一昨年の12月も押し迫ったある日、私は約25年間暮らしを供にした人を失った。突然の出来事だった。
翌年2023年は、これでもかというほど難題の連続で立ち上がれるかと危懼しつつ生活を建て直すことに終始した。12月に引っ越しをしてなんとか今後の目処が立ち、生活も落ち着いたのは今月に入ってからだろうか。
その間の苦労あれこれを語るつもりはない。ただ、学んだことは多かった。まず、頭で分かってはいたが、自分は一人で生きているわけではないということを実感として思い知った。また、生きていることへの感謝の気持ちを忘れずにいたいと思うようにもなった。それ以外にもたくさんある。
それはさておき、パートナーを失った私の手元に残ったものは、細々としたものをのぞけば猫4匹と一枚の絵だけだった。
この絵はだいぶ前に数回見ただけでずっと日の目を見ずに保管されていたもので、持ち主がいなくなってはじめてじっくりと見ることができた。これだけは手元に持っていようと思い引っ越し先に持ち込み、やっと壁にかけることができた時は本当に嬉しかった。
私がこの絵を見たのはだいぶ前。亡き人が営んでいたショットバーの壁に掛けられていたものをちらりと見ただけだ。そのバーは某所のテナントビルの2階にあり、分厚い木のドアの向こうに何があるのか分からないような店だった。看板もなく、船室にあるような丸い小さな窓がいくつかついているくらいで中は全く見えず、見てからにして「一見さんお断り」の雰囲気が漂っていた。
私は偶然知りあったネット仲間に誘われて連れていってもらったのが最初。彼らはそこを「隠れ家」と呼び、隠れ家の主である不思議な人はやがて私のパートナーになったのだった。いつだったか絵のことを聞いたことがある。なんでもかつて会社員時代だったころ仕事でフランスに行った時に買ってきたと言っていたと記憶する。ある程度大きな絵だったので、店をたたんだ時に借りた倉庫にしまい込んでいたようだ。
写真の絵がそれである。ジャン・ジャンセンというアルメニア人の画家の作品だ。フランスで活動し、2013年に亡くなっている。私はほとんど知らなかったのだが、デッサンに定評があるということで調べた限りでは人物を描いた作品が多いように思う。バレリーナ(というより踊り子?)の絵が多く、私の目の前にある絵のような後ろ姿がよく描かれている。
一目見た時から気になっていた絵だが、作家名もずっと知らないままであった。倉庫から出してきて箱から出してはじめて絵の大きさに驚きもした。記憶の中ではもっと小さかったのに・・・
不思議な運命なのかもしれない。絵を見た時、妹と友人が同じようなことを言った。私に似ている、と。痩せているからというだけなのだろうが、自分に似ていると人が思う絵と私はこれからずっと生きていくわけである。
以前の部屋は窓から空が見えた。傾斜地に立てられたマンションだったので目の前に空が広がる感じでとても気に入っていた。今は窓を開けても隣の家の壁が見えるだけである。でも、ディスプレイから目をあげるとこの絵が見える。それでいい。昔を惜しむ気持ちはもはやない。
絵を据えた壁と直角に交わる壁が猫たちによってボロボロにされた。あまりにひどいので、そこにも小さな絵を架けることにした。どうせなら同じジャンセンのものを・・・と思って探したのだがポストカードでさえなかなか見つからない。本物の絵を買う経済的なゆとりはないので、ポストカードで十分だったのに。安曇野にジャンセンの美術館があり、そこに問い合わせもしてみたのだがオンラインショップは閉鎖して実際に行かないとカードは手に入らないとのこと。
あきらめきれずにあれこれ探して、やっとメルカリでポストカードを2〜30枚と昔のカレンダーを数部見つけて購入できた。それを額装し先日やっとそれも設置した。ちょっとうるさい感があるかもしれないが、仕方ない。ベッドの周りはこれでジャンセンの踊り子ワールドになった。新しい世界の中で、これからも生きていくんだなと今になってしみじみ思う。
今年は寒暖差がかなり大きい。今日は半袖になる人もいたかと思うが、明日からはまた元通り。寒いといっても真冬ほどではないだろうが、ひどく寒く感じるようになりそうだ。
花粉症歴はそこそこ長く、毎年1月末から耳鼻科に処方してもらった薬を飲んでしのいできた。今年は引っ越してきたこともあって違う耳鼻科にしたところ処方薬も変わった。なんとなく前の薬の方が効きがいいように思うが薬のせいではなく今年の花粉の飛散量のためかとも思えて悩ましい。花粉症については様々な治療法があるらしく、舌下免疫療法を検討するよう言われているが、面倒臭がりの私には不向きのような・・・薬で押さえるという典型的な対処療法でいいのかと思うこともあるが、数年にわたり頻繁に通院しなくてはいけないのは億劫。はてさて。
ということで、今年はずいぶんと保湿ティッシュのお世話になっている。丸一日くしゃみ鼻水が止まらないことが数回あって、そんな時は強い味方になっている。普通のティッシュだったら鼻の下が荒れ痛くてしかたないだろう。
保湿ティッシュにも数種類あるが、私は写真のものが好き。使い心地はどれも似たりよったりだと思うが、パッケージがかわいいし、モノトーンなのがいい。うっとうしいことこのうえない花粉症、せめてティッシュの箱デザインは楽しみたいのだ。これくらいのセレブな生活くらいしてもいいでしょう?
