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日々の内側
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横浜は、花盛り

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今週水曜日に久しぶりに会う友人と横浜公園に行った。現在大量のチューリップが咲いているのだ。だいぶ前に偶然この時期に関内付近に出かけてびっくりしたことがあったが、毎年恒例になっているらしい。
帰ってきてから知ったのだが(いつものことだが)、この時期だけ横浜限定のチューリップ「ラバーズダウン」の花が見られるという。うーん、知っていればもう少しマジマジと見てくるんだった・・・と思ったが、たぶんあれかな?と思われるチューリップは何気なくではあるが見ている。

横浜は今年、「ガーデンネックレス横浜2019」という大きなキャンペーンを展開中だ。期間も3月23日から6月2日までと長い。秋にも行われるようだが(9月中旬から10月中旬予定)、春の方が規模が大きいと思われる。
主な会場はみなとみらいエリアと里山ガーデンエリア。後者はズーラシアの付近らしく行ったことがないが、みなとみらいエリアはここしばらく私のなわばり(!)になりつつある。先日行った赤レンガ倉庫周辺でもかなり手の込んだ植栽がほどこされており、山下公園も見事に花で埋め尽くされている。

横浜公園のチューリップは品種ごと、色ごとに区分けされて「量」を見せる展開だ。なんでも16万球植えられているとのこと。品種にして69種類だとか!気が遠くなりそうだ。よく見ると赤いチューリップの群生の中に黄色がぽつんと混じっていたりしてほほ笑ましくなる。
ガーデンネックレス全体でいうと60万本の花が咲き誇る・・・そうな。オリンピックを前に開発ラッシュの都内を尻目に横浜市は華々しいことこの上ない。


チューリップはそろそろ見頃を終えるが、その次に控えているのは横浜市の花になっているバラが満を持して登場する「横浜ローズウイーク」のはじまりである。山下公園や港の見える丘公園にはローズガーデンがあり、それらを中心にしてこれでもか!というほどバラを見せるつもりだろう。

いわゆる「花の名所」にはほとんど興味がない私ではあるが、自分のなわばりで起きていることは少し確認しておかないと!?ゴールデンウイークを避けて、少し探りに行こうかと思っている。

*「ラバーズタウン」、今はもう市販されているようだ。

*やっぱり横浜は家族向けというより恋人たちの街なんだなぁ。

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蕎麦を食べに、伊豆まで

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初夏めいた気温の今日、家人が突然伊東に行こうと言いだした。なんでもよさそうな蕎麦屋があるという。落語などでいう「蕎麦食い」かどうかはわからないが、今まで蕎麦はいろいろ試してきた。蕎麦そのものの味を楽しむのはもちろん、まずは酒を飲みながら気の利いたつまみを楽しみ、〆でおいしい蕎麦を・・・そんな楽しみ方をして15年くらいが経過している。

最近は昔ほどあちこち食べ歩くこともなくなり、身近なところでとりあえず、といった感じだった。が、たまには冒険も必要。新規開拓も必要。伊豆の海も久しぶりに見たいし・・・ということで、今日は朝8時のスタート!

 

目指すは伊東の蕎麦屋「蕎仙」。家人がみつけて調べたらしいので、私はほとんど前知識なし。伊東に着いてカーナビに頼ることにしたが、電話番号で検索しても該当なし・・・よくあることだ。では、住所を・・・と思ったが近いところはあっても店の住所はない。まあ、とりあえず近くまで行ってみるか、と急坂を登っていく。乗っているのはVolkswagenのタイプ2。力がないことこの上ないのだが、がんばってくれた。

 

海沿いの道を曲がってどんどん登っていく。こんなところに店などかるのか!という山の中に入っていく。それでも、突然ホームセンターが現れたりするのだから地方はわからないなぁ。薄暗い林道が少し開けたところに店はあった。道沿いでよかったー!

