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日々の内側
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山川方夫の孤独と絶望
07-0731

先に取り上げた「夏の葬列」。9つの作品からなる短編集であると書いたが、正確には7つのショート・ショートと2つの小説からなる作品集と言った方がよかったと今になって思う。

ショート・ショートは短編というよりも「超短編」といった方がいいような大変短い形式で、「はてなダイアリー」によればその定義は(1)新鮮なアイデア(2)完全
なプロット(3)意外な結末、だそうだ。

この作品集に収録されている9つの作品のうち、7作品は意外な結末が鮮やかに示される典型的なショート・ショートで、テーマが明るい話題ではなくてもどこか軽妙さを感じる。が、最後の2作品「煙突」「海岸公園」は全く趣が違い、どちらかというと重く切迫感が漂う作品となっている。

今回一通り読み終えて、なんとなく気にかかるものがあって最後の2作品のみすぐに再読してみた。やはり重く、どこか切羽詰まったものが充満しており、やがてそれは乾いた絶望に帰結しているような印象を受けた。その雰囲気に同調するものを私はたぶんかかえているのかもしれない。以前何度か読んだ時には感じなかった愛着を、この2作品に感じた。

山川方夫は日本画家である山川嘉雄(雅号・秀峰)を父に、京都の染物問屋の長女であった綾子を母に生まれ、姉二人、妹二人。つまり長男であり一人息子である。書生4人、女中4人をかかえる裕福な家庭で育った。慶応義塾の幼稚舎に入り以降大学までずっと慶応。いかにも良家の子息である。が、その裕福な暮らしも山川が14歳の時に父が急死してから一転し、徐々に没落していく家の主としての重荷を負い続けた。

その重荷が何であるか、一人で背負う孤独がどんなものであるか・・・山川は周囲の人たちに決して語ろうとはしなかったらしいが、「煙突」「海岸公園」には色濃く投影されていると思う。山川が三田文学編集長の時に発掘したといっていい江藤淳が「山川方夫のこと」という文章の中で以下のように書いているという(「夏の葬列」解説より)

彼は、表面的にはきわめて社交的な男だったが、その実いつもいまにも爆発しそうなさまざまな苦しみをかかえて、懸命に生きていた。その孤独な、孤立無援な耐え方が私は好きだった。

解説を書いているのは山崎行太郎という人。どんな人か知らないのだが、この解説も読み応えがある。解説のタイトルは「陽気な絶望者」で、山崎は山川方夫の文学の根底には深く絶望した不幸な人間がいる、と書いている。

今年はなぜか、その「深く絶望した人間」山川方夫に惹かれる。あまり有名な作家ではないが、一部に熱烈なファンがいる、といったタイプの作家ではないかと思う。他の作品を探して読んでみたい。

*今日の撮影は意外と早く終わり午後2時過ぎにスタジオを出た。
*銀座の本屋に寄り、ゆっくり帰宅。
*ビールを飲んだらネムネムに。4時半に目覚めてしまったからかな。
*で、ちょいと昼寝ならぬ夕寝をしてしまった。
*探していた本はなかったが、久しぶりにArneを2冊購入(1冊はバックナンバー)
*それと、前々から気になっていた「あなたのために」(辰巳芳子)
*実際作るかどうかはわからないが、スープが好きなので。
*アップルからはまだ連絡なし。明日こちらから電話してみるかー
| - | 22:06 | comments(6) | - |
黒い隣人
07-0730

我が家は横浜市にいくつかある市民の森のひとつに隣接している。ある程度管理はされているが、公園などよりも格段に木の数が多く下草も多い。そのせいか普通の住宅地よりも虫や鳥の姿を見かけることが多い。

今は蝉の声が盛んに聞こえているが、蝶、蜂、カナブンの仲間、蚊などは馴染みの虫だし、ナナフシやカミキリムシなどを見かけることもある。歓迎できる虫と歓迎できない虫がいるが、こういった場所の住んでいる以上相手を嫌ったり憎んだりするのは筋違いだと思っている。