習慣とは恐ろしいもので、そろそろ更新をと思いつつ3月も半ばになろうとしている。ブログの話題にしようと思っていたこともいくつかあったが、あったということだけを覚えていてそれが何だったかもはや思い出せないテイタラクだ。「老化」という言葉で済ませてしまえばそれまでだが、あまりに安易で少し悔しいのでせめて「堕落」ということにしておこうか。
話題にしようと思っていたテーマに今日の「水中花」がある。たぶん・・・今までにも書いたことがあったかと思うがその記憶さえおぼろげであるから、気にせず書くことにする。
きっかけは友人が私の誕生日の花が何かを教えてくれたことだ。なにをもってその日の花となったか根拠らしきものはほとんどないとは思うが、だいたいその日あたりに開花している花だろう。友人が教えてくれたサイトはフラワーギフトを扱う店のもののようだが、私の誕生日である6月18日の花はギフトになりそうにないものばかりである。
以前から知っていたのはタチアオイ。それ以外にもタイム、スイセンノウ、フランネルフラワーが私の誕生花であるそうな。ふーん、で終わってしまいそうだ。お決まりの花言葉も併せて紹介されているが花言葉そのものの根拠もはっきりしないのであまり興味はない。
ただ・・・タチアオイと聞くと私は父のことと伊東静雄の詩「水中花」をすぐに思い浮かべてしまう。北海道(だけではないようだが)「コケコッコー」と呼んでいたと父が言っていて、妹もそれを覚えていて今でもその話が出る。たぶん赤いタチアオイの花の様子がニワトリのとさかに似ていると思われたからなのではないかと思う。
詩の方は、「遂ひ逢はざりし人の面影 一茎の葵の花の前に立て」による。「葵」というとタチアオイだけではないのだが、たぶん詩にうたわれているのはタチアオイであると思う。それはこの詩が「今年水無月のなどかくは美しき」で始まるからだ。タチアオイはすらっとのびた丈の高い草(高さからいえば木のようでもある)で、下から上へつぼみが並び順番に咲いていく。Wikipediaによれば梅雨入りくらいから咲きはじめ、一番上の花が終わるころ梅雨が明けることから「ツユアオイ(梅雨葵)」という別名もある、とのことだ。とすればやはり詩の「葵」はタチアオイなのではないかと思う次第。
詩本編(?)だけ読んで私が思いうかべるイメージは、梅雨晴れの暑い日盛りに咲く白いタチアオイの前に女性の幻が立つといったものなのだが、詩の中の「葵」はそうではないようだ。詩の前に和歌でいう詞書のような説明があるのだが、その中で詩人は以下のように書いている。
水中花と言って夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧縮してつくつたものだ。そのままでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそえrは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
詩人はその「哀れに華やいだ」水中花をじっと見つめ、「遂逢はざりし人」(これはもう女性でしょう!)を思い浮かべ、そして「堪へがたければわれ空に投げうつ」のだ。逢いたくても逢えない運命のようなものが堪え難かったのだろうか。
それは想像するしかないのだが、私が幼いころに見た「水中花」はまさに詩人の説明どおりのものだった。細長いコップの中に入れて水を注ぐと葉や花がふわりと開く。花の色も赤や紫が多かったと思う。菊の花のようなかたちのものだったと思うが、もしかしたら牡丹のような・・・そしてタチアオイのようなものもあったかもしれない。
なつかしくなって今でも手に入るかと探してみたがこれがなかなか見当たらない。布でできているような今風のものはあっても、昔見たあの安っぽい色合いの、紙だか薄い木片だかで作られているものはなかなか見つからないのだ。あの安っぽさが今となっては独特の味わいとしてひどくなつかしい。
