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日々の内側
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朝陽のあたる部屋
07-0531

アニマルズの有名な曲に「朝日のあたる家(The House Of The Rising Sun)」というのがあるが、朝の陽射しを言い表す時、私は「朝日」よりも「朝陽」を選びたい。ごくごく個人的な思い込みだとは思いつつ。

それはともかく、植物を育てていると太陽の光がとても重要だということを思い知るわけだが、中でも午前中の光がいかに大切かをずっと実感してきた。陽当たりがいい、というと住宅でいえば南向きを言うと思うが、植物を育てることを考えると私はむしろ東向きの方がいいように思う。

植物といってもいろいろだが、たとえば今私が住んでいる家を例にとると、北東向きのベランダで育てている薔薇の方が、南西向きのものよりも調子がいい。バラに限らず、山野草を育てている時もそれは感じていた。東からの光(=主に午前中の光)を浴びれば、たいていの植物は元気に育つような気がする。逆に西日を苦手とする植物はけっこう多く、特に夏場の西日で弱ってしまうものが多い。

人間も同じかもしれない。朝の光を浴びた時と、そうでない時とではなんとなく気分も体調も違うような気がしている。自分が朝型になったから言うわけではないが、「早寝早起きは三文の徳」ということわざは言えてる!と年々実感することが多くなった。

今私がこうしてパソコンに向かっている仕事部屋は北東向きで、このところ日の出直後くらいに起きだし、メールチェックなんぞをしながら明けてくる空を見たりしている。寝不足気味ではあるが、気分的にはなかなかよろしい。朝の陽射は偉大な力を持っている・・・と信じつつ明日も早起きしようっと(^_^)

*ちょっと公私ともども忙しくて更新ままならず。
*明日も一日中スタジオ詰めで、夜はクライアントのお付き合い。
*なのでたぶん更新できない・・・と思う(T_T)
*気付かなかったのだが、Walkin'のBBS書き込み不能状態になっていたみたい。
*直してもらったので、もう書き込めると思います。
*トライしてダメだった方、すみません(ぺこり)
*夕方から雨。びしょぬれでご帰宅。
*風邪なんぞひいていられないので即風呂に入ったぞい。
*やっぱりシャワーだけより湯船にどっぷりつかると気持ちいいな。
| - | 22:05 | comments(4) | - |
モーツアルトを聴きながら
07-0529

このところ珍しくあまり音楽を聴かない日々を過している。たまに聴くとしても、ジャズピアノの静かな曲くらいだ。元気がいい時聴くと心を弾ませてくれるようなファンキーな曲は最近ご無沙汰。気持ちが下降気味の時にそういう曲を聴いても、ただ鬱陶し
いだけだったり、苛立ちをつのらせるだけだったりする。

昨日はふと、久し振りにモーツアルトを聴こうという気持ちになった。大好きなクラリネット五重奏曲(イ短調K.581)のCDを取り出してきてぼんやり聴いていた。私が持っているのはカール・ライスターが1981年ウイーンで録音したもの。モーツアルトのCDは他にも何枚か持っているが、この曲の出番が一番多い。

以前も少し書いたことがあると思うが、私はこの曲を聴いていると透明な悲しみと明るさを同時に感じる。最初は痛々しいほど胸の奥に蟠っていた悲しみが次第に透明感を増し、身体を離れ、空の色に溶け込むかのように明るくなりながら上昇していく・・・そんな目に見えぬ光景を思い浮かべる。

そして昨日、はじめて私は「天上の音楽」だと感じた。映画アマデウスでサリエリがモーツアルトの譜面を見て驚きながら感じたのは、こういうことだったのかと思った。メロディが果てることなくどんどん天に向かって立ち上っていくような、そんな印象を鮮明に感じた。

モーツアルトの伝記を読んだことはないが、映画からも決して平穏な生活をしていた人だとは思えない。華やかな名声とは裏腹に、宮廷での待遇や人間関係、浪費などによる不安定な生活、父親をはじめとする家族との葛藤など、その内面は常に大きく波だっていたのではないかと思われる。しかし、そんな人間から生み出された音楽は・・・とこれ以上書いても野暮なので書かないが、やはり天才とはこういうものなのかと思うわけだ。

