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日々の内側
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エディ藩という男
07-0329
・・・ヘッドライトを迎え撃つ。そんな気分の夜もいい・・・

22日に山手の外人墓地に行ったことをこのブログに書いて以来、何故か心の中に重苦しいものを感じつづけていた。自分で撮った倒れた十字架の写真を見ると、憂鬱というよりもどこか暗い罪を背負ってしまったような、見てはいけない闇をのぞきこんでしまったような、そんな感じ。

静かに眠る人たちの上をずかずかと歩き回ってしまったことに対する罪悪感なのか。それとも、そうまでして写真を撮ったことに対する罪悪感なのか。あるいは墓の存在そのものに対する罪悪感なのか。なかなか直らない頭痛が重苦しさをさらに強め、春めいてきたというのに冴えない私なのであった。

ここ数日は体調もまあまあで、桜に気を取られていたこともあり、気分は少し軽くなってきたように思う。そんなところに、頼んであった「天使はブルースを歌う」(山崎洋子・毎日新聞社)が届いた。この本は、山手の外人墓地について調べていた時に知った本で、墓地に眠る子供たちを歌った「丘の上のエンジェル」について書かれているとのこと。情報はそれだけだったが、迷わず注文した。

仕事を早めに終えて散歩にでも行こうかと思ったが、本のことがなんとなく気になって読みはじめた。まだ途中なので全体についての感想は後日に回すが、「丘の上のエンジェル」という歌について詳しいことがわかっただけでも大きな収穫だと思っている。
この歌は、当時YCAC(ヨコハマ・カントリー・アスレチック・クラブ)の総支配人であった依田成史氏と元町のフレンチレストラン霧笛楼のオーナーである鈴木信晴氏がエディ藩に作曲を依頼、エディ藩がこの本の作者である山崎さんに作詞を依頼してできた曲。作曲がなんとエディ藩!私は俄然嬉しくなった。

ご存知の方も多いと思うが、エディ藩はゴールデンカップスのリードギタリストだった人で、有名な「横浜ホンキートンク・ブルース」の作者でもある。この曲は俳優の藤竜也が作詞をしたことでも有名で、原田芳雄、松田優作なども歌っている。私は原田芳雄の歌がとても好きだったのだが、去年「ワンモア・タイム」というCDとDVDで作者本人が歌うのを聞いて、さすがに洗練されていると思ったものだ。

DVDの中でエディ藩はエネルギッシュにギターを弾き、歌っていた。ゴールデンカップスが解散して久しいが。音楽活動は続けていることがわかる演奏だった。ステージでイキイキとした表情を見せるエディ藩から、私はけっこう陽気な性格の人間を連想していたのだが、今回「天使はブルースを歌う」を読みはじめて、その連想が間違っているかもしれないと思いはじめている。

作者の山崎さんはある日自分の作品を評論家・平岡正明氏に見せる。すると氏は「ブルースが足りないね」とさらりと言ったという。そして「ブルースはエディ・バンだな」と。

以来山崎さんはエディ藩のライブハウス「ストーミー・マンデー」に通い、彼のライブを見るようになり、歌の作詞まで頼まれるようになるのだが、エディ藩はどちらかというとぶっきらぼうで無愛想な男であり、距離感をずっと感じさせる人間であるようなのだ。中華街の老舗の跡を継いだものの実質的には母親が経営しており、彼はレジから金をつかみ取るとギャンブルをしに行く。

山崎さんに「職業は?」と聞かれると「ギャンブラーだよね」と答える。が、それは居直っているわけでも諦めているわけでもなく、「ミュージシャン」と呼ばれるだけの力が現在の自分にはないことをきちんと把握しているからこそ言えることであるような気がする。

「丘の上のエンジェル」の録音の際、エディ藩は曲に歌詞を上手く乗せられずなかなか歌いこなせなかったという。ディレクターである中村裕介氏は山崎さんに一部の歌詞を返るように依頼した。山崎さんはプロの作家だが作詞家ではない。しかしエディ藩が歌えない以上直すしかないか・・・そう思い歌詞を見ていた時、彼は言った。そんなに簡単に妥協しなくていい、歌えないのは俺の責任なんだから、と。エディ藩とはそんな男らしい。なかなか魅力的な男だと思う。

