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女性ヴォーカル

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前にも書いたと思うが、私は男性でも女性でも低い声やハスキーな声が好きであるプロの歌い手についてもそうで、必ずしも歌が上手でなければならない、というわけではない。下手でも下手なりに独特の味わいがある方が、上手で卒がない歌声よりも魅力的に思えることが多い。声楽をきちんと学び、腹式呼吸バッチリで、声量も充分あるような人が朗々と歌われると、かえってなんといいましょうか、気恥ずかしさのようなものを感じることさえある。以前「千の風になって」という歌が流行った時などにそれを感じた。

低い声やハスキーヴォイスが好きで上手いことは絶対条件ではない、となるとオペラ歌手などは論外!となるようにも思えるが、そうでもない。きちんと学んできちんと歌う人たちの中にも好感を持つ人たちはいる。また、こちらも年々感覚やら好みやらが微妙に変わってくるから、これまであまり注目してこなかった歌声が急に気になったりもする。

最近は、透明感のある女性ヴォーカルもいいなぁと思うようになった。その一人が、これは前から聴いているサラ・ブライトマン。この人は日本でも有名だからご存知の方も多いだろう。クラシックからポップスまで幅広くこなす人でミュージカル女優としての活動もある、とのこと。ビルボード・チャートのクラシック部門、ダンス部門で同時に1位を獲得したというから本格的な歌手でありダンサーということになろう。

最近聴いているのは、アンドレア・ボッチェリとのデュエットによる「Time To Say Goodbye」や、フェルデナンド・リマとの「La Pasion」。前者はとても有名で、盲目のテナーアンドレア・ボッチェリはこのデュエットで一躍脚光を浴びた。フェルデナンド・リマについては今まで知らなかったのだが、なかなかいい男で(^^;)、サラとの声の相性がとてもいいと思う。

昨日あたりからよく聴いているのが、前からファンのデビッド・ギャレットが映画「パガニーニ〜愛と狂気のヴァイオリニスト」で披露した「Io Ti Penso Amore」(あなたを想っているわ いとしいひと)。パガニーニの「バイオリン今日相克第4番第2楽章」を元にしたアリアで、デビッド・ギャレットがそれに歌詞をつけたということらしい。映画の中ではパガニーニが愛した女性シャーロット・ワトソンを演じたアンドレア・デックが歌っている。ギャレットが声にほれ込んだというニコール・シャージンガーとの共演もいい。

昨日からこのメロディが頭の中をぐるぐる回って困っている(^^;) 今日は午後から出掛けるので、少し離れられるかな?

| - | 13:08 | comments(0) | - |
襞と翳

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どちらもなにやら画数が多くて、読めても書けないような気がする・・・「ひだ」と「かげ」。「かげ」には「影」「陰」もあるが、この二つには明らかに違いがある。「影」は光が当ることによってできるかたち(影法師など)だが、「陰」は光が当らない場所そのものを表す(物陰など)。しかし、「翳」となると・・・と一瞬思うが、意味を知れば「陰」とほぼ同義だと分かる。「翳る」とは光が射さなくなって暗くなることであり、「かたち」を表す「影」とは全く違うから。

なんだかわかりにくい話からはじめてしまった(^^;)。仕切り直し!?

まず「襞」。英語に訳すと「プリーツ」だが、今日の写真のパンジーを見ていたらこの「襞」という言葉が思い浮かんだ。最近よく見かける「フリルパンジー」のひとつで愛称は忘れてしまったが、軽やかにも見えるそのフリルが作りだす陰翳に心惹かれている。花の色にもよると思うが、うちのベランダで咲いているのは紫系の花。買った当初は青みがある明るい紫だったのに、少しずつ赤みを増すと同時に色が濃くなってきて、なかなかいい表情を見せている。

最近は切り花用のパンジーというのもあるらしく、ごくたまに見かけるのだが流通量が少ないのかけっこうなお値段。数年前、正月前の押し迫った時に見かけたことがあり、その時は「正月用!」ということで買ってみたが、普段だったら家にあるパンジーでいいや、てな感じに落ち着くと思う。切り花用のものも確かフリルパンジーで、微妙な色合いがいいしフリルがもたらす陰翳もなかなかだ。

私は基本的に鉢植えで育てている花は滅多に切らないのだが(バラも切り花にしたことはほとんどない)、花が少ない時期に咲くパンジーやビオラは切り戻しをかねて時々切って花を飾る。パンジーはビオラに比べて1株の花が少ないからその分貴重で、ここぞと思う時にしか切らない。しかし、いざ切ってまじまじと見てみると、実に趣深くて見飽きない。

パンジー単独でもいいし、写真のように他の花と合わせてもしっくり調和するところもいいところだ。今回は華奢なタイプのルピナスと合わせてみたが、相性はなかなかよろしい。中輪とはいえある程度花の大きさはあるので、小さな花の植物なら比較的何と合わせても格好がつくような気がする。

このパンジーは昨年買ったものなので、もう3ヶ月くらいのお付き合いだ。しかし、鉢の中で太陽の陽射しを浴びている時と、1本だけ切り取られてガラスの一輪挿しに入れられた時の表情が全く違っていて、二度楽しませてもらっている。いいもの見つけた!っていう感じ。鉢の中でも微妙な色合いの変化が楽しいのだが、一度室内に持ち込まれ、その一輪に視線を集中させると「翳り」のようなものを感じて目が離せなくなる。本当に微妙な感じで翳っている花の表情は美しい。私は平坦であけすけな感じがする花よりも、やはり陰翳を感じさせる花が好きなんだな、とあらためて思う。