苦しみや悲しみをバネにするというよりも、それらを身体全体に取り込み糧としながらすばらしい作品を生み出していく。これが真の芸術家の姿かもしれない。私もほんの少しでいいから、肖りたいものである。

*自殺した人にはそれぞれそれなりの理由があると思うわけ。
*その理由は、他者には到底理解できないものであっても確かな理由だと思うわけ。
*だから、自分たちが納得できる理由を探すのはもうやめたらどうかな。
*本当の理由なんて、本人だってわからなかったのかもしれないし。
*ゴンのやつ、昨日またプチったのよ(プチる=ちょっと脱走する)
*隣のベランダでうにゃん!しながら鳴いてアピール。
*こっちで小声で呼んでいるのに・・・ちっとも来やしない。
*やっと戻ったと思ったら体中埃と砂まみれ。洗っちゃうぞ!!
*でも、猫はいいね。何しても最終的には許されちゃうもんね。うちでは!
| - | 19:25 | comments(5) | - |
原作と映画のいい関係
07-0528

・・・さながら水に浮いた灰色の棺である。
          北原白秋「おもひで」


昨日読みたいと書いた「廃市」の冒頭に引用されている詩の一節である。映画「廃市」でも、物語が始まる前にこの一節が黒い画面に浮かび上がる。

読みたいとなったらとことん読みたくなるので、本棚をとことん探してかなり黄ばんだ新潮文庫の「廃市・飛ぶ男」を探しだした。すでに絶版らしく、amazonなどでは中古しか扱っていない(49円なんていう値段がついていると悲しくなる)。福永武彦という
作家はもはや忘れさられつつあるのか。なんだか淋しい。

それはともあれ、小説「廃市」は1時間もあれば読み終えてしまう短編である。昼食後読み、これははやり映画も観なくてはと思ったのでさっそく借りてきて夕方観てみた。これで3回目、いや4回目くらいだろうか。同じ映画をこれだけ繰り返して観ること自体珍しいのだが、原作を読んだ上で何度も観たくなる映画はさらに珍しい。

何故だろうと考えるに、たぶん原作の底流に流れているものと映画のそれが一致しているからなのかもしれないと思う。文字を追っても、画面の観ていても同じような感覚を味わいからだ。底流を流れているもの・・・それはまさしく流れるもの、つまり川の流れである。

映画の舞台はやはり柳川で、映画の冒頭、駅に降り立った主人公がまず耳にするのが大川の水の音だ。大川と「小さ川」が流れ、その2つの川を結ぶように掘割が複雑に掘り巡らされている。水の街にふさわしく、掘割は道路代わりに使われて住人たちはどこに行くにも舟を使う。

映画でも屋内のシーン以外はほとんど掘割風景が背景になっており、知らず知らずの間に自分がその水の街にいるような気持ちになってしまうのだ。視覚だけでなく、川を渡る舟が立てる波音が催眠術のような作用を果たすのが、この映画の特徴でもあるといえるだろう。

そして、視覚よりもむしろ聴覚的なものによって、原作と映画は稀にみる「いい関係」を築くことができたのではないか。

それにしても、この地味な映画は何度観てもいい。入手可能であればDVDを購入したいと思う。またしばらくしたら観たくなるに決まっているのだから。

*ああ、柳川に行きたい。それも真夏に。
*真夏に泊まりがけは難しいんだよなぁ。九州だし!
*でも、いつか行きたい。できるだけ昔のままであってほしいのだが・・・
*「廃市」はATGの映画だったのね。
*主演は山下規介(新人)だよー 手塚聡美さんが丸顔でかわいい。
| - | 19:30 | comments(0) | - |
忘れ去られた町
07-0527