*まだるっこしいので一部敬称略(ペコリ)
*久し振りに「横浜ホンキートンク・ブルース」を数回立て続けに聴いた。
*松田優作のより、エディ藩のほうがやっぱりいいな。
*実は一番はじめに聴いたのは原田芳雄バージョン。
*これがまたいいので、聴きたいと思っていたがCDがない・・・はずだった。
*以前調べたことがあったのだ。が、再度amazonで調べるとベストアルバムが!
*去年出たらしい。やっほー!
*もちろん、ポチッとな!(^_^) ついでにエディ藩の「ブルー・ジェイド」も。
*今日は午後から元義父・義母が眠る墓に行ってきた。すぐ近くなのだ。
*先日楓の写真を撮りに寺に立ち寄った時、墓を見に行ったのだが・・・
*彼岸直後なのに花が全く供えられていなかった。淋しくなってしまったので。
*元義父・義母には複雑な思いがあるが、出会ったということは縁があったと。
*さて、明日はまた千葉だ!
| - | 23:34 | comments(0) | - |
涯なきもの
07-0328
・・・今日はとてもあたたかかった。しかし花の下は・・・

「花の下は涯がないからだよ」と男は言った。女にはその意味がわからなかった。わからないないが、一緒に花の下に行くと言った。しかし男は、「一人でなくちゃ、だめなんだ」ときっぱり言った。そして男は、一人で満開の花の下に行った。

涯のない四方から冷たい風がどっと押し寄せ、男の体はその風に吹きさらされて透明になった。なんという虚空!旅人を何人もたやすく殺してきた強者は、泣き、祈り、もがき、ただ逃げることしか考えず、やっとのことで花の下を抜け出した。その時は。しかし、結局男は、花の下で女を殺し、自分は孤独そのものになって消えていった。

「桜の森の満開の下」はそんなお話である。何度ももちだして恐縮だが、カメラを持って一人桜の下に立つと、私はいつもこの「涯がない」という感覚を味わい、そしてこの物語を思いだす。雲ひとつない空の写真を撮ろうとする時の戸惑いにも似ているが、目の前にあるのは「不在」ではなく過剰な「存在」である。あまりに見事に、あまりに過剰に存在するものの前で、レンズをどこに向けていいかわからなくなる。

それでもなんとか、ピントを合わせるものを決めてシャッターを押す。そしてまた思う。違う。これではない、と。その繰り返しが永遠に続きそうだ。目の奥には次から次へとピントを合わせた花の残像が融け合うことなく重なり、目を閉じたら気が変になってしまいそうな錯覚さえ覚える。涯がない・・・そう思い、花の下から逃げるように歩き出す。

もちろん、私とてもっと気楽に、無邪気に桜を楽しむことはある。公園はビニールシートを敷いて賑やかにおしゃべりする親子グループでいっぱいだ。私にもそういう時があったなと思いだし、彼らの上で揺れている花を見上げる。昼休み、公園の桜の木の下で缶コーヒー片手にのんびり休憩するサラリーマンを見かければ、ほほ笑ましい気持ちになる。コンパクトデジカメで、一生懸命花の写真を撮ろうとしている若いカップルに会えば、風が吹かないようにと願う。

レンズを向けるということは真剣に向き合うこと。だから、相手が大き過ぎて怖くなっているだけなのかもしれない。だが、いやだからこそ、桜を撮る時は一人がいい。負けるのがわかっていても、逃げ出すのがわかっていても、一人で向き合う。私にとって桜とはそんな存在である。

*なんて書いたけど、今日撮った桜は明るく爽やかー(^_^)
*文章にしても絵にしても写真にしても、出来上がった作品がすべて。
*「行ってお前のその憂愁の深さのほどに明るくかしこを彩れ」ですな。
*上記は伊東静雄の詩の一節。
*今日はとてもあたたか。ベランダの水やり、これからは怠りなきよう。
*昨日からBSで「明日のジョー」の特別番組をやっている。
*8時から11時過ぎまで。CMがないのでちと疲れるのぅ。
*今日も無患子を拾っちゃった。皿に山盛りになった。
*苦労してやった仕事のギャラがなかなか回収できない。
*それぞれに事情があるのはわかっちゃいるけど。
*あ、植木等さんお亡くなりになりましたね。合掌。
Walkin'、更新。明るい桜と楓。
fleur feuille fruitWalkin' Digestも時々更新してます。
| - | 22:39 | comments(4) | - |
やっぱりビル君もいいではないか
07-0327
・・・見慣れた風景でも、モノクロ&スクエアにするとちょっと違ってみえる・・・