パンジー〜フリル〜襞という連想が行き着いたのは、ある小説のある部分だった。その小説が何だったのか未だに思いだせずにいて少し気持ち悪いのだが、何度か読んだ本であることは確か(それなのに思いだせないなんて!)。

それは人の性格描写をしている部分。ある人間のことを「襞の多い考え方をする」というような言葉で表現していた。その人物を仮にAとする。もう一人の登場人物BはAのような人間ではなかったので、Aの襞を感じ取ることができないし、かえってそれがAを分かりにくいものにしてなじむことができない。この2人の関係あるいは違いを作者は「思考の襞」があるかないか、多いか少ないかで表現しているように私には思えた。それがなかなかおもしろく、また自身にも思い当たることがあって考え込んでしまったのだった(それなのに思いだせない!ったら!)。

確かに襞の多い考え方をする人はわかりにくい。しかし、一端その襞の存在を朧げながらにでも感じ取った時、その人は陰翳深い人として印象に残る。思考の襞、心の襞はみな持ち合わせているのかもしれないが、人によってその数も深さも違う。個人的には襞の多い考え方をする人は好きだ。その襞の詳細を知ろうとは思わないが、ふと見せる陰翳から何かを感じ取ることができれば、おもしろい会話に繋がっていくような気がする。

しかしまあ、思考の襞とか翳りのある表情とか、そのようなことには無関係な人もけっこういるから人間はおもしろい。私と同じパンジーを見ても、「あら、フリフリしていて可愛いじゃなーい!」でおわり。その後花をまじまじと見て、襞だの翳だのと面倒なことを考えも、感じることもなくあっけらかん。そういう人も嫌いではないかな。かえって付きあう分にはラクチンかもしれないしね。

| - | 10:16 | comments(0) | - |
アトロ系ダーク

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今年もクリスマスローズの季節がやってきた。一昔前まで、マイナーな存在でありほとんど知っている人がいなかった感があるクリスマスローズ。それが今では好きな園芸植物の人気投票上位に必ず姿を見せるほどの人気を誇るようになった。ごく一般的な人たちが持つイメージは、園芸店の店先で販売されているものや公園などの植栽に採用されているもの、庭や玄関先に植えられているもの・・・専門的にいうと、ヘレボルス・オリエンタリス(Helleborus orientalis)だと思う。

クリスマスローズという名前からバラとの関係を連想する人もいるかもしれないが、実際はキンポウゲ科の植物。ヨーロッパ、黒海周辺、中国に自生する多年草である。種の学名は先ほども書いたHelleborus(以下H.と略)でバラとは全く関係がない。そして近年、原種やその交配種(まとめて原種系クリスマスローズ)がマニアの間では人気になっており、かくいう私もマニアではないのに数年前から注目している。

クリスマスローズの原種は約20種類あるということで、有茎種と無茎種に分かれる。有茎種は茎から葉を展開し、その頂部に花を付ける。無茎種は花柄(かへい)と葉柄(ようへい)が別々に立ち上がり、花柄の先端に花をつける。言葉だけの説明だと分かりにくいのだが、たとえば有茎種の原種のひとつにH.フェチダス、無茎種のひとつにH.アトロルーベンスがある。見た目の印象がかなり違うので、写真で見た方が早い。

最近マニアックな人気が出ているのは、私の印象では無茎種の原種と原種の交配種(ハイブリッド)だ。大きな園芸店ではこの時期になるとクリスマスローズだけのコーナーを設け、ナーサリーごとに陳列したりしているし、私は取り寄せたことがないがクリスマスローズだけの通販用カタログなども存在するような気がする。

私は主に友人のところから取り寄せているが、彼女の取引先である大木ナーサリーもクリスマスローズの交配、育成では有名なところだ。友人の庭はもう何度も行っているが、春が待ち遠しくなる今ごろ、丈低く咲きはじめる原種や原種系ハイブリッドのなんと愛らしいことか。やはりクリスマスロースも地植えにはかなわない・・・そう思いつつ、今年も1つだけ入手してみた。それが今日のタイトルである「アトロ系ダーク」である。

「アトロ」とは先にもあげたH.アトロルーベンス(H.atrofubens)のことで、アトロルーベンスの交配種で色味がダーク、ということだと思う。人工交配なのか自然交配なのか分からないが、確かに原種そのものよりも花も葉もよりダーク。このとことんダークでシックなところが気に入って手元に取り寄せた。

前に数年育てていてとても気に入っていたのもアトロ。花はダークだが葉が瑞々しい緑色で薄くしっとりした感じだった。同じアトロルーベンスでも微妙に雰囲気が違っていて、中でもこれが好きだったのに・・・しくしく。原種はアトロルーベンスのように濃い紫色の花か、グリーン系の花(たとえばH.デユメトルム=H.dumetorum)が多い。両方とも好き。これらの交配種は紫や緑をベースに微妙な色の変化、柄の変化、花形の変化を見せるが、どれも渋い魅力にあふれており、中には可憐さ、華やかさを感じさせるものもある。バラエティはどんどん豊かになってきていると思う。

私は大きなバラ用の鉢をのぞいて盆栽用に使う小さめの鉢、しかも浅い鉢を多く持っている。今まではその中から深めの鉢を選んで育てていたが、やはりどうしても無理があると思うようになった。クリスマスローズの旺盛な根の生育には窮屈すぎるし、水はけにも問題が出てきそうなのだ。そこで、今回からは素焼きの深めの鉢を使うことにした。スリットが多いプラスティックの鉢が一番いいのかもしれないが、どうしてもあれには抵抗がある。素焼きといえばテラコッタだが、あの明るい色は「アトロ系ダーク」には似合わない。で、チャコールグレーのものを。さらに渋い!?(^^;)

原種や原種の交配種はその他のものより花も姿も小振り。海外では大きな花がもてはやされるというが、日本人の感覚にはむし原種系がぴったりすると思うのだがいかがなものだろうか。何事にも欲張りすぎないようにしたいと思う昨今、今年はこれ1つを大切に育てることにした。まだつぼみの段階なので、開花したらどんな表情を見せてくれるか、今から楽しみにしている。

 

*友人のサイト・・・咲季山草軒オンラインショップは、こちら。

*もうずいぶん売れている!

