今年は寒暖差がかなり大きい。今日は半袖になる人もいたかと思うが、明日からはまた元通り。寒いといっても真冬ほどではないだろうが、ひどく寒く感じるようになりそうだ。
花粉症歴はそこそこ長く、毎年1月末から耳鼻科に処方してもらった薬を飲んでしのいできた。今年は引っ越してきたこともあって違う耳鼻科にしたところ処方薬も変わった。なんとなく前の薬の方が効きがいいように思うが薬のせいではなく今年の花粉の飛散量のためかとも思えて悩ましい。花粉症については様々な治療法があるらしく、舌下免疫療法を検討するよう言われているが、面倒臭がりの私には不向きのような・・・薬で押さえるという典型的な対処療法でいいのかと思うこともあるが、数年にわたり頻繁に通院しなくてはいけないのは億劫。はてさて。
ということで、今年はずいぶんと保湿ティッシュのお世話になっている。丸一日くしゃみ鼻水が止まらないことが数回あって、そんな時は強い味方になっている。普通のティッシュだったら鼻の下が荒れ痛くてしかたないだろう。
保湿ティッシュにも数種類あるが、私は写真のものが好き。使い心地はどれも似たりよったりだと思うが、パッケージがかわいいし、モノトーンなのがいい。うっとうしいことこのうえない花粉症、せめてティッシュの箱デザインは楽しみたいのだ。これくらいのセレブな生活くらいしてもいいでしょう?
習慣とは恐ろしいもので、そろそろ更新をと思いつつ3月も半ばになろうとしている。ブログの話題にしようと思っていたこともいくつかあったが、あったということだけを覚えていてそれが何だったかもはや思い出せないテイタラクだ。「老化」という言葉で済ませてしまえばそれまでだが、あまりに安易で少し悔しいのでせめて「堕落」ということにしておこうか。
話題にしようと思っていたテーマに今日の「水中花」がある。たぶん・・・今までにも書いたことがあったかと思うがその記憶さえおぼろげであるから、気にせず書くことにする。
きっかけは友人が私の誕生日の花が何かを教えてくれたことだ。なにをもってその日の花となったか根拠らしきものはほとんどないとは思うが、だいたいその日あたりに開花している花だろう。友人が教えてくれたサイトはフラワーギフトを扱う店のもののようだが、私の誕生日である6月18日の花はギフトになりそうにないものばかりである。
以前から知っていたのはタチアオイ。それ以外にもタイム、スイセンノウ、フランネルフラワーが私の誕生花であるそうな。ふーん、で終わってしまいそうだ。お決まりの花言葉も併せて紹介されているが花言葉そのものの根拠もはっきりしないのであまり興味はない。
ただ・・・タチアオイと聞くと私は父のことと伊東静雄の詩「水中花」をすぐに思い浮かべてしまう。北海道(だけではないようだが)「コケコッコー」と呼んでいたと父が言っていて、妹もそれを覚えていて今でもその話が出る。たぶん赤いタチアオイの花の様子がニワトリのとさかに似ていると思われたからなのではないかと思う。
詩の方は、「遂ひ逢はざりし人の面影 一茎の葵の花の前に立て」による。「葵」というとタチアオイだけではないのだが、たぶん詩にうたわれているのはタチアオイであると思う。それはこの詩が「今年水無月のなどかくは美しき」で始まるからだ。タチアオイはすらっとのびた丈の高い草(高さからいえば木のようでもある)で、下から上へつぼみが並び順番に咲いていく。Wikipediaによれば梅雨入りくらいから咲きはじめ、一番上の花が終わるころ梅雨が明けることから「ツユアオイ(梅雨葵)」という別名もある、とのことだ。とすればやはり詩の「葵」はタチアオイなのではないかと思う次第。
詩本編(?)だけ読んで私が思いうかべるイメージは、梅雨晴れの暑い日盛りに咲く白いタチアオイの前に女性の幻が立つといったものなのだが、詩の中の「葵」はそうではないようだ。詩の前に和歌でいう詞書のような説明があるのだが、その中で詩人は以下のように書いている。
水中花と言って夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧縮してつくつたものだ。そのままでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそえrは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
詩人はその「哀れに華やいだ」水中花をじっと見つめ、「遂逢はざりし人」(これはもう女性でしょう!)を思い浮かべ、そして「堪へがたければわれ空に投げうつ」のだ。逢いたくても逢えない運命のようなものが堪え難かったのだろうか。
それは想像するしかないのだが、私が幼いころに見た「水中花」はまさに詩人の説明どおりのものだった。細長いコップの中に入れて水を注ぐと葉や花がふわりと開く。花の色も赤や紫が多かったと思う。菊の花のようなかたちのものだったと思うが、もしかしたら牡丹のような・・・そしてタチアオイのようなものもあったかもしれない。
なつかしくなって今でも手に入るかと探してみたがこれがなかなか見当たらない。布でできているような今風のものはあっても、昔見たあの安っぽい色合いの、紙だか薄い木片だかで作られているものはなかなか見つからないのだ。あの安っぽさが今となっては独特の味わいとしてひどくなつかしい。
一ヶ所だけ扱っているオンラインショップを見つけたが、値段がびっくりするほど高い。夜店で売っているものの値段ではなくなっている。もはや需要はほとんどないのだろう。しばし迷いつつまだ購入するに至っていない。手に入れれば入れたで一度だけコップに入れて後はどうしていいかわからなくなるに違いないから買わずじまいだろう。
「レトロ」とか「ノスタルジック」という言葉ではぴんとこないあの「水中花」。どこかで見る機会はあるのだろうか。
]]>今日で2月も終わり。引っ越してきてから、あっという間に2ヶ月。
人間(飼い主)の方はようやく落ち着いた感がある。心配していた猫たちも予想外に落ち着くのが早く、それぞれの個性を発揮している。以前とは勝手が違うこともいくつかあるが、猫は猫なりになんとなく慣れてきているようだ。
寒暖の差が例年より大きいような気がする今年の冬。飼い主はそれに惑わされ、振り回される一方だ。猫は寒さに弱いと思いきや意外と元気で行動範囲を広げるべく階下まで足を伸ばすようになった。さすがに19歳の長老・まめこだけは寝ていることが多くなってきたが、年齢のせいか若いころより鷹揚になってはいるが(腹を立てたりおびえたりするのが億劫になった感じ?)、小さな身体できちんと自己主張している。
丸くなって眠っていても、その横に寝そべって寄り添えば、目を開けて嬉しそうな素振りをする。人間だって高齢になれば理由なく不安になることがあると思うが、猫もそうなのかもしれないと思うこともある。時々大きな声を出して鳴き続けると、「ついに惚けたか!」とも思うことも。一説によると、年をとって我慢ができなくなり、感じたことを即表現するようになり、それが突然鳴き出すように見える時もある、とのこと。
わが家の長老はどうだかわからないが、今でも食事時になれば催促し、若いもん(といっても8歳)と同じドライフードを食べているところを見ると具合はそこそこいいようだ。
以前にも書いたが、1歳になるかならないかの時に避妊手術をして以来獣医にかかったことがないという健康ぶりを誇る最長老。もともと丈夫なタチに生まれついたのだろうが、飼い主にとってはラッキーそのものだ。ありがたいことだと思っている。
時々、痩せた背中をなでていると、あとどれくらい一緒にいられるだろうと淋しくなる。いつかは来る別れの日・・・もう少し先になればいいというしかない。ほかの猫たちより少しだけわがままを大目に見ることにして、できるだけストレスのない暮らしを心がけたいと思う。今夜も「早く寝床の支度を整えよ!」との指令がでたら素直に従い、もう少し使っていたい椅子を明け渡すことにしよう。
現在私が住んでいる実家は築43年。ずいぶん古くなったものだ。人間でいうと何歳くらいになるのだろうか。あちこち不具合が出ても不思議ではない年齢に間違いはないだろうが。
結婚することになり家を出たのが29歳の時。建て替えた家には4年間しか住んでいなかったことになる。そして今かなり年を重ねた元の家に戻り、当時は全く考えられなかった家の衰えを日々実感している。こうして書いている当人が相当ガタピシきているのだから当然といえば当然だろうが、引っ越してきたばかりなのに立て続けにあれこれ物入りなことが発生している。
実家から離れたことがない妹からは、この家の老朽化について何度も聞いてきた。私が家を出てから何度かリフォームや部分的な修繕をしてきたようだが、それでも家は少しずつ老いていく。今月初旬に床下の修繕と白アリ防止処理をしたばかりだというのに、今度は屋根である。
昨今、屋根や外壁などの修繕に関するタチの悪い詐欺があちこちで見受けられるようで、何かと慎重にならざるをえない。妹は私よりずっと慎重派でありこれまでの経緯も知っているので基本的に任せることにし、相談しながら事を進めているところ。今回の屋根は以前にも頼んだところである程度名が通っているのでまずは大丈夫だと思うが、立て続けなので費用的に負担感が大きいことこの上ない。
分譲マンションの場合も月々の管理費や積み立てだけでは済まないこともあろうが、メンテナンスに関しては戸建ての方が大変だとつくづく思う。たしか2年前だったか下水に問題が発生してトイレが使えなくなり、妹が頭をかかえていた。水周りの修理は急を要するので、大幅に直していない風呂場も安心していられない状態。やれやれと思うが、いろいろな経緯を経て引っ越してきた以上仕方ない。
そんなこんな悩ましいことが次々と起きるが、いいこともある。子供のころから知っている土地の気安さもあるし、自分の空間を確保できる快適さもある。本に囲まれ猫にまみれている。2人暮らしなので気も使うが、それぞれのプライバシーはたいせつにしながら住まうことはできている。猫たちもくつろげている。生活音についても集合住宅より気を使わなくていい。
この年齢になってピカピカの新しい住まいを無理までして手に入れる必要もあるまい。ガタピシ同士なんとか折り合ってともに年齢を重ねていくしかないだろうと思うことにした。やれやれ。
12日に終わってしまったが、ギリギリのタイミングで「みちのくのいとしい仏たち」展を観に行ってきた。
この展覧会は北東北3県(青森、秋田、岩手)で今もたいせつにされている民間仏を集めたもので、昨年4月に岩手県立美術館で開催されたころから知っていた。とても観たかったのだが気軽に行ける地ではなかった。そこでせめてもという気持ちで図録を取り寄せ思いを馳せていた。
最初から計画されていたのかもしれないが、秋ころだったか東京へも巡回してくることを知り楽しみにしていたのだった。昨年12月から今年1月まではとにかく慌ただしかったのでハラハラしたのだが、めでたく行けてよかったと心から思っている。
たとえば円空、木喰などの素朴な仏は観たことがあったが、誰が作ったかもわからない「民間仏」を実際に目にしたのははじめてだった。そして、一目で気に入った・・・というか魅了されてしまった。
著名な仏像のいくつかは今まで観ている。中学校の修学旅行で百済観音と出会って動けなくなってから、仏像には興味を持ち続けてきた。といっても詳しく調べたり仏像めぐりをしたわけではないが、目だけでなく心を動かす仏像はそうそうあるものではないと思っている。写真では何度も観たことがある聖林寺の十一面観音の実物を観た時、はじめてあの仏像が有名であり傑作だと言われていることがわかった。頭でわかったのではなく、心というか魂というかそこで感じたのである。
その感じ方とは全く違うが、みちのくの仏たちが漂わせるやさしさは、厳しい自然とともに生きてきた人々の切実な祈りから生まれたものだけに、稚拙であっても雑ではなく、思わず掌で包んでしまいたくなるようなめんこくていとしい。
腕が一対しかない千手観音、化仏のない十一面観音、螺髪らしきものがある山の神・・・かの地では神も仏もみな同じようなもので、それは自然から感じる神聖な何かをひとつのかたちにしたものに過ぎないのではないか。だから、耳にしたことがある仏の名前をつけてみただけーといったほほえましいものだったような気がする。
展覧会に合わせてテレビ番組も放映されていて、今もなお地元の人たちにたいせつに祭られている様子がいくつか紹介されていた。地獄の裁判官であるゆえ恐ろしげなのが普通の十王たちも、ちっとも怖くない。たれ目をしていたり、そこいらのじっさまのようであったり、と地元の人たちに言わせると「田舎者」の顔をしている。それがまた、いとしい。
これら民間仏の魅力に注目し、展覧会を監修してくださった弘前大学名誉教授の須藤弘敏氏に感謝!
いつのころからだかもう忘れてしまったが、“好きな言葉は?”と聞かれると“青空、ひとりきり”と答えてきた。
ご存知井上陽水氏の曲のタイトルである。デビューアルバムに入っているものだと思うので、かなり若い頃に作られた曲だと思うが、70歳近くなった今聴いても腑に落ちた感があっていいなぁと思う。
楽しいことなら 何でもやりたい
笑える場所なら 何処へでもゆく
冒頭だけ聴けば享楽的、刹那的な若者のひとりごとにも思えるが、そうでないことはその後に続く歌詞からも歴然としている。世の中には楽しいこと、笑える場所がはいて捨てるほどあるわけではない。むしろ、少ない。そしてそれを身をもって知り、結局人間はひとりきりなのであると実感し、いや違うかもしれないと迷い、傷ついたり傷つけたりしながら生きていくうちにふっと悟ったように「ひとり」を受け入れる。そんな感じ?
「孤独」という言葉あるいは概念は、一般的にはマイナスイメージでとらえられていることが多いように思う。「孤独死」がいい例だ。が、個人的には「孤独」=「淋しい」「侘びしい」ものではないと思っている。もともと「ひとり」であるならば、「孤独」もあたりまえであり、それなら楽しく過ごしたいと願う。
「青空ひとりきり」から私はそんな突き抜けた「孤独」を感じる。(双子でない限り)生まれた時はひとりであるように、死ぬ時もまた人間ひとりである。それがあたりまえ。あたりまえのゴールに着々と近づきつつある今、できるだけ楽しく明るくゴールテープを切りたいと思う。私はこれからも、「青空、ひとりきり」が好きだと言い続けるだろう。
*写真はいかにも楽しそうなダンスをしている女の子柄のハンカチ。最近入荷。
]]>タイトルとは逆になってしまうが、まず地獄から。
昨年12月20日、6回目の引っ越しをした。引っ越さねばならないのはだいぶ前からわかっていたが、諸々の事情により慌ただしい引っ越しとなってしまった。年明けでもよかったのだが気分的に年内に、と。
今までの引っ越しで本はある程度処分してきた。泣く泣く処分したものもあれば「これがいい機会になった」というものもあった。が、今回が一番多く手放したように思う。何度かに分けたので正確にはわからないが、たぶんダンボール箱10箱以上。
それでも、依然として本が多い。今までは人がいうほど多いとは思っていなかったが、今回は自分でそう思った。とくに引っ越してきてから本を出して整理していた時。ダンボールを空けても空けてもまだ本が入ったダンボールがあって、夜中に一人苦笑してしまった。
今回の引っ越し先は今までとは違い古い木造家屋の2階である。もっと詳しく書けば私が25歳の時に立てた実家の元自分の部屋だ。当時は6畳・6畳の2間に広いベランダという間取りだったが、私が家を出て妹が婿をとって結婚してからリフォームして私の部屋に続き部屋のようなものができており、それぞれは狭いものの3間ある。それを私と猫4匹で使ってよいとのこと。が、さぞかしゆったり・・・と思ったら大間違いなのである。
昨年1年間、なにかにつけて前の住まいに来てくれた妹からは何度も「ものが多い!」と指摘されていた。断捨離を趣味のように繰り返してきた妹からすれば当然だろうと思ったが、自分でも少しは多すぎることを認めていた。その代表が本と身に付けるもので、今私が常駐している隣の部屋(元妹の部屋)は「衣装部屋」と呼ばれている。もちろん物入れにはそれ以外のものも(妹のものも含まれる)は入っているが、ざっと見回したところその表現ははずれてはいない。
常駐している元私の部屋には立て替えた時私が望んで作ってもらった大きな本棚がある。床から天井までの作り付けで、地元の大工が立派なものを作ってくれた。家具はベッドと机だけ。まず最初に本の居場所を作るあたりは当時から変わっていないようだ。
引っ越しから1ヶ月が経過しやっと落ち着いてきた。結局本は本棚だけでは入りきらず、物入れの中にもびっしり。加えてダンボールに入れてレンタルしている倉庫に入れるハメになってしまったが。
*
引っ越し前から妹には「床が抜ける」「床が落ちて私が死んだらお姉ちゃんのせい」等々と時には冗談まじりに、時には切羽詰まった表情でプレッシャーをかけられ続けてきた。それでも今これだけの本がここにあり、妹もどうやらあきらめたようだ。
ベッドに寝転がって本棚を眺める。一度しか読んでいない本の方が多い。しかし、私には手放せない本たちなのだ。今ここにあることが私を幸せにする本たちなのだ。それらを身近に置き、眺め、ふと何かを思い出したり新しい何かを思いついたりすることが私のひそやかない喜びであり、私の極楽なのである。
文句をいいながらもこの極楽を許してくれた妹に感謝し、床が抜けないことを祈り、毎日なにかにつけて本棚を眺め、時には1冊取り出してパラパラとページを繰り、寝る前に少しだけ読み・・・を繰り返している。この極楽を手放す時がどうぞ来ませんように。
若い頃から冬が好きだった。好きな季節は?と問われれば、必ず「冬!」と即答した。問うた相手は七割方意外な顔をした。春とか秋とかいう答えが多いのだろうか、と思いもしたが好きなものは好きなのでそれ以上は考えなかった。
北国の厳しい冬とは段違いに緩い気候の首都圏エリアでも、冬は冬。落葉樹の葉は落ちて北風も吹く。草は枯れてカサカサしたベージュの葉を寒そうに揺らしている。見様によっては干からびた淋しい風景に見えなくもない。しかし、その枯淡としたものにある種潔さを感じ、肌に痛い寒風に心地よさを感じる一瞬がある。それが私にとっては捨てがたい魅力となっているようだ。