ビル君てどのビル君? ビル・ゲイツ氏ではない。とんでもない。ググると一番最初に出てくるが、断然違う。そう、ジャズのビル君ですよ。ビル・エバンス。

キース・ジャレットの「I Loves You Porgy」について書いた時、少し調べていたらこの曲は長い間ビル・エバンスの演奏がベストと言われてきたらしいことを知った。「Waltz for Debby」に入っている曲で、エバンス以後もいろいろなジャズ・ピアニストがこの曲を弾いたがオリジナル(作曲がエバンス)をなかなか越えられない云々。

キース・ジャレットが弾いているこの曲がとても好きなのと、エバンスに対するさしたる理由のない苦手意識とで、私はキースの演奏の方がきっといいに違いない!と勝手に決め込んでいた。

が、決め込む前にやはりエバンスも聴いてみなくては、という気になり、レンタルで借りてきて聴いてみた。実は、このアルバム、レコードは持っているのだ。ジャズを集中的に聴いていたころ、いわゆる名盤と言われるものを一応聴いてみようかと買ったものだと思う。その時の印象があまりぱっとしなかった・・・というか当時私が持っていたジャズ観と違っていたので、あまり熱心に聴かなかったのだ。

今まで私の中にあったビル・エバンスのイメージは、神経質で論理的で端正だが開放感がない・・・といったようなものだった。ジャズについて浅薄な知識しか持たないのにおこがましいにもほどがあるのだが。ジャズはやっぱり黒人よね!という偏見が確かにあったと思う。

それから○十年。再びエバンスを聴いてみると・・・あらら。とてもいいじゃないの。キース・ジャレットの「I Loves You Porgy」はピアノのソロだがエバンスの方はトリオで、ピアノトリオの魅力満載といった印象。エバンスの生涯において最高のトリオと言われているのもうなずける。夭折したベーシスト、スコット・ラファロとエバンスのピアノとのからみは繊細な織物を見るようである。ポール・モチアンのドラムもいい。あのブラシワークというのだろうか、シャカシャカシャカーという音が妙に気持ちいい。

ということで、「Waltz for Debby」と「 Potrait In Jazz」をamazonのウィッシュリストに入れておいた。マイルスとの演奏で有名な「Kind of Blue」は持っているので、近々聴いてみよう。

*仕事の合間を縫って、シダレザクラに挑戦!
*去年、誰にも邪魔されずに撮れるナイス・スポットを発見したのよ。
*うーん。まだまだ。満足度30%くらい。
*でも、ソメイヨシノよりは撮りやすいかもしれない。
*来月桜まつりが開催される公園は、幼稚園児たちで大賑わい。
*おちおち撮っていられない。「あ、オンナのカメラマンだ!」だってさ。
*昨夜、借りてきた「嫌われ松子の一生」を見た。おもしろかった。
*「いかにも作り物」が徹底されていて気持ちいいくらい。
| - | 17:29 | comments(3) | - |
美しく難しく恐ろしきもの、桜
07-0326
・・・細い一枝が微かに揺れただけ。たったそれだけなのに・・・

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
(「桜の樹の下には」梶井基次郎)

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今もわかりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を恐れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。(「桜の森の満開の下」坂口安居)

桜、というと私は相も変わらずこの二つの作品を思い浮かべる。どちらがいいと言うことはできない。それほど好きであり、執着している作品だということだろう。ひとつ言えることは、二作品の共通性が「死」にあることだ。それも「同期の桜」的な「死」ではなく、桜が本来持っている魅力というよりも魔力に近いものに対する畏怖から連想される「死」だ。

だからだろうか。私の「桜イメージ」はあまり健康的なものではない。よく晴れた日満開の桜の下でにぎにぎしく集うことが不得手なのも、そういった理由からだと思う。写真を撮るにしても、青空を背景とした桜はあまり撮りたいと思わない。今にも空に溶け込みそうな、儚く危うい姿を撮りたいと思う。しかしこれが難しいんだな・・・

もうひとつ、私の「桜イメージ」をより明確に撮るために誰もいない、ひっそりとした、満開過ぎの桜を撮りたいと思っている。誰もいない桜の森の満開の下だ。花びらが涯なくはらはらと散る桜の森の満開の下。そんな光景を撮りたい・・・と思いつつ、そんな場所を見つけるのは至難の業であるような気もする。

そして、万が一そんな場所を見つけたとして、1人で三脚を構え、日がな一日散りつづける桜を撮っていたら・・・頭がどうにかなりそうな気もする。想像するだけで少し怖くなる。「桜の森の満開の下」の「男」のように、私自身が孤独自体になってしまったら、と思うと・・・やはり怖い。

