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プラスティック問題

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・・・久しぶりに立ち寄ってみた青山スパイラル。なにやら奇抜な展示が!・・・

 

昨日の朝のラジオでアオウミガメに起きている異変を知った。メスが急増し、オスがかなり減っているとのことだ。なぜか・・・私は全く知らなかったのだが、ウミガメの性別は孵化する時の温度によって決まるらしい。親カメが海から砂浜に出てきて穴を掘り産卵するのはニュースなどでも見たことがある方も多いことだろう。そして、その穴の中の温度は下に行くに従って低くなる。何度が基準なのかはわからないがある程度地温が低いとオスが生まれ、高いとメスになる・・・というから不思議だ。

ウミガメは生まれたらできるだけ早く海に帰らないと危険だ。ねらっている動物がたくさんいるのだから。で、種の保存の原理から上になっているタマゴから生まれたメスが先に海に戻り、その後でオスがえっちらおっちらと海をめざす。オスがかわいそうだが、それでバランスがとれていたならそれでいいということになろう。

しかし、近年の地球温暖化の影響なのか、地温が下がらず下の方になったタマゴからもメスが生まれているらしい。アオウミガメのオス、ピーンチ!というより、メスが異常に多くなればアオウミガメ自体がピーンチ!ということになりそうで心配だ。

地球温暖化については、だいぶ以前から問題視されており対策も各国で為されているとは思う。それが十分とは言えないのはわかっているし、今後も生活者レベルで考えていかなければならないこともあるとも思う。しかし、生態系にかかわる問題として、温暖化よりもっと気になることがある。

プラスティック問題である。以前からプラスティックを飲み込んだと思われる動物たちが死んだというニュースはたまに伝えられてきた。不用意に廃棄された網に足がからまって溺れたという話も聞いたことがあるような気がする。その度に心が痛んだが、具体的にどの程度のものなのか調べていなかった。

私のところにはグリーンピースなど環境保護団体からのDMが定期的に届く。最近のニュースを伝えるものが多く、時には署名活動への参加などを依頼も含まれる。モノを売らんがためのDMは読まずに捨てることが多いが、こういったものはとりあえずざっと目を通すことにしている。

国際環境NGOグリーンピースは昨年12月27日に南太平洋のヘンダーソン島に流れ着いたゴミについて伝えている。この島は無人島らしいが、島の海岸には周辺海域から流れ着いたゴミがなんと18トンも打ち上げられているとのことだ。ほとんどが人間の活動に由来するゴミで、島はそれらのゴミに覆われているという。

これは極端な例かもしれないが、地球上の海のあちこちで人間由来のゴミが流れ、海を汚染しているのが現状のようだ。

グリーンピースUKはカツオドリ、ツノメドリ、ウバザメなどがゴミによってどれくらい影響を受けているか調べ、海鳥の繁殖地として国際的に知られているベースロック島でプラスティックゴミを確認したとのことだ。

プラスティックを食べてしまったらどうなるか。自分が食べたら、と考えれば簡単だ。窒息するか、内蔵を傷めるかいずれにしても大事である。泳いでいる時にプラスティックにからまれたらどうなるか。動けなくなり溺れる(窒息する)。今、海洋生物がさらされている危機は、人間にもたやすく想像できる危機であり、覚悟さえすればすぐにでも対策を立てられるものだと思う。

実際のことろ、アメリカ、インド、モロッコなどのいくつかの自治体では、完全にプラスティックを使用禁止にしているらしい。たとえば、インドのカルナータカ州では、問屋、小売店、貿易業者もプラスティック袋、プラスティック皿、カップ、スプーン、ラップなどのプラスティック製品を使用したり販売したりできなくなっているという(グリーンピースの記事より)

サンフランシスコは2007年にプラスティックのレジ袋使用を禁止。2014年にはプラスティックボトルを市の私設内で使うことを禁止したとのことだ。2015年にはホノルルで使い捨てのプラスティック袋の使用が禁止され、タスマニアのコールズベイも2003年に早くも禁止。フランスでは大手スーパーで使われていた使い捨てのプラスティック袋の使用を禁止している。

成果的にはまだまだ対策をとっている自治体は少ないかもしれないが、利便性だけを追求して済んでいた時代はとっくの昔に過ぎ去ってしまったのだ。便利だから、手軽だからと当然のように使い、人によっては安易に捨てたりしていたプラスティックが生態系へ大きな影響を与えつつある今、地球人のひとりとして私も考えていかなければと思う。