私は自他共に認める植物好きである。木も草も花も大好きなのは子供のころからだ。とくにみずみずしい葉は大好きで、常に身近にありたいと願ってきた。引っ越しをするにもそれが実現しそうな土地を選んできたし、与えられた環境であっても工夫してそうあるよう努めてもきた。冬の枯れ草、裸になった木々にはみずみずしい緑はない。しかし、その生命力を静かに内に秘めて寒風に身をさらし、凛とたたずむ様はと尊い。憧れさえ感じていつまでも冬が好きなままである。
しかし、困ったことに年を重ねるについれて単純にそう言い放つことができなくなってきた。気持ち的には(感覚的、精神的、といってもいいと思うが)相変わらず冬が好きなのだが、肉体的につらくなってきたのである。多くの人がそうであるようだが、寒さがこたえる。ただ寒いと感じる度合いが強くなってきたというだけでなく、具体的に不具合がもろもろ出てきてしまっているのが情けない。各所の神経痛だけならまだいいのだが、虚血性大腸炎を2回やり入院までした。真冬に小一時間でも屋外を歩き続けると感覚が鈍くなるとともに眠くなってきて、半分冗談ながら低体温症になりかけているのではと思うこともある。好きなのに、つらい。この二律背反する感覚は悩ましい。
60歳を過ぎたあたりから、そんな悩ましさを感じてきたがそれも仕方ないこととやり過ごしてきた。が、昨年から今年にかけて、あらためて自分は本当に冬好きかと問うことが多かった。そして、出た答えはやはり「冬が好き」だった。
一昨年の押し迫ったある日から、寒風吹きすさぶ中を必死で歩いてきた感がある。が、最もつらかったその時が冬でよかったと心底感じたのだ。それが春であれ夏であれ秋であれ、冬以外の季節であったなら、へこたれて自分の足で立っていられなかったかも・・・などと気弱なことさえ思う。実際そうであったならそれなりに動いたのであろうが、やはり冬でよかった。冷たい大気の中でしか自分の身を支えて立たせていられないような感覚を感じてきた今となっては。
2月初旬。今は一年で一番寒い季節だ。週明けには雪が降るかもしれないといわれている。それでも天気がいい日はできるだけ外に出て、寒さの中を歩きたい。時折空を見上げて大きく息を吸い、生きていることを実感したい。冬は私に生きていることを最も実感させてくれる季節。だから、やはり冬が好き。
昨年1月2日以来の更新。1年以上のブランクということになるが、「いつかもどってくる」と書いたとおり戻ってきた。
ブランク期間のことは具体的に書くつもりはない。ただ、私にとってかなり大きな出来事があり、ほぼそれに伴う困難なあれこれと格闘するような日々だとだけいっておこう。自分の中で大きく変わったものもあり、意外なほど変わらないものもあり・・・
荒れ狂う風の中を歩いているような気分の日々が多かったが、その中にも穏やかな日があり、悲しんだり苦しんだり喜んだりを繰り返しながら、今ここにこうしている。
向かい風の中を歩きつづけてきたように思っていたが、ふと以前のブログ(2021.7,12)で書いた「たゆたえども沈まず」という言葉を思い出し、こころに響いたので今日のタイトルとした。当分は不定期更新になると思うが、沈まなかった船はゆるりと残りの航海を続けることにする。
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昨年末から年初まで、もしかしたらこれまで経験したことがない・・・もしかしたら一生に一度かもしれない出来事にかかわっている。こんな時こそ、冬木立のように凛とありたいと思う。
いつだったか、神はその試練に耐えうる者にしか試練を与えない、ということを耳にしたことがある。人知の及ばない存在がもしあるなら、そして仮にそれを神と呼ぶなら、神に与えられたものを受け入れながら生きていかなくてはならないだろう。
このところ月に数回の更新しかしていないが、諸事情によりしばらくこのブログを休むことにする。あくまでも「休み」ということにしたい。いつとは約束できないが、必ず戻ってくるつもりでいる。
]]>少し前になるが、世田谷美術館で開催されている「祈り・藤原新也」を観てきた。
藤原新也さんについては、特別意識して追いかけてきたわけではない。ただ、彼が一躍有名になった写真・・・「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というコピーとともに掲載された1枚の写真だったと思う。私の記憶では、当時元気がよかった写真週刊誌「フォーカス」で見たような記憶がある。おぼろげだが、調べてみるとサントリーのパロディだったとあって作品として掲載されていたのかもしれないと思う。いかにサントリーだったとしてもこれをまっとうな広告として雑誌に掲載するとはなかなか思えないから、藤原さんの「東京漂流」にセンセーショナルを売り物にしている写真週刊誌が飛びついたのかもしれない。
それはどちらかというとどうでもいいことだ。とにかく私はそれをオンタイムで見たし、その視点に驚き、(たぶん)感動した。少なくとも嫌悪感はいっさい感じなかった。その写真を見た後、「東京漂流」を読み、人間の「死」あり方が全く日本とは全く違う国があるということを知り、藤原新也という作家(写真だけでなく表現者という意味で)は忘れられない存在となった。
本棚を見ると、とりあえず8冊の著作がある。どれもとことん読み込んだわけではないが、今回の「祈り」を観てまず思い出したのは「なにも願わない手を合わせる」という作品だ。読みながら、「祈り」というのは何かを望んで願うことではなく、自らの中にあるものを手が届かないかもしれないが永遠の存在であるかもしれないもの(神、というのだろうか?)の距離を少しだけ近づけたいと思う心から生まれる行為なのかもしれない、と思った。生まれてきた以上、最後には死ぬ。そこに向かっている中で、今日も生きていることへの「ありがたさ」を自然と泡話す行為かのかもしれない、と。
今回の展覧会を観て、その印象はなお強くなった。「祈り」とは「生」と「死」を見詰めながら生きていることを実感し、「ありがたさ」を再確認し、「死」までの道のりをあゆんでいこうという気持ちから生まれる行為なのかもしれないと思う。
いつだったか、神社などに行って手を合わせる時何かを願うのは間違っている、という話を聞いたことがある。困ったときの神頼み・・・困っていなくても神仏の力でなんとかより良い方向に向かわせてほしいと願い気持ちは私とて充分理解できる。が、願ってばかりでいいのかしら、自分でちゃんと努力しているのかしら、と思うこともある。墓参りに行っても、先祖になにかしら願いことがあるが、願いながら違和感を感じることもある。先祖がいたから自分がいるのだから、無事に生きていることを報告し、感謝しるだけでいいのではないか・・・なんて。
とにかく、静かな公立の美術館で開催されたことはよかったな、と思う。好きな美術館だったから余計にそう思うのかもしれないが。ゆっくり鑑賞して、砧公園の美しい紅葉を見て満足した一日だった。
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こんばんわ。あたい、がっちゃんこときく。さいきん「がっちゃん」てばっかりよばれているので、ほんみょうをわすれそう。
このごろ、ずいぶんさむくなったね。あたい、べつのおうちにいたときは、「ぺっとぼとる」におゆをいれたのを「ゆたんぽ」にしてもらって「けーじ」のなかでぬくぬくしてたの。でも、ここにきてからはあっちこっちでねてるの。このごろのおきにいりは、すみごんのいす。まあるいざぶとんがあって、あたいのからだのおおきさにぴったり。でも、どきどき「すわりたいからどいてね!」っていってどかされちゃうの。ここはあたいのばしょなのに・・・
でも、すみごんがちょっとたったすきに、またそこにいくの。そうすると「あ、またとられたー!がっちゃん、もうちょっとまってて!」ってどかされるの。しかたないから、おちゃんのおひざのうえにいってなでてもらうんだ。
くろっぽいばーちゃん(まめこ)は、げんきだよ。ちっこくてがりがりなのにいつも「ごはんー!」とか「かわいがれー!」とか「いっしょにだめになろうよー!」とかうるさくすみごんにいってるよ。あいかわらずしょっぱいものがすきで、てーぶるに「しじゃけ」とかがあるとめをぎらぎらさせてるよ。でね、さいきん、すみごんのふとんのなかにはいるとあったかいということをしったらしくて、ときどきはいっているの。ふくちゃんだけかとおもったのにな。
ふくちゃんはあいかわらずだよ。すみごんのおへやにいりびたっていることがおおいけど、なにしているのかなー。ふくちゃんだけおいしいものをもらっているんじゃないかなーってうたがっているんだけど、わからないや。ときどき、すみごんやおっちゃんがねているとうえにのって、「みーゆ」こうげきをして「おもたい!」っていわれているの。
だいすけもあいかわらずかなー。ときどきあたいとおっかけっこするけど、あいついつも「にげごし」なんだもん。あんなだから、ふくちゃんにいつもやられちゃうとあたいはおもうな。でも、うちでたったひとりの「だんし」なんで、なにかとかわいがられているよ。あたいはなかよくしてあげてもいいなっておもっているんだけどね。「びなんびじょでおにあい」っていわれているし!
つぎは、ばーちゃんのばんみたい。ばーちゃん、らいねんもげんきでいるかなぁ。いるな、きっと、おしまい!
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先日、毎度おなじみの?三遊亭遊馬さんの独演会に行ってきた。毎年6月と12月の2回行われてきた独演会も、国立演芸場の取り壊しのため来年の6月から3ヶ月連続で予定されている回が最後となるらしい。他でやる可能性もさぐっているのかもしれないが、我が家では恒例になっていたので少し淋しい気分だ。
最初に遊馬さんの落語を聞いたのは、地元の焼鳥屋での落語会。座敷にテーブルを2列に連ねて客が座り、一番奥にしつらえた席で落語をやるという趣向。客は飲んだり食べたりしながら落語を楽しむ。ごく近くで見ることができ、終った後は着替えた遊馬さんと話をする機会もあった。そんなこともあり、熱心な贔屓筋とはいえないが独演会にだけは行ってきた。
今回の演目は三遊亭円朝作「鏡ヶ池操松影(かがみがいけみさおのまつかげ)」。ここ数年円朝作品に挑戦している遊馬さんは昨年「牡丹燈籠」をやった。今年は6月と12月の2回に分けて「鏡ヶ池」だ。そして来年はついに「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」をやる予定だという。
円朝作品は音源で何度か聞いているが、長いだけでなく登場する人物が多く、また妙な因縁で繋がっているという筋立てが特徴だと思う。その因縁とはなにかということが徐々に説明されていくのだが、あまりに複雑な縁の絡み合いに混乱することがある。あらためて何度か聞いてはじめて理解できることもあり、聞く方の理解力が問われる噺でもある。「牡丹燈籠」、「鏡ヶ池」、「累ヶ淵」もいわゆる怪談で人気はあると思うが、なにせ全体像を把握するのが難しい。「累ヶ淵」は円朝作品の中でも一番長い噺だというから、遊馬さんも相当の覚悟をもって準備することだろう。
今回はじめて知ったのだが、昔聞いたことがある「江島屋騒動」という噺は「鏡ヶ池」の一部を撮り出して演出されたものだった。江戸の古着屋・江島屋で起きたこと(主が呪われ店が潰れる)の背景と、騒動後の様々な因縁が語られる。
落語からも少し遠ざかっている昨今。聞けばやはりもっと聞きたいと思う。来年は寄席にも行きたいし、積極的に情報を得る努力をして落語を聞く機会を増やしたいと思う。
とりあえず、遊馬さん、長講一席お疲れさまでした、と言いたい。
]]>少し前、大田記念美術館で開催されている「闇と光〜清親・安治・柳村」を観に行ってきた。小林清親と井上安治については以前から知っており、だいぶ前になると思うがこのブログでも書いたことがあったと記憶する。きかっけは贔屓の漫画家にして江戸風俗研究家であった故・杉浦日向子さんの著書「YASUJI東京」を読んだ事。今でも何度か読む愛読書である。
展覧会のタイトルからもわかるように、清親をはじめとする版画は「光線画」と呼ばれ、闇と光の対比を叙情的に表現した作品が多い。描かれているの明治初期の東京だ。まだ江戸の名残を残した東京のあちこちを切り取り、月、街灯、店店の灯、時には花火や火事の炎と闇との対比が観る者の目を惹きつける。
以前府中の美術館だったかで彼らの作品展示があったらしいのだが見逃したことを知り、図録だけ取り寄せていた。そこでも多くの作品は見たが、やはり実物!という主義なのでいそいそと出かけていった次第。
日向子さんの作品によると小林清親は上背2メートル近い大男であったそうな。寡黙で愛想はないが、どちらかというと朴訥で付き合い方が下手だったというタイプだったのかもしれない。「光線画」といえばまず清親が代表だろう。その清親に14才で弟子入りした時、安治は14才。大きな師の跡を黙々と付いていく華奢な少年のイメージは日向子さんゆえだろうか。それとも25才で夭折した安治の生涯ゆえだろうか。
闇と光の対象を描いた作品は西洋にもあるだろう。宗教画でも主人公を際立たせるためにこの対比を利用していると思うし、レンブラントなどの作品にもそれはいえると思う。しかし、風景画で闇と光を扱うとなると日本美術にはすばらしいものが多々あると少ない経験の中からら思うのである。
つい先頃、長谷川等伯と息子久蔵の襖絵を観てきたが、特に金箔・銀箔を使った屏風絵などは闇と光の効果を十分に意識した上で制作されているように思われる。あれらは明るいところで観るより、行灯や蝋燭の光の中で観た方が絶対にいいと思うのだ。
全く関係ないが、「闇と光」と聞くとどうしても思い出してしまうのが、昔テレビでやっていたアニメ「サスケ」の冒頭である。「カムイ」で有名な白戸三平の作品で、当然ながら忍者が主役。主役だが彼らは常に闇の存在として生きる。それを冒頭のナレーションで語っているのだ。
光あるところ、影がある。まこと栄光の陰には数擦れぬ忍者の姿があった。命を懸けて歴史を作った陰の男たち。だが人よ、名を問うなかれ。闇に生まれ闇に消える。それが忍者の定めなのだ。
かっこいい!って子どもながらに思ったけれど、覚えているのは冒頭部分だけ。光あるところに闇がある・・・
]]>久しぶりに青山の岡本太郎記念館に行ってきた。岡本太郎氏が生前住んでいた家なので美術館というにはあまりにコンパクトだが、作品がダイナミックだからなのかいつも物足りない印象は持たない。売店で代表的な作品のフィギュアを買った。中身が分からないガチャ的なもので、私が選んだ箱には「犬の植木鉢」、同行した妹が選んだものには「ノン」が入っていた。「ノン」が一番欲しいと思っていたのだが、ちょっと残念!と思っていたら妹がくれるという。ありがたくもらってきた。
たしか、生田緑地にある岡本太郎美術館で実物大のものを見た記憶がある。そこで気に入ったという記憶も。岡本太郎作品については、若いころはあまり好きではなかったのだが、60才を越したあたりからどんどん好きになってきた。妙なものだと思うが、あの揺るがない姿勢への尊敬とあこがれが強くなってきたのだと思っている。
「ノン」は平たい円盤のような顔、円すい形の身体をもつ何者かが、手のひらをこちらにむけている作品だ。口には鋭い歯があり目は三角形につりあがっていて怖いといえば怖いのだが、どこか愛嬌がある。手のひらを向けたポーズは「拒否」のポーズらしい。それ以上はもうたくさん、という「拒否」「否定」は、なんだか気持ちいい。
日本人は「ノー」となかなかはっきり言えない国民だと昔から言われてきた。今はずいぶん変わったのかもしれないが、この度のコロナ禍における人々の態度を見ていても、なんとなくあまり変わっていないような気もする。婉曲的な表現を好むのも日本人的で決して悪いことだとは思っていないが、それは「婉曲的である」ことを理解する相手に対してという前提でないと有効ではないのではないか。相手と自分との立場を考慮すればはっきり断らないのが当然という状況もあろうが、はっきり否定しても悪意はないということをわかってもらえる言葉を足せばいいのではないか・・・などと思うが、当たり障りのない人間関係を保つにはそれもまた難しいことなのかもしれない。
しかし、個人的なことではなく政治や社会に対しては、やはりはっきりした態度を示したいと日頃思うことが多い。いやなものはいやである、と。それが難しいのであれば、できるだけ文句や愚痴はいわずにいたいというのが理想(あくまで理想)。できないことが多いが、できるだけそうしようという努力だけはしていきたいと思っている。
ところで、これはごく個人的な感覚だとは思うが、「ノー!」よりも「ノン!」の方が軽妙な感じがする。はっきりと否定する言葉だがするりといなすような?英語とフランス語の違いなのか、単に語感からくる違いなのか分からないが。
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みなさん、こんばんは。ダイスケだよ。「かげがうすい」いっていわれているけどがんばっているダイスケだよ。
またしても、すみごんは「ネコぶろぐ」のひをわすれていたけど、ボクはおぼえていたよ。だから、めで「きょうはネコぶろぐのひだよ!」っておしえてあげたのに、すみごんたらかんちがいして「おお!だいちゃんはかわいいねー!」なんていっておもいださなかったの。もう、どうしようもないわすれんぼうだよ。
さむくなってきたけど、ボクはうちのねこのなかではさむさにつよいよ。おそとできたえたからね。だから、「あんか」がはいっている「ねこべっど」をふくちゃんにとられてももんくいわずに、となりのべっどでねているよ。ふくちゃん、わかっているのかな。ボクがゆずっているの。わかっていないだろうな。ふくちゃんは、からだにたくさん「しぼう」がついているのにさむがりだよ。「あたしははこいりむすめだからね!」っていってるけど、「はこいりむすめ」って、もっとやさしくておとなしいんじゃないのかなぁ。
