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日々の内側
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Necessary Evil

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昨日も書いたが、本を読むのと平行して原爆についての動画や映画を見ている。かつて見たことがあるものを見直したり、新たに見つけたものを見たり。数えてはいないが、ある程度の数になっていると思う。

一部を除きドキュメンタリーばかりである。あの時何が起きたか、なぜ起きたか・・・それを今でも知りたいと思う自分がそうさているのだと思う。まず、手持ちのDVDを2本。そのうちの「ヒロシマ・ナガサキ」は2011年8月6日の記事でも触れているが、スティーブン・オカザキ監督が長い年月をかけて完成させた力作だ。500人以上の被爆者と会い、そのうちの14人が映画の中で当時をふり返っている。原爆投下にかかわった4人のアメリカ軍関係者の複雑な心境にも触れ、広島に原爆が投下された時から始まったともいえる「核の時代」がはらむ恐ろしさをも感じさせる作品だ。

ネット上にある動画もいくつか見た。その中で最も見る価値があると思ったものが「ヒロシマ 世界を変えたあの日」である。2014年に制作が開始され2015年には公開されていたはずなのだが昨年は見つけることができなかった。

企画したのはイギリスの制作プロダクションに勤めるルーシー・ヴァン・ビーク(ディレクター)とダイナ・ロード(プロデューサー)。この2人の女性は、「必要悪」であったと教えられてきた原爆投下が本当にそうであったのかを検証することを目的とする番組をイギリスとフランスのテレビ会社とNHKの共同制作で完成させた。

作品は95分の長編で前編・後編に分かれている。今日は主に原爆投下に至るまでの経緯を追った前編について書くが、前後編とも一時も目が離せなかったことを記しておきたい。知らなかったことがかなりあり、今後戦争や原爆を考える上での貴重な資料になったと思っている。

いわずもがなのことだが、広島への原子爆弾投下は世界発の核兵器使用である。すでに戦争は終わりかけており、日本の敗戦は目に見えていた。それなのに何故、あのように恐ろしい兵器が使われることになったのか。戦争を一刻も早く終わらせるため、という正当性をアメリカ国民は支持し、原爆は「必要悪」であったと思っている人が今でも少なくはないだろう。しかし本当に、アメリカは、トルーマンと軍部はそれだけのために原爆を投下したのか。

アメリカの原子爆弾開発はかなり前から計画されていた。いわゆる「マンハッタン計画」がそれである。失敗の連続だったらしいが、あきらめずいつか実際に使用することを目指して。テニアン島には大規模な基地が建設され、一般的な訓練以外にも特別な訓練・・・つまり原爆を投下するための訓練も行われていた。ドイツも核兵器製造を研究しておりその材料であるウラン鉱石を持っていたが、ドイツ降伏後アメリカはソ連より早くそれを入手し国内に持ち込んだ。その量1000トン。

ドイツが降伏したころには日本も敗戦への道をまっしぐらに歩んでいた。しかし、大本営はそれをひた隠しに隠しており、国民は正確な情報を得ることなく不安な日々を過ごしていた。空襲に脅えながらも、「お国のため「「天皇陛下のため」という大義名分に逆らうことはできなかった。しかし、度重なる空襲、戦地でどんどん死んでいく親族たち、乏しい食料等々により疲労は深まり、心の奥底では負け戦になることを感じていたに違いない。

一般国民から恐れられていた「憲兵」は、軍隊の警察官として多くの役割を担ったが、その一つが国民の実体を把握することであったという。国民が何を考え、どう行動するかを監視し、時には弾圧する存在として好意的に受け止められることは少なかったのではないだろうか。憲兵は常に国民の態度に目を光らせていたから、戦争が長引くに従って戦意を喪失していく様子を把握していた。それが上層部にも伝わり、戦意喪失を食い止めさらに戦わせるために、大本営は嘘をつきつづけたのである。

私が一番驚いたのは、日本がすでに降伏を手探りしていたにもかかわらず原爆が投下されたことだ。第二次世界大戦の戦後処理を決めるポツダム会談が行われていた時、日本は戦争終結への道を探っていたという。日本に宣戦布告をしていなかったソ連への仲介依頼、スイスなどにある日本大使館からの働きかけ、そして後のCIA長官となるアレン・ダレスへの接触も考えられていたという。