一ヶ所だけ扱っているオンラインショップを見つけたが、値段がびっくりするほど高い。夜店で売っているものの値段ではなくなっている。もはや需要はほとんどないのだろう。しばし迷いつつまだ購入するに至っていない。手に入れれば入れたで一度だけコップに入れて後はどうしていいかわからなくなるに違いないから買わずじまいだろう。
「レトロ」とか「ノスタルジック」という言葉ではぴんとこないあの「水中花」。どこかで見る機会はあるのだろうか。
]]>今日で2月も終わり。引っ越してきてから、あっという間に2ヶ月。
人間(飼い主)の方はようやく落ち着いた感がある。心配していた猫たちも予想外に落ち着くのが早く、それぞれの個性を発揮している。以前とは勝手が違うこともいくつかあるが、猫は猫なりになんとなく慣れてきているようだ。
寒暖の差が例年より大きいような気がする今年の冬。飼い主はそれに惑わされ、振り回される一方だ。猫は寒さに弱いと思いきや意外と元気で行動範囲を広げるべく階下まで足を伸ばすようになった。さすがに19歳の長老・まめこだけは寝ていることが多くなってきたが、年齢のせいか若いころより鷹揚になってはいるが(腹を立てたりおびえたりするのが億劫になった感じ?)、小さな身体できちんと自己主張している。
丸くなって眠っていても、その横に寝そべって寄り添えば、目を開けて嬉しそうな素振りをする。人間だって高齢になれば理由なく不安になることがあると思うが、猫もそうなのかもしれないと思うこともある。時々大きな声を出して鳴き続けると、「ついに惚けたか!」とも思うことも。一説によると、年をとって我慢ができなくなり、感じたことを即表現するようになり、それが突然鳴き出すように見える時もある、とのこと。
わが家の長老はどうだかわからないが、今でも食事時になれば催促し、若いもん(といっても8歳)と同じドライフードを食べているところを見ると具合はそこそこいいようだ。
以前にも書いたが、1歳になるかならないかの時に避妊手術をして以来獣医にかかったことがないという健康ぶりを誇る最長老。もともと丈夫なタチに生まれついたのだろうが、飼い主にとってはラッキーそのものだ。ありがたいことだと思っている。
時々、痩せた背中をなでていると、あとどれくらい一緒にいられるだろうと淋しくなる。いつかは来る別れの日・・・もう少し先になればいいというしかない。ほかの猫たちより少しだけわがままを大目に見ることにして、できるだけストレスのない暮らしを心がけたいと思う。今夜も「早く寝床の支度を整えよ!」との指令がでたら素直に従い、もう少し使っていたい椅子を明け渡すことにしよう。
現在私が住んでいる実家は築43年。ずいぶん古くなったものだ。人間でいうと何歳くらいになるのだろうか。あちこち不具合が出ても不思議ではない年齢に間違いはないだろうが。
結婚することになり家を出たのが29歳の時。建て替えた家には4年間しか住んでいなかったことになる。そして今かなり年を重ねた元の家に戻り、当時は全く考えられなかった家の衰えを日々実感している。こうして書いている当人が相当ガタピシきているのだから当然といえば当然だろうが、引っ越してきたばかりなのに立て続けにあれこれ物入りなことが発生している。
実家から離れたことがない妹からは、この家の老朽化について何度も聞いてきた。私が家を出てから何度かリフォームや部分的な修繕をしてきたようだが、それでも家は少しずつ老いていく。今月初旬に床下の修繕と白アリ防止処理をしたばかりだというのに、今度は屋根である。
昨今、屋根や外壁などの修繕に関するタチの悪い詐欺があちこちで見受けられるようで、何かと慎重にならざるをえない。妹は私よりずっと慎重派でありこれまでの経緯も知っているので基本的に任せることにし、相談しながら事を進めているところ。今回の屋根は以前にも頼んだところである程度名が通っているのでまずは大丈夫だと思うが、立て続けなので費用的に負担感が大きいことこの上ない。
分譲マンションの場合も月々の管理費や積み立てだけでは済まないこともあろうが、メンテナンスに関しては戸建ての方が大変だとつくづく思う。たしか2年前だったか下水に問題が発生してトイレが使えなくなり、妹が頭をかかえていた。水周りの修理は急を要するので、大幅に直していない風呂場も安心していられない状態。やれやれと思うが、いろいろな経緯を経て引っ越してきた以上仕方ない。
