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勝手に「北野武」ウイーク

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TSUTAYAD ISCUSで月8本のDVDが届くといのに、時々物足りなくなって近くのTSUTAYAまで行く。2週間続けて借りたので、ちょっと一休みしようと思っていたのだが、行く前のラジオを聞いて気が変わった。TBSの番組に俳優の西島秀俊さんがゲストで出ていて映画の話をしており、今までで一番影響を受けた監督として北野武さんをあげていたのだ。共演者として「この人はすごい!」と思ったのも同氏とのこと。

私は北野武の映画がけっこう好きだ。といっても、何本か見たにすぎない。メディアに出てくる彼も好きで、いい男だと思う。何の映画か忘れてしまったがごくシンプルな白いシャツを着ていて、それがとてもよく似合った。たぶん仕立てのいいブランドものだと思うが、どこのものともわからないところがいいし、立派な中年の体形にそのシャツはぴったりだった。ああいうシャツは若いお兄ちゃんには似合わないな、と思った。映画の中の彼はいつも無口で何を考えているか判らず、なにをするかも予想できない人間、というイメージが強い。他の誰にもなりえない、真似のできない個性を発揮している人として好感を持ちつづけてきた。

そこで、今週は勝手に「北野武」ウイークにしよう!ということにして、監督作品(主演を含む)を5本借りてきた。今現在、西島英俊さんが出た「Dolls」と「ソナチネ」の2本を見たところ。「ソナチネ」は初見ではなく二度目。「Dolls」はかなり好きな映画になった。文楽の心中物と裏切った男と裏切られた女の道行きが重なって、切なく悲しい作品だと思う。この「切なさ」が北野武監督の持ち味だと思うのだがいかがなものだろう。他にも「切なさ」を描いた映画はたくさんあるが、この「切なさ」は他とは違うぞ!と私は感じている。

残りは「キッズ・リターン」「座頭市」「アウトレイジ最終章」の3本。ランダムに借りてきたので、ランダムに、気の向くまま観たいと思っている。目が離せない映画が多いので、何かしながらではなく集中して観たいと思う。

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自分の身体に次々と起きるいろいろなこと

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60年以上生きてはじめて・・・というより特に強く実感するようになったことがある。それは、「自分の身体なのによくわからん!」ということだ。少しややこしくなるが、正確に言うと「自分の身体なんだから医者よりよくわかっている」と思うこともある。が一方で「自分の身体なのに、これって何!?」と驚くこともある。わかることもあるのにやはりわからない。それを「わからん!」と書いている。おわかり?

実は今月に入ってから少々不調気味だった。原因に思い当たる節がないではないが、それにしても腑に落ちないことも多かった。ブログで自分の体調についてあれこれ書くのは好きではないし、たいしたことないのに心配していただいては心苦しいし、毎日こうしてブログを更新することができている程度のことだから(私は前もって、あるいは後から記事を書くということはしない。書けなければその日はお休み!)、書くほどのことはない、とも考えていた。

しかし、最近になってようやく落ち着いてきたこともあり、記録として残しておいた方がいいような気がしていることもあり、で少し書いておく。

不調というのは、動悸・息切れ・めまいなどいわゆる不定愁訴というヤツだ。たぶん自律神経だな、と察しはついていたが、いつもと少し違うので手を焼いた。毎年暑い季節になると似た症状が起きているので、最初はあまり気にせず秋になったら治ると思っていたのだが・・・むしろ涼しくなってから症状がひどくなり、いささか不安になってきた。

たぶん血圧が関係している。もともと低い血圧は立ちっ放しの姿勢を続けたり食事をしたりするとさらに下がる。血圧をあげようとして心拍数が増える。息切れする。そんな感じ?食事の支度などで台所に立っていても10分を経過したあたりからおかしくなり、準備ができてテーブルについた時にはなんだか食べる気力が失せている。が、食べねばならないから食べる。半分くらい食べたくらいでまた息苦しくなる。どうやらまだ食べ終っていないのに脳みそが「おーい!消化活動はじめようぜ、血液くんたち」と気ぜわしく命令しているのだ。血液くんの量は限られているのだが、それらが一斉に消化器に向かい心臓の血液量が減ってくる。血圧さがる。やばい!とばかりに心拍を早めて血液量を維持しようとする。そんなところか。「食後低血圧」といわれるこの症状は自律神経機能が低下しやすい高齢者に多いそうだ。ふん!どうせ!

