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コロナが終息しても人は死ぬ

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少し収まった感はあるが(マスコミも飽きてきたとみえる)コロナ関連の話題も以前ほど目立たなくなった。むしろコロナに付随する諸問題・・・給付金配布業務丸投げ、しかも悪名高き電通に、しかも決算開示を全くしていないうさんくさい組織に、誰かさんの「民度」発言、「Go Toキャンペーン」やりなおし、オリンピック規模縮小案・・・などがにぎにぎしく伝えられている。東京で感染者が増えてアラートが発動されたが、その気配はあったのに自粛を求めずさらなるステップに進んだのだから結果は火を見るより明らかではないか。政治家(政治屋?)のやることなすこと裏目というよりも素っ頓狂な感さえ否めない情けなさだ。

 

オリンピックを縮小して行う案を作ったらしいが、まだまだ世界中を見回せばコロナ終息とは言い難い状況、しかも第二波第三波への懸念があちこちで言われているというのに、まだやるつもりなのかとあきれてしまう。どんなかたちであれ「開催することに意義がある」と言わんばかりだが、誰にとって意義があるというのか。ごく一部の、利権やら名誉やらが欲しい連中にとってでしょうに、などと毒づきたくもなる。

 

そんな中、夕刊で「コロナが終息しても人は死ぬ」という見出しを見かけた。哲学者・中島義道氏の寄稿で、久しぶりに氏の文章を読んでみた。一時数冊まとめて読んだことがあるが、あの偏屈具合が気に入っていたとはいえ毒気に当ったような気分になってきて以来読んでいなかったのだ。「うるさい日本の私」などはおもしろかった記憶があるのだが。

 

中島氏が書いているように、これほどコロナコロナとみなが不安がり大騒ぎになっているのは、コロナによって「死」が他人事ではなく身近なものになったからかもしれない。元気だった芸能人が亡くなった、若い人が次々と亡くなっているなどときけば身近に感じざるをえないのかもしれない。

ある意味で盲目的になっているように思うこともある。インフルエンザで死んだ人の方が多いことも、自殺者の方が多いことも、この際頭には入っていかないようだからだ。まるで頭が感染してしまったかのように。

 

中島氏は言う。

「死すべきように定められた」私たちにとって、「死」とはいかなる数にも関係なく、いかなる死に方にも関係ない。原爆の投下によって死のうが餅を喉に詰らせてしのうが同じことである。いかなる崇高な死もなく、いかなる惨めな死もない。(略)高々百年のうちに死んでしまい、その後たぶん永久に生き返らないという残酷な運命は変わらないのだ。

それを言ったら身も蓋もないと言いたくなるようなことにもぐんぐん切り込んでくるあたり、いかにも中島氏らしいと思った。

 

なるほどと思うこともあった。「普通」について触れたあたり。

「(前略)未曾有の災害となると、「普通」がまかり通る。普通の美談がわが物顔でのし歩くようになる。生きることが辛い人びと、他人嫌悪症の人びとは抹殺される。みんなが、学校がなくなったことに悲しみ、友達に再会することを望んでいる、ということになる。でも、いじめに苦しんできた子は学校がなくなって嬉しいであろう。級友と再会できなくて幸せだろう。しかし、そのことを言うことさえできないのだ。(略)先の戦争のとき、(当時の)普通以外は何も語らせなかったように、コロナ災害においても普通以外の言葉は封じられるのだ。普通の苦しみしか認可されないのだ」

たしかにそうだと思う。多くの人にとって日々不安であり窮屈であり時には恐怖でさえあることが、別の人にとって幸いであっても何の不思議もない。が、昨今よく言われる同調圧力のように「普通」の反応、「普通」の行動が求められ、それからはずれると差別されたり非難されたりする。

 

「世界中で日々夥しい人びとが死んでいく中で、みな必死で感染拡大にならないように外出を自粛し、医療崩壊にならないように配慮し、毎日新たな感染者の数に神経を尖らせ、新薬の開発されることを期待し・・・「出口」を待ち望んでいる。しかし、コロナが終息しても人は死ぬのである。そして、なぜ死ななければならないのか、その意味はわからない」