そんなこんな悩ましいことが次々と起きるが、いいこともある。子供のころから知っている土地の気安さもあるし、自分の空間を確保できる快適さもある。本に囲まれ猫にまみれている。2人暮らしなので気も使うが、それぞれのプライバシーはたいせつにしながら住まうことはできている。猫たちもくつろげている。生活音についても集合住宅より気を使わなくていい。
この年齢になってピカピカの新しい住まいを無理までして手に入れる必要もあるまい。ガタピシ同士なんとか折り合ってともに年齢を重ねていくしかないだろうと思うことにした。やれやれ。
12日に終わってしまったが、ギリギリのタイミングで「みちのくのいとしい仏たち」展を観に行ってきた。
この展覧会は北東北3県(青森、秋田、岩手)で今もたいせつにされている民間仏を集めたもので、昨年4月に岩手県立美術館で開催されたころから知っていた。とても観たかったのだが気軽に行ける地ではなかった。そこでせめてもという気持ちで図録を取り寄せ思いを馳せていた。
最初から計画されていたのかもしれないが、秋ころだったか東京へも巡回してくることを知り楽しみにしていたのだった。昨年12月から今年1月まではとにかく慌ただしかったのでハラハラしたのだが、めでたく行けてよかったと心から思っている。
たとえば円空、木喰などの素朴な仏は観たことがあったが、誰が作ったかもわからない「民間仏」を実際に目にしたのははじめてだった。そして、一目で気に入った・・・というか魅了されてしまった。
著名な仏像のいくつかは今まで観ている。中学校の修学旅行で百済観音と出会って動けなくなってから、仏像には興味を持ち続けてきた。といっても詳しく調べたり仏像めぐりをしたわけではないが、目だけでなく心を動かす仏像はそうそうあるものではないと思っている。写真では何度も観たことがある聖林寺の十一面観音の実物を観た時、はじめてあの仏像が有名であり傑作だと言われていることがわかった。頭でわかったのではなく、心というか魂というかそこで感じたのである。
その感じ方とは全く違うが、みちのくの仏たちが漂わせるやさしさは、厳しい自然とともに生きてきた人々の切実な祈りから生まれたものだけに、稚拙であっても雑ではなく、思わず掌で包んでしまいたくなるようなめんこくていとしい。
腕が一対しかない千手観音、化仏のない十一面観音、螺髪らしきものがある山の神・・・かの地では神も仏もみな同じようなもので、それは自然から感じる神聖な何かをひとつのかたちにしたものに過ぎないのではないか。だから、耳にしたことがある仏の名前をつけてみただけーといったほほえましいものだったような気がする。
展覧会に合わせてテレビ番組も放映されていて、今もなお地元の人たちにたいせつに祭られている様子がいくつか紹介されていた。地獄の裁判官であるゆえ恐ろしげなのが普通の十王たちも、ちっとも怖くない。たれ目をしていたり、そこいらのじっさまのようであったり、と地元の人たちに言わせると「田舎者」の顔をしている。それがまた、いとしい。
これら民間仏の魅力に注目し、展覧会を監修してくださった弘前大学名誉教授の須藤弘敏氏に感謝!
いつのころからだかもう忘れてしまったが、“好きな言葉は?”と聞かれると“青空、ひとりきり”と答えてきた。
ご存知井上陽水氏の曲のタイトルである。デビューアルバムに入っているものだと思うので、かなり若い頃に作られた曲だと思うが、70歳近くなった今聴いても腑に落ちた感があっていいなぁと思う。
楽しいことなら 何でもやりたい
笑える場所なら 何処へでもゆく
冒頭だけ聴けば享楽的、刹那的な若者のひとりごとにも思えるが、そうでないことはその後に続く歌詞からも歴然としている。世の中には楽しいこと、笑える場所がはいて捨てるほどあるわけではない。むしろ、少ない。そしてそれを身をもって知り、結局人間はひとりきりなのであると実感し、いや違うかもしれないと迷い、傷ついたり傷つけたりしながら生きていくうちにふっと悟ったように「ひとり」を受け入れる。そんな感じ?