でもね、さいきんふくちゃんとの「バトル」でボクはがんばっているよ。「はんげき」をまえよりたくさんするようになったの。すみごんが「だいちゃん、がんばれ!ふくはじょうぶだから、とことんやっていもだいじょうぶ!」なんてあおるから、ボクもそのきになっちゃって。でも・・・・さいごはにげることにしているの。だって、なんだかんだいってもふくちゃんってつよいんだもん。で、「ふまん」がたまっているので、くろっぽいおばーちゃんにちょっかいだすとしかられるよ。
おばーちゃんはあいかわらず「へんくつ」で、いつもすみごんをおっかけているよ。あと、おなかすくととってもおおきなこえでないてさいそくするよ。ボクもまねしているんだけど、「そこのふたり、うるさい!」ってしかられてしまうの。おばーちゃんはもう「おとしより」だけど、ボクは「おとこざかり」だし、からだもおおきいからおなかすくんだもん。
ふくちゃんは、よるはすみごんのへやにいりびたっていて、「ふくちゃんばこ」のなかでくつろいでいるらしいよ。いいな、せんようのはこがあって。ときどき、すみごんがねるためにへやをでていっても、ふくちゃんだけのこっていて、すみごんがいないあいだにへやをあらしているらしいよ。すみごんがなんとなくおきわすれた「くっきー」なんかがあると、すかさずそれをもってきてゆかでちらばしてたべているみたい。あさおきたすみごんが、「あーあ、やれやれ!」ってためいきついてるの、ボクみたもんね。
がっちゃん(きくちゃん)は、あいかわらずよくわからないよ。ひるまは、「りびんぐ」のすみごんのいすのうえでずっとねているので、ときどきすみごんがこまっているよ。どかそうとすると、「んんー」とかいっておこったりする。べつのいすにうつされると、おっさんのひざのうえにのってごきげんとってるよ。いいかげんなやつだな、っておもうこともあるけど、いつも「そのかおがわかいいね」っていわれてる。がちゃがちゃのかおのほうがかわいいのかなぁ。ボクは「はんさむ」っていわれているけど、「はんさむ」はそんなのかもしれないとこのごろおもうの。
らいげつは、がちゃがちゃでとくをしているがっちゃんのばんだよ。すみごんがわすれるかわすれないか、ちょっと「みもの」だなってボクはおもっているの。じゃあね、またね。
]]>「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など坂口安吾作品を漫画化した近藤ようこ。安吾とは相性がいいとは思っていたが、今度ははるか昔を題材にした作品を2つ読んで、まだまだ別のものも読みたいと思っている。
ひとつは「死者の書」だ。古代エジプトやチベットのそれではなく折口信夫の著作を漫画化したもの。当麻寺に伝わる当麻曼荼羅縁起・中将姫伝説に想を得て書かれたというもので、藤原南家の郎女と呼ばれる姫がある時尊い俤びとの姿を二上山の上に見たときから千部写経を成就するため導かれるように女人禁制の当麻寺に行き、こもる。姫が俤びとの姿を見た二上山は非業の死を遂げた大津皇子が埋められているところであり、死者である大津皇子も姫の気配にめざめつつあった。写経を終えた姫は蓮糸で織られた布に曼荼羅を描き、さまよう魂を鎮めて自らも浄土へと旅立つ。
もうひとつは「高丘親王航海記」だ。この作品は全く知らなかったが、尊い身分に生まれながら政争に巻き込まれたため出家した親王が天竺をめざす物語。高丘親王は平常天皇の第三皇子だったが、薬子の変により皇太子の身分を廃され、出家して空海の十大弟子になるまでになる。67才のとき思い立って天竺をめざすという人間としてなかなかおもしろいお方である。同行の者たちに「みこ」と呼ばれる親王は物腰やわらかく、そしてとても若く見えるが様々な地での想像を絶する体験ののち自らの死期を悟り虎に食われるために森の中に消えていく。同行の弟子たちは親王の骨を見つけて悲嘆に暮れるが、そのはるか上空を虎に乗った親王が天竺へと向かっていく。
高丘親王の兄である阿保親王の子が在原業平であると知り、どこか納得した。尊い身分ながら政治的な理由で皇族を離れて生きたところは共通しているし、どこか枠に収まらない自由でおおらかな性格は血筋かと思えてくる。
両書とも何度か読み直すであろうことが今から分かっているくらいよい作品だと思う。こういった歴史的な事案をテーマにした作品を読むと、いかに自分の知識が浅いかを知ることになるが、改めて知りたいと思うことがどんどん増えて楽しい。さて、次は何を読むかな。
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前々から楽しみにしていた映画「土を喰らう十二ヶ月」を観てきた。
水上勉の「土を喰らう十二ヶ月」がもとになっている映画だが、あくまで「原案」であり映画は中江裕司監督(脚本も)の創作だ。白馬村の古民家で一人暮らしをしているツトム(これは水上勉氏がモデル)のところに時折やってくる若い女性編集者でありツトムの恋人である真知子(松たか子)は架空の人物。だが、映画全体に鮮やかなアクセントになっており、ツトムの心のありようを反映する存在として欠かせないと感じた。
主演の沢田研二がいい。若いころから「超」がつくほど有名な人・・・いわゆる手が届かない存在のスターであった人だが、年を重ねて見た目はそれなりになった。が、どのように年を重ねたかが如実に現れる年齢になってはじめて出てくる魅力というものがあって、この映画は沢田なくしては作れなかっただろうと思え織るほどの演技、雰囲気だったと思う。
手のアップがたびたび出てくる。畑から取ってきたばかりの野菜を洗う手。樽から出した白菜を切る手。ぬか床に野菜を入れる手。器にそっと盛りつける手。その手がいい。
若いころの中性的な美しい外見からは想像できないくらい厚みのある手だ。しかも、しわしわだ。普段はあたたかいんだろうなぁと想像できる手だ。映画の中に出てくる素朴で滋味豊かな料理にとても似合う手だと思った。
料理といえばこの映画の監修は土居義晴氏である。 物柔らかな感じだが厳しさのある語り口でじっくり映画に付き合ったようだ。料理はもちろん器も私物を貸し出したりもしていて、料理家としての意気込みが映画の背後に静かに漂っていた。
喰らうは生きる。食べるは愛する。いっしょのご飯がいちばんうまい。
季節の恵みをていねいに扱い、生きていることを感謝しながら食べること。ゆっくり噛みしめるように食べること。素材の味をゆっくり楽しむこと。そのたいせさを改めて教えられたような気がした。とにかくすべてがおいしそうで、なかなかあのようにはいかないなと思いつつ食べたいなぁと心の中でつぶやいた。松たか子がいかにもおいしそうに食べ、それをやさしく見詰めるツトムの視線がまたいいのだ。
書きたいことがたくさんあるが散漫になるので、このあたりでやめておく。が、いい映画を観た満足感が今でもあるということだけは最後に書いておこう。エンドロールで流れる「いつか君は」もとてもいい。スタッフが最後は沢田研二自身が歌う曲を流したいというリクエストに応えて、沢田が選んだ曲。この映画にふさわしい曲だと思う。
]]>先日、友人に案内してもらって神保町に行ってきた。第一目的は、近々移転するというタンゴ喫茶「ミロンガ・ヌオーバ」にもう一度入ること。だいぶ昔に同じ友人と行って店内の雰囲気が気に入っていたので。古びたレンガの建物とほの明るい店内に流れるタンゴ。もう一度あの空間を感じてみたかった。
「ミロンガ・ヌオーバ」の創業は1953年だという。なんと私はまだ生まれていない。ほぼ70年同じ場所で「コーヒーと世界のビール」を提供しつづけてきたということだ。移転先もすぐ近くらしい(徒歩40歩!とのこと)。これも有名な「ラドリオ」は姉妹店らしくその近くだという。来年開店したらまた行ってみたい。
神保町はほとんどなじみのない街だが、古書店が多く路地が多くおもしろい店がたくさんありそうでもっと行く機会を増やしたいと思う。中に入らなくても、本がずらりと並んでいる光景は本好きには嬉しいし、美しく整然とした街にはない魅力がある。もう11月だというのにかき氷を販売している店があったり、なつかしい個人経営らしい印刷屋があったりする。学生はもとより出版や編集にたずさわる人たちがたくさん出入りし、独特の文化を作っていった街なのかもしれない。
神保町はカレーの激戦区だと聞いている。今度はあらかじめ好みのカレーが食べられそうな店を探してから探索してみたい。
]]>先日、渋谷パルコの「ほぼ日」で開催されている「はじめての牛腸茂雄」を見に行ってきた。美術館などでなにをやっているかは時々チェックしているが、パルコまで見ていなかったのだが偶然「日曜美術館」で開催を知った。
名前だけは知っている。しかも、かなり昔から。ただ、プリントされた写真そのものは見ておらず私が見たことがあるのは、すべて本に掲載されている作品だけだった。そして私がとくに注視していた中平卓馬、深瀬昌久等々の、ある意味でエキセントリックな印象を受ける写真家とは全く違う「静」のイメージの写真として記憶していた。テレビで名前を見かけるまでほとんど忘れていたに等しいし、また(たぶん)回顧展のようなものもあまりなかったのではないかと思う。それが今、パルコという場所で、たぶん牛腸のことを全く知らない世代に向けて少数ながら選び抜かれた作品が展示されているということは何を意味するのだろうか。
ともあれ、この機会を逃してはならぬとさっさと出かけてきたというわけである。
展示は短い生涯の中で(37才で他界している)3冊だしたといわれている写真集の中でも最も有名かつ評価が高い「SELF AND OTHERS」が中心。モノクロームのさほど大きくはない写真が端正に並んでいた。被写体はタイトルどおり牛腸にとっての「他者」がほとんどで、幼いころ患った胸椎カリエスにより異形ともいえる姿になった自身のセルフポートレイトは最後から2番目の1枚だけだ。が、よくよく考えてみると、牛腸が撮った「他者」はみな撮影者の方をじっと見ている。彼らの目に映った牛腸自身がそこにはいたのだと思うと、なるほどなと思えてくる。
写真評論家・飯沢耕太郎は「私写真論」「写真集の愉しみ」で牛腸について書いているので再度それを読んでみた。とくに「私写真論」ではとりあげられている写真家4人(中平卓馬、深瀬昌久、荒木経惟、牛腸茂雄)の中で異色の存在に思える。他の3人の嫌みなほど個性的な印象とはかけはなれているように思われるのだ。が、それは第一印象でしかないことが徐々にわかってきたような気がしている。じわじわと響いてくるような不思議な魅力のある写真とでもいおうか。満面の笑をたたえるでもなく、泣きそうな顔をするでもなく、苦しそうでもなく・・・それでもそれぞれに抱え持ったものを内に秘めた静かな視線の数々がそこにある。
双子を撮った写真がとくに有名らしい。飯沢の本で指摘されているように、それはどうしてもダイアン・アーバスの写真を連想させるが、受ける印象は大きく違う。アーバスの写真は怖さを感じさせるが(こわくて持っているのがいやだから、と友人から写真集をもらった)牛腸の双子からはそのような怖さは感じない。そっくり似ているのに別の人間であることの不思議さ、理不尽さ、愛着などの小さな種をもしかしたら持っているかもしれない二人の女の子がじっと撮影者の方を見ている。
写真展にもなかなか行かなくなり、自身もスマートフォンで写真を撮るのみになってしまった今。かつて写真に対して熱い思いをもっていたことを思い出させてくれた写真展でもあった。
]]>10月も今日で終わり。今年もあと2ヶ月とあいなった。朝晩の気温はかなり下がってきて、晩秋といっていいのか初冬といっていいのか・・・とにかく今年ほど気温の変化、気圧の変化に振り回された年はなかったように思う。それでなくても自律神経が年中不安定な体質なので、かなりこたえた。朝起きてどこも痛くないとほっと一安心する。
今ごろ渋谷では懸念されていた大騒ぎが起きているのだろうか。韓国での大惨事があったばかりだが、コロナ禍のストレスがあるのかないのか今年は前々から人出の多さが予想されていた。ハロウィンにしろクリスマスにしろバレンタインにしろ、日本人はこういったイベントが大好きだなと改めて思う。宗教的なものもあるのかもしれない。宗教的な意味やそれぞれの歴史などはお構いもなく、楽しく過ごせるチャンスとしか思っていないように見える。
なんとか割、なんとかポイントが盛んに宣伝されている。無駄遣いはしたくないのは誰でも同じだから、同じものを買うなら、同じことをするなら少しでも安上がりになれば嬉しいというのはわかる。が、あまりにそれに固執してしまうことには多少の(いやそれ以上か?)抵抗感はある。コロナ禍での特別貸付を借りた人のうち約3割の人たちが返済できず自己破産が相次いでいるという現実。これからどんどん寒くなる中、若い人や女性が増えてきたというホームレスの人たちにとって厳しい季節がやってこようとしている。
この国の政府はお金の使い方が全く頓珍漢である。単に「やっています」感をアピールするためだけのバラマキに見えてしまう。まいてもまいても、枯れかけた木に花は咲かないと思うのだが。
春から秋にかけて今年も蝶の幼虫飼育をやったが、今月半ばくらいに蛹になった最後のクロアゲハは一向に羽化する気配がない。気温の変化により越冬するつもりなのか、それとも・・・今年は寄生されるものよりもなんらかの病気で羽化するところまでいかなかった個体が多かった。羽化したものの羽の状態が不十分で飛べないものもいた。小さな生き物たちにも環境の変化は明らかに影響していると思われた。
11月になれば、雪崩れるように年末になってしまいそうな気がする。衰えつつある体力気力と上手に付き合いながら、漫然と暮すことだけはないよう意識的に生活していきたいと思う。
]]>昨日の東京新聞22面でいきなり「カシアス内藤」の名前を見て驚いた。忘れてはいないが、もうだいぶ聞かない名前だった。驚いた後なつかしくなり記事を読むと、私が知らなかった事実があってそれにまた驚いてしまった。
「カシアス内藤」というかつてボクサーだった人については、このブログでも書いた記憶が朧げだがある。若いころよく読んでいた沢木耕太郎氏の代表作でもある「一瞬の夏」の主人公であり、それに先駆けて書かれた「クレイになれなかった男」でもカシアスが扱われている。沢木氏にはスポーツ関連のノンフィクション作品が多いが、やはり私は「一瞬の夏」が一番好きだ。
作品及びカシアスについては長くなりそうなので書かないが、才能溢れるボクサーながら唯一の弱点である「やさしすぎて勝負に徹しきることができない」ことが災いしてボクシングをやめる。1971年に21才で東洋ミドル級チャンピオンに上り詰めたのだったが。しかし、その4年後再びリングへ。2勝したものの弱点は残っており引退。
記事は復帰に向けてトレーニングをしていたころ、沢木氏に連れられていったジムでアリスの谷村新司氏とカシアスが出会ったことが書かれている。そして生まれたのが「チャンピオン」というヒット曲だった。これにはびっくり。私も何度か聴いたことがあるが、サイモンとガーファンクルの「ボクサー」の影響を感じていただけだったから。
谷村氏はカシアスの迫力に驚き感動し、出会った日に曲を書き上げたという。そして、沢木氏、カシアスと出会った縁に感謝しかない、と語っている。
一方、カシアスはというとこの曲が自分と関係していることをはじめは知らなかったらしい。沢木氏とカラオケに行った時に「それ君の曲だよ」と教えられて驚いたという。しかし、その後の人生においてこの曲がカシアスを支えることになるとは、当時は知る由もなかっただろう。
上の写真の「カシアス」という本を読んでいるので私は知っていたが、引退後ジム開設に向けて意欲を燃やしていたカシアスに末期の喉頭ガンが見つかる。余命3ヶ月。うちのめされるが、彼はジムをあきらめない。患部を切る手術をすると声を出せなくなるので指導ができない・・・抗がん剤と放射線治療を繰り返し、ボクシングで培った驚異的な体力、そして「今度は負けない」という精神力で今でもガンと共存しながらジムを運営している。
ガン治療の辛かった時期、カシアスは「チャンピオン」という曲を思い出し自らを奮い立たせていたという。谷村氏にとってもカシアスにとってもこの曲は特別な曲なのだろう。縁とは不思議なものだと改めて思わされた新聞記事だった。
]]>みんな、こんばんは。ふくちゃんだもんね。せんげつはずいぶん「ねこぶろぐ」がおくれて、まめこばーちゃんがぷんすかおこっていたもんね。こんげつはふくのばんだから、きっとわすれなかったもんね。さすが、ふくのなかよしのすみごんだもんねー
さいきんふくは、「おしいれ」のなかにはいっているのが「まいぶーむ」だもんね。あさごはんたべたら、さっそく「おしいれ」にごー!だもんね!すみごんは、「けだらけになるから、やめてー!」っていうけど、あったかくてくらくていいもんね。しめても、ふくはあけられちゃうもんね。ふくの「わんりょく」はすごいもんね。
よるは、ときどきすみごんのへやにはいって、つくえのうえの「ふくちゃんばこ」でねているもんね。ごはんのじかんがちかくなるとはこからでて、あぴーるたいむだもんね。ふくの「はらどけい」はとってもせいかくだって、いつもほめられているもんね。
まめこばーちゃんは、あいかわらずだもんね。なにかあるとすぐになくので、「まーちゃん、ちょっとうるさいよ!」ってときどきいわれているもんね。でも、うるさくするだけげんきっていうことだもんね。あんなにちっちゃくてガリガリなのにげんきだもんねー。きにいらないごはんだとたべないで、もっとおいしいものをよこせってもんくいっているもんね。で、てーぶるのうえにある「さかな」や「そうざい」をいつもねらっているもんね。すきをついてぬすむのもうまいもんねー
だいすけもあいかわらずでぴーぴーないているもんね。あけがたになるとねているところからでてきて、おっさんとすみごんのあいだにはいってゴロゴロしてあまえているもんね。「ちゃとらはいいねー!」ってすみごんにいわれて、めをほそめてうれしそうにしているもんね。でも、だいこうぶつの「やきのり」はすこしだけしかもらえないようになってざんねんそうだもんね。たべすぎはよくないってすみごんがどこかで「じょうほう」をしいれたらしいもんね。しかたないもんね!
