的にならないということは無意識に気持ちを抑え、ストレスをためているに違いないと思っていた。そのうち大爆発をするかもしれないと少し不安も感じていた。が、一向に大爆発しない。むしろ、そんな心配をしていたころより精神的には穏やかであることの方が多いような気がしてきた。

もしかして・・・単に自分が忘れっぽくなり、もともと欠乏していた持続力がさらになくなり、加えて図々しくなってきたのかも。最近はそんなふうに思うことがある。あまり認めたくないが、けっこう的を射ているかもしれない。とほほ。

*なんだかんだ言って寒くなってきた。
*今日は一日外に出ず仕事。菊がきれいに咲いているだろうなぁと思いつつ。
*猫らも寒そうなのでアンカ(レンジでチン!タイプ)を2つ温めた。
*あんかといえば、今年は湯たんぽの売れ行きがいいそうな。
*言われてみれば環境にやさしいよね。
*昔の湯たんぽはブリキ製だった。ネルの袋に入れてもらったっけ。
*今年は私も湯たんぽにしてみようかなぁ。
*来月10日当たりに温泉に行く予定。
*それを楽しみに、がんばろうっと。
| - | 22:56 | comments(4) | - |
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