居直っていてもしかたないので、横浜市の特別健康診査を受けるついでに診てもらうことにした。通常の検査に加えて貧血検査、甲状腺検査、心電図を追加した。全体の結果はまだ出ていないが、おおむねのところは今週はじめにわかった。心電図は脈が速いものの不整脈などの所見はなし。甲状腺異常なし。やっぱりね。

実はだいぶ前になるが以前にも甲状腺の検査をするように医師から言われたことがある。なぜする必要があるのかあまり理解しないで検査を受けたが異常なしだった。今回は痩せてきた、動悸がする、という症状から医師が検査を勧めたのだ。でもね、甲状腺ホルモンの異常によって痩せるというのは、食べても食べても痩せる症状だと思うよ、先生・・・と言いたかったがやめておいた。私の場合、食べられていないから痩せるのも当然で、これは体調が戻れば徐々に戻ると思っているが、医師はまず原因となっているかもしれないものを探し出したいんだろう。

結局のところ、全体的に異常なしということで一安心したのだが、自律神経関係は治療のしようがないようで、それはそれで悩ましいのである。市が定期的に実施している健康診査は主に生活習慣病を見据えたものだと思うが、そちらは2年前の検査でも院長から「超優秀」のお墨付きをもらっているので(自慢!)全く心配していないのだが。今回も超優秀な結果になると思うぞ。

ここにきてかなり症状が落ち着いてきてほっとしている。気候が落ち着けばさらによくなるだろう。ただし、自律神経は外的要因だけでなく内的要因も大きくかかわってくるので、ストレスには要注意ということだろうか。ストレスは嫌われがちだが、あながちそうでないこともある。ストレスがあるからできることもあるし、そもそもの原因が悪いことではなくて逆にとても幸せなことだってあるのだ。用は悩み苦しみだけからストレスが生まれるというわけではない、ということ。だからストレスとは上手に付き合う以外ない。

今日は5時過ぎにちょっとしたアクシデントがあり起きてしまい、寝不足気味。それもあって久しぶりに不調に陥り、食後1時間ほど横になっていた。それでも治らないので処方されている薬(心拍数をおさえる薬)を飲んで現在に至っている。食後30分くらいが一番つらく、安静にしていても血圧105-85、心拍数120なんていう数字になってしまうのだ。ひー!心拍数の方が最高血圧より多いぞ!

これは寝不足が原因と思われるので、のちほど昼寝をして徐々に調整していく。まったくもって自分の身体はよくわからん!わからなくて面倒くさい!でも、やっぱり愛おしい。たいせつにしないとね。

*今朝のアクシデントとは・・・猫が・・・私の布団に・・・オシッコを!

*すぐに気がついたからいいようなものを!天気悪いのに!ぷん!

*しばらく、まーちゃん(まめこ)とは口きかない!

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24mm

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2009年10月16日横浜にて。スクエアのトリミングは今一つ合わないなぁ。

 

facebookがきっかけで埃を被っていた24mmのレンズを出してみた。キャップをしていたのに埃だらけ!プロテクターを付けているのでレンズ本体には影響ないと思うが、もうちょっと大切にしなければ・・・と反省。ついでにここ数年使っていないことも反省。だって重たいんだもーん!と居直るのはまだ早い。近いうちに使ってみようと思う。

このレンズ(EF24mm1.4LllUSM)は私が持っているレンズの中で最も高価だったレンズ。今よりずっと稼ぎはあったとはいえ、買う時にはけっこう迷った。ボディは耐用年数に限界があるがレンズは大切にすればいつまでも使える・・・だから納得のいくものを・・・いや、でもレンズひとつが20万円以上って高いでしょう。分不相応でしょ・・・あれこれ考えを巡らした上で買ったレンズなのだ。

そもそも、広角レンズを買う時、35mmにするか28mmにするか24mmにするか、で迷った。たぶん一番使いかってがいいのは35mmで、28mmの画角はGR-DIGTALで馴れている。24mmは全く知らない世界。それらの中の何を選ぶか。結果的に、まだ知らない世界を選び、それゆえ試行錯誤もしてきた。