全てその通り!とは思わないが、どこか痛快さを感じる。そして、どうせ死ぬなら自分ではどうしようもないことに神経をすり減らしてばかりの生活はしたくない。死の直前まで達観などできないだろうが、自分で考え、自分が思うように生きていたい。

| - | 16:11 | comments(0) | - |
「せんなし」「わりなし」

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昨日の記事のタイトルを考えていた時にふとひっかかった。なかなか思うようにならないことをどう表現するか・・・結局「ままならぬ」を選びそれで正解だったと思うが、その時に「せんなき」という言葉も頭に浮かんだ。そこで調べてみると、どうも昨日のような自分の思うままにならないという意味で使うなら、やはり「ままならぬ」が一番よさそうだと判断したという・・・まあどうでもいい経緯があった。

「せんなき」を調べてみると、「せんない(詮ない)」の連体形とあり、「詮」は詳しく調べる、心理を明らかにする、という意味があるようだ。また、「ききめ」「効」という意味もあり、「詮ない」は「やってもしかたない」という意味で使われる。やってもしかたない・・・つまりなにかやっても無益だ、報いがない、というなんとなくほろ苦い諦めのニュアンスがこめられた言葉であるような気がする。

「せんなし」を調べていたら「わりなし」という言葉もあるなぁという連想が働いたのでこちらも調べてみた。「わりなし」は古くから使われていた言葉のようで、例として源氏物語や枕草子などがあげられている。
〔1)道理に合わない。分別がない。〔2)耐えがたい。たまらなくつらい。〔3)仕方ない。どうしようもない。〔4)ひどい。甚だしい。〔5)この上なくすぐれている。
古典を学んでいると〔5)のような真逆な意味をもつ言葉があるのに戸惑うが、この際それは横においておく。「わりなし」もやはりどうしようもない、しかたない、といった諦めを表す場合があるようだが、ニュアンスはなんとなく切ない。「せんなし」はほろ苦いが「わりなし」は切ない・・・というのが私の印象だ。実際の使い方における違いはもう少し調べてみないとわからない。

「わりなし」に近い意味の言葉に「あやなし」がある、とあっった。「春の夜の闇はあやなし梅の花」の「あやなし」である。違いは「わりなし」が自分の心の中で筋がとおらずつらい様を表すのに対し、「あやなし」は対象の状態について筋が通らない様を表す・・・らしい。なるほどね。やっぱり「わりなし」は切ないなぁ(^.^)

そういえば「わりなし」という言葉がずっと頭の中にあったのには理由がある。いつのことだったか、だいぶ前になるのだがラジオか何かで女優の岸恵子さんの著書に「わりなき恋」という小説があると聞いた時からだ。「わりなき恋」とはどういう恋なのか・・・あらすじも説明されており、それがいかにも切ない感じがしたので未だに「わりなし」に切なさを感じるのかもしれない。だからこの印象は独断と偏見かも!?

| - | 15:48 | comments(0) | - |
ままならぬ日々

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緊急事態宣言が解除され、徐々に街はいつもの顔を戻しつつある。自粛の反動もあって人々は街だけでなく海などにも繰り出し、感染拡大は目に見えるようだがもう元にはもどれないだろう。一度解放された者がすぐに束縛されたらストレスは前よりも強く感じるだろうし、そもそも補償さえお粗末な状態で元に戻れと言われてもいかんともしがたいだろう。

個人的には、自粛が緩んで嬉しいといえば嬉しい。が、予想していたよりその嬉しさが薄い・・・というか気分的にはほとんど自粛期間と変わらない。少し以外だったが、さてさて!と出かけていく気持ちになかなかなれずにいる。感染が怖いというわけではなく、いつもより動かなかったというのになんとなく心身が疲れているような感じ。気温が急に高くなるこの季節に体調を崩しがちだということも関係しているのかもしれないし、いわゆる「運気」というヤツが現在のところ低迷しているのかもしれない。

2つ目の探し物は依然として見つからない。とりあえず諦めてみようと思っていたら、今度は様子がおかしかったアゲハの幼虫が死んでしまった。生まれつき未熟だったようで、自然界でも生き残れるかどうかはわからないと思う。全く食べなくなって1週間近くがんばっていたが、今朝見たら動かなくなっていた。できることはなかたと思うが、どこか徒労感のようなものが残ってしまったかもしれない。

こういう時は身体の声に耳を澄ませつつ、少しずつ元にもどるしかない。人生、ままならぬ時はあるし、とりたてて大きな不幸に襲われているわけでもないのだから。ゆるゆると行きましょう。

| - | 19:18 | comments(0) | - |
家庭内行方不明

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行方不明の原因・・・カオスな本棚

 