到着したのは12時半を過ぎたころ。店の中には誰もいなかった。その前に、駐車場に車をとめたら、店の脇で休憩しているらしきおじさんがいてニコニコこちらを見ていた。「こんにちは」と挨拶すると「いらっしゃい!」ですって。あらま、お店の人だったのねと思ったらその人が蕎麦を打って作る店主だった。

メニューを見て、基本のせいろとかき揚げを注文。かき揚げは伊豆の名物である生桜海老としらす。少し簿リューミーだったが、ここへ来て食べない手はないでしょ、という感じで。

蕎麦は看板にもあるように十割。が、とても細いためボサボサ感が全くない。つるつる、しこしこでとても美味しかった。つゆは出汁の風味を感じさせつつ、どちらかというとおとなしめ。細い麺にはその方が合うのかもしれないが、ちょっと物足りない感じはした。

 

メニューの裏に、店の蕎麦の特徴と食べ方が記載されていた。いわく、天然わさびを下ろしたものを添えるので、つゆに入れて溶かさず蕎麦にちょん!と乗せて食べるように、とか。かき揚げは添えられた抹茶塩で食べるように、とか。

 

食べ物は基本的に好きなように食べるのがいいと思っているので、店からいろいろ注文が出るのはあまり好きではない。こだわりがあるのはわかるが、アドバイス程度にしてほしい、と思っている。が、今回は言われていることが普段していることと同じなので気にしないことにして、おいしくいただいてきた。

後で調べたら、けっこう有名な店らしく休日には行列ができるという。客あしらいについての苦言も見かけたが、その辺りのことはなかなか難しいのであまり気にしないことにした。私自身はさほど不愉快になることもなく、いい気分で食べられたので。

 

昔は都内の蕎麦屋をいろいろ巡っていたが、ここ何年かは郊外や地方の蕎麦屋に行くことが多い。そして実感するのは、蕎麦はとてもおいしいが、つゆが・・・ということ。都内で店を出しているところは、さすがにその辺りのバランスがいいと思う。が、いい景色を楽しみながら遠出して美味しい蕎麦を食べる喜びは捨て難い。これからも機会をみつけてあちこち行ってみたいと思っている。

19-0418-2.jpg桜海老は今年不漁なんですって。

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| - | 22:09 | comments(0) | - |
わたしを束ねないで

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「ことしの花の・・・」という詩に心惹かれて、新川和江さんの詩を読んでみたいと思った。新川さんに師事している友人Mちゃんのアドバイスももらって、とりあえず2冊注文。先に到着した「わたしを束ねないで」を少しずつ読んでいる。小説などと違って、詩集はできるだけ言葉ひとつひとつを噛みしめ、ある時は立ち止まり、ある時はふり返りしながら読みたい。だから、1冊読むのにけっこうな時間がかかるし、それでいいと思っている。

読み終えてはいないのだが、タイトルにもなっている「わたしを束ねないで」にまずぐっときた。「束ねる」という言葉の妙が光る。おおまかにいえば、何かに当てはめて決めつけないでということだと思うが、それを「束ねる」と表現するところはさすがだ。

「束ねる」とはいくつかのものをまとめることだ。鉛筆であれ髪であれ、まとめてひとつにすることである。「私を束ねる」とは私の中にあるさまざまな「私」をひとくくりにしてまとめ、「こういう人」だと規定することだろう。それを詩人はきっぱりと拒否している。そしてその思いは、私がずっと持ち続けてきたものでもある。

 

わたしを束ねないで

 

私を束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色の稲穂

 

私を止めないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽撃き

こやみなく空のひろさをかいくぐっている

目には見えないつばさの音

 

私を注がないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦い潮 ふちのない水

 

私を名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

坐りきりにさせないでください 私は風

りんごの木と

泉のありかを知っている風

 

私を区切らないで

,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください 私は終わりのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

 

人は出会った人それぞれを、ともすれば束ねたくなる。付きあいがある程度長くなるに従って、この人はこういう人、あの人はああいう人、と。しかし、実際のところ見たり聞いたりしたその人の言葉や態度は、その人のほんの一部でしかない。その一部がいくらか集まったからといって、それが全体を示すはずはないのに。

私は若い時から、ひとくくりにされることを嫌ってきた。それが「束ねられること」と同じかどうかはわからない。わからないが似ていることは確かだろう。新川さんの詩の中でも触れられている「娘」「妻」「母」はもちろんのこと、「女」「大人」などの括りをできるだけ意識せず生きたいと思ってきた。また、そうしたがる人を避けてきたところがあるし、見え透いた括りをわざと裏切るような行動をとったこともある。しかし、本当にそれから自分が自由でいられたかというと、これまた心もとないのである。

