・・・吾妻橋も昔はこうだったのか。安治には橋の絵も多い。・・・
先月「日曜美術館」で取上げていた版画がずっと記憶に残っていた。明治時代の東京を題材にした版画の数々・・・作者は井上安治。その時はじめて聞く名前だったが、番組の中で杉浦日向子さんに「YASUJI東京」という著作があることを知り、たぶん私にも縁がある画家だろうと思った。
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井上安治(1864〜1889)。浅草並木町(現雷門二丁目)生まれ。わずか25年の生涯である。子どもの頃月岡芳年に弟子入りしたが、15歳で小林清親を師事し弟子になる。17歳で版画家としてデビューし、清親のバックアップもあって次々と東京の風景を作品にしていく。1881年に清親が光線画といわれていた手法の作品制作を辞めるとそれを引継いでいたが、1884年に井上探景と画号を改め、「開花絵」「風俗画」などを手がけるようになる。しかし、若いころの作品ほど評価はされていない。
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小林清親という人は無口な大男であったらしい。その大男の後を安治もまた無言でついていき、師の絵を身近で見ながら淡々と自分も絵を描いた。清親は先に触れた「光線画」で有名になった人で、光と影のコントラストを効果的に使った作風で一世を風靡した。
その清親と弟子である安治は当然ながら同じ題材で作品を制作しているが、日向子女史も指摘しているように雰囲気が微妙に違う。日向子女史が「YASUJI東京」で触れているように、清親の画面からは音が聞こえてくるような気がするが、安治の絵はひっそりと静まっている。無音の画面は、ただそこに、目の前にあるものを描いただけ、という単純素朴ささえ感じられる。
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しかし、不思議なものだと思う。まだ自我が完成していなかったかもしれない10代に描いたものが、まぎれもなく安治の作風として評価されているのに対して、画号をあらためてからの作品がある意味族にまみれたものとして省みられないというのは。
安治は目と手だけだ。
思い入れがない。
「意味」の介入を拒んでいるかのようだ。
(「YASUJI東京」)
安治がもう少し長生きしたら、作風や題材は変化していったのだろうか。なぜか想像することができない。
調べていたら、数年前茅ヶ崎市美術館で安治生誕150年記念の展覧会が催されていたことを知った。図録がまだ残っているようなので注文したものが今手元にある。夜景が多く、そこに描かれている人はぼんやりとした影だったり後ろ姿だったりすることが多い。自分の感性を絵の中に投影しようという思いを感じさせない。やはり不思議な絵だと思う。
*一度だけ行ったことがある那珂川馬頭広重美術館で「小林清親と井上安治」が開催されている。
*行きたいけど・・・遠い・・・7月8日までかぁ・・・
*やっぱり実物を見たいなぁ。