ここ数日、探し物ばかりしている。最初の探し物はサングラス。つい最近レンズを度付きのものに変えたばかりで、以来使っていないからいつもの場所にあるとばかり思っていた。それなのに、ふとそこを見るとそのサングラスだけない!どう考えてもそこにしか置かないと思うのだが・・・不審な気持ち100%で探しはじめた。まず周辺。下に落ちていないか、家具と家具の間にはさまっていないか、それとも引き出しの中にしまわれているのか、薬がごっそり入った紙袋(いつもの置き場のすぐ隣に置いてある)の中に紛れていないか・・・うーん、ない!

もしかしたら、なにかの拍子にゴミ箱に落ちてしまい、それに気づかずゴミと一緒に回収されてしまったのでは!?不吉な思いが過る。今までさほど愛用していたわけではないのだが、ここ数年とくに夏はサングラスが放せず、それならいっそいろいろなデザインを楽しもうと思っていたのになんとしたこと。おろおろと自分の周りをあれこれ探したがない。終いには半分諦め気味の気分になってきた。外にもサングラスがあるし・・・などと無理やり自分に言い聞かせ、それでも納得できないものがモヤモヤするのを忘れようと努力した。

しばらくして、全く別のものが落ちているのに気づきそれを拾い上げようとしたら、何故なのかサングラスがひょっこり出てきた。なんでこんなところに!およそありえない場所なのに!不審は不審なのだが、出てきた喜びの方が大きかったのは否めない。今でもなぜあんなところに落ちていたのかわからない。酔っぱらって何かの拍子に全く別のところに置き、それが落下したのか。ごちゃごちゃ置かれているものをどかさないとわからないところにあったので、もっと後まで気づかなかった可能性は高い。でもまあ、出てきてよかった・・・

サングラス騒ぎ(私一人が無言で騒いでいるだけなのだが)が一段落したと思ったら、今度は世みたい本がない。本を探すのは今にはじまったことではなく、なんでそんなことになるのか理由は重々わかっているのだが何度も繰り返している。出てきたこともあるし、何日か探して出てこないので新たに買ったこともある。そしてずいぶん経ってから前のものが出てきたりしたことも数回。買って読んだことも忘れてまた買うということもあって、同じものがあることに気づいた時の悔しさよ。自分の忘れっぽさと整理が行き届いていない不甲斐なさを身にしみて感じ、ほんのしばらく落ち込む。そして・・・すぐに忘れる!(^^;)

今回の探し本は手強い。探しているのは、このブログでも何度かとりあげた「二笑亭綺譚」だ。2009年1月17日と2017年9月1日の記事に詳しいのでここでは割愛。なんで急に読みたくなったかというと、最近続々と開きはじめた全国の美術館情報の中に、広島市現代美術館の「式場隆三郎:脳室反射鏡」を見つけたからだ。式場は「二笑亭綺譚」の著者であり、この度の展覧会には二笑亭に関する展示もあるようで、もう少し近ければぜひ行きたいところなのである。

行きたいがなかなか・・・でも、本は読める!ということで探しはじめたというわけなのだが、未だに発見していない(^^;)何度も読んだし、これからも読むと思われる本なのであまり奥の方にはしまいこんでいないはずなのだが。

何度か書いているように本の収納場所はとっくの昔の飽和状態になっており、それでも無理やり納めてきたというのが現状だ。納めきれないものはいまや本棚の前に積まれるハメになっており、そろそろ本腰を入れて整理するなり処分するなりしないと、と思ってはいる。

前後2列に収納してある文庫本のところにもない。棚板と本のすき間にもない。積み上げられた中にもない。うーん。さきほど、ひょっとしたら!と全く別の場所を探してみたが残念ながら見つけられなかった。相当くたびれた文庫本なのであらたに買ってもいいのだが、なんとなく悔しい。足がはえて歩いて出て行くわけはないから、絶対に家の中にはあるはずなのに。あと数日探して見つけられなかったら、泣く泣く古本を注文することになるかもしれない。あーあ。

| - | 16:27 | comments(1) | - |
みんなのうた

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先日実家に行ったら、常に整理整頓をしている妹が「みんなのうた」という小さな本を出してきた。裏を見ると「5年5組○○○○(私の名前)」と書かれている。どうやら小学校5年生の時に使っていた、たぶん副教材だと思う。

