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無きが如き

17-0809-1.jpg

ノロノロ台風が漸く過ぎ去って、今日はかなり暑くなりそうだ。窓をあければ蝉時雨。一日に一度は外に出ようと思っているが今日はやめておこうか・・・ベランダに出ただけで陽射しがジリッと肌を刺激する。ある程度日焼けしえいる腕でさえそうなのだ。あの日あの時に空から落ちてきた小さな太陽の熱線を浴びた人たちは熱いというより痛いと感じたに違いない。そしてその痛みは私の想像を遥かに超えるに違いない。

今日は長崎の原爆忌だ。1945年8月9日11時2分。小倉をあきらめたB29ボックスカーは長崎上空に到着し、”ファットマン”と呼ばれるプルトニウム爆弾を投下した。広島に投下された”リトルボーイ”の1.5倍の威力があると言われていたが、山に囲まれた地形であったがゆえに被害が食い止められ、広島よりも被害は少なかった、と伝えられている。比較すれば少なかったかもしれないが、信じがたい数字であることに変わりはないだろうし、被爆した人々の苦しみにも変わりはないだろう。

上の写真に写っているのは、「長崎<11:02>1945年8月9日」(東松照明)、「長崎 旧浦上天主堂1945-58失われた被爆遺産」(高原至・横手一彦)、「Japan 1945」(JOE O'DONNELL)。いずれも写真を中心にして被爆後の長崎を語る本だ。文章も掲載されているが、今までは写真とそのキャプションしか見ていなかった。今年は文章の方をじっくり読みたいと思っている。とくに東松照明の写真集は、長崎で被爆した人たちに取材した部分が多く、痛々しい傷跡の写真とともに被爆した時の様子やその後の人生が語られているから必読なのである。

「長崎 旧浦上天主堂1945-58・・・」は、被爆後無残な姿になった浦上天主堂の様子を解体されるまで追いかけた写真集である。原爆ドームのように被爆遺産として残す必要があるという動きもあったが、結局のところ解体されてしまった。この件については、以前長々と書いているが「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅)に詳しい。興味のある方には、拙ブログ2009年8月22日からの連載を読んでいただきたい。

ジョー・オダネルについても何度か書いている。2008年8月8日の記事でテレビの特別番組でとりあげられていた内容について書き、彼の「間違いは100年後も間違いであり続ける」は今でも生きているとあらためて思う。従軍カメラマンとして被爆後の長崎を訪れたオダネルは軍の規則に違反していることを知りつつ街や人々の様子を撮影した。しかしそれらの写真は長い年月トランクの中に封印され日の目を見る事はなかった。2016年8月9日の記事では、オダネルの「トランクの中の日本」と、2008年に見た番組(NHKスペシャル 解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI)をもう一度見たことに触れている。 こちらも参照されたい。私ももう一度動画を見ることにする。

こうして今年も原爆について書いていると、まあなんとしつこく今まで書き続けてきたのか、と我ながら思う。似たようなことを書いているとは思うが、似たようなことでも書かずにはいられない何かが私の中にある、ということだろう。

林京子作品も「やすらかに今はねむり給え」と「祭りの場/ギヤマン・ビードロ」は今年も読み終えた。これから読む「無きが如き」を今日のタイトルとして借用してしまったが、この人の作品は好きである。未読の本もまだまだあって、少しずつ読んでいきたいと思っている。ある意味で、先日とりあげた大田洋子と対照的な作家だと思え、そのうちそういったことについても書いてみたい。

「無きが如き」については2015年8月8日の記事に、「二人の墓標」については2015年8月25日に書いている。ご参考までに。

最後に「長崎<11:02>1945年8月9日」で取上げられている福田須磨子さんの詩を引用しておきたいと思う。福田さんは23才の時に爆心地から1.7キロのところで被爆。父母と姉は自宅で爆死。かろうじて生き残ったが、1955年紅斑症を発症。手記には貧しくて病院にも行けず一人部屋の中で悶々としながら原爆10周年に当るその日に行われていた慰霊祭のお祭り騒ぎの音を聞いていた。その時、熱でふらふらする身体を起こして書いた「ひとりごと」という詩を書き新聞に投稿。1975年8月、詩碑(この詩ではなく「生命を愛しむ」という詩のようだ)が平和公園に建てられた。福田さん自身はその前年1974年8月2日に死去している。

 

ひとりごと 福田須磨子

 

何も彼も、いやになりました

原子野に屹立する巨大な平和像

それはいい、それはいいけれど

そのお金で、何とかならなかったかしら

”石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”

さもしいといって下さいますな、

原爆後10年をぎりぎりに生きる

被災者の偽らぬ心境です。

 

ああ、今年の私には気力がないのです

平和!平和!もうききあきました。

いくらどなって叫んだとて

深い空に消えてしまう様な頼りなさ、

何等の反応すら見出せぬ焦燥に

すっかり疲れてしまいました

ごらん、原子砲がそこに届いている

 

何も彼もいやになりました

皆が騒げば騒ぐ程心は虚しい

今迄は、焼け死んだ父さん母さん姉さんが

むごたらしくって可哀相で

泣いて許りいたけれど

今では幸福かもしれないと思う、

生きる不安と苦しさと、

そんな事知らないだけでも・・・

 

ああ、こんなじゃいけないと

慈雨Bんを鞭うつのだけれど。

17-0809-2.jpg東松照明の本の表紙の写真は、熱線と火災で溶けたガラス瓶。のたうちながら焼かれていく人体に見える。私には。

| - | 10:29 | comments(0) | - |









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