「孤独」という言葉あるいは概念は、一般的にはマイナスイメージでとらえられていることが多いように思う。「孤独死」がいい例だ。が、個人的には「孤独」=「淋しい」「侘びしい」ものではないと思っている。もともと「ひとり」であるならば、「孤独」もあたりまえであり、それなら楽しく過ごしたいと願う。
「青空ひとりきり」から私はそんな突き抜けた「孤独」を感じる。(双子でない限り)生まれた時はひとりであるように、死ぬ時もまた人間ひとりである。それがあたりまえ。あたりまえのゴールに着々と近づきつつある今、できるだけ楽しく明るくゴールテープを切りたいと思う。私はこれからも、「青空、ひとりきり」が好きだと言い続けるだろう。
*写真はいかにも楽しそうなダンスをしている女の子柄のハンカチ。最近入荷。
]]>タイトルとは逆になってしまうが、まず地獄から。
昨年12月20日、6回目の引っ越しをした。引っ越さねばならないのはだいぶ前からわかっていたが、諸々の事情により慌ただしい引っ越しとなってしまった。年明けでもよかったのだが気分的に年内に、と。
今までの引っ越しで本はある程度処分してきた。泣く泣く処分したものもあれば「これがいい機会になった」というものもあった。が、今回が一番多く手放したように思う。何度かに分けたので正確にはわからないが、たぶんダンボール箱10箱以上。
それでも、依然として本が多い。今までは人がいうほど多いとは思っていなかったが、今回は自分でそう思った。とくに引っ越してきてから本を出して整理していた時。ダンボールを空けても空けてもまだ本が入ったダンボールがあって、夜中に一人苦笑してしまった。
今回の引っ越し先は今までとは違い古い木造家屋の2階である。もっと詳しく書けば私が25歳の時に立てた実家の元自分の部屋だ。当時は6畳・6畳の2間に広いベランダという間取りだったが、私が家を出て妹が婿をとって結婚してからリフォームして私の部屋に続き部屋のようなものができており、それぞれは狭いものの3間ある。それを私と猫4匹で使ってよいとのこと。が、さぞかしゆったり・・・と思ったら大間違いなのである。
昨年1年間、なにかにつけて前の住まいに来てくれた妹からは何度も「ものが多い!」と指摘されていた。断捨離を趣味のように繰り返してきた妹からすれば当然だろうと思ったが、自分でも少しは多すぎることを認めていた。その代表が本と身に付けるもので、今私が常駐している隣の部屋(元妹の部屋)は「衣装部屋」と呼ばれている。もちろん物入れにはそれ以外のものも(妹のものも含まれる)は入っているが、ざっと見回したところその表現ははずれてはいない。
常駐している元私の部屋には立て替えた時私が望んで作ってもらった大きな本棚がある。床から天井までの作り付けで、地元の大工が立派なものを作ってくれた。家具はベッドと机だけ。まず最初に本の居場所を作るあたりは当時から変わっていないようだ。
引っ越しから1ヶ月が経過しやっと落ち着いてきた。結局本は本棚だけでは入りきらず、物入れの中にもびっしり。加えてダンボールに入れてレンタルしている倉庫に入れるハメになってしまったが。
*
引っ越し前から妹には「床が抜ける」「床が落ちて私が死んだらお姉ちゃんのせい」等々と時には冗談まじりに、時には切羽詰まった表情でプレッシャーをかけられ続けてきた。それでも今これだけの本がここにあり、妹もどうやらあきらめたようだ。
ベッドに寝転がって本棚を眺める。一度しか読んでいない本の方が多い。しかし、私には手放せない本たちなのだ。今ここにあることが私を幸せにする本たちなのだ。それらを身近に置き、眺め、ふと何かを思い出したり新しい何かを思いついたりすることが私のひそやかない喜びであり、私の極楽なのである。
文句をいいながらもこの極楽を許してくれた妹に感謝し、床が抜けないことを祈り、毎日なにかにつけて本棚を眺め、時には1冊取り出してパラパラとページを繰り、寝る前に少しだけ読み・・・を繰り返している。この極楽を手放す時がどうぞ来ませんように。
若い頃から冬が好きだった。好きな季節は?と問われれば、必ず「冬!」と即答した。問うた相手は七割方意外な顔をした。春とか秋とかいう答えが多いのだろうか、と思いもしたが好きなものは好きなのでそれ以上は考えなかった。
北国の厳しい冬とは段違いに緩い気候の首都圏エリアでも、冬は冬。落葉樹の葉は落ちて北風も吹く。草は枯れてカサカサしたベージュの葉を寒そうに揺らしている。見様によっては干からびた淋しい風景に見えなくもない。しかし、その枯淡としたものにある種潔さを感じ、肌に痛い寒風に心地よさを感じる一瞬がある。それが私にとっては捨てがたい魅力となっているようだ。
