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97年と1日

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・・・4月7日、伯母宅の前にある小さな公園では桜が満開だった・・・

 

去る5月6日、前日誕生日を迎えたばかりの伯母が他界した。97才と1日。この伯母については、2008年5月29日から数回に分けて書いているが、子どものころから様々な苦労をしながらもそれを感じさせない、今にして思うとプライドがとても高い人だったと思う。最晩年は気分的にも沈みがちだったようだが、いつまでもオシャレ心を持ち続け、気遣いも人一番する人だった。

90才を超えたころからあまり出歩かなくなり、酒も煙草もやめたようだった。会いにいきたかったが、人と会うのが負担のようなことを言っていたので遠慮し、時々手紙やカードを送るだけにしていた。それでも、たまに電話で「年よりのにおいがしていそうな気がするから軽めのオーデコロンが欲しいんだけど」とか「使っていたアイブロウペンシルがなくなってしまったんだけど」など自分では買いに行けないものを頼まれたりすることがあって、私は伯母の役に立つことが嬉しかったものだ。

昨年秋から今年にかけて家の中で2度転倒し、顔と頭を打ったと聞き心配していた。筆まめな伯母だったがここ数年字を書くのも億劫になったとのことで、たまに来る手紙の字も震えるような筆跡で痛々しかった。横になっていることが多くなり、電話が鳴っても出るまでに時間がかかるとのことだったので、あえて電話はかけないようにしていたが、先月珍しく電話がかかってきた。寝ている時に何度か電話が鳴り、出ようとして近くまで行くと切れてしまうということが重なり、私か妹かもしれないと思ったようだ。足がだいぶ弱くなっているようで、家の中でも杖をついて歩いていたので電話がある部屋まで行くのに時間がかかるのだろう。

私ではないことを伝え、近況を聞いた。二度の転倒がかなりショックだったようで、自分に全く自信がなくなった、同居している人に迷惑ばかりかけている、そろそろ自分の人生も終わりにしたい、等々弱音が次々と出てきた。年齢を考えても無理ならぬことだったが、電話を切る少し前に「○○さん(私)、あたし怖いの」と言ったのが強く印象に残っている。自分の身体がこの先どうなっていくのか怖い、自分が自分でなくなっていくのが怖い、そして死ぬのが怖い。伯母の声は弱々しかったが、その中に切実なものが漂っていて何と答えていいかわからなかった。

その時の電話がどうしても気になって、先月の7日に突然伯母の家に行ってみた。あらかじめ電話で伝えれば来なくていいと言うに決まっているのだが、なにか会っておかなければという漠然とした強迫観念のようなものに背を押された。久しぶりに会う伯母はベッドに座って下を向いたままだったが、私が子どもだったころのことをいろいろ話しているうちに笑顔が見られるようになり、持って言った小さなブーケを見て「花なんてずいぶん久しぶりに見た」と喜んでくれた。最後は手を握って、今までずっと感謝しつづけてきたことを伝え帰路についた。伯母の手は私の手よりあたたかく、「こんなに冷たい手をして」と私のことを心配しながら、「今度会う時は死ぬ時よ」と最後に言った。

1週間ほどして妹が伯母と連絡がとれないと言ってきた。母も何度か電話をかけたようだがいつも留守電になってしまい、メッセージを残しても掛け直してくることもなく2人で心配していたようだ。一人暮らしではないので、何度も電話があれば連絡してきてもおかしくないのに、と怪訝に思いながら様子を見ていた。

15日過ぎにやっと電話が通じた。出たのは伯母と同居している人で、その人が短期入院をすることになったので伯母は介護施設にショートステイしている、とのことだった。一安心したのだが、実はそれは咄嗟に出た空言で伯母はその時すでに入院していた。

翌日だったか妹の方にその人から電話が入り、伯母の入院が伝えられた。14日の朝、伯母の様子を見に行くと、顔がかなり腫れていて息も苦しそうだったという。救急車はいやだというので急いで主治医のところに連れて行くと病院に行った方がいいと言われ、そのまま病院へ。肺に水がたまっているとのことで検査をかねて水を抜く処置をしたらしいが、詳しい原因はまだわかっていなかった。ただ、伯母は日ごろから何かあっても延命治療はしたくないと言っていたし、入院したことについても不本意だったようだ。

29日に妹、母とともに病院に行った。時々意識が混濁する様子だったが退院してきたばかりの母を気遣い、母の世話に明け暮れる妹を気遣い、妹が痩せてしまったことを心配した。私が顔を見せると、入院させられたこと、自分をこんな状態にした同居人のことをあしざまに罵った。普段穏やかな伯母の言葉だとは思えないほど伯母の怒りは強く、チューブをつけられ寝たきりにされたことへの怒りの強さに驚いた。同居している人もすでに70才、しかも持病持ちである。それでも母と慕う伯母の食事を作り世話をしていた。そんな人を悪く言うなんて、と思い「伯母さん、そんなこと言っちゃだめだよ。よくしてくれているじゃないの」と言うと、そんなことはない、あれほど言ったのにあいつはバカだ、云々の繰り返し。私は伯母の怒りに、静かにそっと消えていきたいという願いが叶えられなかったことへの猛烈な憤りを見た。そして、普段はどちらかというと自分については控えめだった伯母のプライドの高さを思い知った。伯母はなにがなんでもベッドに繋がれているような状態にはなりたくなかったのだ。ましてや、そんな自分を人に見せたくなかったのだ。

伯母の病名は転移性肺ガンによる肺水腫。水を抜いたのは片肺だったが、もう一方の肺にも水がたまりはじめ、呼吸が苦しくなってきた。伯母はそちら側はそのままにしておいてほしいという意志を示し、体力的にも原発性のガンがどこにあるか調べることも無理なので、緩和ケアをするにとどめることにし、担当医師からは連休中もつかもたぬかと言われていた。

5日の午前中、看護師から危ないかもしれないという連絡が入ったとのことで、妹と二人でかけつけた。血液中の酸素濃度がどんどん下がったとのことだったが、午後になると少し持ち直した。しかし相変わらずいつどうなるか分からない状態だったので、夕方まで病院にいて帰宅した。話しかけると、伯母はだれに対しても「ありがとう」「苦しい」しか言わなくなっていた。当日は伯母の誕生日で満97才を迎えた。もうそろそろ楽にしてあげたいと誰もが思ったと思う。そしてそれを確認したかのように、翌6日11時9分に伯母は息をひきとった。

伯母については、また機会をみて何か書くかもしれない。私にとっては伯母というだけでなく特別な人だった。母に言えぬこともいくつか伯母に聞いてもらったし、伯母も言っていたが私たちはどこか似ているところがあった。今日はこれから伯母の葬儀に出かける。「ありがとう、おつかれさまでした」という言葉しか出てこないような気がしている。

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