ゴミの捨て方に気を配るのはもちろんだが、やはりできるだけプラスティック製品を使わないようにしなければならない。が、これがなかなか難しいのだ。家庭ゴミの中に占めるプラスティックゴミがいかに多いか・・・これは日々感じていることである。リサイクルに回すのもひとつの方法ではあるが、そもそもできるだけ使わないようにすればリサイクルの手間も少なくなる。それはわかっているのだが、はてさて具体的にできることはどれくらいあるのだろうか。

スーパーのレジ袋はもらわないようにする。なるべくプラスティック包装でないものを買う。ペットボトル飲料は買わないようにする。食べ物は残さず食べられる量だけ用意する(保存のためのラップ使用を制限するため)、袋に入れなくても問題のないものは商品だけを受け取るようにする・・・うーん、これくらいか。

これくらいでも実行は簡単ではない。まずプラスティック包装でない商品を探すのに苦労しそうだ。また、あったとしても値段が大きく異なれば財布と相談しなくてはならない。やはり個人ができることには限界があり、自治体や国のレベルで真剣に(そして早急に)取り組んでもらいたいものだ。

顰蹙を買うことを覚悟して言えば、私は人類がしたことで人類が苦境に陥っても、それはそれで仕方ないと思っている。もちろん、突き詰めて言えばの話ではあるが。Aという国でやらかしたことのツケが同じことをやっていないBという国に影響を及ぼし、Bがとても困ることになったら確かに理不尽ではある。その理不尽さに怒る気持ちは私にもある。しかし、因果応報はあると思う。いずれAにも自分たちがしたことのツケが回ってくるに違いない。

ひねくれ者と言われようが人類愛がないと言われようが、私は人間がやったことで動物たちが苦しむのがとてもつらい。動物だけでなく植物が危機にさらされるのがつらい。無条件でつらいのだ。何事においても年々いいかげんさに磨きがかかっている私ではあるが、この思いだけは年を重ねるたびにかえって強くなっているような気さえする。

自分の周りを見まわしてみる。ああ、なんとプラスティックが多いことか。途方にくれてしまいそうだが、そうもしていられない。少しずつでもいいから何かをしていかなくては・・・

*昨日は雨だったのであたたかいとは思わなかったが・・・

*気づけば手袋なしでも困らなかった。やっぱりあたたかかったのね。

*そろそろ梅の便りが届くころか。

| - | 08:43 | comments(1) | - |
粗忽はじめ

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私はこう見えて(?)けっこううっかり者である。おっちょこちょい、ともいい、粗忽者ともいう。人間誰しも“うっかり”何かをしてしまうということはあるし、全くそのようなことがない人はつまらない人物のように思える。しかし、同じ“うっかり”でも軽く笑って済ませられる事もあれば取り返しの付かない事もあり、ご愛嬌とばかりは言っていられないかもしれない。

私の場合は、たいていがご愛嬌で済ませられることが多いので(自分で言うかなぁ)まあ問題ないと思っているが、用心しないと取り返しのつかない粗忽をやらかすのではないか・・・忘れっぽいので同じことを繰り返す畏れも十分あり・・・笑っていていいのか!と思うがやはり笑ってしまう。

今年はじめの粗忽も軽く笑えるものでよかった(^^;)

ネットで何かを買うことが習慣的になっていると、慎重さが薄れてミスを犯す。最終確認をしっかりせずに注文したらサイズ違いだったとか、個数がダブっていて同じものが2つ届いてしまったとか・・・値が張るものだとかなりの痛手だが、最悪交換してもらう方法は残っているから自業自得だと思って面倒な手続きをしたりする。

今回は買うつもりがないものを買ってしまった、という粗忽である。金額的にはたいしたことがなかったので不幸中の幸いといいたいところだが、そう考えて自分を慰めるよりも笑ってしまった方がいいくらいのごく軽ーーーい粗忽(だと思いたい)。

年が明けて、わが家の最長老猫みかんの首輪がかなり傷んできたことに気づいた。刺繍糸を編みビーズを付けたお手製の首輪でよく似合っていた。年よりなので激しい動きはしないからずいぶん長持ちしていたが、さすがにボサボサになってきたしうっすらと汚れている。新しいものを用意しようかと思いいろいろ考えた末、ちりめんの丸紐にしようかと思った。

市販の猫の首輪は安全性を考えてセイフティ・バックルを使っているものが多い。猫は狭いところにも好き好んで入り込むので、どこかに首輪がひっかかった場合すぐにはずれるようになっているバックルだ。それはそれで安心できるのだが、ちょっとしたことですぐに外れてしまう、という点が不便。以前ダイスケで何度か試したのだが、若い猫同士とっくみあったりするとすぐに外れてしまう。あきらめて今は首輪なしの状態になっている。