24mmという画角を活かせる対象は何か。それを探るためにあちこち出かけた。最初のうちは感覚がぎこちなく、撮った写真も悲惨なものだった。反省点を踏まえた上でまた撮りに行った。それを繰り返しているうちに、少しずつコツというか画角を活かせる対象や撮り方がわかってきたような気がした。気がしただけで、まだまだ使いこなせてはいない。

開放感ある開けた風景、建築物、街並みなどは広角レンズが合うと思う。ただし、どこにピントを合わせるか、何を切り取るかで出来不出来はかなり違ってくる(当たり前)。また、私はカメラを縦位置にして撮ることが多いのだが、広角レンズでそれをやるのはけっこう難しいと感じた。

広角レンズも24mmくらいになると人間の目とは異なる作為的な写真となる。縦位置も同様。作為と作為が重なると効果が薄れるような気がする。これもまた気がするだけで本当にそうなのか追求するところまで行っていない。うーん、何事も中途半端な私。

このレンズを試行錯誤していたころの写真を探してみた。今日の写真がそれで、横浜方面に出かけてあれこれ試したと記憶する。大桟橋のようなところは24mmにうってつけで楽しかったし、港などもけっこう合うように思う。また行くかな!

18-1018-2.jpg下からあおり気味に撮るとおもしろいかも?

18-1018-3.jpg件のレンズ。宝の持ち腐れ状態(^^;)

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美は細部に宿る

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どこかで「美は細部に宿る」という言葉を目にしたのはいつのことだったか。以来、作り手の魂がこめられたような工芸品に出会うとこの言葉を思い出していた。なにか、人知を超えた不思議な輝きがそこにあるように思えた。

あらためて調べてみると「美は細部に宿る」ではなく「神は細部に宿る」という建築の世界から生まれた言葉らしいことがわかった。建築物というものは様々な要素の集合体であるわけだが、細かいところにまで美意識を反映させたものが全体としても美しい、というような意味かと思う。「神」という概念はなかなか難しいが、一種侵し難い、神聖ささえ感じるもの、というように私はとらえている。

建築物といえば、現在オリンピックを控えて建設ラッシュである。先日行った渋谷もそうだが、都心各地がどんどん変わろうとしている。それは今にはじまったことではなく、たとえば銀座を例にあげても次々と新しいビルが出来、建築について素人である私の目から見ればどんどん古くて美しいものがなくなっていくように見える。

ずいぶん前になるが交詢社が建て替えられた時はショックだった。今でもファサード部分のみは残してあるが、あんなものは陳腐なだけだ。

建築にもどんどん新しい波が押し寄せ、優れた建築家も次々と現れているのだろう。モダンで風変わりな建物がずいぶん増えたが、あれはあれで専門家の目には優れているのだろう。しかし、どんなに優れていても、そこには宿るものがない・・・ように私には思える。

もちろん私個人の好みということもあるが、古い建築物の方が断然美しいと思っている。あまりあちこち見てはいないが、たとえば美術館でいえば東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)、東京都国立博物館の表慶館。フランク・ロイド・ライトとその弟子に当る遠藤新が設計した自由学園明日館も美しい。展覧会を観に行ったのに作品は二の次で建物内部に目を奪われたりすることも珍しくない。

建築物でなくても、細部に美が、神が宿ったかのように見えるものはあるのだろう。工芸品や工業デザインの分野にも。たとえ車にも昔はそんな美があったと思うのだが、最近の車(とくに日本車)はみんな同じように見えて全く魅力を感じない。単なる移動の道具ならそれでもいいが、そこに美を見つけようとする目には物足りないことこの上なし。時折、あ!あの車いいな!と思うものにも出会うがたいていは古いヨーロッパの車だ。

美しいだけでは暮していけない。たぶんそれも真理だろう。しかし、美しいものがなければ生きていけない・・・そういう人間だっていると思う。そして私はほとんど無意識に、そういうものを探しながら街を歩いているのかもしれない。

写真は古い香水。香水瓶にも美しいデザインのものが多いが、やはり古くからある銘柄のものの方が好きだ。左はかつて私が常用していた「MITSUKO」(ゲラン)。もうかなり前のもので少しだけ残っているが変質して使えない。しかし瓶が好きなのでこのまま持っている。右は昨年他界した伯母が生前“古いものなんだけど”と言ってくれた「MY SIN」(ランバン)。シンプルな瓶だがこれはこれで美しいと思う。この香水については、2008年6月7日2017年5月9日に書いているので、よろしかったら読んでいただきたい。