鳥についても同じ。ウグイス、メジロ、コジュケイ、シジュウカラ、ヒヨドリ、オナガなどがこのあたりの常連になっているが、なんといっても多いのがカラス。年がら年中カラスの声が聞こえるし、よく見かける。今日も南側のベランダの向こうにあるフェンスに2羽とまっていて、なにやら会話らしきことをしていた。そのうち1羽が急に飛び立ち、残された1羽が所在なげにしていたのがなんともおかしかった。

カラス、というと嫌う人が多いが私はけっこう好きである。嫌う理由は様々だろうが、ゴミを荒らすなど生活上の不快感以外の理由としてあの黒い色があげられるのではないだろうか。

「黒=不吉」というイメージは根強く残っているようで、黒い鳥が群れている様子は人を不安にさせるようだ。カラスの羽の色が違う色だったら、もう少し嫌われずにすむのではないかと、時々気の毒になる。

ゴミを荒らす、という点についても私はカラスに同情的だ。荒らされるようなゴミの出し方をしている方が悪いと思っている。木の実しか食べない、虫しか食べない、といった鳥たちとは違ってカラスは食べられるものの範囲が広いのだ。だから、目の前に食べられるものがあり、少し工夫すれば手に入るとなれば実行に移すのは当然のこと。生きていくためにする行為なのだ。

人の弁当をかすめ取る、というのもカラスがそれだけ人間の暮らしに近いところで生きている動物であり、かつある程度知能が発達した鳥だからできることで、弱肉強食の自然界では当然のことだ。

人間とて地球上の一生物にすぎない。が、知能が発達し異様なほど増えて、人間は自分たちが地球上の生物の中心的存在だと思いがちなのではないだろうか。カラスたちの行為は、そんな思い込みに投げられた礫であり、だから人間はそれを厭い、憎む。なんだか筋違いな話であるような気がする。

「ものごとにはすべて理由がある!」とか何とか某CMで犬がきっぱり断言しているが、たぶん人間以外の動物がする行為には明確な理由があるように思う。その理由を人間が理解できるかどうかは別にして。

ともあれ、毎日のようにカラスの姿を見、声を聞きながら思うのは、もう少しこの黒い隣人に対して寛大になってもいいのではないか、ということだ。愛せとはいわない。が、彼らにも生活があり、家族があり、生きていく権利がある。それを認めてもいいのではないかと思う。カラスが近くに来ただけで「きゃー!こわい!」と眉をしかめる人がいるが、私からすると「おまえの方がよっぽどこわい!」である(失礼ながら)。はいはい、けっこうヤサグレています、私。

*今日のタイトル、実は今開催されているルドンの展覧会から連想。
*これはぜひ見に行きたい。今週あたり時間があれば。
*昼間けっこう土砂降りだった。が、帰りにはもうやんでいた。
*恐竜傘、持って行ったのに。デビューは先送りに。
*カラスに対してだけでなく、ヒステリックな反応というのが苦手。
*だから、うるさく吠え立てる小型犬の声も苦手。
*明日あたり梅雨明け?
*でも、台風が来ているって?
*いやーん。まだアップルから連絡こないよぅ。
*いとしのスマックやーい!
| - | 21:09 | comments(4) | - |
傘について
07-0729
・・・下界を見下ろす恐竜のお嬢さん。傘の柄だけど・・・

特別傘に限ったことではないが、出かける時はできるだけ両手が空くスタイルが好きなので手に何かを持って出るのが面倒でしかたない。バッグ類はたいていデイパックかショルダーの斜めがけか書類鞄。書類鞄はあまりに重い時をのぞいて肘のあたりまで手に通して持つ。

そんな私だから、傘は苦手中の苦手で出かける前から降っている時は持つが降りそうな時はほとんどといっていいほど持たない。賭けのようなものである。

賭けに負ける、つまり途中で降られることももちろんあるわけで、そんな時はしばらく様子を見る時間がある時は待つ。待っていても無駄だと思われる時は、負けたんだからしかたない、と安い傘を買う。そんなことを繰り返していた。