ただ言えることは、だいぶ前に人生の後半に入ったことを思うと、できるだけ自分で自分を束ねずにいたいと思う。もちろん社会の中で生きるひとりの人間としての縛りはあるが、縛られながらも時にはそれに抵抗し、時には自由になる部分を気の向くままに動かしながら生きていきたい。

新川さんの詩はまださほど読んでいないが、やさしげな言葉の中に凛とした冷たい光のようなものを感じる。はてしなく流れていく、拡がっていく一行の詩として生きてこられたからだろうか。

| - | 17:07 | comments(0) | - |
Rosa primula

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ロサ・プリムラの蕾がもうすぐ開きそうになっている。もう10年近く手元に置いているだろうか。家に来た時は小さな新苗だったが、以後病気になることもなく毎年のバラシーズン開幕を告げてくれている。しかし、鉢植えの限界なのか、ここ数年枝数を減らして衰えは隠せない。植え替えも毎年しなくなってしまったので、それも影響しているのかも・・・しかし、あらためていいバラだなぁと思うので、今度の冬には新しい土で植え替えたいと思う。

黄色一重の原種である。黄色といっても強い黄色ではなく、やや淡いレモンイエロー。それがピンピネリフォリア節に特徴的な小さな葉(基本的には9枚の小葉からなる羽状複葉)とよく似合って、春まっさきに咲く花にふさわしい初々しさ、みずみずしさを感じさせる。
黄色一重の原種は他にもある。たとえば、ロサ・フゴニス(R.hugonis)。これもプリムラとよく似た優しいレモンイエローの花で、1899年ヒューゴー神父が原産国である中国からイギリスのキュー植物園に種を送ったことから神父の名前が付けられている。一度育てたことがあるが、私の印象ではプリムラよりも全体的に大きい感じ(花や葉の大きさ)がした。しかし、私のバイブルである「オールド・ローズ花図譜」(野村和子)によると平均的な樹高はむしろプリムラの方が高くなっている。個体差だろうか。
実物を見たことがないものに、ロサ・エカエ(R.ecae)、ロサ・フォエディダ(R.foetida)などがある。これらはどちらかというと強く鮮やかな黄色。エカエは中国、パキスタン、アフガニスタンに自生。フォエティダはイラン、イラク、アフガニスタン原産で、現代の黄色いバラの交配親である「フォエティダ・ペルシアーナ」は本州の枝変り。つまり元の元、のような存在だ。

原種の交雑種(ハイブリッド・スピーシーズ)としては、カナリーバード(Canary Bird)、カンタブリギエンシス(Cantabrigiensis)がある。カナリー・バードはクサンティナとフゴニスの交雑種と考えられているらしい。カンタブリギエンシスは「R.hugonis×R.sericea hookeri」と交配が確認されているようだ。覚えにくい名前だが、作出地であるケンブリッジのラテン語形Camtabrigiaに由来するとのこと。
八重の花を入れれば、原種、原種の交雑種で黄色い花のものはもっとある。が、いずれにしても一般的にはあまり見る機会がないのが残念だ。たいていはピンピネリフォリア節で私好みなのだが・・・
数ある黄色い原種(及び原種の交雑種)の中でも、プリムラが一番好きだ。とてもよく似ているものはあるのだが、何故か。だからとても大切にしているのだが、生きているものには寿命というものがあるので、あと何年花を見ることができるのやら。跡継ぎのプリムラを手に入れようかとも思っているのだが、これがどうして販売しているナーサリーが見当たらない。いいバラなのになぁ。

そんなこんなの私の思い入れやら懸念やらはどこ吹く風。ベランダのプリムラは小さな葉を風に揺らしている。花もだいぶ少なくなってしまったが、それでも全力で咲かせてくれているんだと思うといじらしくもなる。今年も名前のとおり一番乗りだろうか。ここ数日間はとくに目が離せない。

*プリムラの様子は、こちらこちらで(ともに2013年春)

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すきになったら

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「猫のエルは」で出会い(1月3日の記事)、3月の個展で大好きになった(3月12日の記事)ヒグチユウコさん。個展会場で手に取った絵本「すきになったら」をさっそく取り寄せ、以来時々ページを開いている。

