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Passion

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九州地方を中心とした集中豪雨の被害が広がっている。妊娠中の若い母親が幼い上の子どもをかばうようにして遺体で発見されたなどは、なんともやりきれない。年を重ねていようが若かろうが、それぞれの生活や希望はあっただろうに。「自然の猛威」などというお決まりの言葉しか出てこないことが情けなくもあるが、人間の力が及ばぬことがあり得ること、絶対的とも思える大きな力にはあらがえないことが身にしみる思いだ。

昨日ラジオを聞いていたら、「Passion」という言葉が耳に入ってきた。確か社会学者の宮台真司さんがちらりと言っていたように思う。たぶん今回の豪雨被害についてのコメントだったような気がするが、なんとなく聞いていたので定かではない。

「Passion」は普通「情熱」などと訳される。が、数年前話題になった映画もあって「(キリストの)受難」をも表す言葉だということを知っている方も多いことだろう。語源はラテン語の「passio」で、何かを受ける、被る、というような意味らしい。よきにつけ悪きにつけ何かを受ける、ということらしいがマイナスになるものを受ける場合は受難となる・・・ようだ。

主にキリストの「受難」について使う言葉のようだが、こう天災が続くとこれらも「Passion」と言っていいのではないかと思えてくる。九州はついこの間大きな地震があったばかりで受難続きだが、人知を超える力による受難は、いつどこでだれが被ってもおかしくはない。

何十年に一度は大きな氾濫があるという川の近くに住んでいても、その受難は「いつかは」のことであり「明日かもしれない」とは思わない。あるいは、不安を感じていたとしても長年住み慣れた地域社会から出て行くことは非常に勇気がいることだと思うので、危険をうっすらと感じつつもそれを考えないようにし、日常生活を過ごしているのかもしれない。そして、「Passion」は突然目の前に現れる。

他人事ではない、と思いつつテレビで豪雨被害の映像を見て「ひどいなぁ」などと呟いている私の中には、やはり他人事意識がないとはいえない。被災者の人たちを気の毒だと思いつつ、自分は大丈夫だろう、あるいは自分ではなくてよかった、と心の奥底で思っていないとはいえない。

そういった自分を意識するがゆえに、もし自分の身に「Passion」が降りかかっても、恨み辛みは言うまいと思う。なんとかそれを受け入れて生きていくしかないと思う。しかし、やはり心のどこかに「なんとか無事に生きおおせるのではないか」という根拠なき楽観がありそうな気もする。やれやれ。

来月は私にとって先の戦争と原爆のことについて思う月である。毎年毎年。去年はあまり読まなかったが、今年は原爆作家(この言葉は好ましくないが)の作品を再読することに時間を費やそうと思っている。原爆は「Passion」だったのか。それとも避けようとすれば避けられるものだったのか。とりあえず昨日から一番”重い”と感じる「屍の街・半人間」(大田洋子)を読みはじめた。少なくともすでに3回は読んでいると思うが気力がある限り読み続ける。

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