去年も引用したが、今年は追悼の意味を込めて時実新子さんの句を。

さくら咲く  一人ころして 一人産む

*やはり去年も引用したと思うが、ここも忘れてはならない。
*映画版よりも、私はこちらの方が好き。というか作品の雰囲気にぴったりくる。
*今週末くらいが見頃のようですね。
*近所の公園も賑やかになるんだろうなぁ。うるさいくらいに(^_^;
*また「平家物語」に戻った。まだ二巻だけど。
*でも「方丈記私記」も頼んじゃったんだよな。
*それに今日ABCで「猫の客」も買っちゃったし。
*途中で浮気しちゃうかも。いつになったら読み終わるんだかー
*最寄り駅の青山フラワーマーケットで枝物の桜をゲット。
*「吉野桜」という名前がついていたが・・・
*そんな品種あるのかなぁ。吉野の桜はヤマザクラだと思うし。
*なんとなく啓翁桜というのに似ている。もうちょっと白いけど。
*さて明日は一日家で仕事するぞ。
| - | 18:47 | comments(2) | - |
回り道は愉し。
07-0325
・・・工芸品のような無患子の実。蜜蝋のような果皮はサポニンを含む・・・

前にも日記に書いたと思うが、私はどこかへ出かける時、行きと帰りはできるだけ違う道を歩くようにしている。自分にそれを課しているというわけではなく、その方が面白いからという単純な理由で。行く時はあまり遠回りはしないが、帰りは遠回りになったとしても時間があれば違う道を歩く。

帰り道というのは、後は家に帰るだけという安心感もあるからか、けっこうウロウロしがちだ。もし私がGPSなんぞを身に付けていたら、私の行方を追う人はさぞかし怪しむだろう。アパートとアパートの間の、人ひとりがやっと通れるくらいの脇道に入ったかと思うと、他所様の庭先で立ち止まり門が開いていれば2、3歩恐る恐る踏みだしてまた引き返し、駐車場をずかずかと横切り、どうでもいいような道路標識の回りをぐるぐる回り・・・本当に怪しい。

自分でもちょっと怪しいよなぁと思いつつ、それが止められない。人家の裏口などをじっと見ていると不審者だと思われても仕方ないのだが、あ!と何かに惹きつけられるとヒタヒタヒタと寄っていってしまう。潰れかけたヤカンがあれば座り込んでまじまじと眺め、猫が潜んでいれば声をかけて愛想を振りまく。今までは幸運にも詰問されたりしたことはないが、このままこの態度を続けていると何があるかわからないなぁと時々思う。

しかし、やはり止められない。無計画に歩き回って経験した嬉しい出会いがたくさんあるから。楽しいことばかりではないが、胸を締めつけられるほど悲惨なものであっても、出会わなかったよりはいいと思っている。

今日もまたいいことがあった。雨はまだ降っていたが天気は回復傾向、春の雨を感じに出かけたくなった。せっかく長靴も買ったことだし!ということで、GR-Dをポケットに入れていそいそと出発。駅の向こう側にあるTUTAYAに更新手続きをしにいくというのがとりあえずの目的だが、公園の桜の開花状況を確認し、川辺に出て雨に濡れた草を踏みしめながらてくてく歩き、用事をそそくさと済ませて行きとは違う道で家に向かった。

昨日の夜から今日の午前中にかけて、風がかなり強く吹いたのでいろいろなものが落ちている。公園の下り坂では、これから咲こうとしているソメイヨシノの小枝が落ちていて、そのままにするのが忍びなくポケットに入れた。赤い椿の大木の下は、落ちた花でいっぱいだ。泥にまみれた赤い花は毒々しいほど鮮やかで、すかさずシャッターを押した。

いつもはあまり通らない道にある階段を上りながら辺りを見回すと、右手の農家の庭になにやら実をつけた大きな木がある。手前が駐車場になっているので近くまで行けそうだ。木肌がなめらかそうなので桐の木かしら・・・と思いつつ駐車場に入り、近付いていくと下になにやらたくさん落ちている・・・風に煽られて大量に落ちている実を見て、とても嬉しくなった。

それは、以前から見たかった無患子の実だった。2年ほど前、どこかを歩いていた時に偶然見つけて持ち帰った実が無患子の実であることが最近わかったのだが、どこで拾ったのか全く記憶にない。たぶんたまたま通りかがった道で、うちの近所ではないと思う。だから、もう二度と無患子の実は見ることができないかもしれないと思っていたのだ。それが、こんなに近くに木があったとは!しかも、強風の後で実がたくさん落ちているとは!