子供に与えたり読み聞かせたりする絵本ではない。大人のための絵本だと思う。性別も年齢も関係ないが、自分以外の者を心から好きになれる人であれば。
誰かを本当に好きになった時の喜びや切なさ・・・目の前の世界が昨日までとはがらりと変わって見える不思議さ・・・そんな繊細な心の動きが、可憐な少女のモノローグで語られている。少女がすきになったのは優しい目をしたワニである。少女とワニという異色の組み合せが斬新といえば斬新だが、ヒグチユウコさんらしい。
絵本なので絵がメインで言葉はごくごくシンプル。絵本らしくすべてひらがなで表記されているが、それがかえって誰かを愛することの普遍性を醸し出しているように感じられた。

内容は読んでいただくしかないと思う。あれこれあまり説明もしたくない。絵の素晴らしさも実際に見ていただきたいと思う。とても細かくて丁寧な仕事だが、それ以上に発想のおもしろさ、絵から広がる世界の美しさに感動する。
かわいいだけではない、きれいなだけではない独特の世界がヒグチユウコ作品の魅力だ。しばらくは、追いかけてみたいと思っている。

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| - | 19:16 | comments(0) | - |
無園児

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HUFFPOSTの記事に目が留まった。保育園にも幼稚園にも行っていない子供たちが約14万人いる、という調査結果についての記事だった。北里大学医学部公衆衛生学講師の可知悠子さんによる調査で(プレスリリースはこちら)、経済的に困窮していたり、障害を持っていたり、外国籍であるために通園できない子供たちが思っている以上に多いのではないか、との結論に達している。

私が子供のころは、幼稚園や保育園に行っていない子供もザラにいたと思う。今ほど幼児教育の重要性が明らかになっていなかったということもあるし、親たちは忙しいこともあり何がなんでもとは考えていなかったのではないだろうか。

実際私自身も、入園した年(昔は1年保育が基本だった)の7月に引っ越すことになり、それまでバス通園していた幼稚園をやめた。引っ越し先で母はいくつかの幼稚園に私を連れていったそうだが、どこへ行ってもも「通うのはいやだ!」と拒んだそうである。あまりに頑なだったので母もあきらめたらしい。だから幼稚園というものに通ったのは、わずか3ヶ月だけ。それでも特別問題はないとわかったからなのか、妹は全く通っていない。

当時はそれでよかった。小学校に上がっても、幼稚園に通った子供と通わなかった子供に学力の差が出るというようなこともなく、周りにも通園していない子供たちがいくらでもいたから。義務教育は小学校からなのだから、それ以前は自由にしていいという暗黙の了解があったのかもしれない。

現代という格差社会、学歴社会においては、昔のようにのほほんとはしていられないのではないだろうか。各家庭の考え方もあるし、子供の性格にもよるのですべての子供たちが通園できるようにした方がいいと言いきるわけにはいかないのだが、いわゆる「無園児」状態になっている子供たちの実態は正確に把握する必要性を感じる。

記事の書き手である駒崎さんという方は一般財団法人日本病児保育協会理事長という立場もあるからか、幼稚園や保育園が子供たちにとってセーフティネットにもなることを指摘している。なるほど、虐待やネグレクト、あるいは貧困からくる栄養失調などを発見する場として機能することは充分ありえるだろう。

ほぼ同じタイミングで、横浜市港北区内の保育所事情についての記事をみかけた。2019年4月の保育所の待ち人数を調べた結果についての記事で、「50人以上待ち」が特定地域に集中しているとのこと。そして、その特定地域は現在私が住んでいるエリアであり、かつて息子の保育園探しに苦労した地域でもある。

近年、あちこちで新しい保育園を見かけるようになったので、私が苦労していた時期に比べて格段に状況はよくなっているものと思っていたら・・・保育所の数は増えても待機数は一向に変わらないのかと思うとどうにも腑に落ちない。

私の時は、年度途中ということもあったとは思うが、公立は全く入れず私立の認可保育園も空きはなかった。しかたなく無認可の保育園をいくつかあたったがこれも満員。途方にくれていたところ、ある保育園が見るに見かねて拾ってくれた。隣駅で降りて大人の足で20分はゆうにかかる場所だったが、本当にありがたかった。

翌年あらたに申請してなんとか公立の保育園に入れたのだが、今年の調査でそこは80人待ちだそうである。やれやれ。当時とまったっく変わっていないのか!?