きく(がっちゃん)はさいきん、りびんぐのすみごんのいすのうえがすきになったもんね。いつもそこでねているから、すみごんにときどき「がっちゃん、どいてー」っていわれてどかされているもんね。あのこはほんとうになにをかんがえているかわからないもんね。それに、ほとんどなかなくて、たまに「んー!」っていうだけだもんね。「がっちゃんはいつもおとなしくしていてえらいね」ってほめられているけど、ほんとうはふつうになけないんじゃないかって、ふくはおもっているもんね。
もうすこしさむくなったら、よるはすみごんのふとんのなかにいれてもらおうとおもっているもんね。ぬくぬくだもんね。おしまい。
]]>一昨年11月にグランドオープンした角川武蔵野ミュージアム。オープン直後から行きたいと思いつつ、コロナもある程度関係してきて行けていなかった。前から声をかけていたMちゃんと、昨日漸く行くことができた。
写真で見てもある程度想像できたが、隈研吾さんのデザインによる建物は想像以上の迫力だった。喩えはよくないかもしれないがバベルの塔みたい。あるいはもしかしたら日本ではあまり見ることができない巨大な石の建築物もそうなのであろうか。木造では感じられない絶対的な・・・とでもいうか威圧的なものさえ感じる。上層にいくに従ってボリュームを増すデザインがそう感じさせるのだろうか。
このミュージアムは「ところざわサクラタウン」のランドマーク的な存在らしい。ミュージアムのほか、ホールや飲食店、書店などが入っているジャパンパビリオン、ホテルやオフィス、スポーツ施設、書籍製造工場などが入っている棟、果ては?神社(武蔵野坐令和神社・むさしのにますうるわしきやまとのみやしろ)などがある。少し手前にある武蔵野樹林パークには「どんぐりの森」というアート空間もある。エリア全体で「日本最大級のポップカルチャー発信拠点」をコンセプトにしているようだ。
さて、ミュージアム。フロアによって見どころはいろいろだが、ワークショップなどのあるフロアは今回体験する予定がないので行かず。5階の武蔵野ギャラリー、4階から5階の本棚劇場、そして1階のグランドギャラリーで現在開催されている「ファン・ゴッホ 僕には世界がこう見える」を見てきた・・・というか体感してきた。この「360度体感型デジタルアート劇場」については後日書きたいと思っている。本日は割愛。
デジタル劇場にも圧倒されたが、本好きとしてはやはり本棚劇場だろう。高さ約8メートルという巨大な本棚に囲まれた空間には角源義文庫、山本健吉文庫、竹内理三文庫など個人蔵書が並び、「本と遊び、本と交わる」をコンセプトにしたプロジェクション・マッピングが上映される。約3万冊という書籍は自由に手に取ることができ、じっくり見たかったら一日いても足りないねとMちゃんと意見一致。
ミュージアムというと普通は鑑賞を目的にしていると思うが、ここは鑑賞というよりも体験・体感を目的としたミュージアム。なんても所沢はアニメの聖地らしくアニメ関連の本や施設も多い。また、館長があの松岡正剛さんなので本の並べ方などが一般的な書店、図書館と全く違うところが楽しい。生真面目に本を探そうという人は戸惑うが、本の世界で遊ぼうと思う人にとってはなかなか楽しい空間になっている。以前、東京の丸善の上層階にあった「松丸書店」を愛した私としてはまたあの空間に出会えて嬉しかった。
東所沢はアクセスの面からはやや遠いが、今後も企画次第で行きたいと思っている。帰りはMちゃんと軽く?飲んで、ご機嫌で帰宅。
]]>親としてはなんとなくいやーな気分になる「親ガチャ」という言葉を知ったのはもうだいぶ前になる。主に親の経済力により子どもの人生は変わる、子どもは親を選んで生まれてくることはできないから「ガチャ」というわけだが、そんなこと昔からあったのに、と思う。しかし、私が子どもだったころとは世間の様相がだいぶ変わって、「格差」がこんなに身にしみる時代になったということなのかもしれないと思う。
私が子どもだったころは、住む地域にもよると思うが「豊かさ」という点で周囲はほとんど似たようなものだった。少なくとも子どもの目にはそう見えた。もちろん、お金持ちそうな家もあったし、なんとなく困っているんだろうなぁと子どもなりに感じられる家はあった。が、ほとんど子どもはそのようなことを気にせず一緒に遊び成長していったように思う。
小学校のころも、経済的にもゆとりがあり優秀な子たちは市立の中学校に行ったが、クラスでもほんの数人。あとは当たり前のように地元の公立中学校に行った。少なくとも私はそれを羨ましいとも思わなかった。一度同じクラスのいかにもお金持ちの家のお嬢さんといった感じのクラスメートの家に遊びに行ったことがあるが、その時彼女の母親が外出前に用意しておいてくれたのが手作りのシュークリームで、おやつといえばふかしたサツマイモが多かった私はびっくりした。ああ、お金持ちの家はこうなんだなぁと思ったが、そんなものだなとも妙に納得しておわり。
思えば、今に比べたら子どもたちにとって幸せな時代だったのかもしれないと思う。
15日の東京新聞「筆洗」(1面下のコラム)で、旧統一教会の信者の家に生まれた女性が記者会見で語った話が出ていて、経済力だけでなく親の思想信条などによる新たな「親ガチャ」もあるんだなと思った。幼いころから親の思想や価値観をたたき込まれれば洗脳状態のようにもなろう。多くの二世が自らも教会の会員になり、想像を絶する苦労をしてきた人も少なくないようだ。
安倍元首相の襲撃事件は、今まで広く知られることのなかった二世だちの苦悩を明らかにするきっかけになった。犯人のしたことは思い罪に値するが、皮肉なことに元首相と深い関係があったと思われる旧統一教会の内情について深く斬り込むきっかけにもなった。そして、全ての宗教がそうだとは言わないが、宗教の恐ろしい面もあきらかになったような気がする。
宗教でなくても、自分の価値観を必要以上に子どもに押し付ける親は至るところに存在する。「毒親」なんていう言葉も耳にする時代だ。親として、子どものためにという気持ちに嘘偽りはないと思うが、子どもも1人の人間だ。親とは違う独立した個性を持つ人間なのだ。道を示すことは悪くはないが、その道からはずれる子どもの行く末を黙って見守るのも親の務めだとずっと思ってきた。息子が「親ガチャ」でハズレを引いたと思っていなければいいなぁと思う。
]]>いやはや、日本語の乱れなんていう物言いも「年寄りの遠吠え」みたいに思われるのかなぁなんて思える昨今。流行は変遷するけれど、流行に左右されない確かな何かってあるのかな?・・・
テレビをあまり見ないこともあるのかもしれないが、ここ数年意味がわからない言葉(流行語なのかSNSで盛んに用いられている言葉なのかわからないが)が多々あって、気になれば一応調べてみる。笑われるかもしれないが、「バスる」も調べなければわからなかった。コロナ関連で出てきた言葉はなんとかわかるにしても、SNSについてはほとんど???である。「チルい」って何?てな感じ。
そういうこととはまた別に、昔から使われていた言葉などでも正確な意味を知らなかったことを思い知ることも時々ある。たとえば、「姑息」。
なんとなく、「こずるい」くらいの意味かと思っていたのだが、実際は「一時しのぎ」だそうだ。「姑息な手段」なんていうと卑怯なやり口という意味にとらえていたが、本来の意味からするとけっこう違う。「割愛」も然り。単に「省略」程度に思っていたが、本来は「惜しいと思うものを手放す」で、本当なら説明すべきところを止むなく省略する、という意味。
あと、今日ふと思いついて調べてみたことがある。「袖振り合うも多生の縁」について。まず「多少」ではなくて「多生」であることを知らなかった。なんとなく知り合ったのもなにか縁があるのかもしれない・・・ほどの意味かと思っていたが、「多生」は仏教の世界の言葉で輪廻のこととか。つまり、出会ったのはなんらかの因縁があり、偶然ではないという意味らしい。ふーん・・・
袖といえば、大昔(たとえば万葉集の時代)、袖を振るという行為は愛情表現だったようだ。有名なのは額田王(天智天皇の妻)の「あなねさす紫野行き標野行き野守はみずや君が袖振る」。彼女は天智・天武の兄弟に愛された女性で、兄の妻の彼女に弟の大海人皇子が遠くで袖を振るのを見て詠んだ歌とされている。今では袖を振るなんていう古風な愛情表現なんて皆無だろうなぁ・・・
なんて思っていたら、ちょっと気になった歌詞があった。今を時めく?米津玄師の曲に「PLACEBO」というのがあるが、そこに「この想い笑えないよ全然 袖が触れてしまった」というのがあるのだ。この人(米津)は時々今にすれば古風な言葉を使うなと思っていたが、どのような意図でこういう表現をしたかはわからない。
これからも、どんどんわからない言葉が出てくるんだろうなぁ。それはそれで気になれば調べればいいし、それとは全く別の意味で、昔から大切に使われてきた言葉もできるだけ正確に知る努力はしたいなと思う。私にとって言葉はそれくらいたいせつなものだから。
「ぼんくら」っていう言葉も、意味がわかる人とわからない人がいるんだろうなぁ。
]]>久しぶりに書くのにこんな話題?と、自分でもちょっと情けなくもないのだが・・・
昨日、久しぶりに人形町に行ってきた。数年前まで・・・まだかろうじて現役で仕事をしていたころは時々行っていた街だった。仕事をくれる会社があり、時々打ち合わせなどで出かけていたのだ。時間があれば、行き帰りにうろうろしていたつもりだったが、仕事を離れて気ままにうろつくとまた今まで見てこなかったものも発見できておもしろい。
私は主に「甘酒横丁」と言われる通りを通っていたので、鯛焼きの名店「柳屋」があるのはもちろん知っていた。ただ、我が家では鯛焼きといえば麻布十番の「浪花屋」みたいな暗黙の了解のようなものがあって、一度も買ったことがなかった。で、今回ぜひ買ってみようと思っていたのだが、残念ながらやっていなかった。日曜祭日はお休みとのこと。
あきらめてあちこち歩いていたら、また別の鯛焼屋に遭遇。なんでも「天然鯛焼き」だという。天然?鯛焼きに天然?とよくわからなかったのだが、同行していた妹がどこかで知ったらしく美味しいらしいという。それならと並んでみた。必要個数ができるまで20分かかるとのことなので、周辺を歩いて時間を潰して無事購入。あつあつの鯛焼きから立ち上る匂いうるわしく帰路についた。
帰宅してから調べてみると、鯛焼きの「天然」とは、昔ながらの一尾一尾焼く手法で作られたものらしく、数匹同時に焼くのを「養殖」と言っているらしい。うーん。確かに一尾ずつだと手間がかかるし目配りも大変だろうが生の魚の天然・養殖とは全く違うのになぁと妙な気分。
そして、珍しいと思っていた天然鯛焼きだが、浪花屋も柳屋も焼き方は一尾一尾なので天然。なぁんだ、同じじゃん!と笑ってしまった。やれやれである。
昨日は食べられなかったのでとりあえず冷凍にし、今日常温に戻した後トースターであたためてカリカリにして食べてみた。皮はカリカリ、アンコはほどよい甘さで優しいお味の鯛焼きだった。家人に言わせると、皮が甘いという。私はそこまで微妙な舌は持っていないし、昔から親しんだ味に対する執着もないのでそんなものかなと思うだけ。
結局思うのは、やはりああいうものは、焼き立てをどのような状況で食べるかで味わいは違うのではないかということ。鯛焼きにしろ大判焼きにしろ焼き立てのあったかいものをひんやりした気温の中でほおばるのが一番美味しいのではないか。天然でも養殖でもいいからさ!ってね(^.^)
]]>先月中ごろだっただろうか。朝日新聞のデジタル版でホームレスの人たちが撮った写真集があるということを知った。カメラこそ持たずにいるが、今でも散歩が好きで路上に被写体を求めがちな私にとっては興味のある話題。さっそく調べて写真集を取り寄せてみた。
タイトルは「アイム」。「I'm」(私は○○)という意味で、ホームレスも1人の「私」であり、一人一人の目線があること、その背景にそれぞれの人生があることを知ってもらいたいという発行元の思いをこめた題名だ。発行したのは、大阪市北区の認定NPO法人「Homedoor(ホームドア)」。2017年に使い切りカメラをホームレスの人たちに渡したことがはじまりというから、5年目にしてやっと出版されたということだ。
昨年3〜5月に実施したクラウドファンディング(最近はCFって表記することが多い)で集まった約600万円で1500部作り、今年の4月に発行。写真集としてはけっこうおおざっぱな作りかたで、ページ割のためだろうかところどころに白紙だけのページもあったりするが、そのようなことは問題ではない。どのような写真を彼らが撮ったか・・・それだけを見られればいいのだ。
ざっくり見ただけでも、一人一人違う視点、視線があるのがわかる。建物だけを撮る人。夜景だけの人。公園のありふれた風景、スズメや野良猫だど日常で見かける生き物、自分たちが住むブルーハウスや空き缶をたくさん積んだ自転車・・・カメラという道具を手にして、普段何気なく見ていたものを彼らは再認識し、自らの視点で切り取る。発行元が言っているように、そして本当に当たり前のことなのだが、私たちと同じように彼らも1人の生活者であり何かを見て感動したり淋しくなったりしているのだ。
おおいに刺激される写真集だった。昔、カメラを常に持ち歩いて街歩きしていたころを思い出した。
最近妹と散歩する機会が多いが、よそ見をあまりせず早足で歩く妹と私の違いをその度に感じる。歩くのが遅いせいもあるが、そもそも視界が違っていて気になるものが違う。彼女は飼育にはまっている蝶が飛んでいると私より早く見つけるが、それ以外のものにあまり視線が向かない。妹の視線は歩く方向に向かってまっすぐだ。
それに対して私の視界は広角で気になるものがいちいち目に入る。横道があれば必ずのぞく。その奥に古びた扉などがあると近づいてみたくなる。廃業して久しい店のショーウインドウの中が気になる。道端に落ちているキーホルダーが、鉢の割れ目から伸びた枝が、一部の文字が消えかけた看板が・・・という具合で、妹は何度もふり返りすぐ後ろにいるはずの私がなにかにかかずらわっているのを見て少々あきれ顔になる。
何に心惹かれ、何を撮るか。それは持って生まれた感性、好みもあるが大げさにいえばどのように生きているかでもあるような気がする。それをあらためて気付かせてくれた写真集だった。
]]>ぷんぷん。ぷんぷん。ぷんすかぷん!
まめこなの。きょうは27にちなの。「ねこにかたらせるひ」は5にちもまえなの。それなのに、すみごんはきょうやっとそれをおもいだしたらしいの。あーあ、わすれっぽくなってきたとはおもっていたけど、もうだめだな。せんげつはおぼえていたくせに、このいえの「さいちょうろう」のまめこのばんをわすれているなんて、ゆるせないの!
でも、「ぐち」ばっかりゆっているわけにもいかないからさ。しかたないから、きょうの「ねこぶろぶ」はかいてあげるです。
あきになったので、まめこはしょくよくがすこしでてきたの。なつのあいだはちょっと「しょうしょく」になっていたけど。で、なにがいちばんすきなっていうと、にんげんがたべるものなの。とくに、あさごはんのときにてーぶるにある「さば」とか「さけ」とか「ぶり」とかをやいたやつ。あれたべたいの。でも、ちっともくれないの。けち。
ときどきあたまにくるから、カリカリをたべないでのこしておくの。そうすると、「これたべないならほかのもあげない」っておどかすんだよ。ひどい。でもそうおもっても、おなかすくとたべちゃうの。あーあ。あ、そうそう。まめこはまだまだ「は」はじょうぶで、カリカリだってふつうにたべられるもんね。すごいでしょう。
ふくはあいかわらずなの。なんでもたべて、まめこがのこしたのもたべてる。ごぜんちゅうは、すみごんのへやの「ふくちゃんばこ」でねていて、ごごからはかいだんのとちゅうでねていることがおおいかな。よなかもかいだんでのびのびねているから、じゃまだなっていつもいわれてるの。
あとね、ふくはときどきすみごんがねているとうえにのしかかって、「にゃーお、にゃーお」っていつもはださないこえでないてあまえるの。こねこのころにもどって「みーゆ、みーゆ」ってゆっているつもりらしいの。すみごんはペラペラのからだだから、ふくのおもさがつらいんだって。せきがでるんだって。で、すこしがまんしてよこむきになるの。さいきん、ふくもすこしあきらめて、おっさんのほうにいってやっているの。あんなにからだがでっかいのにおかしいの。
だいすけもあいかわらずで、ごはんまえにはふくにいじめられてひめいをあげているの。よわっちいけど、そこがだいすけのいいところなんだって。すみごんは「だいちゃんはやさしくていいこだねー」ってなでながらほめているの。まめこ、いまでもあいつはにがてだけど、すこしかわいそうになることがあるから、ちかくにいてもまえみたいにおこらなくしているんだよ。えらいでしょう。
きく(がっちゃん)もあいかわらず、まいぺーすで「てんねん」なの。ふくとやりあってもまけてないの。ふくのほうがにげることがおおいな。「てんねん」は「さいきょう」かもしれないってまめこはおもったです。
らいげつは、からだがでっかいくせにさむがりのふくのばんだよ。また、すみごんはわすれるんじゃないかなー。わすれるほうに1ぴょう!おしまい。
]]>国民の半数以上が反対なのに「国葬」と呼ばれているものが明日執り行われるらしい。弔問外交を言い訳のひとつにしていたようだが、フタを開けてみればただ挨拶するだけで終りそうな弔問客が多そうだ。なんともみっともないことだが、とにかく一度やると決めたことは何が何でもやる、いくら批判されてもやってしまえばすぐに国民は忘れるだろうと高を括っているのか。日本国民もずいぶんとバカにされたものだ。
一連の状況をニュースなどで見聞きするたびに、あれ、これってどこかで見た光景だなと感じる。似たようなことが、つい最近あったような・・・
そう。もちろん個人的な感覚ではあるが、私は東京オリンピック開催に至るまでを思い出してしまう。東京が選ばれた時に選出会場にいた関係者たちの喜びようは異様に映った・・・はじめから反対の立場をとっていたからそう見えたのかもしれないが、あの手放しで喜んでいる姿には共感できるものはいっさいなかった。ああ、決まってしまったのか、とがっかりしただけだ。
以来、反対意見は様々なところで言われ、叫ばれた。それ以前に国立競技場の設計ですったもんだし、ロゴの盗作騒ぎでわさわさし、その他にも様々な問題が矢継ぎ早に出てきた。コロナ禍の真っ最中に、経済的、精神的に追いつめられる人たちがどんどん増えている最中に、メリットを享受できる者たちだけのためのお祭りを開催した。やってしまえばこっちのもの!そんな傲慢さが透けてみえるのがとても似ているのだ。
エリザベス二世の荘厳な国葬を見せられた後で、明日行われるそれは世界の人々に、日本国民にどう思われるのか。日本はどんどん劣化している、将来性もない・・・そう思われても仕方ないテイタラク。テレビでは国葬の模様をしつこいほど放映するのだろうが、オリンピックの時と同様情報が届かないところに(もしあれば)しばらく蟄居?していたい気分。
]]>先日千葉に住む友人から東横線沿線でやっている小さなイラスト展に行きたいので会おうかという話をもらい、ほいほいと出かけて行った。彼女はグラフィックデザイナーでささっと自分でも絵を描く。以前も千駄木方面の本屋を何軒か一緒に行ったことがあり、いわゆるリトルプレスの印刷物などを熱心に見ていたのを記憶している。編集畑でずっと仕事をしてきた彼女らしいと思えた。
偶然、そのイラスト展を開催していた場所を私は知っていた。以前(半年以上前だと思うが)東急線の情報誌で記事をみかけて行ってみた小さな本屋だ。向かいの大きめの本屋は昔から地元の書店として営業していて、その向かいの空き店舗かなにかを利用して従業員の女性が自分が選んだ本を販売する小さな書店を開いたという記事だったと思う。「生活綴方」という店名も気になって行き、その時目に留まった本を一冊買ってきた。
今回も彼女を案内して店内をあれこれ見ていて、ふと気になる表紙の本を見つけたのでそれを買うことにした。「詩の玉手箱」というタイトルで、パラパラとめくるといろいろな詩人を詩が私好みの絵とともに紹介されていて、詩人である三木卓さんの解説というか随想というか、そのような文章が添えられている。レコードジャケットではないが、表紙がいい本はきっといい本だという個人的な勘のようなものがあって購入。店頭にあったものは箱から抜いたものだったのだが、新しい本を倉庫から出してきてもらったら明るい絵とともに「画 柚木沙那弥郎」とあった。なぁーんだ、いいと思ったら柚木さんの絵だったのか、と妙に納得。
帰ってきてからつらつらと読み、やはりいい本だと思った次第。私は絵でも詩でも1人の人のものを扱う本、あるいは展覧会の方が好きだが、こうやっていろいろな作者のものに出会う機会もまた大切だと思っている。新しい発見があちこちにあるから。
私が気に入って買うことにした本体の表紙は、幼さが残るような女性の横顔をマッチを擦る手の絵だった。ほんわかした雰囲気がなんともよかった。そしてその詩はジャック・プレヴェールというフランス(たぶん)の詩人の「夜のパリ」という詩とともに掲載されていた。
詩を書く友人にその話をすると、有名な詩だとのこと。そうだったんだ!と私は相変わらずである。が、絵もいいが詩もよくてこの詩を知ることができたのもいい出会いだったなと心から思えた。本との出会いはこういうことがあるから楽しい。
夜のパリ
三本のマッチ 一本ずづ擦る 夜のなか
はじめはきみの顔をいちどきに見るため
つぎはきみの目をみるため
最後のはきみのくちびるを見るため
残りのくらやみは今のすべてを想い出すため
きみを抱きしめながら
ジャック・プレヴェール /小笠原豊樹訳
]]>
長年の猫友であり我が家のネコT制作でお世話になっているKさんに先日久々に会った。去年の11月以来。一年に一度か二度会うようなお付き合いをもうどれくらい続けてきただろう。いつも細かい気遣いをしてくれる誠実なお人柄だからこそなのかもしれない。
Kさんはグラフィックデザイナー。どちらかというと編集畑の仕事が多いようで、広告にかかわる仕事をしてきた私とは同じ制作にたずさわる者といっても私が一緒に仕事をしてきたデザイナーとは少し仕事内容は異なる。が、共通するところも多く、仕事に関する話をしても腑に落ちることが多い。
私はもう仕事をやめて数年経っているが、Kさんは今でも現役で仕事をしている。立派だなと思う。世の中がどんどん世知辛くなり、かつてのバブルなんぞ夢のまた夢。フリーランスで仕事をしている末端の制作者はつらい状況が続いている。もはや仕事そのものの性質が変わってきたのだと思う。人件費を極力抑えて効率的に・・・それがどんどん徹底されてきて、携わる者はほとほと疲れてくる。私はそれに我慢できずに・・・そろそろ潮時かなと思うこともあってきっぱりとやめることにしたが。
しかし、何においても継続は力なのである。あきらめずに細々とでもいいから続けてきた人の方が偉いと私は思っている。
そんなこととは別に、先日昼食のために入った店でKさんが小さなスケッチブックに料理の絵をささっと描いているところを見させてもらった。前に会った時も見たし、彼女のブログでも時々見かけている。食べたものを中心にその場でさっと描くその絵が私は前から好きで、羨ましい才能だなと思っている。黒のマーカーでさっと描いてあとから彩色するらしいが、簡単に描かれているようでいてそこには描き慣れた人の自在な線の動きがあり、気負わず描いた楽しさがある。見ていて楽しいのである。
以前からそう思っていたので、先日は思わず写真を撮らせてもらったのが今日ここに掲載しているものだ。お断りしていないが・・・たぶん・・・大丈夫・・・だよね?(^^;)
その時、Kさんが描いている時、私はふと自らを省みて少し情けなくなった。彼女は何のためでもなく、記録するという目的以外にも絵を描くのが好きだから続けているのだと思う。が、そこには自ら決めてやっているという理由もあるのではないかと思う。自分に何かを課することでそこにとどまり続けたいと願う気持ちがあるような気がする。
それに比べて・・・と思ったのである。かつて私はこのブログを基本的に毎日更新しようとしてきた。何年もそれを続けてきた。それはたいしたものではないにしろ人に読まれることを前提に文章を書くことを続けることにより、筆力の衰えをできるだけ抑えたいと思っていた。もちろん書く目的はそれだけではないが。
しかし、毎日更新やーめた!と決めた途端にずぼらになり気付けば1週間以上更新していないことなどザラになっている。要するに面倒臭がっているだけなのだが、何を面倒臭がっているかと考えるに書くことではなくて考えることを面倒臭がっているのだという結論に達する。話題にしたいと思うことは以前同様あるのに、かたちにしない。
書くという行為は最終的なもので、その前に考えなくてはならない。むしろそちらの方に時間がかかる。細かいことは書きながらにするにしても、筋道や骨格は頭に中で作り、それからキーボードに向かう、言葉の吟味や内容の入れ替えなどは書きながらやるにしても、おおまかなところはすでにでき上がっている、というのが少なくとも私のパターンだ。一番たいせつなのは考えることで、それをどう表現するかはその次。最初の段階を面倒臭がっている自分を、私はKさんの絵を見ながら切実に感じていた。
反省してもそれが活かされないようではだめだな・・・と思う。さて、少しは真面目になるかな?