*(業務連絡)クロアチカスかと思っていたらアトロでした。師匠!

*あ、今日はバレンタインデーだったのね。忘れてた(^^;)

*今日の写真のカラー版は、facebookで。

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| - | 15:47 | comments(0) | - |
橋の上の娘

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昨晩は何故か眠れなかったので、近々観ようと思っていたDVD「橋の上の娘」を観た。この映画は映画館で観て以来好きで何度か観たいと思っていたのだが、DVDが手に入れにくく(高かったのかも・・・忘れた(^^;))つい最近まで手に入れていなかったのだった。ところがなにかの拍子に思いだして検索してみたら、まあ中古ではあるもののけっこう格安なお値段で出ていたので迷わずゲット。

たしか劇場で観たよなぁ・・・とパンフレットの類いが保管してある辺りをゴソゴソしてみたら、やっぱりあった。1999年、BunkamuraのLE CINEMAで観ていた。最近とんとこの映画館にも行かなくなったが、一時は一年に何度かは行っていたと思う。

映画は1999年3月公開。監督は「髪結いの亭主」「仕立屋の恋」で有名になったパトリス・ルコント監督。もちろんフランス映画。以前このブログにも書いたように思っていたのだが、ざっくりサイト内検索してもヒットしなかったので、まだ書いていなかったという強引な前提で勧めさせていただく。

恋愛映画、純愛映画、という言葉がついてまわる映画である。が、一般的なそれらとは印象がかなり違うと思う。ルコント監督特有の、少しフェテシッシュさを感じさせる、かなり繊細で微妙な恋愛であり、その愛のあり方も世間一般のものとは違う。だから異常だとか変わっているとかいうのではない。そもそも恋愛に正常も異常もないだろう。基本的には。

落ちぶれた中年のナイフ投げを生業とする男と、つくづく自分には運がないと絶望しかけた若い女が橋の上で出会う。女は男と出会っては好きになり信じてついていくものの逃げられる、と繰り返してきた。冒頭シーンであと2ヶ月で22才と言っているから、かなり若い。若いが自分の運のなさに落ち込み、橋の上から身を投げようとしている。今にも飛び込むか、という時、男の声が。「バカなことをしそうだ」・・・

娘はアデル。男はガボール。それが2人の出会いだった。結局アデルは飛び込むのだがガボールが助け、アデルは彼のナイフ投げの的になることに。とことん運がないと思い込んでいたアデルは、的としての並々ならぬ才能があるという彼の言葉にほだされて。

ガボールとしては再起をかけたナイフ投げには的となる女性が必要だった。的あってのナイフ投げである。そして、アデルとガボールは予想以上に息の合ったコンビとなり一躍人気者になる。仕事で訪れたカジノでアデルは強運を発揮し大儲け。2人の将来は明るい・・・はずだったのだが。

細かいストーリーを説明するのも野暮なのでこの辺にしておく。やはりこの映画の一番の見どころは、ナイフ投げのシーンだろう。アデルが最初に的になった時、ガボールはここ一発というインパクトを狙うため、アデルの前にシーツの幕を下ろす。的を見ないで投げるというのだ。

会場が緊張感に包まれる。アデルも、ガボールも緊張している。さっとナイフが投げられる。幕の向こうのアデルの身体ギリギリ外側にナイフは刺さる。次々とナイフは投げられ、アデルの表情は緊張から快楽へと変わっていく・・・

大きな鋭いナイフを投げつけられるというのは、その一投一投げが死の恐怖を意味する。その恐怖と快楽が一体となるエロティシズム。それをアデルの表情は鮮やかに見せつける。ガボールもまた、鋭い視線とナイフを投げながら、同じ快感を感じている。2人だけの濃密な時間である。

ナイフ投げのシーンは数々出てくるが、もうひとつ印象的なのがレール脇にある小屋でのシーン。列車の中で若いボーイに見とれたアデルを見て、ガボールはアデルにチャンスを与える。自分から離れるチャンスを。駅で待つとアデルに伝えてガボールは去る。アデルはボーイと関係を持とうとするが、ふと気が変わってガボールを追う。その時ガボールは二つに分岐したレールの一つを選んで立ち尽くしている。列車が近づいてくる。彼は動かない。目の前まできた列車は彼のすぐ脇を抜けて通り過ぎていく。

それを見たアデルは自分を放りだす気かと怒る。怒りながらアデルは訊ねる。

「したい事、分かる?」

「同じかな」

「早くして、どこでもいい」

この会話だけを聞けば、ははーん、と早とちりするかもしれない。ああ、ホテルかどこかに行くのね、と。しかし2人はレール脇の小屋に入り、アデルは外向が漏れる気の柵の前に立つ。目を閉じて両腕を大きくあげ、うっとりした表情のアデル。ガボールは次々とナイフを投げていく。途中からガボールもまた快楽をより強く感じるためかのように目を閉じてナイフを投げる。すべてのナイフが投げ終った時のアデルの満ち足りた表情。うーん、エロティック!