「忘れ去られたような町だよ」という一言に動かされ、国府津に行ってきた。そこに住む方、そこで働いている方には大変失礼だが、私はこの「忘れ去られた町」がとても好きなのである。

華やかな一時代を経て、その名残を微かに残しつつ消え入るように存在する町。衰えた姿を隠すことなく、静かに終焉を待っているように見える町。そんな町に何故かとても心惹かれる。

JR国府津駅は、今でこそ閑散とした東海道本線の一駅にすぎないが、昔は神奈川駅(今は廃止)から静岡駅を結ぶ鉄道において、機関車連結駅として重要な役割を担ったという。国府津駅から御殿場駅までの勾配がきついため、普通の列車を後押しする機関車が活躍したのだ。

大正14年には横浜駅から国府津駅までが電化され、電気機関車と蒸気機関車を付け替える駅としての役割も有することになったというから、そのころが一番華やかな時代だったのかもしれない。

また一昔前は別荘地としても知られていたらしく、商工振興会が運営している「こうづNOW」というサイトには以下のように記されている。

国府津駅より東方の前川地区は、東に三浦半島・房総半島、西は真鶴半島・伊豆半島に囲まれ相模湾に面し、水平線上に伊豆大島、利島、式根島等の伊豆七島を望む。また国府津駅より北西部は、南に相模湾、西に箱根・足柄連山、そして中央には霊峰富士山を仰ぎ見る風光明媚な所である。

駅前には明治21年創業の割烹旅館?「国府津館」が今でも営業しており、平日はお手ごろな料金でランチをいただけるようだ。が、町全体は(隅から隅まで歩いたわけではないが)、やはりどことなく衰退した空気が漂っている。店子が抜けたままになっている商店、剥落が烈しいトタン塀、ゆがんだまま放置されている屋根・・・静かに何かを諦めているような「忘れ去られた町」特有の雰囲気があった。

と、ここまで書いていたら、急に福永武彦の「廃市」が読みたくなってきた。大林宣彦監督で映画化もされており、福岡県の柳川が舞台になっていたと思う。原作は・・・たぶん家のどこかにあったはずだ。もう何度も読んでいるから。映画の方はビデオかDVDをレンタルしないと見ることはできない。あるかしら・・・

*久々にWalkin'を更新。17日ぶり。
薔薇記、更新(昨日)
*しかし、今日はほんとに暑かった〜 海の近くだとさらに暑い〜
*加藤ばら苑、行ってみました。
*モダンローズ中心に今や盛りと咲き乱れておりました。
*粉粧楼ってこんなに大きくなるの!という立派な株も。
*また行くかどうかわからないが、もし行くことがあったら国府津館に行ってみたいかな。
| - | 19:03 | comments(2) | - |
写真にことばはいらない
07-0526

今日のタイトルは、「眼の狩人」(大竹昭子著)で柳沢信の章につけられた題名である。柳沢信・・・私はこの寡作の写真家の作品を目にしたことはない。失礼ながら名前さえ知らなかった。が、前回この本を読んだ時さほど気に留めなかったこの写真家が、今回はやけに気になる。

タイトルの「写真にことばはいらない」は、この写真家の撮り方を記した以下の文章からもよくわかる。

しかし寡作でありながら、事物の観察に徹するという点で柳沢の撮り方は首尾一貫している。ことばで意味付けしたり、イメージに置換したり、抽象化してとらえることなく、ひたすら見る作業に没頭してシャッターを切るのである。

最初の作品が発表されたのは1958年、22歳の時。著者がインタビューした1994年の時点で、出版された写真集3冊、個展回数3回。35年間という写真歴からすれば寡作といわざるをえない。しかし、この写真家の「事物の観察に徹する」というスタンスはごく若いころからのものだという。それを35年間。その頑固な間での信念は敬服に値すると思う。