香水瓶を出してきて写真を撮っていたら、また使ってみようかなという気になった。香水より軽いトワレでいいと思う。それをひそかに(!)使う。すれ違ったら香るというのはあまり好きではない。私はつけた時に香るトップノートよりだいぶ時間が経過した時のラストノートが好きだ。夜遅く帰宅して、着替えている時微かに香るあの香り。香水の香りと自分の身体のにおいが溶け合ったような残り香がいい。うーん、なかなか色っぽいぞ!でも、また話が横道に・・・(^^;)

*しかし何度も言うようだが、香水に「我が罪」という名をつけるなんてセンス良すぎ。

*MITSUKOのボトルはバカラの名工ジョルジュ・シュバリエという人のデザインなんですって。

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老いのせつなさ

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わが家の最長老猫・みかん(♀16才6ヶ月)は毎週1度の病院通いをしながら、とりあえず元気で暮している。加齢のため腎臓が悪くなるのは猫の宿命のようなもので、片方はほとんど機能しおらず、もう片方も変形しているという。一時は検査の値がかなり申告だったが、治療と食事管理によりだいぶ持ち直しているが、このところ体重が減少気味で3キロをギリギリのところで保っているような状態だ。食欲もあるが、やはり食べられる量が少なくなってきている。これは人間も同じだと思うので仕方ない。

こちらのサイトで「16歳」を見ると、「ほとんど寝ている。足腰が弱くなり神経も弱くなってくる。食べるのに痩せてくる。ボケの症状が出る(餌の催促を何度もする、やたらとうるさく鳴く、夜中に徘徊する、トイレを失敗する)とある。よく寝ていることと痩せてきたことは当てはまるが、その他は今のところ大丈夫のようだ。

それでも、一ヶ月に一度か二度、夜中に鳴きだす。それはうるさい、というよりもせつない。細い声で何度も何度も鳴く。聞いている方の心を揺さぶるような切迫したものを感じて、布団の中で名前を呼ぶが来ない。耐えられなくなって起き出し、そばまで行って「ほら、ここにいるから大丈夫!」と言いながら撫でると、やっと安心したようにゴロゴロいう。抱き上げて布団のところまで連れてきて横に寝かせると、私の腕にすがるようにして眠る。

少し痴呆の症状が出てきたのかもしれないが、なんともせつないことである。身体をなでながら、そのぬくもりを感じながら、いったい私は何をしてやれるのだろうかと思う。できるだけ大切にしているつもりだが、それも人間側が思うこと。猫たちはその一生を人間に託し、淡々と受け入れていくだけだ。何が一番いいかなど人間にはわからない。何かあった時の判断が本当に正しかったのかもわからない。

3年前に失ったゴンも晩年は老いをひしひしと感じさせた。常に私の後を追い、具合が悪くなってあまり動けなくなっても、目で私を探した。私が見えるところにいる時、私がゴンの方を見ると必ず視線を返してきた。その視線の強弱で私はゴンの余命を知ろうとしていた。ゴンのことについては、2015年11月23日から7日間連載しているのでそちらを参照していただきたい。

ゴンもみかんも老齢といわれる年齢になってからひどく淋しがりやになった。膝に載らなかったのが頻繁に載るようになったり、いつもそばにいたがるようになった。残りの時間を知っているはずはないが、動物の勘でなんとなくわかるのか。若いころとは体調も変わってきたことに不安を持つようになってきたのか。見ていると、つくづく老いるということはせつないことでもあるんだなぁ、と思う。

省みて、人間はどうだろう。人間も自らの老いを感じるとせつなくなるのだろうか。90歳でもバリバリ現役で常に前向き姿勢を人に見せている人も、一人になったらせつないのだろうか。病院のベッドに横たわり、過ぎ去った日々を思い出している人はどうだろうか。とりあえず元気だが、夫あるいは妻に先立たれて一人で暮す人は夜の寝床で何を感じているのだろうか。

私は今のところ、老いについてはせつないというより情けないと思うことが多い。できることが少なくなってきたし、体力も明らかに落ちている。でも、まだやりたいことがたくさんあるからなのか、それらとどう上手く折り合っていけるかを考える。まだ還暦すぎて2年なのだから当然だと思われるかもしれないが、夜中に猫が鳴くのを聞いてせつなくなるのは、やはり自分の中にも似たものがあるからなのかもしれない、と思う。