何が何でもとは今でも思っていない。が、子供たちを取り巻く環境、社会は私が子供のころとは全く違う様相を呈している。大学の研究や法人レベルの調査だけではなく、国や地方自治体がもう少し熱心に実態を調べてほしい。

自室からベランダに出ると、小さな公園が見える。雨さえ降っていなければ、午前中はいつもどこかの幼稚園、保育園の子供たちが遊んでいる。小鳥の群れのような声が部屋まで聞こえてきて、ああ穏やかだなと思う。楽しそうに遊ぶ子供たちがもっと増えますように。

| - | 15:29 | comments(0) | - |
難読名字

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・・・液体砂時計。オイルモーション、などいろいろな呼び方があるらしい・・・

地名と人名は難読のものが多いと思っていたが、やっぱり。

先日、Amazonプライムでドラマを見ていたら、主人公の名字が変わっていて読めなかった。「リーガルV」というドラマで主演女優の役柄の名字が「小鳥遊」なのだ。さて、なんと読むでしょう。ドラマを見たことがない方ですぐ読めたら偉い!?

答えは「たかなし」だ。鷹がいないと小鳥たちは遊べるということで、「鷹無」が「たかなし」らしい。難読名字にはなぞなぞのようなものが多く、これもそのひとつだろう。似たような名字に「月見里」がある。これは「やまなし」と読むそうだ。月を見るには山がない方がいいということからだって。

中学校時代に「青天目」という名字の教師がいた。「なばため」と読む。由来は今のところ不明。大學時代アルバイト先で名簿の書き写しをした時に出会ったのは「浮気」さん。調べてみると、全国に約150人いるらしいく、思ったより多い。読み方は「うき」「うわき」「ふけ」「うきげ」。「うき」はいいとして、他の3つはあまり感じ良くないなぁ・・・なんて勝手なことを考えるが、ご当人は何かにつけて困ることがあるのではないかと同情したくなる。

閑にまかせて他の難読名字も知りたくなり検索してみた。でるわでるわ、じゃんじゃんヒットする。読みはじめたらすぐに飽きてしまうほどだ。漢数字だけでも6つ。「一」(にのまえ・かず等)、「二」(したなが)、「三」(みたび・みつ等)、「四」(あずま)、「七」(さとる・なな)、「十」(もげき・もぎき等)。かろうじて読めたのは「雷」(いかづち)、「台」(うてな)など非常に少なく、ほとんど読めない!

日本語は複雑で難しいと言われるが、人名はさらに難しいぞ。おもしろいけれど。と思いつつあるサイトの解説を読んでいたら、「姓」と「名字」は違うということを知った。

「姓名」という言葉は普通に良く使われるから、「姓」=「名字」だと思っていたら、実は違うらしい。元来「姓」というものは天皇から豪族や臣下に与えられたもので、「名字」は「姓」だけでは区別がつきにくくなったために自らが考えだしたもの・・・とのこと(参考はこちら)。

たとえば、徳川家康の正式な名前は「徳川次郎三郎源家康」だそうである。「徳川」が「姓」、「次郎三郎」は「名乗り(通称)」、「源」は「名字」、そして「家康」が「名」に当る・・・んだって!海外でもミドルネームなどがあるが、日本はさらに複雑だ。

今まで私の周りには読むのに困るような姓の人があまりいなかった。むしろ、最近流行りのキラキラネームの方に戸惑うことが多い。が、難読名字はキラキラネームよりずっと奥が深いような気がする。雑学としてはとっつきやすく面白そうだ。読み方だけでなく由来まで調べたらさらにおもしろいとは思うが、キリがなさそうなので今回はこれでおしまい!(^.^)

 

| - | 11:42 | comments(0) | - |
蒲柳の質

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ほりゅうのしつ、と読む。身体がほっそりしていて弱く、病気にかかりやすい体質を意味する表現だ。「蒲」はカワヤナギ、「柳」はシダレヤナギのことで、いずれも頼りないくらい枝が細く、夏の終わりにはもう葉を落とすのでかよわさの喩えに使われたのだろう。

この言葉を知ったのは、ネット上で知りあった人のブログ。「昔、蒲柳の質だと言われたことがある」と書かれていた。ブログの文章スタイルや内容から、さもありなんと思った。どこか神経質で潔癖な印象を与える人だったので。そして思った。私には関係ない言葉だなぁ、と。太ってはいなかったがナヨナヨと細っ子いわけでもなく、第一身体は丈夫だったから。