写真と文章のコラボレーションについては、今まで私もいろいろ考えてきた。写真がある。言葉がある。絶妙に調和しながらそれぞれが互いを引き立て合う、ということは稀にではあるがあると思う。しかし、自分が撮った写真に関しては、その能力がないからなのかもしれないが、写真に文章をつけるということはあまりしない。本家サイトの「photo」しかり、散歩サイトの「gallery」しかり、である(この日記の写真にキャプションをつけることはあるが、これはごく気軽にぱっと思いついたことを書いているだけで、あまり深い意味はない。)

「眼の狩人」では、写真と言葉の組み合せといえばまっさきに思い浮かべる藤原新也氏も取り上げられている。この人も好きな写真家の1人。ちなみに氏の章のタイトルは「旅が鍛えたことばと写真」。

ことばと写真。今まであまり深く考えもせずその両方に対してきたが、そろそろじっくり考えてもいいかなと思っているところである。柳沢信氏の写真を見たいと思ったが、寡作であるゆえ写真集はなかなか手に入れられないようだ。機を見て図書館などを探してみよう。
| - | 18:08 | comments(2) | - |
ケシ問題
07-0524
・・・阿片罌粟だと知らずに撮ったが、どことなく怪しげ・・・

新聞に折り込まれてくる地域情報紙に、栽培禁止のケシを除去したという記事が掲載されていた。場所はわが家のすぐ近くを流れるH川の土手で、川沿いに立てられているマンションの前に「植えられていた」らしい。抜き取った量は117株でトラック1杯分あったというからかなりの数である。

このケシ、情報紙には品種名が出ていなかったがたぶんアツミゲシだと思う。というのは、私も実際に同じ川の土手で見かけたことがあり、帰ってきてから調べたからだ。

土手だけでなく、近所の住宅の塀沿いに咲いているのも見た。はじめは自然に生えてきたものかと思ったが、はてさて事実はどうなのであろう。見ようによっては園芸店で売られている植物のようにも見えるので、住んでいる人もきれいだからということでそのままにしてあるのかもしれない。もし知っていて栽培していたとなると・・・こりゃ、いかんですよ!

確かにきれいかもしれないが、私の印象は「きれい」というよりも「不気味」だ。同じ野生化しているケシでも、オレンジ色のナガミヒナゲシは可愛らしい感じがする。しかし、アツミゲシは色からしてちょっと不気味である。

赤みを帯びた薄紫色の花びらは、花心近くになるといきなり黒に近い紫色になり、真上から見るとなんとなくオドロオドロしい。神秘的ともいえるが、どこか不安をかきたてる花容である。

ネットで調べてみると、このケシが野生化しているということは珍しくなさそうだ。もしかしたら、誰かがひっそり栽培しているのかもしれないが。こういう話題が公になると、なにやら良からぬことを企てる御仁も出てくる危険性があるので黙っていた方がよかったか?

「阿片」という言葉には魔力がありそうな気がするし・・・といいながら、しっかり写真だけは撮っていた私であった。撮った時は阿片の原料になるケシだとは知らなかったが、被写体としては魅力的だったことを告白しておこう。

*阿片の原料になるケシは白い花だと思っていた。
*近いうちに川原を見に行ってみようかな。
*うちの近くではないところでも見た記憶が・・・どこだっただろう。
*今日は一日中おこもりで仕事。
*忙しい時に限って別の仕事が来たりするのよね。
*淡々と、マジメに、地道に、こなしていくほかないわね。
*最近ぜーんぜん散歩に行っていない。行く気持ちになれないし。
*早く、散歩に出たくてウズウズするようになりたいものだ。
| - | 21:46 | comments(4) | - |
07-0523
・・・美しい(というより怖い)爪の持ち主、わが家のみかん嬢・・・

昨日は某SCに入っているネイルサロンの取材をした。出かける前、時間がないためバチバチと手荒く爪を切った指先を気にしつつ、たいへんゴージャスなネイル・エクステンション(つけ爪)の店長さんから話を聞いたわけだが・・・あらためて、自分が全く爪に関して気を配っていないことがアカラサマになった次第である。

ネイルカラーも、今ではエナメルよりもジェルタイプが人気らしい。専用のジェルを何度も重ね塗りすると、表面がとても滑らかでツヤツヤの仕上がりになるとか。耐久性にも優れているらしく、主婦に人気とのことである。ふーん。

自分の爪にしてもつけ爪にしても、デコレーションが凝りに凝っている。ラインストーンなんて当たり前で、小さな押し花を重ね塗りの途中に入れ込み、爪に封じるといったものまで出てきているそうな。そういったデザインスカルプチュアは若い人がするものと思っていたら、どうしてどうして年輩の人もごく普通にやっているらしい。へーえ!