艶のある実の中には大きな黒い種が入っていて、実を振るとカタカタと音がする。この種は、羽根つきの羽根に使われることで有名だ。ちょうど黒エンドウ豆くを少し大きくしたような感じだが、けっこう硬い。興味がない人にとってはどうでもいいようなものだが、木の実好きの私にとっては宝物。コンビニの小さな袋に入れて持ち帰る足取りも、行きよりむしろ軽快だ。

やっぱり散歩はいい。回り道、遠回り、おおいに結構。てくてく、うろうろ、これからもどんどん歩こう。

*無患子の実はサポニンを含むので、水をつけて擦ると泡立つとか。
*発泡剤として泡消火器にも詰められた・・・らしい。
*アケビの花が咲いているのも見かけた。散歩はいいなぁ。
*雨が降って草木も嬉しそうだったし。
*川原のノイバラはたくましく成長していたし。
*楓の仲間もずいぶん新葉が広がってきた。
*昨日は珍しくスケートをTVで観た。
*やっぱりスポーツは精神力がものを言うなぁ。みんなすごいわ。
*体育会系の人が就職に有利なのもわからんでもない。
*こちとら、軟弱のへなちょこだもんなぁ。
猫ブログ、更新。
薔薇記、更新。
| - | 18:57 | comments(5) | - |
曇り空
07-0324
・・・ひっそり咲いているエドヒガン。ひらひらした花びらが好き・・・

ソメイヨシノの開花宣言が出た途端、汗ばむくらいの陽気になった。これで一気に満開に突入か!と思ったが、わが家の辺りはまだぽつりっぽつり咲いているくらいである。そして、桜のシーズンに付き物の不安定な天気。今日は一日曇りだった。

写真を撮るには晴天よりも曇っているくらいの方がいいのだが、それを抜きにしても私はピーカンの日よりも曇りの日の方が好きだ。晴れ渡った空を仰げばもちろん、気持ちいい。深呼吸のひとつもして、日頃の鬱憤を少し忘れたような気にもなる。ああ、生きていてよかったと思えるのはそんな時であるように思う。が、自分にしっくりくるという意味では、曇り。雨を待つのもまたいいものだ。とくにやさしい春の雨は。

「曇り」「やさしい雨」とくれば、やはりユーミンの「曇り空」かな。

二階の窓を開け放したら
霧が部屋まで流れてきそう
やさしい雨が降ってくるのを
ずっとぼんやり待っていたのよ

きのうは曇り空
きっとそのせいかしら
きのうは曇り空
外に出たくなかったの

この曲ユーミンのデビューアルバム「ひこうき雲」の2曲目に入っている曲で、さほどメジャーではないかもしれないが、好きな曲のひとつ。アルバムタイトルになっている「ひこうき雲」はたぶん私のベスト5には入るだろう。

歌詞とは違い、私は曇り空でもどんどん出かけていく。今の時季は、白い空を背景にして溶け込みそうに儚げな桜の花を見るために。私の桜のイメージは、青空を背景にしておおらかに咲く姿ではなく、白い曇り空に消えていきそうな姿なのだ。雨の日の桜もまたいい。写真はなかなか撮れないけれど。

*忙しさもピークを越したかな。
*今日、明日はとりあえず休めそう。天気悪いけど。
*仕事用の鞄を新調。ルサックアダムという店(オンラインショップ)で。
*なかなかいいのだが、ちょっと小さいかなぁ。
*けっこうサイズが微妙。でも大きいと何でもかんでも入れちゃうし。
*鞄を入れて合った袋もオマケについていた袋もなかなかよし!
*今回は茶色のを買ったんだけど、黒も欲しいなぁ。いずれ・・・
*仕事で出かけることが多くなると、洋服やバッグや靴が欲しくなって困る。
Walkin'、更新。21日と似たような感じ。
| - | 18:51 | comments(3) | - |
刹那と永遠の間
07-0323
・・・大きな屋敷の枝垂桜が揺れる。「永遠」を信じたくなる刹那・・・

本牧のゴールデンカップを見ることができたので、iPodでゴールデンカップスを久し振りに聴いた。GSのヒット曲はなつかしいが、たいていは何度か聞くと飽きる。しかし、ゴールデンカップスは何度聴いても飽きない。好みに合っているということもあるだろうが、やはり別格の実力があったように思う。