]]>エリザベス2世が亡くなった。ついにロンドン橋が落ちた。在位70年。途方もない年月であり、王室をずっと守り、国民のために生きた人生だからこそ手放しで敬愛される存在なのだろうと思う。ただ長いというだけではなく数々の困難を乗り越え、様々なものと戦い、愛し、微笑み、生きた。立派だなと改めて思う。
在職期間が長いというだけで国葬にをすることになった人とは全く違う。奇しくも葬儀が近くなったことで、その違いが鮮やかになったことは「ざまみろ!」である。女王の棺が通る道筋に集まった人々の気持ちと、凶弾に倒れた元首相のそれとはそもそも違うと思う。その場の雰囲気に流されがちな日本人・・・あれだけ悲しんでいる人が多いのだからと独善的に国葬を決めたことを今の首相は後悔してはいないのか。していないのであればもう救いようがない。
ともあれ。なくなった女王は2世だ。エリザベス1世もまた苦難の時代を生きた人で、評価は分かれるだろうが、いわゆる「ゴールデンエイジ」をもたらした女王として有名である。カトリックの陰謀をかわしつづけたプロテスタントの女王であり、かのスペインの無敵艦隊を破り、血なまぐさい権力争いの中で「英国と結婚」したかのように独身を通した。
私の知識はいたって浅く、映画によるところが多い。ケイト・ブランシェット演じるエリザベス1世の生涯を描いた「エリザベス」「エリザベス〜ゴールデンエイジ」は何度も見た。あとは2世についての「ザ・クラウン」はシーズン4までは見ている。ほとんどそんなものなので何を言うにしても断定はもちろんできないが、ただ、両者とも肝が据わった・・・座らせるために数々の努力をした偉大な女性であるという印象は今でも持ちつづけている。
1世が独身を通したのと対照的に、2世は初恋の相手と結婚し添い遂げた。女性としての幸せも(不幸せも)経験してなお女王として誇り高い人生を送られたことを無条件に認め、その死を悼みたい。
]]>ずいぶんブログを更新しなくなってしまったなぁ、と思う。時々、そろそろ・・・などと思うものの億劫さが先に立ってしまって。老化かな・・・いやいや心がけだな・・・
天候だけでなく、社会を見回してみても「異様」ばかりが気になる8月が終った。毎年「今年の暑さは例年にない」と思うが、年々例年にないことが続くのだろう。地球自体がおかしくなっている、そしてその責任は人間にあり、自分もその1人だと思うのはつらいが仕方ない。他の生物から責められても言い訳はできない立場だということを意識するしかできないでいる。
月が変わったからといって区切りがつくわけでもなく、不安(不快、恐怖、嫌悪等々を含む)はどんどん増していくように感じる。たとえば原発回帰。岸田首相がいきなり言いはじめた再稼働の話は耳を疑ってしまった。もうだめだな、あの人。そう思った。
福島第一原発の事故から一体何を学んだのだろう。何も失わない立場だから学びもせず、国民よりも自分たちの立場を優先させたとしか思えない。原子力の平和利用・・・そんなの絵に描いた餅ではないか、と思わざるを得ない。10年以上立っても廃炉にする段取りは進まず、汚染水を垂れ流すしかなく、双葉町をはじめとする地域はいまだに復興途中・・・11年経っても一部しか帰宅可能になっておらず、多くの人たちの生活が犠牲になった・・・。
ロシアーウクライナの戦争でもサポリージャ原発が危険に曝されている。何かあったら取り返しのつかない原発を持っているということは、もしそこを攻撃されたら多くの命が失われるということだ。平和ボケして、日本にはそのようなことは起こらないと信じて疑わないのならもう救いようがないではないか。
まだ暑いとはいっても午前4時半過ぎると鳴きはじめるヒグラシの声も弱くなってきた。朝晩の気温はこれから少しずつ低くなってくるだろう。異様なら異様なりに季節はなんとなく移り変わっていく。9月は昔からけっこう好きな月なのだが、はてさてこの月を楽しめるのだろうか。
]]>例によってどこで見かけたのが忘れてしまったが、気になる本があるととりあえずAmazonのリストに入れておき、あとでもう一度見てやはり読みたいと思ったら買うことにしている。この本もそのひとつ。
紹介文や解説を読まなくてもなんとなく内容はわかる。タイトルとイラストで十分それを表現していると思う。作者の佐藤美沙代さんは1990年生まれで武蔵野美術大学を卒業、現在カナダでソーシャルワーカーになるためダウン症や自閉症おなど発達障害について勉強中とのこと。奇しくも息子と同じ年齢の方だ。
美術大学を出たのにソーシャルワーカーになろうとしているのは何故か。たぶんそれはこの本の主人公である「ヒロ」さんゆえだろう。「ヒロ」さんは作者の兄でありダウン症でもある。障害を持って生まれた人の家族は多かれ少なかれ人にはなかなか言えない苦労をしていると思う。作者もそのひとりで、かつてはダウン症の兄を嫌って避けていた時もあるという。しかし次第に自分にとって不愉快な兄の行動のひとつひとつに理由があるらしいこと気付いていく。そして大学入学に伴い一人暮らしを始めたことにより自分の家族を客観的に見ることができるようになり、家族ひとりひとりが個人であり家族ではあるけれど違う人間だということに思い至る。
家族であり自分とは当たり前のように違う「ヒロ」さんを受け入れた作者は自分が兄に対してできることはないだろうか、と思うようになり、そこからこの本が生まれた。
人間は自分が理解できないものに対してある恐怖心を持つ生き物だと思う。言葉や態度でコミュニケーションを取れない相手に出会うと、戸惑い、時になんとなく怖いと感じる。その怖れは意識されることはないかもしれないが、様々な差別や無理解や嫌悪や憎しみなどは恐怖心がなぜるものなのではないだろうか。
作者は「ヒロ」さんの妹なので生活を共にしていた時間が長いからわかることもある。が、妹にもわからないことがあり、母親にもわからないことがある。ただ、彼らはわからないことを含めて「ヒロ」さんを受け入れ「独特のこだわりやクセを持つ人」として愛している。
私たちはダウン症をはじめいわゆる障害を持つ人たちと触れ合う機会も少なければ学ぶ機会も少ない。もう少し触れ合ったり学んだりすることがあれば、考えかたも変わるし自分自身について考えるきっかけにもなるのかもしれない。「ヒロ」さんの日常をユーモラスなイラストで伝えることにより、できるだけ多くの人にダウン症についてもっと知ってもらいたい、自分らしく生きるすべのひとつとして自分や自分以外の人のクセ、こだわりを大切にしてほしい・・・「はじめに」で作者はそう締めくくっている。
読みやすく、楽しく、考えさせられる本だ。そして、ダウン症について今までより少し理解できたような気がして嬉しくもなった。もちろん「ダウン症」とひとくくりで考えてはいけないだろう。そのひとりとして愛すべき面がたくさんある「ヒロ」さんのことを知ることができて嬉しいのである。
]]>みなさん、こんにちわ。あたい、きく。でもさいきん、「きくちゃん」ってよばれることがなくて、「がっちゃん」になっちゃってる。あたいをつれてきたおっさんも、まえは「くっきぃぃぃ〜」なんていっていたけど、さいきんは「がっちゃん」。ふくおねえちゃんは「ふくちゃん」てよばれているのに、なんであたいはなまえでよばれないのかな。まあいいや。
あたいのいちにちはだいたいきまっているの。あさごはんをたべたら、ここにきたばかりのころこもっていた「ものおきべや」にいって、ゆうがたまでほとんどそこにいるの。だって、あたいのトイレもごはんのいれものもそこにあるし、せまっこくてごちゃごちゃしていてすきなの。ごはんのときだけでていって、あたいにもちょうだいね、ってあぴーるするの。ごはんはじゅんばんで、ふく・だいすけ→ばーちゃん(まめこ)→あたい。あたい、いちばんさいごなんだー。でも、いつもおとなしくまっているのでほめられるよ。
「りびんぐ」にいるときは、たいていおっさんのおひざのうえにのってる。おばちゃんもいいかな、っておもったときはあるけど、やっぱりおっさんのほうがいいの。だって、おばちゃんには「すとーかー」のようにくっついているふくおねえちゃんがいるし、ばーちゃんもおんなじ。おっさんひとりだから、かわいそうでしょ?それに、おせわになったし。あたい、けっこう「ぎりがたい」んだから。
このごろ、すこしにんげんがたべるものにもきょうみがあって、まえにてーぶるのうえにのってさぐっていたら、おっさんにしかられた!でも、あたい、しかられてもへいきだもん。またやるもん!おっさんがおおきなこえをだしてしかると、じぶんがしかられているんじゃないのに、ふくおねえちゃんとかだいすけとかばーちゃんはみんないっせいににげるの。みんなあんがい「しょうしんもの」だね。ふくおねえちゃんは、「あのこはにぶいから」っていうけど、「にぶい」ってなに?ほめてくれてるの?
ばーちゃんはこんげつ18さいになって、れっきとした「こうきこうれいしゃ」なのにげんきだよ。あいかわらずにんげんのたべもの(とくに、おさかな)がすきで、てーぶるのうえにあるとずっとねらってる。おばちゃんがいるときはいいんだけど、おっさんだとゆだんしているからときどきゲットしてにげてる。おっさん、げきど!でも、おばちゃんに「きをつけていないほうがわるい」といわれてる。おっさんとおばちゃん、どっちがつよいか・・・あたいはよーくかんさつしているよ。
だいすけはあいかわらずだよ。そんざいかんがうすくて、ときどきおどおどしてる。でも、やさしくていいこだってほめられてる。あのね、だいすけは「まねっこ」なんだよ。あたいがきにいっていた「がっちゃんばこ」や、「まーちゃんばこ」にときどきはいっているもん。「まーちゃんばこ」でだいすけがねていると、ばーちゃんはおこっておばちゃんに「なんとかして!」とうるさくいっているけど、「みんなでつかおうね」といわれてる。ばーちゃん、ふふく!
らいげつは、そのばーちゃんのばんだって。またもんくばっかりいうんだろうなー。おしまい。
]]>「漫画で知る 戦争と日本」(壮絶!特攻篇・敗走篇/水木しげる)を読んだ。毎年8月になるとテレビ各局で戦争に関する特集を放送し、新聞でも様々な話題が掲載される。今年も同様だが、考えてみると私自身は先の戦争を実際に体験した人、とくに戦地に行った人の話を直接聞いたことがない。高齢を押して語り部としての活動を続けていらっしゃる方々も存在するが、自ら積極的にその話を聞きに行こうとはしてこなかった。
作者の水木しげるさんはニューブリテン島に兵士として従軍した経験を持つ。そして片腕を失い、かろうじて生き残ったひとりでもある。敗走に敗走を重ねた終戦間近、上官からの理不尽な暴力を受けながらも生きて帰ってこられたのは運もあるだろうが、ご本人の性格や生命力の強さも関係しているのかもしれない。戦争が終った時の階級は「上等兵」だったそうだが、これは全員一致の進級であったというから一等兵どまり・・・つまり軍隊では最下層の兵士として終戦を迎えた。
日本軍は食料を輸送するより現地で調達よ!という方針だったようだから、兵士たちは終始飢えと戦わざるを得なかった。体力が落ちても行軍は続けられ、そこのマラリアが襲う。知れば知るほど無謀な、作戦ともいえぬ命令だけしかそこにはなかったように思われる。その異様としか思えない状況の中での経験が本書(とくに敗走篇)で描かれており、画風ゆえ悲壮感はあまりないが実際を想像すると「地獄」と表現されるのももっともだと思えてくる。
兵士であった人が経験を生かしながら「漫画」という手法で戦争を、そして当時の日本(特に戦争責任のある人たち)を描いた作品としてとても貴重なものだと思うし、大変失礼ながら水木しげるという漫画家の筆力を私は今まで知らなかったということを思い知らされた。さすがとしかいいようがない。実際に経験していない特攻の空中戦や戦艦大和の撃沈シーンなど大迫力である。
また、この本は各巻において解説が適宜添えられていて、この戦争がどんな戦争だったのかをわかりやすく伝えている。そして「全世代を対象に、知識の前提を問わず」この戦争について知ってもらいたいということで、漫画においても解説においても基本的に総ルビとなっている。子どもたちにもぜひ読んでもらいたい本である。
]]>
8月ももう半ば。猛暑が続いたと思ったら台風が来てまた猛暑。各地で雨の被害が続出し、復興途中だった地域にまた被害が及ぶ。自然は情け容赦ないが、その度合いがどんどん異様なほど強くなっているような気がする。ぼんやりとそんなことを考えているうちに、様々な生物が絶滅していく。核の脅威も強まってきて、さて何かとてつもないことが起きた時、この地球上で最後に生き残るのは一体何なんだろうなどと思ったりもする。
明日はいわゆる終戦記念日だ。私は以前から「敗戦の日」と呼んでいるが。戦争を知らない世代ではあるが、何を見聞きしても戦争ほど無益どころか虚しいものはないと思うのに、戦争はなくならない。人間の本性なのだろうか。
最近ふと「ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず」という方丈記の冒頭が頭に浮かんだ。火災が相次ぎ、大風(竜巻のようなもの?)が起こり、群盗が跋扈する京の都は決して穏やかで優雅なところではなかったことがわかる。政治が平氏から源氏へと変わり過渡期であり、貴族とて穏やかに暮せる時代ではなかったようだ。その中で起きる事象を冷静に観察していた鴨長明。何を見ても聞いても「無常」にたどりつくよう時代に書かれた書物が今心に沁みる。
朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生まるるならひ、た々”水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生まれ死ぬる人いづかたよりきたり、いづかたへか去る。又不知、かりのやどり、たが為にか心をなやまし、なに々によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと無常をあらそふさま、いは々”あさがほの露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへどもあさ日にかれぬ。或は花しぼみて露なほきえず。きえずといへども、夕をまつ事なし。
]]>明日は長崎の原爆の日。どんな平和宣言がなされるのか注視することにしている。毎年広島と長崎の宣言を読んでいるが、個人的には長崎の方に心を動かされてきた。が、今年の広島は以前とは違ってよりつっこんだ内容になっていたと思う。ウクライナとロシアの戦争の影響は否めないにしても。
それにしても、よく言われていることだが世界中で唯一核爆弾を落とされた国なのに、政府はいまだに核拡散防止条約を批准していない。高齢化が進む中、今まで口を閉ざしてきた被爆者たちも少しずつ「あの日」のことを語ろうとしている。語れば思いだしてつらいのに、偏にもう二度とあってはならないことを生き残った者の使命のように勇気を出して語りはじめている。そんな人たちにとって、核拡散防止条約の再検討会議や平和記念式典で発せられる国の代表の言葉は全く満足のいくものではなだろう。
核兵器廃絶国際キャンペーンの事務局長のベアトリス・フィンさんの言葉が新聞に掲載されていた。軽々しく口にされる「核保有国と非保有国の掛け橋になる」という体裁ばかりの国に対する厳しい言葉である。「(今のままでは)日本は保有国と非保有国の掛け橋になれない」と。前述の会議(再検討会議)で岸田首相が核廃絶への行動計画を「ヒロシマ・アクション・プラン」と名付けたことを疑問視し、条約批准を含まない計画に広島の名を使ったことを非難し、批准しないことは被爆者たちに無礼である、とまで言っている。「向こう側に渡ろうとしない日本に橋を架けることはできない」。厳しいがそう言われても仕方ない情けなさである。
批准できないならその理由をきちんと誰にでもわかるように説明してほしいと思っても、この件に限らずこの国の施政者たちは国民に説明するつもりがないらしい。どれだけバカにしているのかと腹が立つことがある。
*
一方、長引くコロナ禍においてもほとんど場当り的な対応しかしてこなかったことへの反省も聞こえない。すでに第7波である。7回も医療現場の逼迫を経験しているのだ。100回電話しても受け入れ先が決まらず自宅で死亡してしまった、という話など先進国であるなら信じがたい。いつも後手後手で学ぶこともしない。検証も分析もしているのかどうかかなり疑わしい。
もはやワクチンも重症化を避けるという意外ほとんど効力がなさそうだ。いつどこで感染してもおかしくはない。それに加えて熱中症の季節であり、季節を問わず急に具合が悪くなり一刻を争う病人も一定数存在する。予想外のことがあったとしても救急搬送される可能性はないに等しいとさえ思えてくる。高齢者や持病を持つ人たちにとってなんと心細いことか。
と思うものの、夏休みを目前に控えてどんどん出かけている人たちもまたいる。もはや何をするにも自己責任で感染しても自分でなんとかしてね・・・か。そうなると運悪く(私はだいぶ前から運だと思っている)感染したら自業自得、なんていう考えを持つ人だって出てくるかもしれぬ。いやだ、いやだ。
*
私は日本の国民性(という言葉が適切か自信がないが)である曖昧さを全否定するものではない。あえて明白な結論を出さず、ペンディング状態にしておくメリットもなくはないと思っている。事と次第によっては、であるが。ただ、自分たちの将来(子孫の将来でもある)、生活、健康などなどが脅かされかねない施策に対して声をあげず、漠然とした不安と不満をかかえ、なんとかなるさとでも思っているのかもしれないが、常に弱者が犠牲になっている現状をどう思っているのか・・・
あーあ。ここに書いたとて無言でいるのとあまり変わりはないなぁと思うと自分自身も情けなくなってきた。
]]>先月23日から開催されている「東北へのまなざし」展(東京ステーションギャラリー)に行ってきた。
比較的地味なテーマの企画だが、このギャラリーへの信頼に応える充実したものだった。東北というと、雪が多い地方ならではの我慢強く寡黙な人が多い印象が強そうな気がする。が、最近では東日本大震災の被災地というイメージも。また、柳宗悦の「民藝運動」により、東北がモノづくりの宝庫であること、「用の美」が具現化された生活品がたくさんあること、なども少しずつ知られるようになったと思う。
以前にも何度か書いているが、私は個人的に東北に対して故知らぬ共感を持ちつづけている。東京・神奈川を点々としてきただけだが、自分の中に東北というか「北」の血が流れているように感じることがあるからかもしれない。訪れたことがあるのは、青森(といっても南部エリア、しかも十和田湖周辺のみ)、青森に行った帰りに通った秋田、水族館を目的に出かけた山形、高校時代の「東北旅行」で回った岩手(花巻に宿泊、仙台にちらりと行っただけ)等々とお粗末なものである。
いつかゆっくり各県をまわり、それぞれの文化を学び、ぬくもりある民芸品や道具を見たいと思いつつまだそれを実現させていない。
今回の展覧会は、桂離宮の評価で有名なブルーノ・タウトの日本での足跡や著書からはじまり、柳宗悦を中心とした「民芸運動」の作家たち(棟方志功、芹沢?介など)の作品、各地に残る郷土人形、玩具、生活用品の展示、考現学の祖と言われているらしい今和次郎、弟で数々の郷土の絵を描いた純三の残したものなど複層的な視点から「東北」を見つめ直している。
日本民藝館には何度も行っているのである程度知ってはいるので、今回は今和次郎・純三兄弟に仕事がとくに印象に残った。細かい観察で東北の人々の暮らし(服装、住まい、農作業、子どもの遊び等々)が文章と絵で紹介されていてかの地に生きた人々の、地に足がついた暮らしぶりがしのばれた。
作家名まで記された地域別こけしの展示も見事。彩色されていない「黒こけし」の深い味わいも知ることができた。美春人形、秋田風俗人形、相良人形などの郷土玩具?の素朴な愛すべき姿も見ることができた。