しかし、先日電車の中に傘を忘れた時、これじゃいかん!と思い、折りたたみの傘を買った。ユニクロで以前買った折りたたみの傘はあるのだが、広げても小さい。三段式なので広げた時の形もなにか心もとない。屋内に入る時たたむと自動的に小さくたたまれてしまい、なんとなく使い勝手も悪い。雨をしのげればそれでいい、といえばそうなのだがなんだか気になってしまうのだ。

しかも、今まで雨が降っていないのに傘を携帯するという習慣がなかったので、急に習慣づけようとしても無理かもしれない。降ってはいるが途中でやみそうな時・・・そんな時のために求めた傘は二段式。三段式と比較するとちょっとかさばるが、いつも大きめのバッグを持って歩いているので大丈夫だろう。

傘をさすことが苦手なくせに、道具としてのスタイル、デザインはけっこう気になる。基本的に傘は折りたたみ式ではない方がいい。折りたたみ式というのは携帯に便利なように工夫されたものでデザインは二の次となっている。デザインの美しさを求めれば、やはり長い傘、それも昔の紳士物に行き着くような気がする。広げると大きく、きちんとたたむとほっそり長い。そんな傘が好きだ。

とはいえ私には使いこなせないので、適当に選んだ婦人用の長い傘を1本、この10年ほどは使いつづけている(ただし、一日中雨になりそうな時のみ。仕事などで都内に出かける時のみ)。その辺に買い物に行く程度なら何かの時に仕方なく買った500円くらいの傘で済ませる。今回これらの傘に持ち手が恐竜(のお嬢さん?)になっている折りたたみ傘が加わった。

そういえば、最近日傘をさしている人が多い。日焼け防止には帽子をかぶるよりも有効そうだが、雨が降っていないのに傘をさすというのはやはり私には向かないようである。数年前、何を思ったか白いレースの日傘を買ったが一度しか使っていない。やれやれ。

*恐竜の傘は、裏が恐竜柄で表がチャコールグレーの無地。
*二段式なのでたたむと裏が表側になる。けっこうかわいい。
*雨が降りそうな天気の時でも日傘をさしている人、いるよね。
*あれ、まぎらわしい。屋内から見かけると「降り始めたのか!?」って思う。
*今日は投票に出かけた後隣町まで散歩。雷ごろごろ〜
*例によって傘はもっていなかったが降られなかった。うふふ。
*さて、月曜・火曜は撮影のためスタジオ詰め。早く終わるといいなぁ。
| - | 18:38 | comments(6) | - |
朝散歩in文京区
07-0728

江戸川橋駅8時半。Sさんと待ち合わせをして文京区を案内していただいた。あちこち歩いているようでいて、文京区はまだ未踏の地が多い。一人だとなかなか行けないところを歩けて、楽しい時間を過ごすことができた。

目白台から椿山荘をかすって聖カテドラル教会、住宅街を歩いて新江戸川公園、ちょっとお茶休憩をした後雑司ヶ谷の墓地を抜け、商店街を通って東池袋駅(すごくおおざっぱ)。休憩時間を入れて4時間弱の散歩だったが、はじめて歩く道はやはりおもしろい。

とりたてて特別なものがなくても、ファインダー目になっていれば見所はいっぱいだ。数時間歩くという散歩は久しぶりのような気もするが、暑さにもめげずよく歩いたと思う。
やはり古い住宅街、商店街はおもしろいとつくづく思う。坂道細道を思いのまま歩くのも楽しい。整然とした住宅街は好みではないし、大きなお屋敷ばかりでもつまらない。時間をかけてそれぞれの住人が自分たちのにおいのようなものを醸し出したような、そんな街が好きだ。

雑司ヶ谷墓地はひっそりとしていた。時折、墓の前で物思いにふけったような顔でたたずむ人をみかけたが訪れる人は少なく蝉の声と満開のサルスベリが印象的だった。そして私はやはり墓地にるとなぜか落ち着く。死者たちは炎天下の下でみな寡黙だ。その寡黙さが私の気持ちを和らげてくれる。今日は帰り道として通り過ぎただけだったのでじっくり墓碑銘などを見ることはしなかったが、お盆のころ手向けられた花を撮りにまた墓地に行きたいと思う。