それにどうやら私は老いを受け止め、静かにあきらめることができない運命にあるようなのだ。運命などと軽く言いたくはないが。以前映画「タンゴ・レッスン」の中での主人公台詞「運命は意志の力で作るもの」に共感すると書いたが、その共感は変わっていない。だから正確に書くと、なかなか枯れていくことができない何かを自分が選んでしまう、ということになろうか。

好奇心はますます強くなっているような気がするし、何故か良くも悪くも緊張感を必要とする出来事が起きる。おちおち老け込んでいられない、というわけだ。神経がすり減ることもあるけれど、「退屈」を最も嫌う私には当然の成り行きかもしれない。それほどたいしたことではないが、なかなかスリリングな人生になるかも・・・ね。

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「行かないで」、ふたたび

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先日ふと思い出したようにシャンソンの「行かないで」(原題 Ne me quitte pas)の歌詞を調べたくなって検索してみた。この歌については、2015年3月4日に記事にしている。その時は柳家小三治師匠の枕の話からはじまって、師匠がこの歌について「女に出て行かれた男かまあ、メソメソと」「君の手の影になりたい・・・そこまではいいの。でも、最後の君の犬の影になりたいっていうの。情けねえったら」「でも、オレ、その気持ちがわかっちゃうの。それがまた情けねえ」で笑わせたことを書いている。そうそう!この歌の歌詞はかなりメソメソしている。そもそもシャンソンはけっこうメソメソした歌が多い。

フランス人さえそうなのだから、日本人なんて元来メソメソが好きなのではないか、と思うことがある。暗い、女々しい、未練がましい、等々の声もよく聞くが、心の奥ではこのセンチメンタリズムを受け入れている、というより好んでいる節がある・・・のではないだろうか。演歌が典型的なメソメソだが、今の若い人が作り歌う歌だって、メソメソはたくさんある。

しかし、同じメソメソするのでも、あまりにも言葉に溢れたメソメソはかえって気持ちの負担になると思った。いい例がこの「行かないで」なのである。「僕が死んだ後までも君の身体を黄金の光で覆うために僕は大地を掘り返すだろう」とか「僕は国を作ろう。そこでは愛が王で愛が掟で君は王妃」とか「ここに姿を隠して陰から君を見ていよう」とか、師匠が言っていた「僕は君の影に君の手の影に君の犬の影にならせておくれ」とか・・・

たぶん国民性の違いだと思うのだが、言葉を労して気持ちを伝えることの価値観が違うのだと思う。フランス人はくどき文句がしつこいのかも!?

しかし、それでも何人もの歌い手がこの歌をカバーしているところを見ると、このセンチメンタリズムは普遍的なものなのだろう、と思う。この歌を聴き、思い出してメソメソしたり、かつての思いを引きだしてうっとりしたり、時には昔の恋をなつかしく少し悲しく思い出したり。みんな、そういうことが案外好きなのかもしれない。

実は、今回検索していたら日本にも「行かないで」という歌があることを知った。というか、こちらの方が先にヒットした。歌っているのは玉置浩二だ。これまで特に興味を持ってきた人ではないが、とりあえず聴いてみたらば・・・これがまた!シャンソンの歌よりも、ぐっときてしまった。私としたことが!

去年だったか、久しぶりに高校時代の友だちと会って飲んだ。その時、彼女が少し恥ずかしそうに「玉置浩二が好きなの」と言ったことを思い出した。別に恥ずかしそうにすることもないのに、と思ったが、どういうところが好きなのかまで聞かなかった。今では少し彼女の気持ちがわかるような気がする。たぶん・・・玉置浩二はくどき上手なのだ。それも、わざとらしくではなく、感受性が強い人間が思いの丈を吐露しているといった感じが女性の心を掴むのだ。

玉置浩二の「行かないで」はシャンソンの同名曲よりずっとシンプルだ。シンプルゆえに訴えてくるものは大きく強い。また歌唱力がそれをさらに高めている。「ワインレッドの心」「恋の予感」などしか知らなかったのだが、これだけの歌唱力があるのか、と実際のところ驚いた。

wikiなどを読むと、この人の歌唱力は同業者の中ではかなり評価が高いらしい。山下達郎が「日本で最も過小評価されているミュージシャン」と言ったとか、Mr.Childrenの桜井和寿の「天才であり最も尊敬するミュージシャンの一人」、ASKAが「化け物のようにうまい」とか枚挙にいとまがない。