映画はここで終らない。この後もあれこれあり、2人は成り行きに翻弄されていく。そして・・・2人はどうなっていくのか!?それは見てのお楽しみ、ということで。アデルを演じたヴァネッサ・パラディ、ガボール役のダニエル・オートゥイユともにまさにはまり役といっった名演技を見せてくれる。

あと、前から気になっていたのだが、ナイフ投げのシーンで流れる曲がいい。調べてみると、マリアンヌ・フェイスフルの「Who Will Take My Dream Away」という曲だということがわかった。あの緊張感、恐怖、快楽の入り交じったシーンにぴったりだと思う。マリアンヌ・フェイスフルはかつて有名なイギリスのアイドル歌手だったらしく、ミック・ジャガーの恋人でもあったそうな。酒とドラッグに溺れて一時完全に姿を消したが後に復活したというが、私は知らなかったなぁ。

| - | 11:57 | comments(0) | - |
新しい才能

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日常的に音楽は聴いているし、昔からあれこれジャンルを問わず気に入った曲はたいせつにしてきたつもりである。しかし、いつごろからだろうか、どんどん出てくるミュージシャンや聴いた事がない感じの曲想に興味がもてなくなり、結局のところ聴くのはかつて好きで今も好きな曲。そんな風になってしまった。FMラジオでも聴いていれば、新しいものの中にも気に入りそうなものが見つけられるのかもしれない。が、わざわざそのために普段聞かないFMを、というほどの気にもならず・・・

それでもちっとも困ることはない。音楽を生業にしているわけではないので、基本的にどんなに古かろうが、聴いていて快適であればそれでいいのだから。季節やその時の気分によって聴きたい曲はだいぶ違うが、好きな曲を聴きながら過ごす時間というのは、なにも音楽がないよりもずっと楽しいものだ(念のため断っておけば、私は常に音を流しているタイプの人間ではない。無音に近い静かなのも大好き)。

こんな私だが、そしてごく稀なことではあるのだが、「最近の」ミュージック・シーンにかかわっているような人の曲を好きになることもある。きっかけは大抵CM。たままた見かけたCMで気になり、後から調べて再度聴いてみて気に入るようになる、ということがたまーにある。

CMで使われるのは曲のほんの一部、主にサビと呼ばれる一番の聞き所だ。だから、曲全体を聴いてみて、なーんだ、と思うこともなくはない。が、全体を聴いてみてさらに気になり、好きになっていく曲もある。

先日ブログ記事の末尾にちらりと書いたが、最近、米津玄師という若者の曲が気になってしかたない。聴けばけっこう前から活躍していたようで、作品がテレビドラマの主題歌やCMに多数起用されたりもしているようだ。さすが広告屋さんは目ざとい。wikiによれば活動は2009年からというから今年でもう10年選手ということになる。1991年生まれということは息子よりもひとつ下。19才から音楽活動をしていたのね・・・

当初はVOCALOIDクリエイターとしてインターネットを中心に活動、とある。人工の歌声、みたいなものか?昨今そのつもりがなくても耳に入ってくるあれ?とにかく、極端に電子化された音楽につてはとんと知識がないので、単語ひとつとってみてもお手上げである。そのような世界で仕事をする彼らの曲を聴いても、ピンとこないしうんともすんとも感じない感性を持ち合わせている人間なのである。

しかし、何も聴かないうちからアレルギー反応を起こすような人間でもない。聴いた事がない雰囲気の曲は一切NGみたいな人もいるが、それはちょっともったいない。音楽はもともと人間の喜怒哀楽と深くかかわるジャンルのものであり、表現の方法やアプローチの仕方が変わったとしても、いつの時代もここちよい音楽はあるはずだ。そう思うから。

また、そう思って普段からゆるゆると耳を解放していると、思わぬお気に入りを見つけることもまたできるのである。

米津玄師さんの曲もそうである。最初はSONYのワイヤレスイヤホンのCMで知った。「Flamingo」という曲である。ほんの少しだけの映像だったが、曲はもとより歌っている本人の雰囲気が気になった。そこで検索してみてMVを通しで見てみた。うーん・・・なんじゃこりゃ、変わっているなぁ・・・でも、なんだかおもしろいし、気になるし、不思議な魅力があるなぁ・・・というのが第一印象。

酔っぱらっているのかそれともクスリでおかしくなりかけているのか、という感じでふらふら歩く長身のお兄ちゃん(本人(^^;))。しかし、見ているいちにそれがダンスの一部であり、すでに「Flamingo」の世界は始まっていることがわかる。ところどころに入る不思議な効果音。人の声だったり、どこかで聞いた事があるような音だったり。そして歌詞が聞き取れない。いや一部はわかるのだが、聞き取れないところが多すぎる。それがまたさらに気になる。

歌詞を調べ、MVを何度も見てみた。見るたびに、なかなかいいわぁ!となる。全くもって不思議な曲、おもしろいお兄ちゃんである。若手俳優の菅田将暉をフューチャリングした「灰色と青」は私の年代でも聴きやすい曲想。ドラマの主題歌になった「Lemon」も同様だ。しかし、今の私としては、むしろ「Flamingo」やかつて車のCMに採用されたという「LOSER」の方が好き。「LOSER」のMVでは長身(188cmとか)の彼のダンスが堪能できる。最初に見た当初から思っていたのだが、手がとてもきれいな人で、手が印象的であるというのは一流ダンサーになる条件だといつか聞いたことを思いだした。

また、歌詞がおもしろい。支離滅裂のようでありながらそうではなく、現代的でありながら、ところどころに古風というか、意識的に古い言葉を使っている。これはかつてサザンオールスターズもやっていたと思うが、それがおもしろい効果をあげていると思う。

今にして思えば、私がもっとテレビを見る人間だったら、CMに触れる機会も多くもっと早く米津さんを知ることができたと思う。息子ほどの若者だが、これからどんな曲を作るのか楽しみだ。新しい才能に出会うと嬉しいし。そして、やはり音楽はおもしろい、と思う。

| - | 16:04 | comments(0) | - |
「七つの水仙」

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山野草用の小さな鉢に植えたテータ・テート。2014年1月。