*案内ありがとうございました!>Sさん
*炎天下、日焼け止め対策もせず腕を丸出しにしていたので少しヒリヒリするー
*今日はこの夏一番の暑さだったんじゃないかなぁ。
*でも、動いて汗をかくのはやはりいいことだと思う。
*ビールも美味しいし!!
*帰路俄然おなかがすいたので、日吉で下車。
*オムライスが売り物の老舗キッチンでカレーライスをば。
*シンプルなカレーもまたよし。
Walkin'、更新。
*やっぱりiBookだと厳しいわー 
*早く戻ってこーい!sumacちゃん(すみごんのmac)
| - | 20:50 | comments(2) | - |
猛きもの
07-0727

マンションの隣にある空き地が、ススキをはじめとするイネ科の植物の群生の体をなしている。年に一度か二度きれいに刈り込まれるのだが、根こそぎにするわけではないのでまたすぐ生えてくるのだ。高いフェンスに囲まれているので中に入ったことはないが、たぶん草丈の高いものは私の背丈を覆うほどだろう。

これらの草たちも最初は一粒の種だったのかもしれない。野に放たれた草は、人間の想像をはるかに超える生命力で生きていく。もとはといえば園芸用に育てられていたものも少なくないだろう。その時は案外楚々とした風情を見せていたかもしれぬ。それが一度野に放たれると、時には猛々しいほどのたくましさを見せる。

以前マンションの1階に住んでいたころのこと。隣のマンションとの間にある、申し訳程度の植え込み周辺の草むしりをしていた。管理をしている会社が年に数回草むしりをするのだが、とうてい追いつけないほど草の成長は早く、たくましい。

私が住んでいた住戸のベランダだけフェンスに扉がついており、外に出られるようになっていた。一番奥の住戸であるということもあり、防災上必要な設備だったのかもしれない。が、私はそれをいいことに、ベランダの下にも鉢を並べて野草を育てていた。一応共用の土地なので、片付けろといわれても文句はいえない。ちょっと後ろめたい気持ちもあったので自発的に草むしりを始めたという次第である。

植え込み周辺は日当りも悪く、夏場はヤブ蚊が多い。長袖に軍手で1時間も草むしりをしていると汗びっしょり。根が深いものもあって、草むしり専用の器具などを使ってできるだけ根から抜き取るようにするので時間もかかる。が、けっこう苦労して抜いても、1週間もすればまた生え始めるのだ。

はじめのうちは、抜いた草に申し訳ないような気もしていた。が、しばらく続けていくうちに、彼らは私なんぞの力が及ばないくらいたくましいことを実感し、なんだか草にもてあそばれているような気になってきた。普通もてあそばれれば腹も立つというものだが、一向に腹立たしくない。むしろ感心してしまい、敬愛の気持ちさえ芽生えてきた。

もし私の家に庭があり、彼らがそっと侵入して育てている草木の成長を脅かすようなことになったらやはり困る。困るのでたぶんむしる。が、よその庭や公園などで彼らが営々と命のリレーをしているのを見かけると、管理している人には悪いがちょっと楽しくなる。やってる、やってる・・・と。

猛々しく生い茂る夏草は、愛すべきものたちだ。あるものは美しい草紅葉をみせ、あるものは地味な実を結んで小さな鳥たちや虫たちの糧となる。草たちは偉いなぁ。植物や動物をむやみに擬人化するのは好きではないが、思わずそう思ってしまう今日このごろ。

*今日は高校時代のクラスメートとランチ。
*某信託銀行系不動産会社某支店の副所長だって。出世したねー
*高校時代はさほど仲がよかったわけではないんだけど・・・
*近くに住んでいることがわかり、奥さんも同じクラスメートなので会うことに。
*来月は近くにいる人たちに声をかけて飲みにいく予定。
*体調を整えておかねばー
*明日は早朝散歩をしに都内に出る予定。早寝せねばー(^_^;
| - | 22:06 | comments(5) | - |
夏の恒例
07-0726