パラパラとめくっていくと、知っている歌が多い。すぐに思いだせなくても、歌詞を目で追っていくうちに思いだしたりする。新書サイズくらいの小さな本だが、けっこう使ったらしくそれなりに傷んでいるがなんだかなつかしくなって持ち帰ってきた。

 

思えば小学生のころ、よく家で歌を歌っていた。母は音楽好きだったようで夏休みなどになると日比谷の映画街に有名な音楽家の伝記映画に私たち姉妹を連れていってくれた。家事をしながらよく鼻歌などを歌っていた記憶もある。妹は歌より楽器の方が得意で、2人でリコーダーの合奏をして母に聞かせたりもしていた。台所で食事の支度をする母のそばの床に座って練習の成果を披露した日々。幼いころは無邪気でよかったなぁ・・・

 

今でもたまに何かの折に幼いころ覚えた歌が頭に浮かんでくることがある。今あらためて「みんなのうた」を見てみると、ドイツ民謡などが多い一方、北原白秋や野口雨情、山田耕筰など有名な作詞家・作曲家の曲もかなり当時普通に歌っていた。どの曲が誰の作品かなど忘れていたが、こうして見てみるとなかなかおもしろい。作詞について言えば、やはり昔の詞には情緒というか日本的な繊細な感覚が表れているような気がする。ごく最近、どこかで最近の音楽シーンに登場する若者は文学的な感性に乏しく、たとえば婉曲的な表現に触れても理解できないらしい云々、と書かれているのを読みなるほど思った。時代とともに歌にまつわる感覚、表現も変わってくる。

 

下の写真のページにある「さようなら」という曲はとても短い曲だが、よく歌った記憶がある。あのころ、「さようなら」は別れの挨拶というよりもひとつの区切りの言葉だったようにも思われてくる。「さようなら」のあとには必ずといっていいほど「また後で」「また明日」があることを言葉にしなくてもみんなわかっていたような。

これもつい最近、たぶんfacebookの誰かの記事だと思うが、子どものころの「またね」はほとんど「また明日ね」を意味していてそれが当然のことだったのに、もはや「またね」は結果的に最後の挨拶になるかもしれない年齢になった・・・というようなことを読み、これもその通りだと妙に感動した。

「またね」は希望である時もあれば、気休めであることも、逃避であることも、慰めであることもある。そしてもはや「また明日」であるという確約ではない。

 

なにげなく交信した 

あれが最後の挨拶になったと 

この世の外で呟くように

 

ふと鮎川信夫の「切望」という詩のラスト3行を思いだした。そういう年齢になった、ということだろう。今日から6月。そしてそれにふさわしい雨。

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ブルーライトヨコハマ

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湿度が比較的低くてここちよい風が吹いていた昨日。午後からあちこちでにわか雨、などどいう予報は運良く当らず。久しぶりに横浜の港近くに出てみた。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、赤レンガ倉庫など商業施設はまだ閉まっていて、平日ということもあり人はそこそこ、という感じ。犬の散歩、親子連れ、カップル、時間を持て余しているようなオジサン(^^;)などが思い思いにくつろいでいた。やっぱりこうでなくちゃ!

 

大桟橋には大きな客船が停泊していた。ああ、あの豪華客船から始まったんだった、コロナ・・・もうだいぶ前のことのように思えてくるというのは、自粛期間が実際以上に長く感じられるものだったからか。

 

一昨年あたりから若いころ敬遠していた横浜エリアに行くことが多くなってきたが、行くたびにこの街は夜景が一番きれいだな、と思う。が、夜になる前の薄暮のひととき、周囲が青く染まる時間も捨て難い。今の横浜は「みなとみらい21計画」によって昔の面影を留めていないところも多々あるが、こういうイメージの街にしたいというものはあって、たぶんそれは観光目的には違いないのだが、それでも時にきれいだなと思える景色を見せてくれる。

 

あまり人がいない象の鼻あたりをそぞろ歩いていると、昔々のヒット曲が頭にうかぶ。あれはあれでいい歌だと思う。ブルーライトヨコハマ

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新しい生活様式

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とりあえずのところ緊急事態宣言が全国的に解除され、第二波第三波を懸念しつつ建て直しの時期に入った感がある。今週末など天気がよければどっと人が外に出ていきそうだが、それはまあ仕方ないことだと私は思っている。それだけ抑圧されていたということであり、その抑圧もなんだか理不尽な抑圧だったから。