 

黄色い水仙を買った、という話を耳にして、まず思い起こしたのがかつてよく聴いた「七つの水仙(Seven Daffodils/ブラザース・フォア)だった。中学生のころで、クラスに何人かいたギターを弾く男子連中がこの曲をはじめブラザース・フォアの曲をやっていたのがきっかけだったと思う。

ブラザースフォアは日本にも何度か来ているので名前だけは知っているという方も多いと思う。男性4人のフォークソンググループで4人ともアコースティックギターを弾き、きれいなコーラスが印象的だった。

最も有名なのは「グリーンフィールズ」だろうか。アメリカのフォークソングとして日本でも有名だった曲(たとえば「花はどこへ行った」とか)はほとんどカバーしているのではないだろうか。2枚組のLPを買ってかなり聞き込んだと記憶しているが、中でも一番好きだったのが「遥かなるアラモ」(ジョン・ウェイン主演の映画「アラモ」の主題歌)と、この「七つの水仙」だった。

この曲を知って、「水仙」は英語で「Daffodil」というんだ、とはじめて知ったと思う。今あらためて調べてみると、「水仙」の植物学的名称は「narcissus」(あのナルシスがいわれの、ですね)で、「daffodil」は「ラッパズイセン」のことだとの説明もある。が、一般的に「水仙」全体を言う場合「daffodil」が使われているようで、イギリスの大詩人・ワーズワースも「The Daffodils」という詩を書いているそうな。もしかしたら「七つの水仙」を作詞した人の頭にはワーズワースの詩があったのではないだろうか。

 

曲に戻るが、中学生にも理解しえる簡単な英語であったことも強く印象に残った理由のひとつかもしれない。

 

      "Seven Daffodils"

 

I may not have mansion, I haven't any land 

Not even a paper dollar to crinkle in my hands 

But I can show you morning on a thousand hills

And kiss you and give you seven daffodils

 

I do not have a fortune to buy you pretty things 

But I can weave you moonbeams for necklaces and rings 

And I can show you morning on a thousand hills 

And kiss you and give you seven daffodils

 

Oh seven golden daffodils all shining in the sun 

To light our way to evening when our day is done 

And I will give music and a crust of bread 

And a pillow of piny boughs to rest your head 

A pillow of piny boughs to rest your head

お金も家もない。財産も何ひとつなくきれいなものを買ってあげることもできない。でも、千の丘に降り注ぐ朝を君に見せてあげることはできる。月の光を紡いでネックレスや指輪にして君にあげることはできる。そして、キスと七つの水仙を。

なんとも清らかなラブソングではないか。中学生にぴったり!?(少なくとも当時の?)。このロマンチックな下りも好きだったのだが、私は最後の節にある「seven golden daffodils」という言葉がかなり気に入っていた。太陽を受け金色に輝く七つの水仙・・・思わずその光景を想像したものだった。そして、昼間だけでなく、その輝く水仙が日が沈んでからも薄暗い道を照らしている・・・その光景は夢のようだった。

金色に輝く、ということはその水仙は白い花の水仙ではなく黄色い水仙だ、とその時思ったので今回すぐにイメージしたのかもしれない。

水仙は春に咲く球根植物の中でも大好きなもののひとつで、最近は純白の清楚な花を咲かせる「タリア」が大のお気に入りである。が、黄色い水仙も好きで、年が明けるとよく出回っている小振りの黄水仙「テータテート(ティタティタ、とも)」は可愛らしくて何度か買ったことがある。花が終ると葉が枯れるまでそのままにしておき、球根は庭がある友人のところに送っていた。友人のところで咲いている写真を見せてもらったことがあるので、今年も花を咲かせるかもしれない。繁殖力が強いとのこと、これを地植えして群生させたらさぞかし見事だろうなぁ・・・なんて想像する。それこそ辺り一体が輝くのではないだろうか。

*上の写真のカラー版は、「木と草と花と・・・」までどうぞ。

*「七つの水仙」は、あのピート・シーガーが在籍していたウィーヴァーズというグループの持ち歌だったらしい。

*「We Shall Oveercome」なんか、なつかしいですなぁ。

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センチメンタル・タワー

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若いころまでほとんどその存在を意識していなかった東京タワー。もちろん存在は子供のころから知っており、当時日本で一番高い塔として都心にドーンとそびえ立っていることも知っていた。が、あまりにも当たり前のことのように思えたのか、わざわざ近くまで行ったり実際に上ってみたりしたいとは思ってこなかった。仕事の出先が六本木や虎ノ門あたりだと、突然視界の中に東京タワーが現れて驚いたりもしたが、それさえすぐに忘れて当たり前すぎる存在であり続けていた。

しかし、ちょっと違うのは夜に見る東京タワーだった。夜ふと視線を空の方に向けた時に出会うオレンジ色に輝く姿には東京を代表する建築物としての品格があり、正直に美しいなぁと思ったものだ。東京の煌めく夜景の中でひときわ目立ち、眼下を見下ろすかのように立つ。まだ今ほど高層ビルが多くない時代、東京タワーはまさに東京の夜景の女王だったと思う。

存在に対する意識がそのようなものだったから、実際に行ったのはだいぶ後になってからだ。竣工が1958年12月とのことなので、私より2才半年下のこの塔に上ったのは、もしかしたら40代に入ってからだったかもしれない。しかも、友人に誘われてなんとなく。一度は行ってみるか、程度の気持ちで出かけていったと記憶する。