さて、「行かないで」だが、こちらは恋人が去った後の未練を歌ったシャンソンとは違い、たぶん、恋が成就した喜びとそれゆえの悲しみを表現した曲だ。思いを遂げたのは嬉しいが、そうなれはそうなるでいつかそれを失ってしまうのではないかと不安になる。これは誰しも経験したことがある感情なのではないだろうか。喜びと不安と。このせめぎ合いがせつなく、恋から離れて久しいオバサンの心を惹きつける。玉置浩二、なかなか手強し!

切ない恋をしている方々にもう1曲贈るとすれば、「あなたに」。これは若いころの曲だと思うが、なかなかの出来だ。もちろん個人的な感想ではあるが、じっくり聴いてせつなさを感じていただきたい。あ、ここの読者の方々にそういう方はいないかな?だったら単なる戯れ言として適当に無視してかまわない。あしからず(^^;)

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旅の消息

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「お土産は何がいい?」と聞かれることがある。聞かれなくても自分から言うこともある。図々しいとは思わない。せっかくいただくのだから、心から愛せるものの方がいいではないか。それに、自分が土産を買う立場にたってみると、いわゆる観光地にはこれといった土産物がなかなかないし、好みに合わないものを押し付けるようになってしまってはイヤだから。何をもらっても素直に喜べる人が羨ましいと思うが、私自身はそうはなれそうもないし、心遣いとして表面的には喜んでいるように見せても、実は困ったという経験をしたことがある人は多いのではないだろうか。

 

ここ2年ほど行けていないが、家人は毎年北海道に行っている。帰ってくると、バッグから木の実や石や落ち葉や箸袋が出てくる。いつだったか石炭の小さな塊を持ち帰ってきてくれた。そもそも土産物店で土産を買うことがあまり好ではないということもあろうが、金で買えるものよりそうではないものの方が喜ぶということを知っているからだ。

いわゆる土産物ならその場所に行けばどこかの店で買える。売っている方は基本的に誰が誰のために買ったかなど気にしない。現地に金を落とすという意味ではたいせつなことだとは思うが、私はその人の旅の消息に思いを馳せることができるものが好き。

これを拾った日はどんな天気だったのだろう。風はどれくらい吹いていただろう。これを見つけた時、その人はどんな顔をしたのだろう。手の中に収めた時、何を考えていたのだろう・・・・たいていの人にとっては単なる拾い物かもしれない土産を目の前に置いて、私は目を閉じてあれこれ想像する。そんな時間が好きだ。

先日、南の海の土産をいただいた。重さからして石ではなく珊瑚のようだ。ちょっとゆがんだハート型で、よくまあこのようなカタチになったものだと思う。無数の小さな穴が表面を覆い、大きな穴が表側(これが表だと私が決めた!)の中央にある。その上にやや小さな穴。裏を見るとその大きな穴より小さな穴が3つある。ただし、それらは貫通していない。だから、やはり目立つのは真ん中の大きな穴だ。

これはどんな浜辺にいたのだろう。砂浜なのか、それとも波打ち際か。まわりにはどんなものがあったのだろう。他の何かではなく、どうしてこれが人の目に入ったのだろう。あれこれ想像した後、こういうものは拾ってくれてきた人にも私にも縁があるもののように思えてくる。目で楽しむだけでなく、手のひらに乗せ、両手で包み、頬にそっと当てて感触と重さを確かめる。

真ん中の穴は何故あいたのだろう。穴から外の風景を見てみる。なかなか楽しい。まるでキューピッドが矢を放ってハートを打ち抜いたようだ。よくもまあ、スッパリきれいに打ち抜いたものだ。このように打ち抜かれたらひとたまりもないだろう・・・などと想像はどんどん膨らんで、旅の消息を楽しむ時間はゆるゆると続いていく。

18-1014-2.jpg正体不明のコイツは「モモタマナ」という木の実だと判明。最近見たものの中で一番美しいカタチ。紡錘形はいいなぁ。

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「手仕事に遊ぶ錦秋」

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5月にあった「日本の夏じたく」に続き、「手仕事の遊ぶ錦秋」を見に行ってきた。会場は初夏と同じ横浜三渓園の鶴翔閣。明治時代の実業家にして茶人の原三渓の私邸である。