数日前、夏の恒例となっている「夏の葬列」(山川方夫著)を読んだ。心身ともに怠く他の本は手に取る気持ちになれないが、恒例本は何の抵抗もなく読み終えた。

「夏の葬列」(集英社文庫)は、 9つの作品からなる短編集だ。どの作品も決して派手な印象はなく、主人公たちの日常が淡々と描かれている。その日常はいたって平凡なのだが、それぞれ偶然起きたことをきっかけとして平穏な、あるいは退屈な日常に鮮やかな影ができる。

たとえば表題作「夏の葬列」は、主人公である「彼」が久しぶりに海岸の小さな駅に降り立つところから始まる。彼はすでに大学を卒業して会社員となり出張帰りだ。時間に余裕があったので、ふっとその駅に降りてみたのだ。その「ふっと」は、その後に出会う弔いの列によって「魔が差した」になる。

その町は、彼が子ども時代疎開していた町だった。疎開児童として疎外感を感じていた彼をかわいがってくれた年上の女生徒がいた。彼女は弱虫の彼を何かにつけてかばい、二人はいつも一緒だった。ある日二人は芋畑の向こうにその町の人々が行列になって歩いていくのを見かける。葬列だ。ついていけば甘い饅頭がもらえるかもしれない・・・そんな話になって二人は芋畑の中を泳ぐように走っていったその時。轟音とともに敵機が上空に現れた。

彼女は真っ白なワンピースを着ていた。近くで白い服は標的になりやすいから飛び出すな、という誰かの叫び声が聞こえた。が、彼女は彼を守るために、彼のそばに走りよってきた。彼は怖かった。標的にされるのが怖かった。そして彼を守ろうとする彼女を突き飛ばした。次の瞬間彼女の体がゴムまりのように弾んで空中に浮くのを見た。

彼女は血だらけになり、担架で運ばれていった。間もなく終戦となり、彼は彼女のその後を知ることなくその町を去った。その時の記憶は次第に薄れ彼はほとんど忘れかけていたのに・・・

大人になり偶然訪れた町で出会った葬列は、目眩がするほど「あの時」に似ていた。葬列は彼の方に向かってきた。彼は棺の上に置かれている写真を見た。女の写真だ。そして、その顔にはあの彼女の面影がありありと残っている。ああ、彼女はあの時死ななかったのだ、つい先頃まで生きていたのだ。自分は彼女を殺してはいなかったのだ。彼は安堵した。心底ほっとした。そして有頂天になった。しかし・・・

結末まで書いてしまうとおもしろくないので、この辺でやめておく。その他の作品もそれぞれ平凡な生活に一瞬現れる鮮やかな影を描いていて面白い。巻末の解説で川本三郎は以下のように書いている。たいへん深い洞察であり、鋭い指摘だと思う。

夏の暑い日盛りに突然日の光が“かげる”ことがある。太陽に雲がかかり日の光がさえぎられるのだがそれまで明るかった周囲が不意に暗くなるとわれわれはどこか不安になる。(中略)しかしその日の“かげり”は長くは続かない。雲が去ってまた日の光が強く照りつけてくる。ただそのときわれわれが日の光を見る目は前とは少しだけ違っている。明るい日の光もまた“かげる”瞬間があることをわれわれは考えるようになっている。山川方夫は誰よりもこの日の“かげり”に敏感だった作家に思える。
(集英社文庫「夏の葬列」238ページ 鑑賞ー一瞬の日の“かげり”)

*前にも似たようなことを日記に書いたかも。
*本人が思い出せないので、もし心当たりがあってもご容赦を。
*来月はこれまた恒例の「夏の花」と「屍の街」を読む。
*蒸し暑い。そのせいか、とてもだるい。
*が、久しぶりに贔屓の蕎麦屋で昼酒&花巻そば。
*ほろ酔いで歩く炎天下もまた乙なもの!?
*あれ以来アップルから連絡なし。おーい。
*明日でピッックアップから1週間になる。そろそろ連絡くださいな。
| - | 20:53 | comments(4) | - |
無意識にIZON!
07-0725
・・・「立ち入り禁止」のアラートか?こわいような、おかしいような・・・