また、日本の降伏の条件もすでにアメリカをはじめとする連合国側は知っていた。それは天皇制の存続である。それさえ条約に盛り込まれれば日本は無条件降伏するであろうことを彼らは知っていた。しかし彼らが策定したポツダム宣言には「日本国民は自ら政府を選べる」としか記載されず、広島と長崎に原爆を落とされた後の8月14日まで日本がこの宣言を受諾することはなかった。

アメリカの科学者の中にも原爆投下を疑問視する人がある程度存在していたようだ。70名の科学者が原爆使用反対の署名を提出したが、陸軍中将でありマンハッタン計画の中心人物でもあったレズリー・グローヴスはそれを却下。同じくマンハッタン計画の主導者であり「原爆の父」と言われた物理学者ロバート・オッペンハイマーも反対派の科学者たちに圧力をかけた。原子爆弾はすでに科学者から軍に渡されており、彼らはどうすることもできなかった。

原爆は落とされるべくして落とされた・・・この番組を見終わった時私が思ったことである。「国体」「天皇制」にこだわり続けて和平交渉の機を逸した日本政府にも責任の一端はある。しかし、それとは別にアメリカはもしかしたら、日本の降伏を先延ばしにしていたのではないかという疑いを否めない。

強い国・アメリカ。それを国内のみならず世界中に知らしめるためには、新兵器を実際に使ってその威力をPRする必要があったのではないだろうか。日本が降伏すれば、新兵器である原子爆弾を使う機会を逸してしまう。

原爆を落とすだけなら戦闘機は1機だけでいいではないか。しかし、エノラ・ゲイとともに2機のB29がテニアン空港から広島に向かった。1機は記録撮影のため、もう1機は観測のために。原爆投下の翌日から低空飛行しながら全壊した広島の街を撮影したり、調査はするが治療はしないABCCを早々と建設したり・・・自らが使った兵器の効果を詳細に調べる準備はあらかじめ整っていたに違いない。

そして彼らは占領国として日本の言論統制を行い、自分たちの調査結果やもろもろの資料も極秘として公開してこなかった。世界に対してひたすら「必要悪」であるという正当性を主張しながら。

そんなアメリカでひとつのルポルタージュが発表される。ジャーナリストであるジョン・ハーシーが「ザ・ニューヨーカー」誌に寄せた「ヒロシマ」である。被爆者6人に取材し原爆の惨禍をリアルに伝えたルポは大きな話題となり「20世紀アメリカ・ジャーナリズムの業績トップ100」の第1位に選ばれた。

しかし、これに対して元陸軍長官でありマンハッタン計画にもかかわっていたヘンリー・スティムソンは原爆の正当性を主張する論文を発表。「日本の本土上陸で100万人のアメリカ兵を犠牲にすること」と「原爆を投下し戦争を早期に終わらせること」の二者択一を読者に提示する巧みな論点で「原爆は必要悪」「原爆使用は正当」という認識に貢献した。

「ヒロシマ世界を変えたあの日」の後編は、原爆投下後に生き残った人々の苦しみにスポットを当てている。爆心地で即死した人たちも悲惨だが、生き残った人々に待っていたのはさらにつらい人生だったように思われる。疎開先から帰ってきても家族がすべていなくなっていた子供たち。軽症や無傷であった人たちを次々に押そう原爆症。二次被爆や胎内被爆。結婚や出産に対する不安や失望。生き抜くために人にはいえないような事をしてきたゆえ過去を語れない人々・・・

前編同様見ごたえのあるものなので、ぜひ多くの人に見てもらいたいと思う。

1945年8月6日。広島の上空に現れた3機のB29の中で、エノラ・ゲイ(Enola Gay)の名前だけがよく知られている。原子爆弾・リトルボーイを投下した銀色に輝く爆撃機として。その名は機長であるポール・ティベッツ大佐の母親であるエノラ・ゲイ・ティベッツからとられたといい、息子は広島出撃の直前、機長席から顔を出して誇らしげに手を振った。

先ほども触れたが、エノラ・ゲイにはあと2機が同行している。科学的調査を担ったのは観測機であるThe Great Artist。そして、記録撮影を担当したのが撮影機であるNecessary Evilである。このことを知っている人はどれくらいいるのだろうか。焼け野原と化した広島の街と人を淡々と撮影していたのは、「必要悪」という名前のB29であったことを。

「ヒロシマ世界が変わったあの日」(前編)

「ヒロシマ世界が変わったあの日」(後編)

| - | 09:39 | comments(2) | - |
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