それがどうだろう。あれから15年ほど経った今、なんだか自分の身体に自信が持てなくなってきている。還暦を迎えたころから、次々と不具合が出てきて「絶好調!」と言える日などほとんどない。体調についてできるだけ人には言いたくないし書きたくもないのだが、つい口にしてしまうのは気弱になっている証拠か。

「情けないことを言っていると本当にそうなるよ」と言う人がいる。「これからはそういうことと付きあっていくしかないわよ」と言う人もいる。「誰だってこの年齢になれば似たようなものよ」と言う人も。

特別神経質になっているわけではないと自分では思うのだが、身体が弱くなったと実感せざるを得ない日々。人生には何度か体質が変わる節目のようなものがあると聞くが、そのような時期に当っているのだろうか。うーん・・・

なにも暗くなっているわけではない。考えてみれば、「身体が弱い=人間として弱い」ではないだろう。周りをよく見まわしてみれば、病と闘っている人の方が精神的に強かったりもする。昔、毛利子来(もうりたねき)さんという小児科の先生がいて、優れた育児書を書いて多くの母親に支持された。発行していた雑誌に「小さい・おおきい・よわい・つよい」があり、どれも個性であり優劣はないと伝え続けた方だ。

また、友人のひとりはもう10年以上脳脊髄液減少症という難病とともにある。痩せていて小柄な人だが、性格はきっぱり歯切れよくて私とは気が合った。職種が似ているということもあり(彼女は編集系のライター)、一緒に飲みに行っては楽しい時間を過ごしたものだ。

しばらく連絡を取りあわないうちに、彼女はその難病にかかりたいそう苦労していた。ブログも1年に一度くらいしか更新していないが、過去の記事をすべて読んでみると、その精神力の強さに圧倒される。肉体的な痛みだけでなく、まだ病気として認定されていない病に対する無理解や数々の冷たい言葉から受けた心の傷もあるだろうに。

今の私は、蒲柳の質と言われても仕方ないような状態だが、かといって気持ちは今日一日に、そしてそれを重ねながら続く日々に向かっている。昔のような無理は禁物かもしれないが、まだまだ老け込むつもりはない。いつか、病が癒えた友人と明るい顔をして会いたいしね。

*あら、七賢さん、化粧品はじめたんですか・・・ふーん・・・

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それぞれの人生

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ああ、また見たくなってきた!・・・と思えば即実行。ということで、昨夜は「愛と哀しみのボレロ」を非常にみづらいニコニコ動画で見た。約3時間の映画が11回に分かれていたため多少慌ただしく、画面上部に流れるどうでもいいようなコメントが鬱陶しかったが、無視することにして、とにかく。

この映画は、はじめて日本で上映された時に母、妹と3人で観た。そして、母はなんとなく混乱しているようだった。同じ俳優が親子二代を演じていたりするので、頭の中が整理できないでいたのだろう。私は何度か観ているので全く問題はないのだが、今でもはじめて観る人の中には混乱する人がいるかも・・・

製作・監督・脚本はクロード・ルルーシュ。音楽はミシェル・ルグランとフランシス・レイ。振付けはモーリス・ベジャール。バレエはジョルジュ・ドン。かなり豪華なメンバーである。それだけでなく、先に書いたようにいくつかの国で起きている複数の出来事が同時進行のような形で進んでいき、それが3時間続くというちょっと珍しい映画でもある。

「人生には2つか3つの物語しかない。しかし、それらは何度も繰り返えされるのだ。その度ごとに、初めての時のような残酷さで」

映画冒頭、上記のようなメッセージが流れる。アメリカの作家であるウィラ・ギャザーの言葉らしい。そして、この「繰り返し」が一見単調な繰り返しに聞こえるラヴェルの「ボレロ」と共鳴するのだ。

「戦争」という非常事態に巻きこまれた4組の男女が柱となっている物語だ。それぞれ、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、と別の国で暮しお互いの接点はない。それぞれの立場でそれぞれに巻き込まれていき、その子供たちもまたそれぞれの人生を歩んでいく。そしてラストで彼らは同じ場所に立つ。