当時は小さな水族館もどきのようなものがあったり、ろう人形館があったり、思ったよりおもしろかった。が、なんとなく古びた感じ・・・よくいえばレトロ、悪くいえば時代遅れの印象はぬぐえず、我とわが身を見るような思いもした。

その後東京スカイツリーが鳴り物入りで登場し、東京タワーは主役の座を譲り渡した感があった。高さにおいても、現代性においても、比べようもなかった。しかし、不思議な事にスカイツリーがお目見えして以来東京タワーを称賛する声がいくつか聞こえてくる。とくに私と同世代かそれ以上の人たちにとって、東京タワーは今でも特別な存在として愛されているように思う。

いかにも現代的ですらりとしたスカイツリーに比べ、トラス構造の鉄塔である東京タワーは近くで見ると武骨な印象さえ受ける。しかし、遠望すればゆったりと下に広がるエレガントな姿安定感もあって見る者の気持ちを落ち着かせてくれるような気がする。

40代ではじめて東京タワー体験をして以来、見方が少し変わったとはいえ相変わらずごく当たり前の存在としてタワーはそこにあった。時々、なにかのアニバーサリーイベントなどでいつもとは違う色のイルミネーションが施されている云々というニュースを見かけることはあったが、ふーん、程度のものだった。ピンクやブルー一色はそれなりにきれいだが、レインボーカラーなどはなにかゴテゴテして似合わないようにも思えた。やはり東京タワーはいつものオレンジ色が一番似合うと思う。

で、そのイルミネーションなのだが、最近はじめて知ったことがある。それは、東京タワーには2種類の照明方法があるということだ。ひとつは「ランドマークライト」といって外側からライトを当ててタワーを浮かび上がらせるライトアップ。もうひとつは、タワーそのものに付けられた電球がさまざまな色に光るダイヤモンドヴェールだ。イベントなど一時的な照明には後者が使われているのだろう。

私は先ほども書いたが断然「ランドマークライト」の方が好きだ。少しクラシカルだがいかにも東京タワーに似つかわしい。とくに冬は「高圧ナトリウムランプ」というオレンジ色のライトが使用され、澄んだ大気の中でことのほか美しく浮かび上がるよう工夫されているそうな。

全体的な形が似ているパリのエッフェル塔は1989年3月竣工とのことなので、東京タワーより約70年も先輩だ。今やパリのシンボルである建物も、当時(パリ万国博覧会開催に沸いていた時代)は斬新すぎて反対意見も多かったらしい。建設反対派の芸術家たちが連名で陳述書を提出したらしく、その中の一人キ・ド・モーパッサンは反対派なのに塔完成以来1階のレストランによく通ったという。その理由は、パリの中でエッフェル塔を見なくて済む唯一の場所だから。そこから「エッフェル塔の嫌いなやつはエッフェル塔へ行け」ということわざまで生まれたと聞く。

年々東京タワーが好きになっていく。なぜなのか、とあらためて考えてみるに、東京タワーにはセンチメンタリズムを刺激する何かがあるからかもしれないと思うようになった。懐かしさ、とでもいおうか。普遍的な優しさ、とでもいおうか。そんなものを感じ、気分を自在に投影できるような懐の深さがあるように思う。それに対してスカイツリーは高いだけで味気なく、すべてにおいてドライな感じ。写真でいえばフィルムで撮影して丁寧にプリントされた写真と最新技術の粋を集めて作られたデジタルカメラで撮られ、プリンターでささっと印刷された写真の違い・・・か。

私は東京タワーが嫌いではない・・・いや先ほど書いたようにはっきり好きだと言えるようになった。だから、実際に行くよりも近くでその姿を楽しみたい。調べればいい穴場(?)もありそう。東京タワーと東京の夜景をゆったり楽しめる場所・・・自分と同世代であるタワーと自分が生まれた街を堪能できるところ・・・寒いうちにそんなところに行ってあの優雅な姿を楽しみたい。

*昨日の雪は期待はずれでした。残念・・・

*でも、気温はさすがに低かった!風が冷たいというより痛い!

*明日も雪の予報。もう期待するのやーめた!(^^;)

 

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イヨ!マッテマシタ!?

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雪が降り出した。明け方近くに降った形跡はあったが、起きた時にはすでに止んでいて、屋根や畑にうっすら積もった雪は次第に溶けはじめていたと思ったら・・・少し前から今度はやや本格的に降り始めて、私はにこにこしながら窓から外を見ている。

待ってました!といきなりテンションがあがる私は子供?都会人の身勝手さと知りつつ、やはり冬になれば雪が見たくなるのだ。少なくても人冬に一度くらい積もるくらいの雪が見たい。降っている間はいいがやんでからが大変!・・・なのは重々承知しているが。とにかく後先考えずに嬉しいものは嬉しいと単純に楽しむことにしている。

降り始めたと思ったら、あっという間に家々の屋根が白くなっていく。さきほどまで見えていた武蔵小杉の高層マンション群も、新川崎のそれももはや見えない。空は雪雲に覆われ、家並みも降る雪に覆われ、視界がどんどん白くなっていく。これこれ、これなのだ。私が待っていた風景は。

あたたかい部屋の中から見ているからいいのだ、という人もいる。それはそうなのだが、積もれば積もったで出かけていきたくもなる。サクサクサクと雪を踏んで歩きたくなる。自分の足跡をつけてみたくなる。あ、やっぱり子供か。

降りしきる雪を見ていると、どうしても聴きたくなる曲がある。前にも書いたかもしれないが、ユーミンの「かんらん車」だ。かなり悲しい失恋の歌なのだが、そこで歌われている光景がなんとも好きなのだ。かんらん車に乗って下界に降る雪を見、空を埋め尽くす雪を見る・・・私も同じことをやってみたい・・・が、もちろんできない。なにせこのところ寒さにはめっぽう弱くなってしまったから。まして今は気管支炎気味だし。残念!こんな日にかんらん車に乗ってみる物好きな方々(半分嫉妬)はいるのだろうか?

