習慣とは恐ろしいもので、そろそろ更新をと思いつつ3月も半ばになろうとしている。ブログの話題にしようと思っていたこともいくつかあったが、あったということだけを覚えていてそれが何だったかもはや思い出せないテイタラクだ。「老化」という言葉で済ませてしまえばそれまでだが、あまりに安易で少し悔しいのでせめて「堕落」ということにしておこうか。
話題にしようと思っていたテーマに今日の「水中花」がある。たぶん・・・今までにも書いたことがあったかと思うがその記憶さえおぼろげであるから、気にせず書くことにする。
きっかけは友人が私の誕生日の花が何かを教えてくれたことだ。なにをもってその日の花となったか根拠らしきものはほとんどないとは思うが、だいたいその日あたりに開花している花だろう。友人が教えてくれたサイトはフラワーギフトを扱う店のもののようだが、私の誕生日である6月18日の花はギフトになりそうにないものばかりである。
以前から知っていたのはタチアオイ。それ以外にもタイム、スイセンノウ、フランネルフラワーが私の誕生花であるそうな。ふーん、で終わってしまいそうだ。お決まりの花言葉も併せて紹介されているが花言葉そのものの根拠もはっきりしないのであまり興味はない。
ただ・・・タチアオイと聞くと私は父のことと伊東静雄の詩「水中花」をすぐに思い浮かべてしまう。北海道(だけではないようだが)「コケコッコー」と呼んでいたと父が言っていて、妹もそれを覚えていて今でもその話が出る。たぶん赤いタチアオイの花の様子がニワトリのとさかに似ていると思われたからなのではないかと思う。
詩の方は、「遂ひ逢はざりし人の面影 一茎の葵の花の前に立て」による。「葵」というとタチアオイだけではないのだが、たぶん詩にうたわれているのはタチアオイであると思う。それはこの詩が「今年水無月のなどかくは美しき」で始まるからだ。タチアオイはすらっとのびた丈の高い草(高さからいえば木のようでもある)で、下から上へつぼみが並び順番に咲いていく。Wikipediaによれば梅雨入りくらいから咲きはじめ、一番上の花が終わるころ梅雨が明けることから「ツユアオイ(梅雨葵)」という別名もある、とのことだ。とすればやはり詩の「葵」はタチアオイなのではないかと思う次第。
詩本編(?)だけ読んで私が思いうかべるイメージは、梅雨晴れの暑い日盛りに咲く白いタチアオイの前に女性の幻が立つといったものなのだが、詩の中の「葵」はそうではないようだ。詩の前に和歌でいう詞書のような説明があるのだが、その中で詩人は以下のように書いている。
水中花と言って夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧縮してつくつたものだ。そのままでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそえrは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
詩人はその「哀れに華やいだ」水中花をじっと見つめ、「遂逢はざりし人」(これはもう女性でしょう!)を思い浮かべ、そして「堪へがたければわれ空に投げうつ」のだ。逢いたくても逢えない運命のようなものが堪え難かったのだろうか。
それは想像するしかないのだが、私が幼いころに見た「水中花」はまさに詩人の説明どおりのものだった。細長いコップの中に入れて水を注ぐと葉や花がふわりと開く。花の色も赤や紫が多かったと思う。菊の花のようなかたちのものだったと思うが、もしかしたら牡丹のような・・・そしてタチアオイのようなものもあったかもしれない。
なつかしくなって今でも手に入るかと探してみたがこれがなかなか見当たらない。布でできているような今風のものはあっても、昔見たあの安っぽい色合いの、紙だか薄い木片だかで作られているものはなかなか見つからないのだ。あの安っぽさが今となっては独特の味わいとしてひどくなつかしい。
一ヶ所だけ扱っているオンラインショップを見つけたが、値段がびっくりするほど高い。夜店で売っているものの値段ではなくなっている。もはや需要はほとんどないのだろう。しばし迷いつつまだ購入するに至っていない。手に入れれば入れたで一度だけコップに入れて後はどうしていいかわからなくなるに違いないから買わずじまいだろう。
「レトロ」とか「ノスタルジック」という言葉ではぴんとこないあの「水中花」。どこかで見る機会はあるのだろうか。