静岡の芹沢?介美術館には行ったことがあるが、そこでは見られなかった「日本民藝地図」は圧巻。各県の民藝品を「染色」「和紙」「木工」などいくつかの分類しマークのデザインとともに日本地図に落とし込んであるというもの。マークそのものもさすがの出来だが、思いの他山形県に民藝品が多いなど新たな発見もあった。
猛暑続きだが、目の保養、発見の喜びが多い時間を過ごすことができた。美術館としての内装も以前から好きだったので、久しぶりにそれも楽しんできた。
]]>8月になった。毎日「真夏日」ではなく「猛暑日」。梅雨明けがバカに早いと思っていたら、また戻り梅雨のようになって、それが終ったらいきなりこの猛暑。天気予報は連日「危険な暑さ」と伝える。温暖化が言われて久しいが、コロナを含めて地球がどこかおかしな状態になっているように感じる。日本だけでなく、世界の様々な国で異様なことが起きている。
アゲハチョウの飼育を初めて今年で4年目だが、今までなかったことがいくつかあった。幼虫のうちに死んでしまうものが何匹か。蛹までにはなったが羽化できないもの、羽化したものの羽が奇形で飛べないもの。原因はわからないが、今までなかったことが時々起きる。私より熱心に育てている妹のところでも、そういったことが多発しているようで、「今年は何だか変だね」とお互いに言い合っている。
終齢幼虫になっても脱皮したものが2匹。本来もう脱皮するはずはないのでこれもまた異常なことだ。その幼虫たちはおかしな脱皮をした後何も食べなくなって死んでいった。よく食べてぐんぐん成長していた終齢も、突然食べるのをやめ、そろそろ蛹化するのかと思っていたら突然ふたつに折れ曲がるようなかたちになって死んでしまった。ナガサキアゲハの立派な蛹はいつになっても羽化せず沈黙したままだ。
コロナ感染者が世界一となり、医療現場の逼迫とそれに伴う従事者の疲弊はいかほどのものかと思うと心が痛い。厚生労働省がいくら「屋外ではマスクをはずしましょう」と言っても、炎天下をマスク姿で歩く人たち。もはや、自粛するのも、楽観的になるのもあり!という感じ。行動制限を求める声も多いが、今更制限してもほんの一部の人しか従わないだろう。もうみんなうんざりなのだ。
そんな日々でも、夜明け前のひぐらしの声を聞き、凍ったように暑い炎天の下を歩いていると、「これが夏なんだ」と納得できるような時もある。陽炎がゆらめくような陽射しの中を歩いていると、体中で夏を感じているような気がして妙な快感を覚える。暑い暑いといいながら、一陣の風を楽しむ。
友人からもらった「松島」という品種の朝顔がきれいに咲きはじめた。毎年純白の朝顔を育てていたが、今年はほとんど発芽しなかったのでがっかりしていたが、青に白に絞りに、と変化する「松島」もなかなかいい。特にその青の美しさは夏の早朝に映えて目を楽しませてくれている。
昔を基準にすれば、今年の夏は異様な夏だ。夏になるときまって感じるノスタルジックな気分も今年は薄れて、ともすると異様さばかりが気になる。が、ここいらで一息ついて、異様なことも生きていれば経験するさ、と居直ってみてもいいかもしれぬ。
]]>・・・この曲線は美しい・・・
ここ数年、横浜方面に出没することが多くなったので山下公園にも何度も足を運んだ。係留保存されている氷川丸も外からは何度も見たが、もはや山下公園のシンボルのような存在として眺めているだけだった。一度も中を見たことがなく、見てみたいとは思ったもののその時にはコロナの影響で営業を休止していて叶わなかった。
先日、あまり混まなくて涼しくて面白そうなところを探していて、日本郵船歴史博物館が思い浮かんだ。以前友人と入ろうとしたのだが、時間が遅くて入れなかったことがあった。船に関してはほとんど知識はないが、海好きなので興味はあった。島国日本の歴史にも海運は大きな役割を果たしてきたはずだ。
調べてみると、博物館と氷川丸見学がシニア割引を使うと300円でできることがわかった。これじゃ行くしかないでしょ!ということで行ってきたわけだ。日本郵船歴史博物館は予想以上に面白かったが、自分なりに調べてみたいこともあるので話題としては後日に譲ることにして、今日は氷川丸について。
氷川丸は日本郵船によって1930年(昭和5年)に造られた貨客船だ。欧米の大型船が幅を利かせている時代で、日本も敗けずに優秀な船を!という気運もあったと思う。シアトル航路用として使われていたが、戦争になると海運特設病院船として運航、沈没を免れて1953年に復帰。1960年に船齢(っていう呼びかたがあるんだ)30年に達したので第一線を退いた。太平洋横断254回。船客数2500余名。1961年から山下公園に係留保存されている。
今どきの豪華客船とは違い、貨物を運ぶことが第一の役目であり、客を乗せるのは第二義的なものなのが貨客船だとすれば、客室の豪華さはやはり特別だったと思う。一等社交室、一等食堂、一等喫煙室などもあり貨客船でありながら優雅な船旅も経験できたのだろう。一番豪華な客室にはゆったりしたバスルームまであった。
メカニカルなものが好きな私は客室よりも機関室や操舵室に惹かれたが、優雅さとハード面の(当時)最新の技術の粋がひとつになった貴重な文化遺産であることは明白だ。ただ外見だけを見ていては分からないもろもろのことを感じ、考える機会を得てよかったと思っている。
]]>みなさん、こんにちわ。ダイスケだよ。まいにち、あついねー。ボクはせいご9かげつまでおそとせいかつをしていったので、あつさやさむさにはけっこうつよいよ。でも、やっぱりあついや。いつもは、ケージのなかにあるまるいつめとぎのなかでねているんだけど、あつくなってでてくるの。
このあいだ、ボクがあまりにあつそうだっていうんで「ひんやりぼーど」っていうのをだしてくれたの。「アルミ」っていうのでできているいたなんだけど、なんだかきもちよさそうだなーっておもって、うえにのってみたら「ひんやり」してきもちいいの。だから、このごろは「つめとぎ」→「ひんやりぼーど」をいったりきたりしているよ。
くろっぽいばーちゃんは、ちいさくてやせているからなのかあまりあつそうじゃないの。すみごんがよこになるとべったりくっついてねているよ。すみごんが「あついなー、まーちゃん」っていってもしらんぷりしているの。さいきんはまえよりボクのことを「めのかたき」にしなくなったのでよかった。ふくちゃんとはなかよくしているのになー。
ふくちゃんはこのごろ、かいだんにいることがおおいの。1だんまるまるせんりょうしちゃうから、いつも「ふくちゃん、じゃま!」っていわれているけど、へいきでそのままいるの。ときどき、おなかをうえにむけて、おぎょうぎわるいかっこうでねているよ。あれってきもちいいのかな。ボクはかあさんに、「けっしておなかをみせてはいけません」ってしつけられたからそういうかっこうはしないよ。
きくちゃん(さいきんは、がっちゃん)は、なにをおもったのか、ときどきむかしこもっていたへやでねているの。あいかわらず、おっさんのひざのうえにのってくるけど、まえほどじゃなくなったみたい。このごろ「じが」がめばえてきたんだって。もともと「ふしぎちゃん」だけどさらにふしぎになっているの。でもね、とっくみあいをすると、ふくちゃんと「ごかく」だよ。ふくちゃんがにげることもあるよ。きくちゃん、つよいなぁ。
らいげつは、「ふしぎぱわー」にみがきがかかってきた、きくちゃんのばんだよ。したからえぐるようにみるので、「えぐりめ」っていわれているの。しかられても、ちっともわるいとおもっていないみたい・・・っていうか、わかっていないみたい。やっぱりふしぎだとおもうの。おしまい。
]]>先日、「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」を見に行ってきた。ここ数年、夏になると「妖怪」やら「幽霊」やらをテーマにした展覧会が開かれているが、行ける範囲でできるだけ行くことにしている。大昔から人知を超える存在は人々を怖がらせてきたが、そういうものはすべて人の心の弱さから生まれたもの、という考え方があるのも知っている。が、私自身はもしかしたら存在するかもしれないと思っている。
妖怪を扱った作品は古来けっこうあって、鎌倉時代あたりの絵巻物に出てくる九十九神もその一種かもしれないし、江戸時代になれば国芳や北斎も描いている。研究もいろいろ残されていて、おそらく水木しげるさんも幼いころから触れていたものもあり影響も受けていたと思われる。展覧会会場でも明治時代の井上円了、柳田国男なども紹介されていた。
今日の東京新聞でも水木しげるさんの生誕百年(展覧会もそれを記念して、ということだと思う)に当っての記事を掲載している。読んでみておもしろかったのは、江戸時代にも「妖怪ブーム」というものがあって、庶民の間では木版印刷物がかなり流行ったということ。鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」などは大人気だったとのことだ。おもしろいのは、当時の庶民たちが妖怪の存在は信じておらず人間が作ったものだと思っていたこと。さらに、妖怪は自分たちも創れると思っており「やまびこ」などの現象を妖怪として図象化したりしていたということだ。いろいろな妖怪がキャラクター化され広まっていったというのがおもしろい。
水木しげるさんの仕事もそれに共通するところがあったのではないかと思う。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「ねずみ男」「ねこ娘」は水木さんの創作だということだ。昔から伝えられている「一反木綿」や「児啼爺」なども愛嬌のあるキャラクターとして登場し、ある意味で親しみやすい存在になった。
今回は妹と一緒に行って、どれが気に入ったかなど軽い話をしながら気楽に楽しんできた。境港市に並ぶブロンズ像と同じものがいくつか展示されていてそれもおもしろかった。妹のお気に入りは「あかなめ」で、私が好きになったのは「ぬらりひょん」と「べとべとさん」だ。個人的には(^^;)「一反木綿」に妙な共感を感じて好き。
会場である東京ビューシティは52階から見る眺望も売り物。生憎曇りがちだったが、開放的な空間で妖怪を見るのもまた楽しい。また何か妖怪物があればぜひ行ってみたい。
]]>3連休最後の日の今日は「海の日」。でも、いったいいつごろから祭日になったのか、と思っていたところ関連記事が目に止った。
「海の日」の前身は「海の記念日」で、1941年に当時の逓信大臣・村田省三氏の発案で決まったという。日付については、1876年「明治丸」というお召船が明治天皇の東北地方巡幸を終えて横浜港に帰港した日である7月20日となった。
1948年、「海の記念日」は「国民の祝日に関する法律」により「海の日」と名前を改め、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」と詠われたとのことだ。ということは私が生まれる前から国民の祝日だったということか・・・夏休みがはじまる時期なので祝日だと気付かなかっただけなのか。
2003年以降は7月の第三月曜日に日付が変更され今に至る。いつごろからなにがなんでも連休にしようということになったのやら。
海洋国日本・・・海に囲まれた小さな島国はなるほど海の恩恵を存分に受けてきた。が、近年は津波の被害が多発し、海水温度の上昇や海流の変化などにより海の幸の不漁が続く。漁網やマイクロプラスティックのせいで海の生き物たちの災難は続き絶滅したものもいるかもしれない。すべて人間が為したことの結果だ。
海洋国日本であれば、海の恩恵を感謝する気持ちは大陸の国々よりも強く持って当然だろう。母なる海、という。人間もたどれば海から生まれたのではないか。
子どものころから植物に慣れ親しんできたということもあり、若いころからずっと木がたくさんある場所に住むのが夢だった。海か山かといえば山の近く。今でも窓から木が見える暮らしが好きで市民の森に隣接するところに住んでいる。が、60才を越したあたりから、妙にというか無性に海が恋しくなってくるようになり、一年に数回は近場の海を見に行く。
とき偶に晴れ渡つた日に
老いた私の母が
強ひられて故郷に帰つて行ったと
私の琺瑯する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
・・・(伊東静雄「晴れた日に」)
もし許されるなら、終の住み処は海の近くがいいと思いつづけている。
]]>不定期更新にした途端まったくもってのズボラになってしまい、それまでだったらすぐに話題にしたようなこともなんとなくスルーするようになってしまった。こりゃ、老化だな・・・
たまにはスルーしてきたことを書こうかと思い、先月半ば伊豆に行った時に立ち寄ったiZoo(イズー)について少しだけ。当初はハシビロコウがいるとばかり思っていたのでシャボテン公園に行く予定にしていたのだが、数年前にいなくなっていたことが判明。それなら、と行ったことがなかったところを選んでみた。
伊豆には動物たちがいる観光施設がたくさんあるが、爬虫類・両生類に特化したという点では特異な存在かもしれない。記憶が正しければ昔「アンディランド」という施設があって、たしかカメなど爬虫類が多かったのではないかと思う。テレビで一度見たことがあったが、いかにも寂れた感じでいつまで続くのかと思っていたら、案の定いつのまにかなくなっていた。動物を扱う施設は本当に大変だと思う。
さてiZOooであるが、失礼ながらあまり期待もしていなかった。バナナワニ園は2度ほど行ったことがあるので他はないかなと思ってたまたま見つけた。もちろんけっこう私は爬虫類好き(ヘビを除く)ということもある。それで行ってみると予想外に充実していて楽しかった。
帰りのタクシーの運転手さんによると、国内でこれだけの種類の爬虫類を見ることができるのはここだけなので北海道など遠方からもお客さんが来て、一日中施設内にいるのだそう。イグアナなどいろいろな種類がいるし、通路にリクガメがゴロゴロいるし・・・暑い国の生き物が多いので屋内はいかんせんむし暑かったが愛嬌のあるものかr不気味なものまで爬虫類を堪能してきた。
寂れていた「アンディランド」とは違って活気がある雰囲気だなと思った。園長がやり手というか活動家らしく、園内の企画だけでなく爬虫類専門病院を作ったり学校を作ったりしているらしい。また、飼いきれなくなった動物の引き取りもやっていると同時に、安易に持ち込まないよう断っている。
動物園に対する考え方は人それぞれで、見せ物的なところを嫌がる人もいる。狭い空間で暮す動物たちを見ればその気持ちもわかる。が、実際に見て、生態を知ることもまた意味のあることだと思うし、それによって環境保護への意識が少しでも高くなればいいと私は思っている。
]]>選挙もあっけなく終り、与党圧勝をいいことに次々とよからぬ案件が決めていかれそうでますます憂鬱な昨今。テレビでは元首相を銃撃した犯人の詳細や銃撃の動機になった宗教団体の実態などがこれでもかというほど放映されている。何か大きな事故や事件が起きなければ顔を見ることもないような専門家が呼ばれたり・・・マスコミ(とくにテレビ)は相変わらずだ。
そんな中、画面に映し出される光景がとても異様だった。私にとっては。
黒塗りの大きな車がゆっくりと都心の道を抜けている。沿道には黒っぽいものを着た人々がずらりと並び、ハンカチを顔にあてて泣いていたり、なにかを叫んでいたりしている。献花台に並ぶ大勢の人たち。一体これは何事か・・・葬儀の日の異様な光景だった。街角のインタビューでは(もちろん編集されているだろう。都合のいい場面しか採用しないから)マイクを向けられた人たちが「あんなにいい人が」「あれだけの偉業を為した方なのに」とか賛辞の言葉が溢れる。それもま理解できない、を通り越して異様。
ごく一部だと思うが(思いたい)、日本人の浅はかさを見る思いがする。ほんの一時の感情で動く。それはそれ、これはこれ、と分けて考えることをしない。なるほど突然の残酷な死に方ではあったが、それと彼が為してきたことは関係ない。少なくとも犯人の動機にすらなっていない。いわば逆恨みの対象になったというだけだ。逆恨みだったかは軽々しく言えないけれど。
そんな時、facebookの友人が小出裕章さんの文章を紹介していた。ネット上にPDFでアップされているので、全文引用でも出所を明記すれば問題ないだろうと思い、私はこのブログで引用する。
小出裕章さんは、ご存知の方も多いと思うが原子力のプロである。元京都大学原子炉実験所の助教などを務め(定年で退職)、現在も環境動態解析、原子力安全、放射性物質の環境動態の研究をされているようだ。福島第一原発の事故の時にはにわかに存在感を表し、反原発の論客として様々な場でお見かけした。著書「原発はいらない」を読んだ。イコマレイコさんの「Koide Blue」を読み、その人となりにも触れた。そして多いに尊敬していた。
今回引用する文章も、さすがというか潔く共感できることが多く読む機会を得てよかったと思っている。
***
2022年7月9日
アベさんに対する銃撃について思うこと 小出 裕章
アベさんが銃撃を受けて死んだ。悲しくはない。アベさんは私が最も嫌う、少なくとも片手で数えられる5人に入る人だった。アベさんがやったことは特 定秘密保護法制定、集団的自衛権を認めた戦争法制定、共謀罪創設、フクシマ事故を忘れさせるための東京オリンピック誘致、そしてさらに憲法改悪まで進めよ うとしていた。彼のしたこと、しようとしてきたことはただただカネ儲け、戦争ができる国への道づくりだった。
アベさんは弱い立場の国・人達に対しては居丈高になり、強い国・人達に対してはとことん卑屈になる最低の人だった。朝鮮を徹底的 にバッシングし、トランプさんにはこびへつらって、彼の言いなりに膨大な武器を購入した。彼は息をするかのように嘘をついた。森友学園、加計学園、桜を観 る会、アベノマスク...彼とその取り巻きの利権集団で、国民のカネを、あたかも自分のカネでもあるかのように使い放題にした。それがばれそうになると、 丸ごと抱え込んだ官僚組織を使って証拠の隠ぺい、改ざん、廃棄をして自分の罪を逃れた。その中で、自死を強いられる人まで出たが、彼は何の責任も取らない まま逃げおおせた。私は彼の悪行を一つひとつ明らかにし、処罰したいと思ってきた。
私は一人ひとりの人間は、他にかけがえのないその人であり、殺していい命も、殺されていい命も、一つとして存在していないと公言してきた。アベさん にはこれ以上の悪行を積む前に死んでほしいとは思ったが、殺していいとは思っていなかった。悪行についての責任を取らせることができないまま彼が殺されて しまったことをむしろ残念に思う。
多くの人が「民主主義社会では許されない蛮行」と言うが、私はその意見に与しない。すべての行為、出来事は歴史の大河の中で生まれる。歴史と切り離 して、個々の行為を評価することはもともと誤っている。そもそも日本というこの国が民主主義的であると本気で思っている人がいるとすれば、それこそ不思議 である。
国民、特に若い人たちを貧困に落とし、政治に関して考える力すら奪った。民主主義の根幹は選挙だなどと言いながら、自分に都合のいい小選挙区制を敷 き、どんなに低投票率であっても、選挙に勝てば後は好き放題。国民の血税をあたかも自分のカネでもあるかのように、自分と身内にばらまいた。原子力など、 どれほどの血税をつぎ込んで無駄にしたか考えるだけでもばかばかしい。日本で作られた57基の原発は全て自由民主党が政権をとっている時に安全だと言って 認可された。もちろん福島第一原発だって、安全だとして認可された。
その福島原発が事故を起こし、膨大な被害と被害者が出、事故後11年経った今も「原子力緊急事態宣言」が解除できないまま被害者たちが苦難にあえい でいる。それでも、アベさんを含め自民党の誰一人として、そして自民党を支えて原発を推進してきた官僚たちも誰一人として責任を取らない。もちろん裁判所 すら原発を許してきた国の組織であり、その裁判所は国の責任を認めないし、東京電力の会長・社長以下の責任も認めない。どんな悲惨な事故を起こしても誰も 責任を取らずに済むということをフクシマ事故から学んだ彼らはこれからもまた原子力を推進すると言っている。さらに、これからは軍事費を倍増させ、日本を 戦争ができる国にしようとする。