IZON・・・何のことはない「依存」のこと。ちょっと遊んだだけ(^_^;

私には時々あることなのだが、ケータイの充電を怠り出先で突然使えなくなってしまった。打ち合わせが終わって手に取ると不在電話が入っており、仕事関係だったのでかけ直そうとした。その時はじめて残電力(でいいのか?)が少なくなっていることに気付いたのだが、電話の1本くらい大丈夫だと高をくくっていた。

が、話し始めて1分もしないうちに突然プッツン。あらら困った。話の途中だし相手に失礼なので取り急ぎ公衆電話を探したが、これがない!公衆電話を必要としなくなって・・・何年になるんだっけ?いずれにしても慣れとは恐ろしいもので、普段は全くその存在を気にすることがなくなっていたことにあらためて気づいた。

調べたわけではないので具体的にはわからないが、全国的にもかなりの数の公衆電話がなくなっているのではないだろうか。

やっとのことで大通り沿いの電話ボックスを見つけることができた。用件を済ませてほっと一息、蒸し暑いボックスから出た時にまたはっとした。今日の場合相手の電話番号を暗記していたので大丈夫だったが、かけるべき相手の電話番号を覚えていなかったらどうしよう。テレフォンリストなんぞすでに持ち合わせていない。すべてケータイに登録してあるので必要なくなってしまったのだ。

が、本当に必要ないのか・・・いやいや、ちゃんと作って持ち歩いていた方がいい。そう思った。ケータイなんぞ電話をかけることと、息子とメールのやり取りをすることにしか使っていないと軽く見ていたが、すでにどっぷり依存しているではないか。これはいかんです。

さてさて。こうなると、ケータイだけでなく普段自分が気づいていない「依存」があるのではないだろうか。気づいた時にはすでに遅し!となるような。普段の行動をもう一度じっくり見直してみる必要がありそうだ。

*ケータイを持たずに済むひとが羨ましいかも。
*仕事以外で使うことは少ないんだけど、だから持たざるを得ないともいえる。
*仲良く適当におつきあいするしかないね。
*しかし電話ボックスの中は暑かったー!
*熱中症になりそうだったぞ。むんむん。
*さすがの私も汗をかいたもんね。ふひー
*そろそろ営業を仕掛けていかないとな。暇になってきちゃったもんな。
*営業って苦手。優秀な営業スタッフが欲しい。給料払えないけど(^_^;
*そいうえば、撮影の時知り合った人材派遣業の女性社長に言われたっけ。
*「あらー あたしがマネージメントしてあげるわよー」って。
*でも、お願いしたらけっこうこわいことになりそうで(^_^;
*とりあえず自分でコツコツやってみましょうかね。ふひー
| - | 19:59 | comments(3) | - |
梅雨は明けぬか真夏はまだかいな
07-0724
・・・ちゃんと名前がついている。左が「怪力くん」右が「強力くん」・・・

近畿地方の梅雨明け宣言が出たそうな。関東は明日からまた天気が崩れるらしく、宣言は8月にもつれこむかもしれないとか。

8月に梅雨明けなんて今までにあったのだろうか。それにしても今日起きた時の明るさは、梅雨明けを思わせるものだった。7時前にはもう日中の暑さを感じさせる気配がしていた。蝉の声も今までになくよく聞こえていた。

夏は苦手だが、苦手なものの中に捨てがたい魅力を感じるのが私の性質であるようだ。誰も外にでたがらない真夏の午後、白昼夢のような炎天下の中を歩きたいなどと思う。街路樹も、公園のブランコもくっきりと影を落とし、夏休み中の子どもたちの声も聞こえない。

真空地帯にいるような錯覚を覚えながら、憑かれたように歩く。ほとんど無風なのに、思いがけない時に一陣の風が起こり、はっと我に返る。その風はうっすらと汗をかいた身体に意外なほど心地よい。光に目がくらみ、立ち止まる。見上げる空は雲ひとつなく、空虚なほど青い。