それより最近気になるのがよく口にされる「新しい生活様式」。これだけの騒ぎ(あえてそう言う)だったし、正しいかどうかは疑問もあるがコロナウイルスに対する恐怖心が席巻したのであるから、わざわざ「新しい生活様式」と言わなくてもみなさんそれなりに考えているのではないかと思うのだがいかに。

 

厚生労働省のサイトでなにをもって「新しい生活様式」なのかを確認してみた。うーん、今後の日常生活の中に取入れていただきたいと書いてあるが、とてもじゃないけどできない!ということも多い。人によって違うかもしれないが、少なくとも私にとっては。

手洗いを丁寧にというのは言われなくてもするつもりだし、買物はコロナ以前から週2回ほど一人で行くし、カード決済は多いし・・・そのあたりはあらためて「新しい生活様式」と言われるまでもない。

 

しかし、できるだけ人との距離を2mとる、症状がなくてもマスクをする、交通機関での会話は控えめ、狭い部屋での長居を避ける、屋外空間で気持ちよく食事、食べる時は料理に集中しおしゃべりは控えめに、などは時と場合によるがそりゃ無理でしょと思う。自粛期間仲がいい人たちと会えなかったのだから、誰しもこれから会うのであれば「濃密接触」したいと思うのではないだろうか。マスクをしているのに電車の中でできるだけ会話しないようにするってすごく不自然。

 

なんだかこの「新しい生活様式」って、今回のコロナ禍から学んだ事を活かしていこうというよりも、先ずコロナ感染防止ありきが大前提になっているようで、未だに息苦しいというか不可解だ。医療体制を着実に勧めつつ、重篤な患者を助けることに力を尽しつつ、ゆるやかな集団感染にむかっていった方がいいような気がするのだが。「新しい生活様式」というのなら、感染しても重篤化しない身体作り、免疫力アップを日常生活に取入るといった方がふさわしいのではないか。もちろん手洗いなど基本的なことは習慣化するとして。この数ヶ月世の中はコロナ、コロナでコロナがすべてのようになているが、コロナは一部であり外にもたいせつなことが多々ある。

 

感染しないためにお上が言っていることを馬鹿正直に守り、その分ストレスをためて自粛警察になったりして、人間関係もぎくしゃくさせて・・・過度な潔癖はかえって耐性を弱めるような気もするし、「気をつけつつこれまでの日常生活に戻る」くらいでいいように思う。緊急事態宣言が解除されてうかれるつもりは毛頭ないが、いまだに息苦しいのは勘弁してほしい。

| - | 12:19 | comments(0) | - |
リアリティ

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この帽子にふさわしい場所に早く行きたいもの

 

リアリティ番組というのがあるのはなんとなく知っていたが、興味が全くといっていいほどないので内実がいかなるものか知らない。が、最近流れた出演していた女性がSNSでの誹謗中傷を苦に死を選んだというニュースに触れて、テレビというメディアの愚かな面と匿名性があることをいいことに言いたい放題やりたい放題の人間性を苦々しく感じた。

 

番組を見ていないので何ともいえないが、リアリティという以上多かれ少なかれ出演者の「素」が出され、見ている方もそれを楽しむ番組なのだろう。私はあまり・・・というかほとんど他人の生活を垣間見たいとは思わないのだが世の中にはそれに興味津々の人たちが数多く存在するらしい。テレビというメディアを通して見るリアリティがいかほどのものかわからないが、それを本当のこととして単純に受け取り、顔を見せることなく誹謗中傷するのはエゴイスティックなストレス解消としか思えない。

 

そもそもリアリティといってもテレビの中のことである。「ドキュメンタリー」を名乗ってその場で起きるハプニングをおもしろおかしく伝える番組が実は「やらせ」であったことなど過去をふり返れば日常茶飯事だと思っていた方がいいと私は思う。国民的番組といわれるあの「笑点」も、実はきちんとした台本があって誰がどのタイミングでどういうことを言うのかあらかじめ決まっている、といった話も聞いている。テレビの楽しみ方は人それぞれであっていいと思うが、ニュースにしてもドキュメンタリーにしても「リアル」を全面に出している番組さえほとんどが台本なりストーリーがあると思って見ている。そうすれば、そこで繰り広げられる話も半分くらい信用すればいいかなとなり、なにを見聞きしてもムキになることもない。