愚かな国民には愚かな政府。それが民主主義であるというのであれば、そうかもしれない。しかし、それなら、虐げられた人々、抑圧 された人々の悲しみはいつの日か爆発する。今回、アベさんを銃撃した人の思いは分からない。でも、何度も言うが、はじめから「許しがたい蛮行」として非難する意見には私は与さない。
心配なことは、投票日を目前にした参議院選挙に、アベさんが可哀想とかいう意見が反映されてしまわないかということだ。さらに、今回の出来事を理由 に、治安維持法、共謀罪などがこれまで以上に強化され、この国がますます非民主主義的で息苦しい国にされてしまうのではないかと私は危惧する。
]]>
7月半ば。暑くて当たり前。それでも口を開けば「暑い」と言う毎日。せっかく生きて、だいぶおぼろげになってきたけれど四季というものがある国に生まれた幸せをできるだけ楽しまなくちゃ、とも思う日々。昔から暑さには弱いと思ってきたが、それは思い込みにすぎずここ数年寒さの方が身体にこたえることも知った。それなら、暑さと仲良くしなければと5月あたりから汗をかく努力もしてきた。真夏にへたばらないために。
コロナウイルスとの付き合いも2年を経過して、第7波と言われても世間はもう慣れっこになって今更緊急事態宣言が出るとは思っていない人の方が多いだろう。今までの検証も全くないまま日常生活を制限されるのはもうたくさん!といったところか。ただ、何の根拠がなくても、「世間の目」と漠然とした不安から汗を流しながらマスクをしている人々。はずす人が増えたら(5割くらいがそうならないとはずせないらしい)と思いながら、誰もいない道を歩くときも律義に!?マスクをして呼吸を荒くしたりしている。お好きにどうぞ、という感じ。
ワクチン接種も感染拡大が伝えられるようにになって少しずつ進んでいるようだ。新しい変異株には効果がないと言われても、微かな安心材料としてワクチンにすがる気持ちからなのか。それはそれでいいと思えるほど、私はもう飽き飽きしている。
元総理大臣の襲撃事件、選挙などの話題が席巻して、ウクライナのニュースが目立って少なくなってきた。当初は「ロシアけしからん!」という雰囲気がまん延していたのに、日本だけでなくみなさんいつまでたっても結論がでず経済的な影響ばかり目立つようになると自分たちの生活の方に目が向いてくる。「ウクライナ疲れ」などといわれ、現地の人々への共感、同情は明らかに薄れてきているような気がする。
結局のところ対岸の火事。自分たちが困らない状態ならいくらでも同情もし、共感もし、応援もするが実生活に影響が多大に及んでくれば、どうでもいいから早く戦争が終ってほしいと思う・・・というのが本音なのではないか。飢餓に苦しむ国の子どもたちの支援を。被災地の人々の支援を。国を追われた難民たちへの支援を。そんな声が日常的に聞こえても、自分たちの暮しが脅かされているのなら支援する余裕もなくなる。なんだか、世界は私が生きてきた年月の中で一番渾沌としているように感じる。立ちすくんでいてはいけないと思いつつ、どちらに歩いて行けばいいのか戸惑う・・・なかなか決められないのは私自身が思考停止状態にあるからなのか。
元総理の襲撃事件には驚いた。が、それに対する周囲の様子を見ると、選挙結果は別にして日本人の資質というか性質というか、見たくないものを見せられているようおな不快感を感じてしまう。これはこれ、それはそれ、ときちんと分けられない。感情が揺さぶられればその方向に走ってしまう。冷静な意見を聞くと抵抗を感じ、時には不快になって匿名性のあるメディアでそれを叩く。何を守ろうとしているのだろうと思う。
あのような形で命を落とすというのは尋常なことではない。テロルは許されることではない。たまたまではあるが、5月くらいに久しぶりに「テロルの決算」(沢木耕太郎)をふと読みたくなって何度目かの再読をしたところだった。今回の事件を耳にして、あの浅沼稲次郎氏への襲撃を思い起こした人もいるだろう。ラジオを聞いていたら大宅映子さんもその話をしていた。
総理大臣という立場を引いても暗然として権力を行使していた人に対する同情は持たない。が、生きていなければモリカケサクラの問題も追求しようがない。あれだけのことをしてあっけらかんといなくなってしまった。生きていてほしかったと思う。
浅沼稲次郎氏が党首討論会の壇上で刺した山口二矢(おとや)は17才の少年だった。そして彼はそれが世間的に正しいとかそういうことは別にして、日本の国のためにという一心からそれを阻害する人物を殺そうと思った。浅沼氏だけがターゲットだったわけではなく、候補に上げた幾人かの人たちの中でタイミング的に合ってしまったのが浅沼氏だっただけだ。毎日新聞だったか、偶然居合わせた記者がとった刺殺現場の写真は大きな話題となり、今でも見ることができる。あまりに幼く偏った考えに突き進んでしたことだが、今回の容疑者との違いはあきらかだ。
政治信条に対する反感からではなく、親が入信して自分たちに悲惨な思いをさせた宗教団体と繋がりがある、というだたそれだけの理由。政治家の最後としては同情したくなるほど悲惨だと思うが、そういう理由で死ななければならなかった人だったのかもしれないと思うと哀れですらある。らしいといえばらしいしが、家族など周囲の人たちの心情を思えば同情もする。それはそれ、だけど。
理不尽に命を落とした政治家の影響はどこまであるのか。それとも忘れっぽい国民性がそれを思いの他早く薄めていくのか。どうなることやら。
]]>半年前からくらいだろうか、けっこうな頻度で頭痛が起きる。最近はとくに頻発して鎮痛剤が手放せない。用法・容量は守っているが、あまり飲みたくないと思っているので気鬱になる。
若いころ・・・と言うか中学生のころから頭痛には悩まされてきた。鎮痛剤を持たずに出かけると落ち着かなくなるほどで、心配した母に病院まで連れて行かれて脳波の検査などをしたことがある。結局、少し神経質だからなのでは、ということでおしまい。以来ずっと「頭痛持ち」だった。
それが変わったのは出産後。なぜか子どもを産んだら、滅多に頭痛が起きなくなった。体質が変わったのかな、よしよし!と思っていたのだが本質的にそういう体質なのだろうか。還暦を過ぎたころから少しずつ頭痛体質に戻ってしまった。
原因がわからない痛みというのは身体の痛みだけでなく気持ちの方まで痛くなる。最近「気象病」なる症状もよく聞かれるようになったが、たしかに気象病かもしれないと思うこともある。気圧の変化が大きいと頭痛が起きやすいからだ。が、そう断言できるほどではない。アレルギー体質でよく鼻炎を起こすので鼻のせいではなか・・・血行の悪さが原因ではないか・・・エアコンのせいでは?・・・いろいろ頭に浮かぶがどれといってこれが原因!と言えるようなものではない。
自律神経が安定していないのは自分でも実感している。しかし、自律神経は厄介だ。安定させる方法はたくさん見かけるが、経験上揚げられているいくつかを実行しても何も変わらない。体質だといってしまえばそれまでなのだが、体質を変えるのはとても困難な気がする。
たまにではあるが、頭痛がひどく吐き気もあって一日中寝たきりになることがある。水分だけはとるが何も食べないで過ごす。光や音に過敏になるのでできたら静かで薄暗い部屋で休んでいたいところではあるが、住宅事情からそれも難しく、ただひたすら症状が軽くなるのを待つのみ。
これが存外つらいのだが、そういうときふと「あなたは○○病です。治療方法はこれこれ」と言われた方がラクかもしれないな、と思う。いくらつらくても、これは死に至る病ではない。病名さえない。ゆえに他人にはそのつらさがわかりにくい。
そんな時いつも、脳脊髄液減少症に長い間つらい思いをしている友人を思う。今ではある程度(といっても知らない人の方が圧倒的に多いと思う)認知されてきたかもしれないが、彼女が発症した十数年前は全くといっていいほど治療法もなく、あちこちで検査しても異常がなく、ただひたすらつらいだけ。私の頭痛よりもっとひどい状態の中で,、周囲にはなかなか理解してもらえずに生きていくことは想像できないくらいだ。それでもなんとかがんばっているらしい人のことを思うと、あまり愚痴もこぼせないと思う。
私の頭痛も体質だとすれば、一生付き合っていくことになるかもしれない。なにかをきっかけに嘘のようによくなるかもしれない?いやいや、とりあえず一生付き合うことになると覚悟を持ち、できるだけ仲良く付き合えるよう願うのみかな。
死に至らぬ病は心の病を含めてたくさんあると思う。悪くすれば死に至る病は理解されやすいが、そうでないと理解は難しい。人の痛み、苦しみはその人にしかわからないのかもしれない。それでも理解しようという気持ちがある人が近くにいれば救われることもある。死に至らぬ病もまたやっかいなものだ。
]]>先日葉山のマーロウに行った時、偶然やっていた器のセールに立ち寄った。別棟のギャラリーで年2回やっているそうだが、店内に特別お知らせがあるわけでもなく、アプリのお知らせがなければ知らずにいたかもしれない。ちょっと鬱陶しいアプリではあるが、いいこともあるということか。
けっこう古そうな建物の中に、いろいろな地方の器が展示されていた。昔はよく見に行ったものだが、最近とんと器の展示を見なくなってしまった。たまに買うこともあるが、昔が主に鑑賞を目的としたものであるなら今は実用を第一に考えて選ぶようになった。料理に興味を持ちはじめたのが大きく影響しているのだと思う。
以前は陶器、しかも重みのある作家物などに手を出していたが、最近は磁器を買うことが多い。中でも久谷。無地の磁器ならこだわりなく気に入ったものを買うが、色絵となるとどうしても九谷焼を選びがち。陶器が好きだった時代から古伊万里と久谷は例外的に好きだったので、その好みは変わっていないらしい。
先日は平たい片口(平鉢)と小鉢を選らんだ。どちらも久谷らしい色使いで、一見アバウトに見える絵付けが私好みである。あれこれ考えてどんどん使っていきたい。
食卓の器は統一するより様々なテイストの調和を楽しみたい。昔買った備前、越前、織部なども似合う料理があれば使いたいが、そういったものばかりだと少し地味になりがち。そんな時のアクセントに久谷の器はぴったりだ。またお正月など少しは華やかさがほしい時にも重宝する。
普段毎朝使っている飯椀も久谷。家人がぐい呑みがわりに使っている蕎麦猪口は10年以上前金沢に行った時に求めたものだ。どうやら我が家と久谷の器は相性がいいらしい。
小鉢。黄色、赤、紫と久谷らしい色。
平鉢の外側。こちらは黄色、緑、赤の模様。内側に「吉」の文字。
]]>コラムニストの小田嶋隆さんが亡くなった。著作を読んだわけではないのだが、ラジオで何度か寄せられた文章を聞き好きになった。風刺の利いた世相分析は小気味よく、今からでもいくつかの本を読んでみようかなと思っている。
朝日新聞デジタルが小田嶋さんについていくつかの記事を掲載しており、「学歴」について寄せられた文章を読んでなるほどなと思った。小田嶋さん曰く学歴は「家庭環境を示す既得権益」となってきており、話題にすると「陰湿なテーマ」になりがちだ、としている。最近「親ガチャ」といういやな感じの言葉を耳にするが、「東大生の親は裕福」だという調査結果が広く知られるようになると「勉強ができるかどうか」という指標としてよりも不公平な「既得権益」のように捉えられていると指摘している。
確かにそういう面があるかもしれない。自分を顧みても思い当たる節はなくはない。が、もともとそういった方面に無頓着で生きてきたせいか、学歴についての様々な意見を知ると自らの世間知らずを思い知る。小田嶋さんの意見にもはっとさせられた。
「学歴なんて関係ない」という意見がある。かくいう私もそういった意見の持ち主である。が、そういう人も実は建前で言っている人もあったり、自分はそう思うが子どもには・・・とある意味矛盾した気持ちをかかえていたりする・・・と記事にあったのを読んで確かになぁと妙に納得してしまった。
昔から教育熱心な親はいたし子どもにレベルの高い学校に行ってほしいと思う親もたくさんいたと思う。小学校6年のクラスでも成績のいい子の数人が私立の中学校に進んだ。同じくらい優秀な子でも公立に進んだ子もいた。親の経済状態が関係しているのは昔からだ。しかし当時はみなもっと無邪気だったと思う。「あの家はお金持ちだから」などという考えは少なくとも子どもたちの間ではなかったのではないだろうか。
私の場合、幸い母親が無頓着だったので勉強しろともレベルの高い学校に行ってほしいとも言われずに育った。が、もしかしたら我が家の経済状態がそんなことを考えるのを許さなかったのかもしれない。私は私で高校までは当たり前のように公立の学校に進んだ。
思えばいい時代だったと思う。大人も子どもも今よりずっとおおらかで、内心なにを抱えているかはわからないにしろ身の程の暮らしを当たり前のようにしていたような。当時から学歴はモノを言っていたと思うが、だからといって不必要なほど嫉んだりもしなかったのではないだろうか。
また、学歴社会でイヤな思いをするのは低学歴の人たちばかりではないということもある。東大卒なのにこんなこともできないのか、と言われたり、東大卒ということばとともに紹介されることに負担感を感じたり。たかが学歴、されど学歴といったところか。
]]>またしても年寄りのたわごとに近いと思うが・・・最近のロングスカートブームには最初からピンとこなくて。もちろん、余計なお世話なのだが、若い人たちだけでなく私に近い年齢層の女性たちも足がまるで見えないロングスカート(あるいはワンピース)を着ていて、なんだかなぁと思ってしまう。
たぶんマスクと同じでみんなが着ているから私も、という意識もあるのだろうが、どうも昨今自分の体形をできるだけ隠す服がもてはやされているような気がしてならない。
もちろんモデルでもない限り自分の身体に対するコンプレックスは持っていて、とくに日本では痩せていればいいという風潮が未だにあり摂食障害で悩む女性も多いと聞く。なにもそんなになるまで、と思うが、結局のところ誰もが持っている自己愛ゆえと考えれば納得もできそうだ。
しかし、あのロングスカート、かっこいいかなぁ。だいぶ前にもロングスカート(マキシ、と呼んでいたと思う)が流行った時期があったが、あれはアメリカのヒッピー文化やエスニックブームに乗ったものだったと記憶する。そして今と違うのは、それぞれ個性的な装いをしようという意図が感じられたように思う。
エスカレーターの上り口に「ロングスカートの巻き込み注意」と書かれた貼り紙を見たことがある。たしかに危ないといえば危ない。また階段を上る時に裾が床についているのも自分や他の人から踏まれたらと思うと危ない。
オシャレの定義というか基本的な考え方は人それぞれだし、私のなんぞは古くさいかもしれないのだが、バランスというものを考えているのかなと思うことが昨今は多々ある。
スカート丈とは違うが、最近のスカートってウエストがゴム仕様のものが多い。昔はそういったスカートはオバチャンスカートという印象だったが、今はオバチャンでもお嬢さんでもウエストゴムのスカート。そしてブラウスやTシャツを中に入れてゴムですよ!というのをそのまま見せている。「トップスをインすると足長効果あり」のような宣伝文句をそのまま受け入れているのか。無邪気といえば無邪気でかわいといえばかわいい。
スカートだけでなく、デニムにしてもスニーカーにしてもいろいろ言いたいことはあるのだが、あまりにも口うるさいというか偏屈な意見になってしまうのでやめておく。
さて、明日はちょっと外出する予定が入っているが、この猛暑。少しゆとりのあるデニムにTシャツを出して(インしないで)風が通るような格好で行こう。足元は素足にサンダルかな。ちなみに今日はゴムゾーリを今年はじめて履いてみた。快適(^.^)
]]>高校時代、かぐや姫というフォークグループのアルバムがヒットした。あの有名な「神田川」が入っているアルバムだ。その中に「けれど生きている」という曲があった。さほど話題にならなかったが、何故か覚えているのは、当時隣の席にいたちょっと変わり者の男子が何を思ったのか、私に「俺はこの曲が好きなんだ」と唐突に話しかけてきたことがあるからだ。普段あまり会話もしたことがない人だったのに、なんでまたいきなり曲の話を・・・と不可解だったがその時は「ふーん」と返事をしてそのままになった。
高校を卒業しそれぞれが大学に進み、私は地元のドーナツ屋でアルバイトをしていた。ある日その彼が同じクラスだった別の男子と一緒に店に入ってきた。様子からして私がアルバイトをしていることを知っていたようだったが、こちらは仕事だし別の客もいたので注文を聞いて飲み物とドーナツを出した後も忙しくしていて話をする時間もなかった。彼らは食べ終ると軽く挨拶して帰っていった。
だいぶ後になって、「けれど生きている」の彼は大学時代に亡くなった、と聞いた。病気だったのか事故だったのか・・・気になったが聞く人もいなかった。そんなことがあったので私はこの曲を覚えているのかもしれない。
*
ここから本題(^^;)
アゲハチョウ飼育を今年もやっている。4年目だ。4年目ともなると今まで経験したことがある程度積み重なっているのでたいていのことはわかると思っていたが、どうしてなかなか。まだまだ知らないことがたくさんあるということを最近思い知った次第。
飼っていたクロアゲハの幼虫が、終齢になったまではよかったのだがその後成長を止めた。普通は終齢になると俄然たくさん食べだして餌の補給にあくせくしがちなのに、この個体は食べることをぱったりやめて、後から来た他の幼虫に追い越されていった。それでも葉の上にじっとしていることがあり、一体どうしたのだろうと思うのみだった。
が、生きる者は食べなければそのまま死ぬしかない。ましてや幼虫は食べるのが仕事のようなものだ。無事蛹になって羽化したら、彼らの主な目的は種の保存であり、密を吸うのはそのためのエネルギー確保でしかないと聞いたことがある。幼虫はひたすら食べ、何度か脱皮して終齢幼虫になり、蛹化して蝶になるための驚くべき変身を遂げる。いつまでも蛹になれない幼虫はそのまま死んでしまうしかない。
飼育ケースの掃除をしたり餌を新しいものに替えたりする度に、「がんばれ!」と心の中で話しかけていた。それが通じたとは思わないが、その幼虫は大きくなるどころか痩せていくように見えたがそれでも葉につかまっていた。そんな時、「けれど生きている」と思ったのだった。
まだ葉につかまっている時は生きている。毎朝それを一番に確認していた。そしてついにある朝ケースの端にまるまっているのを見つけた。そっと触ってみるとまだ動く。けれど生きている、のだ。そのままにしておいたが、翌日は少し体液を出して動かなくなっていた。やっとラクになれたのかな、お疲れさま。
幼虫のうちに死ぬものは何らかの病気に罹っていることが多いらしい。寄生バエなどは蛹になってから出てきてがっかりさせるが幼虫のうちはまだ体内にとどまって営業分を吸収しているのだろう。こんなことはじめてなので戸惑いもしたが、結局のところこういうこともあるとしか結論づけることはできなかった。
死んだクロアゲハの幼虫は、ベランダで育てている小さなレモンの鉢の中に埋めた。アゲハの幼虫は柑橘類の葉を食草にするが、レモンは特に好まれると聞く。そのレモンの下で土に帰ってほしいと思った。悲しい出来事ではあったが、あんな小さな幼虫でも命に対する執着があり(もちろん人間のそれとは違うだろうが)懸命に生きたと思っている。
]]>みんな、おひさしぶり。ふくだよ。わがやでいちばんかしこいといわれている、ふくだもんね。そして、ことしも6がつたんとうになったもんね。6がつは、ふくと、だいすけと、きくと、それからすみごんのおたんじょうびがあるつきだもんね。やっぱり、このつきはふくじゃないとだめってことだもんね!