染織、木工、陶磁、金工、硝子・・・現在各地で活躍する工芸の分野からそれぞれ個性的な作品が並んでおり、予想していたとおりレベルの高いものが多かった。作家自らが客の応対をするので、彼らにとっても購入して使用する私たちにとっても納得のいく展示だと感じた。

今回は染織分野よりも陶磁や金工の作品に目が行った。まったりとした質感の宙吹き硝子の器。深い藍色が美しい磁土、羽根を表現した繊細な細工が見事な金工のブレスレット。興味を持ったものは数々あったが、お値段もそれなりにステキ(!)。

買物に来たわけではないので、ゆっくり鑑賞しながら楽しんで、遅いお昼を取りに庭園へ。今年は猛暑や台風の影響があってか、木々の様子がおかしい。葉先が枯れているものが多く、紅葉もあまり期待できないのではないかと思われた。それでも、池に訪れていたサギや庭をゆったり散歩する猫に出会えて気分はのんびり。

婚礼衣装を着た若いカップルが数組いた。いわゆる前撮りのロケ撮影地としても三渓園は使われているのだろう。海外からの観光客も多く、帰りのバス停は日本人の方が少ないくらい。三渓園の後は中華街方面に行くらしく、みなさんウキウキしている様子で楽しそうだった・

さて、次は来年の「日本の夏じたく」か。買う買わないは二の次にして、職人たちの仕事を実際に見て、話を聞くことができる機会はできるだけ逃したくないからまた行く予定だ。昨日は初夏よりも着物姿が多く、さすがに洗練された着こなしのご婦人方ばかり。私自身は着ていかなかったのだが、着物の勉強にもなるのでこういったイベントは一石二鳥?

それにしても「錦秋」という言葉はいいなぁ。「山装う」という喩えを思い起こす。これからが紅葉シーズンも本格的になると思うが、私は京都などの鮮やかな赤いモミジよりも奥入瀬渓谷のしっとり落ち着いた紅葉が好き。今年も行けなかった北の地に思いを馳せる。

*庭園内にある待春軒で原三渓が考案したという「三渓そば」を食べたのだが・・・

*味は・・・うーん・・・お好みでしょうかね。私はどうも(^^;)

18-1013-2.jpg空から見ると鶴が飛翔しているように見えるという鶴飛閣

18-1013-3.jpg玄関にしつらえられた見事な活け込み。まさに「錦秋」

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写真遊び〜闇の中の気配

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熱心に撮っていたころの写真をたまに見てみる。ずいぶん気合いを入れていたなぁと思う。楽しくてやっていたことだから、その気合いは後になって感じても気持ちのいいものだ。しかし、また当時のように撮り歩きたいかというと、今はもう少し別の方向でいきたいような気もする。

昔は、こんなカメラが欲しい、とよく思ったものだが、今は持っているものを楽しく活用していけばいいと思う。写真が好きだという人にもいろいろあって、とにかくカメラにこだわる人や本当は写真よりもカメラという機械の方が好きな人もいる。私はというと、昔から道具よりも自分の感性や行動力に重きを置いてきたので、方向としては昔と変わっていない。が、以前のような気合いは入れず、気ままに、思うがままに、写真を遊んでみたい。そんな感じ。

加齢による負担感の増加もあって一眼レフを持ち歩くことがかなり少なくなってきた。これでいいのか?と思いつつスマートフォンで済ませることが多くなってきた。しかしスマートフォンのカメラもバカにしたものではないし、時々軽いコンデジを組み合わせていけばいいと思う。

最近そのスマートフォンで遊んでいる。前より写真を撮ることが多くなったが、メモとしての写真がほとんどだった。それを、「表現」として考えて撮るのはどうかと思いはじめたのだ。道具も使い方でいろいろなものを得ることができる。それなら、多様な使い方をしてそれを楽しまない手はない。

夜、部屋の明りを消して蝋燭をつけてみる。途端に部屋の中には闇が満ち、その中にたったひとつの光源として蝋燭の炎が存在する。蝋燭の炎は微かな風にも揺るぎ、それに従って部屋の中にひっそりと現れた気配の表情も変える。それがおもしろい。