 

なにがリアルでなにがリアルではないか・・・これは考え出すとけっこう難しいことだと思う。最近書いた「真夜中の弥次さん喜多さん」も「リアル」がテーマのひとつになっていると思うが、あれを読むと特にそう思ったりする。結局、実際に自分の目で見て耳で聞いて身体で感じたことがリアルであり、人から聞いた事、メディアから流れてくる情報はリアルかもしれないしそうではないかもしれない程度に思っていた方がいい。

 

亡くなった方はお気の毒だと思う。が。そうなった責任の一部はご本人にもあると思う。もちろん、誹謗中傷を書き込んだ人たちにも、そして特に番組制作者たちはテレビ局にも。人の命は一度失ったらそれまでだ。いまさらテレビに良識など求めないが、視聴率を稼ぐためなら何でもしていい、せざるをえないと思っていたら大間違い。こうした悲劇が起きる前に少しは想像力を働かせて自制することを知ってほしいと思う。

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まめこのこと

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別の話題を考えていたのだが、今朝急に書いておこうと思ったのでわが家の最長老猫・まめこのことを少し。今まで、なにかにつけて飼い猫のことを書いてきたが、まめこについて触れることは一番少なかったと思う。人間でも数人子どもがいる場合、一番最初の子の写真が一番多いように、同じようにかわいいと思っていてもついつい触れずにいることが多い。少し反省をこめて、まめこのことを。

 

さすがに少しずつ痩せてはきたが、今も元気で毎日普通に暮している。1才になる前に避妊手術をしたが、その時以来現在に至るまで医者にかかったことがない。目立って具合が悪くなったことがないということもあるが、飼い主からしてみると10才を越えたあたりから年に一度は血液検査をしたいと思っていたのだが・・・とにかく臆病なので気配をさっして手が届かないところに逃げてしまい、何度か捕獲に失敗した。そして思った。これだけ医者いらずできたのだから、無理やり連れていってストレス与えるよりも、好きにさせた方がいいかもしれない、と。そんな感じで今に至っている。

 

最近、以前よりかなり甘えん坊になってきた。私の顔を見ると(普段は自分の部屋にいることが多いので、猫たちがいるリビング滞在時間が短いこともあるかもしれないが)撫でてくれという。しかも、その場ではなく布団の上で。撫でてもらうにも場所を選びたいらしい。撫でられていい気分になっているところを、あまり見られたくないらしい。そういった所謂「めんどうくさい」ところが多々ある猫で、よかれと思って人間がしたことも気に入らなければ徹底的に無視するし、食べはじめたのに何か気になるとやめてしまうし、いろいろ訴えてくるのであれこれ対処してもなかなか納得しないし・・・「まーちゃん、超めんどくさい!」と言われ続けてきている。

 

人間同様、猫も性格がそれぞれあって生まれつきのこともあれば後天的に身に付いたこともあるだろう。まめこの場合、子猫時代にかなり怖い思いをしたのではないかと推測できるところがあって、それを思うとめんどうくさくても怒ることはできない。スーパーなどの袋の音が大嫌いでカサッと聞こえるだけで逃げる。何か怖い思いをしたのだろう。生後2ヶ月くらいのころ保護したが、まだまだ母親と一緒にいたいのにたったひとりきりでカラスに狙われたこともあったかもしれない。それが何に対しても臆病な性格に影響を与えているとも考えられる。

 

うちに来てからも、人間より猫に対して警戒心が薄かった。人間なんて信じないぞ!と思っているようなところがあって、小柄な美人なのに感じ悪いのであった。もう今はいないゴンに対しては全幅の信頼を持ったようで、ゴンと一緒にいる時が一番幸せそうだった。そのゴンがいなくなり、適度な距離感をもって一緒に暮していたみかんもいなくなり、急に強気の若手たちが現れて戸惑ったこともあっただろう。最近の甘えぶりの背後には、いろいろ心細く感じることがあるのかもしれない。臆病なので知らない人が家に来たらまずどこかに隠れて帰るまで出てこないから、友人たちに「幻の猫」とも言われている。一緒に暮していた私の息子にさえなつかず、最近になって家人に対する警戒心もだいぶ緩めてきたがすでに15才なのだ。それだけ時間がかかったということを思うと、なんだかかわいそうにもなってくる。