本牧のゴールデンカップ出身のゴールデンカップスには「本牧ブルース」という曲がある。歌詞を一部引用する(作詞はなかにし礼さん)。

 知らない同志でも 心がかよう
 何にも言わないで 抱きしめあおう
 それでいいじゃないか 愛しているなら

 名前も身の上も 知らないけれど
 君は僕のかわいい 恋人なのさ
 それでいいじゃないか 愛しているなら

 昨日は昨日 明日は明日
 二度と来ない今日に 命を燃やそう


なんとも刹那的な歌詞だ。当時の時代背景にぴったりといえばぴったりだし、若いヤツらはいつでも刹那的だと言えないこともない。また、「刹那的」という言葉にはどこか人を陶酔させるような魔力があって、未熟であればあるほどその魔力に魅せられがちなのかもしれないとも思う。

しかし、それでもなお私は「刹那」という言葉とその言葉が醸し出す雰囲気が好きだ。写真を撮るという行為にも相通じるものがあるかもしれないし、だからこそ私は写真を撮ることが好きなのかもしれない。「見る」「感じる」「考える」を繰り返した後、シャッターを切る。その刹那が私を魅了してやまないのかもしれない。

しかし「刹那」は「刹那」であるから、一瞬のうちにその時は消えうせる。残る余韻を感じながら、その瞬間を思いだそうと努力しながら、人はその刹那は二度と来ないことを知る。「刹那」の対極である「永遠」はどうか。「永遠」という言葉を人は好んで使うが、「永遠」な存在はあるのか。私ははなはだ懐疑的である。

「刹那」は存在したかと思った瞬間に消えうせる。「永遠」は存在しない(少なくとも現在の私にとって)。人の一生とは、「刹那」と「永遠」の間をうろうろして終るものであるような気がする。

*見知らぬ人の墓にばかり行っていてはいけないね。
*ということで、やっと父の墓参りに。
*いやぁ、今日は暖かかったですね。桜も一気に咲きはじめた模様。
*菩提寺の最寄り駅隣にある百貨店には屋上に観覧車がある。
*今日はすぐ下まで行ってみた。
*こんな日に乗ったら気持ちよさそう。乗らなかったけど。
*一昨日からの頭痛がまだ抜けず。鎮痛剤を飲みつづけている。
*痛いだけでなく、働きもおかしくなっているみたい。
*家の鍵についている暗証番号がどうしても思いだせなくなった。
*息子にメールを送って教えてもらった。やれやれ。おかしいなぁ。
*なんだか自分で自分が心配(^_^;
*仕事の本を探しに行った横浜の書店で、チロリアンテープを発見。
*ドイツフェアをやっていたのでドイツ製か?
*ひなぎく模様がかわいい。ブツログにアップ。
| - | 19:06 | comments(3) | - |
エピタフ
07-0322
・・・無数の死者たちの上に、十字架は身を横たえる・・・

深夜の電話打合せがやっと終わり、フトンに入ったのは午前1時過ぎ。が、どういうわけか(年のせいか)5時半に目が覚めてしまい、明るくなるのを待って外に出た。近所の桜(エドヒガンと思われる)を撮って帰るつもりが・・・

結局2時間くらい歩き回ってしまった。帰ったら眠くなったのでそのまま昼寝してもよかったのだが、貧乏性なのでせっかくの休日を寝て過すのがもったいない。ということで、昼ごろからま外出。

横浜は山手にある外人墓地はとみに有名で観光客で賑わう場所だが、昨日行ったのは「山手駅」に近い「根岸外人墓地」。墓地前に設置された説明書きによると、確か明治13年、山手の外人墓地が手狭になったため造られた墓地であると書かれていたと思う。

しかし、こちらによると、それに加えて伝染病で死んだ人たちの隔離も目的とされていたらしい。管理方法が決まらず、結局正式に運営されはじめたのは明治35年(1902年)からだそうだ。関東大震災の外国人被災者もここに多く埋葬されているらしいが、それよりも悲惨なのは第二次大戦後望まれずに生まれた混血児たちが多く葬られているということである。まるで捨てられるかのように置き去りにされていた遺体もあったようだ。

墓地といっても墓石がずらりと並んでいるわけではない。ぽつり、ぽつりとまばらに、並んでいるというよりもかろうじて残っているといった方がいいような景色である。訪れる人も花を供える者はほとんどいないのだろう。墓石はみな埃にまみれ、泥がついた状態のままになっている。傾いてしまった墓石や折れて倒れた十字架もあった。

墓碑銘をひとつひとつ読んでゆっくり歩き、写真を撮らせてもらった。多くの墓碑銘にある「The Memory of・・・」という言葉が刻まれている・・・私は思わずALLMAN BROTHERS BANDの「IN MEMORY OF ELIZABETH REED」(邦題:エリザベス・リードの追憶)を思いだした。大好きな「AT FILLMORE EAST」の中でも最も好きな曲である。墓地を出てから帰宅するまで、いや帰宅してからも曲が頭の中をずっと巡っていた。