さてこの雪、積もったといえるほど積もるのか、それともすぐにやんですぐに消えてしまうのか。残れば残ったで翌日がこわいのだが・・・それに私これから出かけるんですけど!電車、遅れないでほしいなぁ、これくらいの雪で。とにかく、往きはいつも通らない公園の中を通ってみよう。どれくらい積もっているかな?るんるん♪

 

いつしか雪が静かに舞いながら

チャコールの下界へと流れて

きっとあなたは窓の外を見てる

あのひとの肩を抱き寄せて

 

つぎつぎと飛行船もゲームも止まり

粉雪が空を埋めてゆく

終わりの暗示には美しすぎる

私だけ冬空の旅人

地上に戻る頃 世界が止まる

 

(松任谷由実「かんらん車」より)

 

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夢の中の夢

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眠っている間に見る夢は人並みに見るが、たいていは覚えていない。昔は長編(!)の夢をたまに見て、それを翌日の朝まで覚えていたりしたものだが、近年は眠りが小刻みになっているせいか夢まで小刻み。しかも、ワンシーンだけなんていうこともあって、内容はほとんど覚えていない。少し残念な気がする。覚えていたからといって、それを分析するのは無駄なことだとは思うし、占いをしようというわけでもない。が、夢特有のすっとんだおもしろさや、後から考えると予知めいたものもあるから覚えていたいと思うこともある。とくに一部分だけうっすら覚えている時などは残りが知りたくてうずうずしてしまう。が、たいていは思いだせない。

一昨日だったか、夢の中で昔見た夢をもう一度見る、という不思議な経験をした。夢の中で「ああ、これって昔見た夢と同じ夢だな」とはっきり思っているのである。そして、その昔というのは少なくとも30年以上前であり、それくらい前の夢と同じ夢だと何の疑問もなく私は思っている(夢の中で)。

目覚めてからしばらくの間、その夢にとらわれたようになっていた。布団の中で不思議なこともあるもんだなぁ、と思いながら「夢の中で見た昔の夢」を思いだしていた。これまた不思議なことに、30余年前よりもなんだか夢の内容が鮮やかな印象を受けた。人の表情とか、色とか、まわりの雰囲気とか、そういったものの印象が鮮やかなのだ。だから余計に気になったのだろう。

その夢とはこんな夢だ。

 

まわりが真っ白な霧に包まれているような場所で、私は一人の男と向き合っている。私はその男から離れようとしている。背後に続く道を行くべく、男に別れを告げようとしている。男は必死になって私と止めようとしている。2人は一言も言葉を交わさず、目で語っている。それは口から出てくる言葉よりも的確で、情けも容赦も躊躇いも欺瞞もない。

男の目は語っている。行くな、俺の手が届かないところに行くな。ここにいてくれ、と。私の目は語る。もうそれはできない。もし目の前にいて欲しいなら、あなたが私についてくればいい、と。そうしたい、そうしたいとも。でも、それはできないんだ。わかるだろ?できないんだよ、と男。まるで、その理由が至極最もなことであり、私がそれを理解しそこに留まることが最良の道であるかのように。

私は男をじっと見つめる。静かに、冷たく。男はさらに必死になって、自分の足下に目を移し、自分が今どのような状況かを私に知らせようとする。男の右足には太い鎖が繋がっていて、その鎖は霧の向こうまで続いている。自分の意志でついていけないのではない、この鎖があるから行けないんだ、と男は言いたいらしい。その鎖がどこまで続いているかを私は知っている。そして、男が本当はその鎖から解放されたいとは思っていないことも。

私はその鎖をちらりと見て、また視線を男の顔に移す。そして目で告げる。そう、それでは仕方ないわね。あなたがそのつもりなら、仕方ない。ここまでということでしょう。さよなら。

私は男に背を向けて歩き出す。前方から緩やかに風が流れてくる。まるで私を誘うように。背後で男が私の名を大声で呼んでいるのが聞こえる。私は振り向かないし、立ち止まりさえもしない。風はどんどん強くなってくる。どんなに風が強くなっても二度と引き返すことはしない、と私はもう一度決意する。風に逆らうように男の声がする。

もし、その鎖から本当に解放されたいのなら、足に着けられた枷の鍵を開けて抜け出す以外の方法だってあるのに。無理やり鎖を断ちきるとか、あるいは・・・と私は思い、思いきったことをする勇気のない男をもう一度見ようとする。もうずいぶん男の姿は小さくなって、表情などまるでわからない。そして私ははじめて発見したかのように男のところから自分が今いるところまで続いている線を見つける。真っ赤な線が私の足下まで続いている。線が終っているところにあるのは、足首から先がない私の足である。

その時私は思いだす。そうだったんだ。私も鎖で繋がれていたんだったっけ。私はそれから解放されたくて、本当に本当に解放されたくて、そして男の元に行きたくて鎖を断ちきろうとした。でも、太い鎖はどうにも切れなかったのだ。だから・・・

足首から先がないというのに、私は痛みも感じず、歩行の不自由さも感じなかった。夢ならではの不思議である。少なからず出血しているはずなのに、身体の変調もない。白い道についた真っ赤な線を、きれいだなと思いながらしばらく見て、私はまた前に進む。風はいよいよ強くなってあおられそうになる。しかし、足首から先がない右足に力を入れて私は自分の身体を支え、少しずつ前に進んでいく。