 

子猫のころから毛並みがよくツヤツヤしていた。毛の質が細くてねっとりしており服につくとなかなかとれないのが玉に瑕。顔立ちが整っており、年をとっても毛色が褪せずはっきりくっきりしている。飼い主なのでそう思うのかもしれないが、まぎれもなく美人だ。

今年の8月で満16才になる。ゴンは16才の誕生日を迎えてすぐに具合が悪くなって旅立っていった。みかんはもう少しで17才という時に力尽きた。さて、まめこはどうだろうか。寿命はわからないが、できるだけストレスなく暮せるよう気を配らなくてはと思う。なので、毎朝のなでなでリクエストに応えるため、食後30分は一緒に横になっている。寝ている私の脇にきて撫でてもらうのが一番好きなようで、撫でているうちにコテン、ウニャンを連発するようになる。手を止めると起き上がって顔のそばまできてまたリクエスト。人間の年齢に換算すると80才近いことになるのに、猫はいつまでもかわいくていいなぁ、年上だから労らないとなぁ、などと思いながら30分間猫の僕になる私であった。

20-0526-2.jpgおそらく1才ころ。

20-0526-3.jpgゴンが大好きでいつでもくっつきたがっていた。

20-0526-4.jpgゴンとみかんの間に割り込む!

 20-0526-5.jpg男の子だと思われていたころ(^^;)

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自粛警察

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早くこういうところを歩きたいなぁ。犬は飼っていないけれど。

 

首都圏と北海道の緊急事態宣言が解除された。数日前から、こりゃ解除になるなという空気を感じていたのでさして驚くことでもない。嬉しいかと言えば確かに嬉しいが、素直に喜べないというか何もかも中途半端でうやむやな状態のままであることが気持ちのどこかにひっかかっている。

 

最近本当にいやだなぁと思ったのは、「自粛警察」などと揶揄される人々の行動だ。コロナ関連の110番が急増しているそうだが、その多くが「自粛警察」によるものだという話を聞いて本当にうんざりした。通報の内容を読んで情けなくなったというか・・・日本人っていつからそんな狭量で視野が狭い民族になってしまったのかと落胆を隠せなかった。

例としてあげられていたのは、「公園でバーベキューをしている」「スケートボードをしに人が屋外に集まっている」「外でいちゃついているカップルがいる」「自粛を守らず営業している」「バスでせきをしている乗客がいる」「マスクが50枚4800円で売られている」「給付金についてh家族とけんかになった」等々。もう笑ってしまいたくなるものが多い。そんなことでいちいち通報されて、警察の担当者も本当にお疲れさまなことである。

 

 

具体的に説明している首長もいたかもしれないが、一般的には自粛の内容として「不要不急」という抽象的な言葉が合言葉のように使われてきた。辞書で調べれば「重要ではなく、急ぎでもないこと」とある。だとするなら、何が重要で何を急がなくてはいけないかは人によって違って当然。それなのに、漠然とした「不要不急」をつきつけて自粛をうながしていることに私は少し抵抗を感じていた。

 

仕事もなく一人で淋しいから故郷に帰りたい・・・でも、帰れば周囲の人から自分だけでなく家族が責められる。そういう思いから孤独を深める人もいるだろう。自分だけを頼りにしている老親に会いに行きたい・・・でも・・・そういった事情は果たして「不要不急」なのか。自転車操業でもなんとかかろうじて店を開けて一人でも客に来てもらうよう仕事をすることは、「不要不急」なのか。

 

感染感染とあまりに神経質になりすぎて、そちらに思考のすべてを向けてしまって、思いやったり想像したりする余裕さえない。そして自分とは違う行動をしている人たちを責める。自らがそういう人たちを嗜めるならまだいい。何か言われたらいやだと警察に通報する。鬱憤を晴らしているとしか思えないこともある。

 

緊急事態宣言が解除されたら、「自粛警察」も姿を消すのだろうか。いやいや、そう簡単にいなくなりはしないだろう。同調圧力に屈していることさえ意識せず、相互監視しつづける・・・味気なくも恐ろしい社会が目の前に広がっていそうで怖い。外出を自粛しようかしらん(^.^)

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