墓地の中は、簡素な白いプラスチック製の柵で区切られている。その柵があまりに低いこと、完全に囲まれていないことから柵の中に入りがちだが、できるなら入らない方がいいらしい。墓石があるのは死者のごく一部であり、墓地一体に数えきれないほどの遺体が埋葬されているということなのだろう。

私は思わず一部のエリアで入ってしまったが、不遜なことをしたと後悔している。が、必要以上に重く受け止めずにいようとも思う。なぜなら、私たちはそこに死者が埋まっていることなど露とも知らずに、いろいろなところを歩き回っているのだろうから。営々と人の暮らしは続くが、その足元に誰かの骨がないと断言できはしないのだから。昨日行った墓地を思い、墓碑銘を思いだし、あらためて安らかな眠りを祈るだけである。

*やっぱり無理もほどほどにしないと・・・
*昨日は帰宅したらダウンして食事もせずに寝てしまった(^_^;
*私もどちらかというと、突っ走るタイプ。年甲斐もなく。
*伝説の「ゴールデンカップ」をついに見た!
*けっこうヤバそうな雰囲気。昔からそうらしいけど。
*マモル・マヌーのショーがあるらしい。大丈夫なのか?
*「ワン・モア・タイム」の時は、けっこう危うかったけど。
*本牧辺りって、今でもちょっと危ない感じがする。
Walkin'更新。3カテゴリーに分けて。
猫ブログ、更新。
| - | 11:33 | comments(0) | - |
自問自答のリフレイン
07-0320
・・・「何のために」なんて、オイラは全然考えないなぁ・・・

最近仕事で千葉方面に行くことが多い。今日も都内の某社経由で出かけ、夕方現地を出えまた都内某社で打合せ。全く慌ただしいことである。が、千葉方面への往復は車に便乗させてもらっているのでラクチン。今日は行きも帰りもきれいな空を見ることができて、なんとなく嬉しかった。

行きの空は青空にぽっかりぽっかり雲が浮かぶ空。何雲というのだろうか。空一面に雲のカタマリが広がっていた。京葉道路は見通しがいいので空一面が見える。あんなに大量の雲を見たのは久し振りであるような気がする。

帰りは夕焼けがきれいだった。行きよりも大きくなった雲が雄大に広がり、夕陽を隠したり見せたりしていた。ほのかに赤みを帯びてきた地平線にくっきり浮かぶ東京のビル群。なかなかいい眺めだった。

とても残念だったのは、カメラを持っていなかったこと。出かける時、GR-Dを持っていこうか迷った揚げ句、できるだけ荷物を少なくしたかったので止めたのだった。あんな小さなカメラだ。やはり持っていけばよかった。今日出会った雲は、空は、夕焼けは、もう二度と出会えない。今度からは、仕事であってもできるだけカメラは持っていこう。そう思った。

帰宅して、今日の大きな後悔をもう一度思いおこしていて、ふと、なぜ私はそんなに写真が撮りたいのかと思った。今さら何を・・・という話だが。

今までにも何度か自分は何故、何のために写真を撮るのか、撮りたいのかと自問自答して、その度に答えを得られないでいる。何かに出会い、何らかの感動を覚える。それはいい。それはいいが、何故その出会いを写真という形にしたいのか。思い出としてアタマの中に置いておくだけでは何故満足しないのか・・・と以前考えたことを性懲りもなくまた考える。

そして・・・明確な答えは出ない。答えなんてなくていい、といつも思うのだが、それでもまた自問自答している私なのだ。自問自答のリフレインはいつまで続くことやら。

*今日も弁当だ。すまんね>息子
*しかも帰宅してすぐ電話をかける用件があり、一緒に食べることもできなかった。
*これからまた電話で仕事の打合せ。
*何時になったら解放されるのやら・・・まあ、たまにだからいいか。
*明日は早起きして近所の桜を撮りに行こうと思っているのに。
*今日はJR使わなかったけど、スイカ使っちゃった。
*パスモが届くまで、ペンギンさんと仲良くしようっと。
*今日帰りによった撮影スタジオの社長は日本広告写真家協会会員。
*バブルの頃は、一日100万円以下の仕事はしなかったんだって。ひえー
*私も5万円以下の仕事はしませんって言いたいなぁ。
*だめか。バブルじゃないし。コツコツやらなきゃね。
| - | 22:37 | comments(4) | - |
「にすい」の女?
07-0319b
・・・華やかな季節の中、枯れゆくものもまた美しい・・・