そんな日の空気感を写真に撮りたいと思う。だから、そんな日が来ないで秋になってもらっては困る。梅雨明けを思わせる一日を過ごしながらそんなことを思う。

*とはいえ、炎天下を歩きつづける自信が今年はあまりないなぁ。
*熱中症に効くドリンクを作って持ち歩くかな。
*塩分が必要なんだってね。水+塩+糖分+ビタミCがいいそうな。
*駐輪場の向こうでクサギの花が咲いている。強い香りがする。
*どういうわけか鶯の声もする。夏にも鳴くのね。
| - | 17:58 | comments(0) | - |
おせんにキャラメル
07-0723

ビールを飲みながら胡麻入りのせんべいをポリポリ。ビールにはポテトチップスもよく合うが、私はどちらかというと「せんべい派」。

一番好きなのはシンプルな醤油せんべいだが、歯があまり丈夫ではないので厚焼きをバリバリ食べられないのが残念だ。品川巻きも、胡麻入りも、えびせんも好き。柿の種も好き。柿ピーのピーナツだけをよけて食べると非難されても柿の種だけを食している。

それでは甘いものは嫌いかというと、そうでもない。いや、甘いものも好き・・・になった。若いころはもちろん?甘いものが大好きで中学生のころは板チョコを1日1枚は食べていたような。大学時代のアルバイト先はドーナツ屋で、休憩時間に食べるできたてドーナツが楽しみでもあった。むしろ若いころは押しも押されぬ甘党だったといえるだろう。

それが変わってきたのは、社会人になって本格的に酒を飲むようになってから。いつのまにか甘いものが好きではなくなり、ほとんど食べなくなった。お土産などでいただく甘い菓子をどうしていいやら困ったことが何度もある。無理矢理食べて食べられないことはないが、自分からはほとんど甘いものは食べない・・・そんな時期が40代半ばくらいまで続いた。

ところが、このところ甘いものはけっこう食べる。食べたいと思うようになった。コンビニに買い物に行くと、レジ付近に置いてあるチロルチョコをカゴに入れてしまうこともあるし、新商品を見かけるとついつい手が出たりもする。デパ地下の銘産品コーナーでもつい各地の甘いものに手がでるし、出かけたついでに息子が好きだという理由をつけてたねやの「末廣饅頭」を買ってきたりもする。

そういえば、甘いものが苦手な時期にも、あるとき狂ったように甘いものが欲しくなることがあった。それぞれ対象となる甘いものが限定されており、コンペイトウばかりバリバリ食べたり、カルメ焼きを買いあさったりした。不思議とケーキにはあまり走らなかった。今でもクリームのたぐいは苦手な方で、クリーム類を多く使うケーキには食指が伸びなかったと思われる。

今テレビで砂糖は脳にいい云々というCMをやっているが、確かにそれは言えるような気がする。というのは、仕事が混んできて頭を使うことが多くなると無性に砂糖が入った甘いもの、それも主原料が砂糖からなるものが食べたくなるという経験を何度もしているからだ。たいては仕事をしながら食べられる飴などを用意するがチョコレートもなかなかいい。

亡父は、酒を呑みながら大福を食べたりしていた両刀使いだった。私はといえば、酒を飲んでいる時は甘いものを欲しいとは思わない。が、酒量が格段に貧弱になってきた昨今、実質的には父と同じ両刀使いになってきたような気がしている。ああ、美味しい豆かんが食べたい・・・

*梅雨明けはまだみたいですね。今日もはっきりしない天気。
*蒸し暑さだけは相当のもの。
*そのせいか頭痛が・・・肩こりもひどい。仕事してないのにぃー
*金属磨きのクロスを買ったので、シルバーの指輪を磨いてみた。
*おお!けっこうピカピカになるじゃないの。
*でも、指輪ってつけ慣れていないと何か気になるのよね。
*で、すぐに外してそのまま。たまには出かける時だけでもつけてみるかー
| - | 19:14 | comments(6) | - |
ブランドとな?
07-0722
・・・梅雨明け間近の今日このごろ。水玉模様の傘がいい感じ・・・