私は自他共に認める植物好きである。木も草も花も大好きなのは子供のころからだ。とくにみずみずしい葉は大好きで、常に身近にありたいと願ってきた。引っ越しをするにもそれが実現しそうな土地を選んできたし、与えられた環境であっても工夫してそうあるよう努めてもきた。冬の枯れ草、裸になった木々にはみずみずしい緑はない。しかし、その生命力を静かに内に秘めて寒風に身をさらし、凛とたたずむ様はと尊い。憧れさえ感じていつまでも冬が好きなままである。
しかし、困ったことに年を重ねるについれて単純にそう言い放つことができなくなってきた。気持ち的には(感覚的、精神的、といってもいいと思うが)相変わらず冬が好きなのだが、肉体的につらくなってきたのである。多くの人がそうであるようだが、寒さがこたえる。ただ寒いと感じる度合いが強くなってきたというだけでなく、具体的に不具合がもろもろ出てきてしまっているのが情けない。各所の神経痛だけならまだいいのだが、虚血性大腸炎を2回やり入院までした。真冬に小一時間でも屋外を歩き続けると感覚が鈍くなるとともに眠くなってきて、半分冗談ながら低体温症になりかけているのではと思うこともある。好きなのに、つらい。この二律背反する感覚は悩ましい。
60歳を過ぎたあたりから、そんな悩ましさを感じてきたがそれも仕方ないこととやり過ごしてきた。が、昨年から今年にかけて、あらためて自分は本当に冬好きかと問うことが多かった。そして、出た答えはやはり「冬が好き」だった。
一昨年の押し迫ったある日から、寒風吹きすさぶ中を必死で歩いてきた感がある。が、最もつらかったその時が冬でよかったと心底感じたのだ。それが春であれ夏であれ秋であれ、冬以外の季節であったなら、へこたれて自分の足で立っていられなかったかも・・・などと気弱なことさえ思う。実際そうであったならそれなりに動いたのであろうが、やはり冬でよかった。冷たい大気の中でしか自分の身を支えて立たせていられないような感覚を感じてきた今となっては。
2月初旬。今は一年で一番寒い季節だ。週明けには雪が降るかもしれないといわれている。それでも天気がいい日はできるだけ外に出て、寒さの中を歩きたい。時折空を見上げて大きく息を吸い、生きていることを実感したい。冬は私に生きていることを最も実感させてくれる季節。だから、やはり冬が好き。
昨年1月2日以来の更新。1年以上のブランクということになるが、「いつかもどってくる」と書いたとおり戻ってきた。
ブランク期間のことは具体的に書くつもりはない。ただ、私にとってかなり大きな出来事があり、ほぼそれに伴う困難なあれこれと格闘するような日々だとだけいっておこう。自分の中で大きく変わったものもあり、意外なほど変わらないものもあり・・・
荒れ狂う風の中を歩いているような気分の日々が多かったが、その中にも穏やかな日があり、悲しんだり苦しんだり喜んだりを繰り返しながら、今ここにこうしている。
向かい風の中を歩きつづけてきたように思っていたが、ふと以前のブログ(2021.7,12)で書いた「たゆたえども沈まず」という言葉を思い出し、こころに響いたので今日のタイトルとした。当分は不定期更新になると思うが、沈まなかった船はゆるりと残りの航海を続けることにする。
]]>
昨年末から年初まで、もしかしたらこれまで経験したことがない・・・もしかしたら一生に一度かもしれない出来事にかかわっている。こんな時こそ、冬木立のように凛とありたいと思う。
いつだったか、神はその試練に耐えうる者にしか試練を与えない、ということを耳にしたことがある。人知の及ばない存在がもしあるなら、そして仮にそれを神と呼ぶなら、神に与えられたものを受け入れながら生きていかなくてはならないだろう。
このところ月に数回の更新しかしていないが、諸事情によりしばらくこのブログを休むことにする。あくまでも「休み」ということにしたい。いつとは約束できないが、必ず戻ってくるつもりでいる。
]]>少し前になるが、世田谷美術館で開催されている「祈り・藤原新也」を観てきた。
藤原新也さんについては、特別意識して追いかけてきたわけではない。ただ、彼が一躍有名になった写真・・・「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というコピーとともに掲載された1枚の写真だったと思う。私の記憶では、当時元気がよかった写真週刊誌「フォーカス」で見たような記憶がある。おぼろげだが、調べてみるとサントリーのパロディだったとあって作品として掲載されていたのかもしれないと思う。いかにサントリーだったとしてもこれをまっとうな広告として雑誌に掲載するとはなかなか思えないから、藤原さんの「東京漂流」にセンセーショナルを売り物にしている写真週刊誌が飛びついたのかもしれない。