取材の合間に、常日ごろちょっと気になっていた爪の縦じわ(縦に入る凸凹)について聞いてみた。栄養が足りないのかと思っていたら、あっさり年のせいだと言われた(^_^;  年齢を経るに従って、徐々に縦じわが目立ってくるものらしい。先にあげたジェルネイルだと縦じわがきれいにカバーされるらしい。ほーお!

今また自分の手を見ると、まあ情けないことになっている。夏になると陽に焼けるのを避けるために手袋なんぞをしている人を見かけるが、鬱陶しいのでそういったことは全くしていない。日焼け止めクリームも塗らないので、若かりし頃白魚のようであった手も(おいおい!)今やチリメンジャコのように色黒になっている。冬場は時々思いついたようにハンドクリームをつけるが、バラをいじりだすと手に傷が絶えずクリームもつけなくなってくる。爪の甘皮も伸び放題で、なんともみっともない。

電車に乗った時、ふと隣の女性の手に目がいくことがよくある。きれいに手入れされた指先を見ると、自分の手を隠したくなってくる。ゴテゴテしたつけ爪はどうにも好きになれないが、短めだがきれいにカットした爪にベージュ系のエナメル、なんていうのはいいなぁと思う。嘆いてばかりいないで、少し落ち着いたら近場のネイルサロンにでも行ってくるかな。

*甘皮のカットはプロに任せたほうがいいらしいぞ。
*やっぱりねー 難しいもんねー
*ネイルサロンもいいが、「爪に火を灯す」生活態度の方が必要かも!?
*「爪紅」(つまべに)っていう言葉、なんとなく好き。
*今日は古巣の会社へ打合せに。
*仲良しのADの机の上を見ると、昔私があげたカードやぬいぐるみが!
*ちゃんと持っていてくれて嬉しいよ・・・ありがとね。
*仕事までくれて、感謝感謝。
*帰りに伊東屋に寄り、請求書送付用の封筒を購入。
*1Fにカラン・ダッシュのコーナーが。
*グラファイト鉛筆を4本お買い上げ〜。普通よりちょっと太くてなかなかいい具合。
薔薇記、更新。
| - | 21:55 | comments(4) | - |
蜜月
07-0522
・・・ハキリバチの芸術を見よ。が、よく見ると薔薇ではなくてクレマチスだぞ・・・

今春、わが家のベランダにはいくつかの原種が仲間入りした。原種のほとんどは一季咲きで、咲き終れば来年の春まで花とはサヨナラだ。しかし、咲いた後には果実という大きなお土産を残してくれる。果物とは違うが、薔薇の実も立派な果実だと思いたい。

自分で育てるまで、薔薇の実といえば野いばらの小さな赤い実くらいしか意識していなかった。が、実際は品種により様々で花と同じくらい個性的であり、魅力的である。結実したからといって秋まで残るとは限らない。酷暑に耐えかねて落下してしまう実の方が多いかもしれぬ。しかし、薔薇もまた命あるものの常として、種の保存をしたがっていると思うと嬉しい。

花びらが多い薔薇の多くは、様々な手段により雄しべがなくなり結実を望めない。人間の鑑賞を第一目的として生まれた、いや生まれさせられた薔薇たちの憂いをよそに、五弁の原種たちはおおらかに咲き、潔く散り、果実を残す。そんな存在を身近に置きたいという思いは年々強くなる一方だ。