若かりしころ、妹に「お姉ちゃんはブランド物が好きね」と言われたことがある。なるほど、手持ちのものを見てみると、ある程度名前が通ったブランドのものが多かった。

が、妹の言葉には私がブランド信仰者であるという意味が含まれており、それについてははっきり否定した。否定したが、納得はしなかったようだ。たぶん当時の妹にとって、有名ブランドの物を買う人=ブランド信仰者だったのだろう。

私にとってのブランドとは、何かを買う時の「理由」ではなく、「目安」に過ぎない。無限に溢れるように存在する商品群の中から自分が欲しいものを選ぶ時のフィルターだ。それもかなり目が粗いフィルターで、そのフィルターを通さないことだって、もちろんある。ブランドに関係なく多くのものを自分の目で見て確かめられればいいのだが、時間的な余裕がなかったり、気分的に面倒になることが多い。そんな時にこのフィルターを使う。

自分の好みにあったテイストの商品、自分が納得のいくレベルの品質。それをこのフィルターで選り分ける。選り分けるが、選り分けられたものが気に入るとは限らない。なにせ企業にとって最大の関心事は利益を獲得することだから、節操もなくそれまでのスタイルを捨てたり品質を変更したりするものだ。最終的に頼れるのは自分の感覚だけだと思っている。

ところで、「ブランド」という言葉は普通「商標」「銘柄」ととらえられていると思うが、人間についても言える。自分の名前を出して何かを作る時、その人の名前がブランドとなることもある。小説家、画家、様々な分野の工芸家、作曲家、建築家・・・
有名になればなるほど、そのブランド度は高くなるだろう。絵や工芸品など、そのもの自体を資産として購入する場合、このブランド名はかなり幅をきかせているようだ。

これらの作家ブランドも、私にとってはヴィトンやシャネル同様フィルターであることに変わりはない。好きな作家の作品でも気に入らないものだってたくさんあるのだ。が、商品として生産されるもののブランドと比較すればこちらのブランドの方が当てになる度合いが高いようにも思われる。

2週間ほど前になるだろうか。テレビで漆芸家の角偉三郎さんが取り上げられていた。なつかしい名前と出会い、じっくり番組を見たが、改めて角さんの作品の魅力を実感するとともにぜひ実物を見たいと思った。

角さんの名前を知ったのは、もう15年ほど前になろうか。陶芸に興味を持ち、いろいろ見て歩いている時期だった。ある器の店の奥に、角さんの作品が数点静かなたたずまいで置かれていた。静かだが、圧倒的な量感のある器だった。

すでに知る人ぞ知る存在であったらしく、私に買えるような値段ではなかったが。その後陶芸関係の本で見かけたことが数回あっただろうか。やさしそうなヒゲ面が印象的な人だった。惜しいことに2005年に亡くなっている。一時はかなり冷たい視線にさらされたこともあったようだが、一生輪島に住み続け輪島の職人とともに作品を作り続けた人だったという。

漆器は手入れが面倒であるような気がして今まであまり手を出したことがない。が、角さん合鹿椀はいつか手にしてみたいものだと思っている。それが無理であるなら、せめて手のひらで包む機会が欲しい。陶磁器にしても漆器にしても、生活の中で使うものは手に取ってみなければわからない。手に取って、角さんの器の魅力を感じてみたい「おさわり人間」の私であった。

*和倉温泉に「角偉三郎美術館」があるんだって。行ってみたいな。
*でも、どうせ行くなら温泉にゆったりつかりたいし、いろいろ見て歩きたいし。
*当分無理そうだが「いつか行きたいリスト」に加えておこう。
*夕方になるとヒグラシの合唱がよく聞こえる。
*アブラゼミの声もまざっていて、夏だなぁと実感させる。
Walkin'、更新。
| - | 18:14 | comments(3) | - |
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