それはどちらかというとどうでもいいことだ。とにかく私はそれをオンタイムで見たし、その視点に驚き、(たぶん)感動した。少なくとも嫌悪感はいっさい感じなかった。その写真を見た後、「東京漂流」を読み、人間の「死」あり方が全く日本とは全く違う国があるということを知り、藤原新也という作家(写真だけでなく表現者という意味で)は忘れられない存在となった。
本棚を見ると、とりあえず8冊の著作がある。どれもとことん読み込んだわけではないが、今回の「祈り」を観てまず思い出したのは「なにも願わない手を合わせる」という作品だ。読みながら、「祈り」というのは何かを望んで願うことではなく、自らの中にあるものを手が届かないかもしれないが永遠の存在であるかもしれないもの(神、というのだろうか?)の距離を少しだけ近づけたいと思う心から生まれる行為なのかもしれない、と思った。生まれてきた以上、最後には死ぬ。そこに向かっている中で、今日も生きていることへの「ありがたさ」を自然と泡話す行為かのかもしれない、と。
今回の展覧会を観て、その印象はなお強くなった。「祈り」とは「生」と「死」を見詰めながら生きていることを実感し、「ありがたさ」を再確認し、「死」までの道のりをあゆんでいこうという気持ちから生まれる行為なのかもしれないと思う。
いつだったか、神社などに行って手を合わせる時何かを願うのは間違っている、という話を聞いたことがある。困ったときの神頼み・・・困っていなくても神仏の力でなんとかより良い方向に向かわせてほしいと願い気持ちは私とて充分理解できる。が、願ってばかりでいいのかしら、自分でちゃんと努力しているのかしら、と思うこともある。墓参りに行っても、先祖になにかしら願いことがあるが、願いながら違和感を感じることもある。先祖がいたから自分がいるのだから、無事に生きていることを報告し、感謝しるだけでいいのではないか・・・なんて。
とにかく、静かな公立の美術館で開催されたことはよかったな、と思う。好きな美術館だったから余計にそう思うのかもしれないが。ゆっくり鑑賞して、砧公園の美しい紅葉を見て満足した一日だった。
]]>
こんばんわ。あたい、がっちゃんこときく。さいきん「がっちゃん」てばっかりよばれているので、ほんみょうをわすれそう。
このごろ、ずいぶんさむくなったね。あたい、べつのおうちにいたときは、「ぺっとぼとる」におゆをいれたのを「ゆたんぽ」にしてもらって「けーじ」のなかでぬくぬくしてたの。でも、ここにきてからはあっちこっちでねてるの。このごろのおきにいりは、すみごんのいす。まあるいざぶとんがあって、あたいのからだのおおきさにぴったり。でも、どきどき「すわりたいからどいてね!」っていってどかされちゃうの。ここはあたいのばしょなのに・・・
でも、すみごんがちょっとたったすきに、またそこにいくの。そうすると「あ、またとられたー!がっちゃん、もうちょっとまってて!」ってどかされるの。しかたないから、おちゃんのおひざのうえにいってなでてもらうんだ。
くろっぽいばーちゃん(まめこ)は、げんきだよ。ちっこくてがりがりなのにいつも「ごはんー!」とか「かわいがれー!」とか「いっしょにだめになろうよー!」とかうるさくすみごんにいってるよ。あいかわらずしょっぱいものがすきで、てーぶるに「しじゃけ」とかがあるとめをぎらぎらさせてるよ。でね、さいきん、すみごんのふとんのなかにはいるとあったかいということをしったらしくて、ときどきはいっているの。ふくちゃんだけかとおもったのにな。
ふくちゃんはあいかわらずだよ。すみごんのおへやにいりびたっていることがおおいけど、なにしているのかなー。ふくちゃんだけおいしいものをもらっているんじゃないかなーってうたがっているんだけど、わからないや。ときどき、すみごんやおっちゃんがねているとうえにのって、「みーゆ」こうげきをして「おもたい!」っていわれているの。
だいすけもあいかわらずかなー。ときどきあたいとおっかけっこするけど、あいついつも「にげごし」なんだもん。あんなだから、ふくちゃんにいつもやられちゃうとあたいはおもうな。でも、うちでたったひとりの「だんし」なんで、なにかとかわいがられているよ。あたいはなかよくしてあげてもいいなっておもっているんだけどね。「びなんびじょでおにあい」っていわれているし!
つぎは、ばーちゃんのばんみたい。ばーちゃん、らいねんもげんきでいるかなぁ。いるな、きっと、おしまい!