そんな光の中で写真を撮ると、粒子の粗いぼけた写真になる。その雰囲気は、たとえば森山大道や中平卓馬がかつて撮った写真に少し似ている。粒子のザラザラがきっちりきれいに撮れた写真にはないものを語っているような気がする。

闇の中では、いろいろなものが明るい時には見せない表情を見せてくれる・・・ような。壁に貼られたフォトカードも、6つのペン立てに入れてある鉛筆やら万年筆やらも、机の上の卓上カレンダーからも・・・本棚の本と棚の間の闇から、とりあえず床に置かれたワインの空き瓶の中から、なにかがゆっくり立ち上ってくる。

自分の手足を撮ってみる。浮き上がった血管、頼りない指先は普段見る自分の手よりリアルなものに感じる。おもしろい、いやぁ、おもしろい。

先日、遊びに行く日のためになつかしい「写ルンです」を買ってみた。フィルムカメラのリハビリをしようとは思っていたが、まさかこのインスタントカメラとは!と我ながら苦笑。でも、けっこう期待もしているのだ。

だいぶ前のことになるが、足尾銅山方面に行ったことがある。その時はたしかCanonのIXYを持って行ったと思うが、現地に着いてはじめてメディアが入っていないことに気づいた。しばらくはがっかりして呆然としていたが、気を取り直してコンビニでインスタントカメラを買った。

あまり使ったことがないカメラはけっこう楽しかった。できあがってきたプリントもインスタントカメラ特有の雰囲気があってなかなか気に入った。この時の楽しさを私は今でも覚えている。今回も、楽しく、おもしろがって使ってみたい。

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築地を想う

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ついに豊洲市場が開場した。予定より2年遅れ・・・様々な部分にケチが付き、今でも反対する人が多いという新市場は果たしてうまく機能していくのだろうか。今日はさっそく(?)ターレーが焼けるという騒動があったようだが。

今日ラジオで新市場での現地取材の様子を聞き、あらためて築地に思いを馳せた。豊洲は私にとって何の愛着もないところだが、築地は違うのだ。以前勤務していた会社があった街であり、昼休みにランチを食べたり、年末仕事をちょっとサボって人混みの中を歩いたり、波除神社の獅子祭りを見に行ったり、酉の市の小さな熊手「かっこめ」を手に入れたり・・・様々な思い出がある。

波除神社と獅子祭りを紹介するパンフレットの仕事もした。各町の氏子代表の方々に会い、様々な話を聞いてみなさんの「築地愛」を身にしみるほど感じた。特にご年配の方々は揃って粋な方たちばかりで、昔をなつかしみつつ将来への不安をそっと語ってくれた。祭りで同じ方々をお見かけしたが、法被姿がしっくり板について若い人よりかっこよかった。

場外売場は気軽に行けるが、年々歳々同じように賑わっていながら、徐々に外からのチェーン店が増えていた。観光客には関係ないのだろうが、以前から知る者にとっては淋しいこと。それでもあの雑踏を歩く時、なにかおもしろいものがありそうでワクワクしたものだ。店の名前は忘れてしまったが、大きなはく製をいくつかディスプレイとして置いている店があり、はく製の隣にスルメだとか大袋の乾物だとかが無造作に積み上げられ、アメ横に似ているもののまたちょっと違う雰囲気を醸しだしていた。

場内は仕事の場だから雰囲気はがらりと違う。それでも国内外から訪れる人が引きも切らず、知るひとぞ知る飲食店の前にはいつも長い列ができていた。カウンターだけのカレー屋。40分待ってやっと入れた寿司屋。ボリューム満点の洋食屋。なつかしいなぁ。

そして、ターレー。はじめて見た時は「これなに!?」だったが、誰もが認める築地市場のシンボルだ。片手で器用に運転し、障害物をすいすいと避けていく様子を見るのが好きだったっけ。「発泡禁止」のゴミ置き場の掲示に一瞬ギクリとしたこともあった。

場外売場はあのまま残っているようだが、場内は少しずつ解体される。オリンピックに向けて道路を造らなければならないから。解体前の様子を見たいと思ったが、入ることはできないだろう。場内にあった水天宮はどうなってしまうのだろう・・・と気になってはいるのだが。

年末に海苔だとかかつお節だとか昆布を買いに行ったことがあるが、ここ数年は億劫さが先に立って行かずにいる。獅子祭りもとうとう行けなかった。今年中に気が向いたらふらっと行ってみるかな。

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