五弁一重の薔薇が増えて、ひとつ気付いたことがある。蜂の訪問が多くなったことだ。去年までも蜂は来ていた。が、今年は気付くとベランダでブンブン羽音を立てている。明らかに我がささやかなベランダの来訪者は増えている。じっと様子を見ていると、
八重咲きの薔薇に留まっている時間はとても短いのに、一重の薔薇には長く留まっている。しかも繰り返し、繰り返し花の中心を探っている。

花の写真を撮ろうとして、花びらに花粉が散っているのをよく見かけるが、これは風のせいではなく蜂たちが花との交流を楽しんだ名残だ。きれいに撮ろうと思うと花粉の飛散はあまり歓迎できないのだが、蜂たちの元気な羽音を思いだすとほほ笑ましさの方が
先に立つ。多くの薔薇が花開く五月。この月は人間と薔薇の蜜月であるとともに、蜂と薔薇の蜜月でもあるのだ。

花を訪れる蜂はいいのだが、葉や茎を目的に来る蜂の中には歓迎できないヤツラもいる。タマゴを産み落とすチュウレンジバチはできるなら来ていただきたくない。タマゴを産み付けられた茎は傷がついたようになり、孵化した幼虫は葉を食害するからだ。

同じように葉を食害する蜂にハキリバチがいるが、こちらはその見事な職人芸に感嘆してしまい憎みきれない。被害の大きさにもよるが、あまり気にならない程度なら、この蜂にも薔薇との蜜月を過してもらいたいと思う。

*恒例の千葉参り(千葉方面のクライアント訪問)にて帰宅は9時近く。
*今どきのネイルケアショップって、ケータイのデコレーションまでやるのね。
*ケータイにびっしりラインストーンを貼っている人を見るけど・・・
*あれって2万円くらいかかるみたい。げ〜
*4万円かけた人もいるんだって。ケータイそのものより高いわね。
*そこまで金をかける価値があるって・・・信じ難い。
*明日も打合せ。木曜日以降はおこもりで仕事せねば〜
| - | 22:17 | comments(2) | - |
美容院へ行く
07-0521

今日やっとのことで美容院に行ってきた。前に行ったのは確か2月なので、本当に「やっとのこと」といった感じ。前髪が伸びに伸びてどうしようもなくなった上に白髪が目立ってきたので、これじゃ客先に行けないなと判断した次第。

一般的に女性はどのくらいの頻度で美容院に行くのだろう。ヘアスタイルによるのだろうが、ショートの場合は1カ月おきくらいに行っているのではないだろうか。ロングのストレートだったら、前髪さえ自分でどうにかできれば年に1回くらいでもいいような気がするが、ショートの場合はそうもいかない。

若いころはこんなことなかったな、と思う。どんなヘアスタイルにするかあれこれ迷い、自分の顔を棚に上げて雑誌を切り抜いて美容院に持っていったり、美容院に置かれている専門誌から選んだりしていたものだ。シャンプーやトリートメントも厳選し、スタイリング剤もあれこれ試し、ヘアアクセサリーもあれこれ揃え・・・いつから、何故、私はこんなにズボラになっちゃったんだろう。

ひとつには年齢的に体力がなくなったことが上げられるかもしれない。カットしてパーマをかければ数時間はほとんど同じ格好でいなければならないが、それが苦痛になってきたのだ。また、髪の質がどんどん貧弱になってきて、選べるヘアスタイルの範囲が狭くなってきたこと、それに伴いヘアスタイルへの興味がなくなってきたこと・・・なんだ、身だしなみへの関心がなくなり、本格的にオバサン化しただけじゃないか。

常に美しくありたいという気持ちを忘れないこと・・・これが若々しさの秘訣らしいが、その点私は若々しさ志向がほとんどなきに等しい。髪については、傷んでいるのが一番いやなのでパーマはかけず、自分で染めると持たないし傷むような気がするのでカラーは美容院でやってもらう。そんな程度だ。着るものも着心地や動きやすさ最重視。口紅は滅多につけないし、マスカラなんぞどこにいってしまったことやら。なんだか書いていて我ながら味気なくなってきた。