私のイメージは「にすい(冫)」の女かもしれないというコメントを頂き、実際はどうであるかをとりあえず横に置いて「にすい」について少し調べてみた。

手許の漢和辞典(新明解漢和辞典・三省堂)を見ると、「冫」は「氷の本字」とある。なるほど「冫」を部首とする漢字には「冷」「凍」などいかにも「氷」をイメージさせるものがある。「冬」も部首は「冫」であり、「冴」に至っては「冫(=氷)に牙」である。けっこう凄まじい。おっとっと「凄」も「冫」だ。

しかし「冫」を部首とする漢字でも全く「氷」をイメージさせないものもある。「次」「况」(いわんや。三水の「況んや」の方が一般的か)がそれで、コレは一体なんだろう・・・と思っていたら、どうやら「冫」には、「氷」を本字にするものと「二」を本字にするものがあるらしい。複雑だなぁ。

次に「にすい」のアニキみたいな「さんずい」について漢和辞典で調べようと思ったら・・・おや?「にすい」は「2画」の部首のところにあるのに、「さんずい」が「3画」の欄にない。どうやら「さんずい」は「もと水部」と呼ばれ「水(4画)」扱いにしているようだ。これは辞典によって違うらしいが、検索したサイトでも「さんずい」を「水」として扱っているところが多かった。

もともと子どものころから私は漢字がけっこう好きで、小学生のころ「漢字テスト」には燃えたものだった。大人になってからも漢字についての様々な情報は積極的に取得してきたつもりだったが、知らないことがまだまだ多いということを改めて思い知った。思い知ってさらに、漢字は面白いものだなぁと関心が強くなったような気分だ。

さて、「にすい」の女、というと「冷たい女」をイメージしがちだが、私をそれに喩えた方が全くそういった意図はお持ちではないことは知っているので、気を悪くなんぞしていない。というか、「冷たい女」だと思われていても、あまり・・・(^_^;  

実のところ、私は今までに「冷たい」と思われているんだろうなぁと推測できることが何度もあった。とくにインターネットなど文字情報からしか人となりを判断できない場合、文体のせいなのか、書く内容のせいなのか、はたまた応対の仕方のせいなのか知らないが、どうも「女性」より「男性」、「ぬくもり」よりも「冷たさ」を強く印象づけるようだ。

実際のところは、自分でもよくわからない。「外見」に限定してみると、いただいたコメントへの返答にも書いたがタヌキ顔のぼーっとした面相なので「冷たい」感じはしないかもしれない。手先足先が冷たく(単なる冷え性)、体表温度が低いので「冷たい女」と呼ばれることはある。冬場は猫にも全くモテない。

性格は・・・まあこんなもんです、としか言いようがなく、「冷たい」と思う人は思うだろうしまあいいや、という気持ちである。誰にでも冷たいところとそうでないところはあるのだろうし。対象と距離を置くことが「冷たい」ということなら、「冷たい女」という評価(あるいは批判)はおおいに結構。距離を置くことが私にとっては自然だからだ。

ととと。漢字の話からずいぶん外れてしまった。ちょっと油断するとこれだもの。そうそう、「さんずい」を調べていて面白いエピソードを見つけた。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、以前JR西日本の滋賀県観光キャンペーンのポスターに「さんずいの国へ」というキャッチフレーズが使われたことがあるらしい。私もどこかで目にした記憶がある。

しかし、表現が不適切ということでコピーは「水色の国へ」に変更されたという。なぜ不適切かというと、「さんずい」は警察の隠語で「汚職(事件)」を意味するらしいのだ。乗客からの指摘らしいが(警察関係者?)、普通はそんなこと知らないだろうし、コピーとしては「さんずいの国へ」の方がおもしろいと思う。コピーライターもラクじゃないね。

*昨日の写真、積み上げられた袋の影がクルーゾー警部みたいだと。
*言われてみれば本当だ!警部・・・そんなところに潜んでいたんですね。
*今週いっぱいは寒いのかしら。桜の開花も例年並みなんじゃないかなぁ。
*ああ、またいいもの発見しちゃった。
*「くすぐりエルモX」っていうの。どこも売り切れの人気みたい。
*動きがすごい。大笑いして転がって起き上がる!
こちらの猫さんたちの反応がまた面白い(^_^)
*うちの猫たちだったら、どんな反応するのかなぁ。
*ピッキー(超臆病)のまめこは見た途端逃げるだろうな。
*明日はまた、一日中外出。ふひ。
| - | 20:08 | comments(5) | - |
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