]]>
先日、毎度おなじみの?三遊亭遊馬さんの独演会に行ってきた。毎年6月と12月の2回行われてきた独演会も、国立演芸場の取り壊しのため来年の6月から3ヶ月連続で予定されている回が最後となるらしい。他でやる可能性もさぐっているのかもしれないが、我が家では恒例になっていたので少し淋しい気分だ。
最初に遊馬さんの落語を聞いたのは、地元の焼鳥屋での落語会。座敷にテーブルを2列に連ねて客が座り、一番奥にしつらえた席で落語をやるという趣向。客は飲んだり食べたりしながら落語を楽しむ。ごく近くで見ることができ、終った後は着替えた遊馬さんと話をする機会もあった。そんなこともあり、熱心な贔屓筋とはいえないが独演会にだけは行ってきた。
今回の演目は三遊亭円朝作「鏡ヶ池操松影(かがみがいけみさおのまつかげ)」。ここ数年円朝作品に挑戦している遊馬さんは昨年「牡丹燈籠」をやった。今年は6月と12月の2回に分けて「鏡ヶ池」だ。そして来年はついに「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」をやる予定だという。
円朝作品は音源で何度か聞いているが、長いだけでなく登場する人物が多く、また妙な因縁で繋がっているという筋立てが特徴だと思う。その因縁とはなにかということが徐々に説明されていくのだが、あまりに複雑な縁の絡み合いに混乱することがある。あらためて何度か聞いてはじめて理解できることもあり、聞く方の理解力が問われる噺でもある。「牡丹燈籠」、「鏡ヶ池」、「累ヶ淵」もいわゆる怪談で人気はあると思うが、なにせ全体像を把握するのが難しい。「累ヶ淵」は円朝作品の中でも一番長い噺だというから、遊馬さんも相当の覚悟をもって準備することだろう。
今回はじめて知ったのだが、昔聞いたことがある「江島屋騒動」という噺は「鏡ヶ池」の一部を撮り出して演出されたものだった。江戸の古着屋・江島屋で起きたこと(主が呪われ店が潰れる)の背景と、騒動後の様々な因縁が語られる。
落語からも少し遠ざかっている昨今。聞けばやはりもっと聞きたいと思う。来年は寄席にも行きたいし、積極的に情報を得る努力をして落語を聞く機会を増やしたいと思う。
とりあえず、遊馬さん、長講一席お疲れさまでした、と言いたい。
]]>少し前、大田記念美術館で開催されている「闇と光〜清親・安治・柳村」を観に行ってきた。小林清親と井上安治については以前から知っており、だいぶ前になると思うがこのブログでも書いたことがあったと記憶する。きかっけは贔屓の漫画家にして江戸風俗研究家であった故・杉浦日向子さんの著書「YASUJI東京」を読んだ事。今でも何度か読む愛読書である。
展覧会のタイトルからもわかるように、清親をはじめとする版画は「光線画」と呼ばれ、闇と光の対比を叙情的に表現した作品が多い。描かれているの明治初期の東京だ。まだ江戸の名残を残した東京のあちこちを切り取り、月、街灯、店店の灯、時には花火や火事の炎と闇との対比が観る者の目を惹きつける。
以前府中の美術館だったかで彼らの作品展示があったらしいのだが見逃したことを知り、図録だけ取り寄せていた。そこでも多くの作品は見たが、やはり実物!という主義なのでいそいそと出かけていった次第。
日向子さんの作品によると小林清親は上背2メートル近い大男であったそうな。寡黙で愛想はないが、どちらかというと朴訥で付き合い方が下手だったというタイプだったのかもしれない。「光線画」といえばまず清親が代表だろう。その清親に14才で弟子入りした時、安治は14才。大きな師の跡を黙々と付いていく華奢な少年のイメージは日向子さんゆえだろうか。それとも25才で夭折した安治の生涯ゆえだろうか。
闇と光の対象を描いた作品は西洋にもあるだろう。宗教画でも主人公を際立たせるためにこの対比を利用していると思うし、レンブラントなどの作品にもそれはいえると思う。しかし、風景画で闇と光を扱うとなると日本美術にはすばらしいものが多々あると少ない経験の中からら思うのである。
つい先頃、長谷川等伯と息子久蔵の襖絵を観てきたが、特に金箔・銀箔を使った屏風絵などは闇と光の効果を十分に意識した上で制作されているように思われる。あれらは明るいところで観るより、行灯や蝋燭の光の中で観た方が絶対にいいと思うのだ。
全く関係ないが、「闇と光」と聞くとどうしても思い出してしまうのが、昔テレビでやっていたアニメ「サスケ」の冒頭である。「カムイ」で有名な白戸三平の作品で、当然ながら忍者が主役。主役だが彼らは常に闇の存在として生きる。それを冒頭のナレーションで語っているのだ。
光あるところ、影がある。まこと栄光の陰には数擦れぬ忍者の姿があった。命を懸けて歴史を作った陰の男たち。だが人よ、名を問うなかれ。闇に生まれ闇に消える。それが忍者の定めなのだ。
かっこいい!って子どもながらに思ったけれど、覚えているのは冒頭部分だけ。光あるところに闇がある・・・
]]>