明日はアパレル関係の店が多く入っているSCの仕事で現地へ行く予定になっている。広告物の作り手としては、あまりどうでもいい格好もしていけないのだが、はてさてどうしようか。カットしたての我が頭は中学生のようである。さてさて・・・

*カットとカラーなら2時間くらい。これが限界かなぁ。
*でも、任せられる美容院があるっていいよね。
*「今日はどのように?」「いつものようにテキトーにお願い」ってね。
*もっと年をとったら、「じーさん」か「ばーさん」か分からなくなるかも!?
*明日はネイルサロンの取材だよ・・・どうしよう、この爪。
*とりあえず短く切っておこう(^_^;
| - | 21:38 | comments(8) | - |
チェーザレ
07-0520
・・・根津の住宅街にて。穏やかな初夏の日差しを浴びる頭と人体・・・

数日前の新聞に、「歴史漫画、脇役の脚光」という記事が掲載された。漫画は嫌いではないが、あまり読まない。いつもなら記事のタイトルだけを見て終わりだが、「チェーザレ」という名前が目に入った。そう、以前にも話題にしたことがあるチェーザレ・ボルジアである。

記事では、週刊モーニング誌上で連載されている「チェーザレ 破壊の創造者」と古田織部にスポットを当てた「へうげもの」を紹介している。織部についても関心がなくはないのだが、なにせ私は「チェーザレ・ボルジア 優雅なる冷酷」(塩野七生著)を繰り返し読むほどのチェーザレ・ファンである。のめり込むように記事を読んだ。

「チェーザレ 破壊の創造者」は、惣領冬美の手になる漫画で、単行本の3巻目が出たばかり。制作に当たっては専門家とチームを組み考証にこだわったという。こりゃ読まずにいられるか、と急いで入手した。

売行きがいいのか、amazonでは1巻と2巻しか入手できず、別のところに3巻を注文。いそいそと読んだ。なるほどしっかり歴史的な説明がなされており、なかなか読みごたえがある。チェーザレはたいへんな美男子だったとのことだが、漫画で描かれるスペイン出身の黒髪の貴公子の姿もなかなかよい。

チェーザレについては、フランソワーズ・サガンが著した「ボルジア家の黄金の血」も読んだが、私は「優雅なる冷酷」で描かれるチェーザレが好きである。このような人は不世出といっていいとさえ思っており、記事では「脇役」となっているが私からすると何をか況んやである。

映画の主人公にしたらさぞかし面白いだろうと常々思っていたのだが、今こうして漫画を読んでいると、俳優が演じるよりも漫画の方がいいかもしれないと思う。チェーザレの役が似合う俳優を思い浮かべることができないのだ。

話は変わるが、この物語にはアンジェロというチェーザレと同年齢の少年が登場し、彼の目から見たその時代のイタリアが描かれている。参考にどうなのかはわからないが、「春の戴冠」(辻邦生著)をまっさきに思い浮かべた。

こちらはフェデリゴという架空(と思われる)人物をサンドロ(ボッティチェルリ)の友人として登場させ、彼の目から見たフィレンツェを描いた作品だ。この長編、つい最近25年ぶりに再読しようと思って本棚から取り出してあったのだが、そちらよりも「優雅なる冷酷」を読み返す方が先になるかもしれない。それにしても、ルネッサンス期というのは、話題に事欠かない時代であったとつくづく思う。

*午後から上野グリーンクラブへ。
*日草展(山野草)の展示と即売会が行われていたので。
*出たのが遅かったことと、気掛かりなことがあったのとで散歩はなし。
*最終日だったので慌ただしい雰囲気が・・・
*やっぱり行くなら初日がよさそうだ。
*よくもまあ次から次へと・・・胃に穴が開きそうだわ。
*気晴らし、気休め、気分転換などをしている余裕さえない。
*うーん。フトキの占い、当たっているのかなぁ。やだなー
| - | 22:51 | comments(3) | - |
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