男の声もほとんど聞こえなくなった。振り向かなくてもその姿は小さな点になっているだろう。そう思いながら、私は風に向かって歩いていく。なんだか爽快である。それまで自分に重くのしかかっていたものから、やっと解放されたような気がする。私ははじめて声に出して言葉を発する。「これでよかったのよ」と。

 

見ている側の印象としてはさほど長い夢ではないのだが、こうして説明するため言葉にするとけっこう長い(^^;)

夢はそこで終る。そんな夢をふたたび見た夢(一昨日の)の中の私は、よくもまあ、細かいところまで覚えていたもんだ、と感心したりしている。いたって冷静なのが後から考えるとおもしろい。こんなこともあるんだ、と完全に醒めてから思う。数年に一度、いやもうこういうことはないのかもしれない。何故こんな夢を、と思う。先日秋谷の海で強い風に吹かれたからなのか。それとも、最近時実新子さんの自伝的小説「新子」を読みはじめたからだろうか。時実さんは1987年「有夫恋」というセンセーショナルな句集(川柳)を出した人。川柳界の晶子(与謝野晶子)と言われ、激しい女の情念を十七文字に込めた川柳は世の女たちの喝采を浴び(もちろんそれ相応の反感、反撥も)、男たちからは怖れられた。

いずれにしろ、夢が人の深層心理の表れだとしても、自分の深層心理を事細かく分析する趣味は私にはない。だから、この夢もまた「不思議な出来事」のひとつとして記憶に残すのみである。そしてその記憶は気づかぬうちに薄れて、最後は消えてなくなるに違いない。

| - | 19:14 | comments(2) | - |
風に吹かれて

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今日は急遽、秋谷海岸近くにある蕎麦屋「桶や」に行くことになった。以前から親しくしていただいているW夫妻の別荘がそこにあり、何度かお邪魔したことがある。そして、その土地を買う時の決め手となった古い蔵は借り手が何度か変わり、今は蕎麦屋となっている。そこがいいと聞いており、何度か誘っていただいたこともある。その時は都合がつかずに行けずにいたのだが、いつかきっと、と思っていた。今日はここ数日の寒さが和らいで気温が上がるとの予報が出ていたので、思いきって出かけてみることにしたのだった。

蕎麦屋ももちろん楽しみだったが、私にはもうひとつ、海を見る!という大きな目的があった。以前にも書いたように、私は1月になると無性に海が見たくなり衝動的に行くことが何度かあった。今年の1月は寒さやら体調やらで結局いけなかったので、けっこう残念に思っていた。1月は終ってしまったが、まだ冬のうちに一度は!と思っていたので今日は絶好のチャンスだった。

今まで秋谷海岸には何度か行ったことがある。秋谷神社のお祭りも見に行ったし、W夫人のEさんのお友だちと焚き火を楽しんだこともある。逗子方面に車で行った時に足を伸ばして秋谷まで行ったこともあれば、立石にあるマーロウのレストランに行ったついでに海に出たこともある。

それまでの印象は穏やかな海、というものだったが今日は少し違っていた。蕎麦屋のお母さん(母娘でやっている店)がおっしゃっていたように、風が強くて砂が舞い上がりそれが風に飛ばされてくる。海辺に出る前に軽い砂嵐のようなものを浴びて一瞬だじろいだ。目が・・・口の中に砂が・・・と。

しかし、ここまで来て海に近づかないという選択は私にはない。「ふふふ。こんなことでくじける私ではないわ!」とばかりに、ずんずん浜辺を進んでいく。砂に嫌気がさした家人は行かないというので、待っていてもらうことにして一人でずんずん歩く。と、ある程度浜辺を進んでいくと砂は飛び散っていない。少し離れたところの方がすごいことになっているのだった。

南からの風は思いのほか強く、しっかり足を踏みしめていないと飛ばされそうになる。しかし、そんな中でなんとか一人で立ち、海からの強風を受けているのは、なんと気持ちのいいことだろう。爽快そのものである。

より安定した姿勢をとるために、砂浜に腰を下ろす。少しだけ荒々しさを垣間みせる白い波しぶき。遠くを見ればキラキラ輝く海面。防波堤に当って大きくくだける波。それらを見ながら風に吹かれている心地よさ。一人で来ていたなら、たぶん1時間くらいはそこにいたのではないだろうか。気温そのものは高いので寒さは感じず、とても気持ちいい時間だった。

思えば私は風に吹かれているのが好きなのだった。無風の穏やかさを時には求めながらも、風に吹かれていると、生きている実感があり、これからも生きていく勇気をもてるような気がする。

ボブ・ディランは「風に吹かれて(Blowin' In The Wind」)」で、“答えは風に吹かれている”と歌った。何の答えのなのか・・・当時はプロテストソングとして解釈されていたのかもしれないが、今その曲をあらためて聴き、かなり自分勝手に解釈してみればそれぞれの人が求めてやまない大切な答えなのかもしれないとも思えてくる。風の中にある答えを無理やりとらえようと思ってもしれはたぶん無理だろう。風は一瞬たりとも止ることがないから。しかし、どこかに答えがある風に吹かれていることによって、少しはその答えに近づけるのかもしれない。

蕎麦屋はけっこうレベルが高くて最近行った店の中ではかなり自分の中での得点は高かった。母娘2人でやっているこじんまりした店だが、素材にもこだわり、センスもよい。逗子からバスで25分くらいだがバスの本数が多いのでさほど不便な感じはしない。蕎麦好きの方にはぜひお勧めしたい店。お酒を飲まないなら車が便利かもしれない。秋谷海岸、いいですよ!

19-0207-2.jpg古い蔵を利用したこじんまりした店です。

19-0207-3.jpg平打ちのコシがあるある蕎麦。

| - | 19:19 | comments(2) | - |
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