で、ふく、きく、だいすけは7さいになったもんね。すみごんは・・・やめておくもんね!
それに!せっかくのおたんじょうびだっていうのに、すみごんはほいほい「りょこう」にいっちゃったもんね。あさはやくでかけて、つぎのひのゆうがたかえってきて、「あーたのしかった。あーつかれた」っていって「ふくちゃん、おめでとう」もいわずにねちゃったもんね。あれってどうよ!ってふくはおもうもんねー
でも、すみごんはじぶんのつくえのうえと、へやのどあのまえに「ふくちゃんばこ」をおいてくれるし、ときどきねているむねのうえにのっかってもおこらないからゆるしてあげるもんね。おっさんはなにかにつけてきくをえこひいきするけど、そんなときもふくのみかたになってくれるし。
まめこばーちゃんはあいかわらずだもんね。すみごんのかおをみると「だめになろう、だめになろう」とうるさいくらいないてつきまとっているもんね。でも、おとしよりだから、やさしくしてもらっているもんね。それに、がりがりなのにしょくよくおうせいだもんね。ふくとだいすけが「けーじ」のなかでたべていると、ちかくまできて「いいなー、いいなー」っていつもいうもんね。じぶんだってもらっているのに。
だいすけもあいかわらずだもんね。やきのりにくわえて、さいきんは「かまぼこ」が「まいぶーむ」らしくて、てーぶるのうえにあるとほしそうにしているもんね。きのうは「りょこう」のおみやげの「かまぼこ」をすこしもらってうれしがっていたもんね。ふくももらったけど、ふくは「まぐろ」のほうがいいもんね!
きく(さいきんは、もっぱら「がっちゃん」)は、だんだん「ほんしょう」がでてきたもんね。てーぶるのうえのものをこっそりひっぱりおろしてたべたり、しまってあった「かつおぶし」のふくろをやぶいたりしたもんね。すみごんにみつかって、「わるがちゃ!」といわれていたけど、おっさんが「できあい」しているし、もともと「くうきをよまない(よめない)」からへいきなかおしているもんね。いもうとながら、てごわいかもしれないやつだもんねー
そうそう、ことしも「ねこTしゃつ」ができてきたもんね。すみごんのおともだちがかわいいデザインをしてくれたもんね。ことしは「ひもんやーず」の「ろご」だもんね。ふくときくのかおもちらっとはいっているもんねー!まめこばーちゃんが、「なんであたしのはないの!?」といっていたから、もしかしたららいねんは「まめこTしゃつ」になるかもしれないもんね。ふふん、だいすけのはいつになるのかわからないもんねー。らいげつは、そんなかわいそうなだいすけのばんだもんね。おしまい。
]]>・・・これは熱川温泉。宿は北川温泉でした・・・
前に伊豆に行ったのはいつのことだったか・・・忘れるほど遠い昔のような気がする。が、関東近郊に住む人間にとって、海と(もちろん海の幸も)温泉が楽しめるところといえば、まず第一に思い浮かべるのが伊豆だろう。近年、海に対する愛着ひとしおの私にとって、誕生日に伊豆へ行けることは何にも増して嬉しい思いでになった。
伊豆といってもいろいろだが、今回は伊豆熱川のお隣の伊豆北川(ほっかわ)に宿を取ってもらった。知らない温泉地だったが、行ってみるとこじんまりしてはいてもなかなか風情もあり落ち着けるところで多いに気に入ってしまった。
初日(誕生日である18日)は生憎の雨模様だったが、強く降ることもなく木々の緑と紫陽花の花の色が鮮やかで美しかった。移動日なのでさほど気にならないし、到着した宿もいい感じでなんらストレスを感じることなく過ごせた。お風呂(大浴場)もなかなかよかったし、食事やそれ以外の対応にもきめ細かい心遣いを感じさせる宿で心からくつろぐことができた。
宿にいる間、ずっと波が打ち寄せる音が聞こえた。目を閉じて音だけ聞いている気持ちよさも体験できた。ふと、福永武彦の「廃市」を思いだした。運河の波音が気になっている青年を思いだした。穏やかな海の波音は私にとってやすらぎをくれるものでしかなかったのは幸いである。
2日目はIZOOという爬虫類に特化した動物園?へ。なかなかの充実ぶりでこれまた思う存分楽しめた。いろいろなトカゲ、ヘビ、カメ・・・爬虫類も不思議でおもしろい動物たちだとあらためて思った次第。
帰りの切符もすんなり取れて、前から乗りたかった踊り子号でのんびり帰ってきた。今回は誕生日ということもあって、私は上げ膳据膳状態。企画した人に感謝するしかない。近年稀に見る楽しい誕生日だった。ありがとう(^.^)
踊り子号にも乗れたし・・・
ゆったりした贅沢なお部屋で満足したし・・・
伊豆急のペイントはなかなかかわいかったし・・・
静かな朝の海を見られたし・・・大満足(^.^)
]]>友人とだいぶ前から行こうと約束していた掛川花鳥園に行ってきた。新幹線を使うので交通費がかさむが、行ける時に行かないと!という主義なので迷わずGO!
掛川花鳥園にはだいぶ前に行ったことがある。その時はたぶんいなかったと思われるハシビロコウを見るのが私の主目的だった。最初に行った時は、フクロウやミミズクの種類が多くて猛菌類好きの私としては嬉しかったし楽しめたのだが、今回はハシビロコウ。動画サイトなどで人気者になっている「ふたばちゃん」に会えるのがとても楽しみだった。
現在、日本で飼育されている(もちろん動物園などで)ハシビロコウは12羽らしい。上野動物園が一番多くて4羽。あとは2羽か1羽だと思う。上野動物園で見た記憶はあるが、1羽か2羽だったと思う。その後、千葉に住む友人が案内してくれた千葉市動物園で2羽見た。いずれもよく言われているようにあまり動かなかったが、ふたばちゃんはけっこう動く!
到着してまずまっすぐに向かった時は高いところに。屋内をざっと見てまた行くと右側に。食事をしてバードショーを見て屋外展示を見た後(閉園間近)今度は左側に。最後はしぶきをあげて水を飲んだり、羽を広げたかと思うと飛んでみたり、とかなり活動的。じっとしているだけでもかわいいが、動けばさらにかわいく、おもしろい。
ふたばちゃんだけを見にまた行ってもいいくらい魅力的だった。が、それは後回しにして、今度は那須動物王国あたりかなぁ・・・それまた遠いなぁ。
]]>見ず知らずだがacebookでいつも記事を読ませていただいている方がいる。最近、「任意を装った強制」なる表現があって、いつもながら的確な指摘だなと思った。
「生きづらさ」という言葉をよく見聞きするようになったのはいつのころだったろうか。もうけっこう前のような気がする。が、相当昔ではない。私が若かった頃・・・たとえば20代のころ、「生きづらさ」という表現はあったのだろうか。あったとしても現在ほど多用はされていなかったと思う。
そういう時代なのだ、と言えるのかもしれない。しかし時代のせいだけではない、とも考えたりもする。社会が、教育が、等々考えはじめると混乱してきそうだが、ひとつ言えることは昔に比べて不寛容な社会になっているのは確かだということだ。規定されているわけでもないのに、何に関しても「こうあるべき」という個人的な規準が優先され、それからはずれること、人を忌み嫌うような。
「任意」という言葉は個々人の意思に任せるということだ。選択は自由ということだ。が、「任意」といいながら「実際のところ、こうあるべきだということはわかっているよね?」という見えない「強制」がそこにあることがあまりに多い。
「人それぞれだから」とよく言う人がいる。それなら、どんな選択も認めるかというとそうではない。本当は「人ぞれぞれだけど」(私は認めない)なのだ。しかしはっきり言ってしまっては面倒なので、「人それぞれだからね」などと話を収める。それも世渡り術だとは思うが、程度にもよるのでは?・・・
話は少し横に逸れるが、「自分は正しい」症候群という言葉を今日みかけた。なにがなんでも自分が正しいとトラブルなりなんなりの原因が他者にあると言って譲らない人のことのようだ。最近そんな人が増えているというから困った、困った。あきらかな犯罪、法律違反ではない限り、正しいのは何かなどひとつに決めることはできないのに。自分にとって正しくても相手にとっては正しくないかもしれない。自分の正義と他者の正義が違っているのは当たり前の事。そう思えなければ、会話も議論も成り立たない。
生きづらい、息苦しい世の中になったのは、「任意を装った強制」やら「自分は正しい」症候群がはびこっているからだろうか。いやーん。
]]>先日二度目のすみだ水族館に行って、なるほどと思ったことがある。
さほど数は多くはないが金魚の展示をやっていて、それも行った目的のひとつだった。金魚は昔からなんとなく好きで機会があれば眺めたくなるのである。できたら飼ってみたいが、猫が4匹もいる家では無理。2匹の時でさえさんざんやられて懲りているのだ。
以前、深堀隆介さんの展覧会に行って、金魚の魅力をさらに知ることになった。横から見た作品も多いが、アクリル樹脂を使った立体作品では上から見た金魚が多かった。水槽に入れて飼う場合たいていは横からしか見ないが、上から見ても金魚は美しいしかわいいし楽しいなぁと思った。
しかしそれは作品でのこと。実際に真上から見たのは水族館がはじめてかもしれない。琉金などの優雅な尾びれの動きや全体のかたち、泳ぎ方の特徴なども上からの方がわかりやすいかもしれないと思った。
金魚の本を見ていたら、「どんぶり飼育」なる飼い方があるらしい。「どんぶり」といっても天丼などを入れるどんぶりではなく、どんぶり状の深い器で飼うということだ。掲載されていたのは、金魚に関する著書もたくさんあるという岡本信明さんという方。水槽でも飼っていらっしゃるようだが、テーブルの上に置かれた深鉢(久谷焼のように見える)にピーちゃんという琉金が入っている。餌は小皿に入れて、一粒一粒やるのだそうだ。金魚と対面しながら少しずつ様子を見ながら、ということだろうと思うと愛情の深さがわかる。
餌のやり過ぎが水の濁りや病気の原因になりがちだとは聞いているので、金魚にとってやさしい飼い方だと思った。ピーちゃんの方もわかっていて、鉢をのぞくと寄ってきて口を開ける。そこには人間と金魚の声にならぬ会話があるようだ。
いいなぁ。かわいいなぁ。金魚。水族館でみた「ピンポンパール」という小さくてころっとした金魚がとくにお気に入り。見るだけで満足することにしているけれど。
]]>数日前の朝日新聞デジタルで「すみません」の多用についての記事があって興味深く読んだ。
海外の人が「日本人はなぜそんなにいつも謝るのか」と不思議がる、という話はよく聞く。たぶん「すみません」のことだろう。なにかにつけて「すみません」を多用するのは日本人的な気の回しかたとして悪いことではないと思うが、実際のところ私はそれでよしとはなかなかできない性質である。
理由はいくつかあるが、まず「すみません」と言っておけば無難にやり過ごせるという気持ちが内在しているような気がすることがある、がひとつ。すべてがそうだとは思わない。常に申し訳ないと思って「すみません」と言っている人だっているだろう。が。それはそれで気の使いすぎではないか、あまりに自己肯定感が弱いのではないか、と思ってしまう。性格だから仕方ないのかもしれないが、常に謝っている人生って・・・などと余計なことをば。
記事では心理学者である東京学芸大学教授・相川充氏の分析が掲載されていて、数式で解き明かすというところがおもしろい・・・が数式と聞いただけでおじける情けない私(^^;)
曰く、何かしてもらった時、大きく分けてふたつの要素が相手に対する気持ちの大きさを決める、と心理学では考えられており、そのひとつ「嬉しい」「助かった」という思いは経済学用語を借りれば「利益」と呼ぶ。もうひとつ相手が自分に対して費やした時間、労力、もしかしたら金銭などを「コスト」と呼ぶ。
相手への気持ちを「I」、利益を「B」、コストを「C」とすると「I=B+C」という数式となる。この関係は世界の主要な国で共通するそうである。が、欧米の論文を読むと「B」が重視され、日本人は「C」を重視する・・・という傾向に基づき、それに関する論文を相川氏は1990年に発表したという。
これだけ読むと、欧米人は自分勝手、日本人は思いやりがある、と勘違いするかもしれないがそういう意味ではない。「B」が重視されると結果的に感謝となり、「C」が重視されると申し訳ないという「謝罪」ととられがちな表現になる、ということだ。
なるほどと思いつつ自分の考えをまとめようとしていたら、ふとかなり前にあった出来事を思いだした。たしかmixiか何かだったと思うが、友人の知人と知り合いやりとりしていた時期がある。やさしくて感じのいい人だったが、ある時からあまりに下出に出るというか何かにつけて「すみません」を言うことに対して抵抗を感じるようになった。しばらくはそのままにしておいたのだが、私の悪いクセでそれを指摘してしまった。言いかたに気を使ったつもりではあったが、相手はひどく傷ついたと聞いた。間に立ってくれた友人にも申し訳ないことをしたが、話によると子ども時代からの家庭環境が影響しているようだった。
悪気はなくても、物事をはっきり家は角が立ったり相手を傷つけることはある。それはわかっているが、言葉の使い方などの塩梅はなかなかに難しい。ひどく傷つけたのは申し訳ないと思うが、それを言うために付き合いを続けてもうまい具合に行きそうになかったこと、mixiというものの雰囲気がいやになりかけていたこと、などにより退会した。もっと寛容になれればいいのだけれど・・・
ちなみに私は自分自身が自己肯定感が強いとも思っていないが、謝るべき時は「すみません」「申し訳ありません」「ごめんなさい」というが、相手が何かしてくれて嬉しかった時は「ありがとう」と言う。すれ違いざまに肩がぶつかった時などは「ごめんなさい」かな。
ちょっと余談になるが、家人は外食するため店に入って店員を呼びたい時、「すみません」とは意地でも言いたくないらしい。悪いことしていないのに謝るのはおかしいという。それはそれで偏屈過ぎると私は思う。店の人は「すみません」と声をかけられるのに耳慣れているので、「お願いします」といっても気付かないことがあるのだ。通りがよければ割り切って「すみません」でいいではないか、思い大声で「すみませんーん!」と店員を呼ぶ。
「すみません」と言っておけば安泰だということもある。言われて嬉しい人もいるだろう。が、私は心から謝りたい時以外は極力使いたくないかなぁ。「すみません」を言いつづけていると気持ちがネガティブになりがちだというし。言われる方も、「ありがとう」の方が嬉しいんじゃないかなぁ。などと思う。
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今年もアゲハ飼育の季節がやってきて、はじめてアオスジアゲハに挑戦!昨年経験している妹の指導とサポートのもと、少し前無事に第一号の羽化を経験した。名前のとおりアゲハチョウの仲間ではあるが、いろいろな面で大きく違うことが多く、またひとつ自然の不思議さに気付かせてもらっている。
子どものころ虫かごを持ってチョウを捕まえようとしたことがある人ならわかると思うが、アオスジアゲハは飛ぶスピードが速くてなかなか捕まえられない。ナミアゲハと比べて身体の大きさは同じかかえって小さく見えるのだが、羽ばたきの回数が多く動きが速い。見かけてもあれ?と言う間にどこかに行ってしまうことが多くてまじまじと見たことは・・・あったかなぁ。
ナミアゲハ、クロアゲハなどの食草はミカン科の植物の葉だが、アオスジアゲハはクスノキ科。中でも公園や神社などによく植えられているクスノキの若い葉にタマゴを産む。孵化した幼虫は当初は黒くておシリのあたりだけが白いが、少しずつ緑色になり2齢くらいからはずっと緑色だ。胸のあたり(顔に見えるが)に小さな黒いトゲのような突起がいくつかあるが、それ以外は緑一色。節が目立たず、するりとシンプルなかたちをしている。秋冷になると胸に黄色い線が現れ、黒いトゲがなくなって白いトゲが1対になり、それも次第になくなって小さな黒い点になる。目と目が離れた頭でっかちのイモムシという感じ。それがとてもかわいらしい。
ナミアゲハ、クロアゲハよりおとなしい感じで食も細目。成長スピードもゆったりで飼育ケースの壁や天井を徘徊するということをほとんどしない。常に葉の表か裏にいる。単独で見るときれいで目立つようでも、クスノキの葉叢の中にいると探すのに努力が必要なほど目立たない。
驚いたのは、前蛹になる直前になると体色が黄緑色から黄色に近いライムグリーンに変わることだ。蛍光カラーとでもいおうかそんな色になり透明感が出てくる。それはそれはきれいなのである。前蛹になってから2〜3日で(ナミアゲハは大抵翌日なのだが)蛹になる。蛹にはちょこんとひとつ角のようなものがあり、数本の筋ができる。クスノキの葉裏の葉脈そっくり。よくできているなぁと感心する。
羽化間近になると蛹がどんどん透明になり、直前にはほとんど黒っぽくなる。そして誕生。黒地に淡い緑色がくっきり。緑色の部分には鱗粉がついていないそうで、その分透明感もありステンドグラスのようだ。
自分ではなかなか見つけられないのだが、妹からの養子が数匹、つい先日散歩で見つけて連れ帰ったものも入れて現在幼虫6匹、蛹2つ、タマゴ1つ。今年はアオスジイヤーになるのだろうか。乞うご期待!(誰が?)
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