そこではチャリティ・コンサートが行われている。コンサートの中心となっている「ボレロ」がドイツ人の指揮者(カラヤンがモデル)の元で演奏され、天才的なバレエ・ダンサー(ヌレエフがモデル)が中央で踊る。途中から男女2人のヴォーカルは加わる。歌っているのはアメリカの著名なミュージシャン(グレン・ミラー)の娘であり、強制収容所で処刑された男の孫である。

それぞれの人生が長い時間を経て偶然同じ場所で交錯し、そこで映画は終る。

原題は「Les Uns et les Autres」で、フランス語では「百人いれば百通りの人生」というような意味になるらしい。邦題をつけるとなると「愛」「哀しみ」が必要になってくるのだろうか。なんだかピンとこないが、決して楽とはいえない、いやむしろ運命に翻弄されたかのような彼らの人生を思えば、やはり「愛と哀しみ」でいいのかもしれないとも思う。

とにかく、物語はとりあえず置いておいてもジョルジュ・ドンのダンスが素晴らしい。これが見たいからこの映画を見たという人も何人か見かけた。年齢的に言ってもドンの絶頂期かもしれず、「ボレロ」だけでなく途中で挿入される「海賊」の踊りも実に見事だ。

以前私がまた観たいと思った時、DVDは発売されていなかった。確かVTRのみだったと記憶する。が、その後めでたくDVD化されたので、いつかは手に入れることになるかもしれない。今はとりあえず「ほしいものリスト」に入れておくに留める(^^;)

| - | 19:10 | comments(2) | - |
雨の日と月曜日は

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朝から雨。そして今日は月曜日。憂鬱になりがちな組み合せだが、毎日が日曜日のような私にはあまり関係なさそう。それに、雨の季節生まれだからか、雨の朝も嫌いではない。静かでいいな、などと暢気なことを思いながら、ふと「雨の日と月曜日は」(Rainy Days And Mondays)を思いだしていた。カーペンターズのヒット曲である。

今聴いてもいい曲だと思う。ゆったりしたテンポで落ち着きがあり、雨の日にぴったり!などと思っていたが、今まであまり気にしてこなかった歌詞を調べるとなかなか意味深長な歌であることがわかった。

雨の日と月曜日はなぜか気持ちが落ち込む・・・その辺りはごく普通の感覚だと思う。が、全体に流れるイメージは目の前にある現実に漠然とした不満を感じながらも冒険もできない。そんな自分の気持ちを持て余している・・・そんな印象だ。

訳し方によって微妙な違いはでてくるのだが、いろいろな訳を読んでみて共通するのは、若い人の歌ではないということだ。これといって不幸なわけではない。むしろ穏やかな家庭の中で、心地よい温度の湯につかるように生きてきた一人の女性。そんな彼女がふと自分の人生はこれでいいんかと立ち止まる。

結局ここから抜け出すことはできないと思いながらも、自分を愛してくれる誰かを探すために家を飛びだすという衝動に身をまかせたいとも思う。それでもやはり・・・そんな感じ?

思えば、中年以降の家庭には珍しいことではないのかもしれない。家庭、家族という社会の中でふと立ち止まる一瞬は誰にでもあるのではないか。立ち止まり、ふり返り、目の前にある風景がいつもと違って見え、一度きりの人生なのにこのままでいいのか、と不安になる。そんなひとときが。

そのまま生きるもよし。思いきって飛び出すのもよし。なにが正しいのか誰もわからないのだから。そう思いながら、この歌の主人公が具体的に存在していたとするなら、彼女はどうしたのだろうかと少し気になったりする。

それにしても、まだまだ若いカレン・カーペンターはどんな気持ちでこの歌を歌っていたのだろうか。むしろそちらの方がより気になる。意味など考えずに聴いていればただ穏やかでいい感じの曲だが、やはり歌う方は意味をよくよく考えるだろうし。

そういえば、「愛と哀しみのボレロ」という映画の中の登場人物であるサラだが、どうしてもカレンとイメージがダブる。あの映画には明確なモデルがいる人物が数人いるが(ヌレエフ、カラヤン、ピアフ、グレン・ミラー)、サラについては定かでない。でも、そういう印象を持つ。ああ、また見たくなってきた!

*なんといっても印象的だったのは、ジョルジュ・ドンの「ボレロ」だったけど(^^;)

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