一昔前の首輪はごく普通のバックル(人間のベルトについているような)だったが、少なくともわが家では問題なかった。あまり緩くすると危ないと思うが、適度な余裕を持たせるくらいだったら家の中での事故は考えにくい(その家にもよるが)。しかし今ではそういう昔ながらの首輪を探す方が難しくなってきた。それなら・・・紐を結ぶだけでいいのではないか、と思ったのだ。昔の猫がそうしていたように。

そこで昔風といえばこれ!とばかりにちりめんの丸紐を探したのだった。ボロ市で見ればよかったと思ったが後の祭りなのでネットで探すとすぐに見つかった。ポリエステルなのがちょっと不満だが、首輪なのでまあいいか、と4匹分を選んでポチッとな!

しばらくして、注文確認メールが届いた。それを見てびっくり。私が注文したのは丸紐ではなくて・・・なんと「福笑い」であった。ええっー!

しかしこれは店側のミスではない。そういえば以前福笑いのことをブログに書いた時に、今でも売っているのかなと思って検索したのだ。そして見つけたものが案外おもしろそうだったので、家でやってみようかと思ってカートに入れた。が、「こういう無駄遣いはやめよう!」と思って注文はしなかった。それがカートにまだ残っており、丸紐を頼んだ店と偶然同じ店だったことにも気づかず機械的にポチッとな!をしてしまった。丸紐もカートに入っていたのだが、どういうわけか「福笑い」の注文ボタンのみを押していた。

あああーまたやってしまった!と思ったが、何故かおかしくておかしくて。注文確認メールに添付されている「福笑い」の写真を見ていたら笑いが込み上げてきた。そして、まあいいのではないか、笑う門には福来るっていうし、などと嘯いておしまい!

「福笑い」はしばらくそのままにしておいたが、先日こっそり一人でやってみた。デスクの上に置いてやったのであまり突拍子もない顔にはならなかったのがちょっと残念だが、そのうち床に置いてもう一度やってみようと思っている。

猫の首輪にする紐だが、ひとしきり笑った後で再注文した。面倒だったが仕方ない。この程度の面倒臭さは粗忽者の罰としては軽い方だろう。ちなみに、「福笑い」の価格は540円。そして送料は740円。ね?また笑えるでしょう?

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| - | 09:28 | comments(0) | - |
ある意味、なまもの。

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・・・これは3年前の今ごろの写真。あのころはまだ健全だった?いやいや・・・

 

先週の土曜日(13日)は記事をアップしなかった。忙しかったわけでもなく、具合が悪かったわけでもなく・・・なんとなくタイミングを逃して面倒になっただけ〜(^^;) 寝る前に「あ、そういえば今日は更新していなかったな」と気づいたが、寝る気分でいたアタマが「面倒だからやめとけ」と言うのでその通りにしたまでのこと。

翌日記事をアップした後、毎日更新が途絶えたのは久しぶりのような気がして左側のアーカイブを見てみると、前回書かなかったのは昨年の4月20日だった。うーん、忘れもしないスマホをなくした(取られた)日だ。落胆と腹立たしさと情けなさとにうちひしがれて(!)記事を書く気にもなれなかったのか。忘れてしまったが。

1ヶ月に1週間、PHOTO WEEKと称して文章をほとんど書かない期間を設けてはいるが、まあ毎日だらだらとよく書いているなぁと我ながらおかしくなることもある。「毎日更新」を義務と考えているわけでもないというのに。世間では「毎日更新」を宣言してどうでもいい内容でもとりあえず更新する人や、更新できなかった日に遡って過去の日付で更新する人、逆に更新できないことがあらかじめわかっているので、記事をまとめて書いておいて予約更新(?)する人など様々な「毎日更新」派が存在する。

その人たちが何故「毎日更新」にこだわるのかは聞いてみないとわからないし、聞くつもりもないのだが全くご苦労様なことだと根性なしの私は思う。私にはできないなぁ。

私が「毎日更新」にこだわらないのは、気分次第で書いているということもあるがもうひとつ、私にとって自分のブログがある意味で「なまもの」だと感じているからだ。考えること、感じること、思うことは毎日変わる。昨日とは違うことを考えているのにそれを昨日の日付で更新するのはなんだか気持ち悪いのである。すでに放置されたままになっている私の本家サイトは「Today」という名前だが、そのサイトを作った2000年からずっと私は「今日」「今」自分が何を思うかを最重視してきた。今もその気持ちに素直に従っているだけなのである。

なので、突然ブログの更新が途絶えてもご心配することなかれ。たいていは面倒だったとか、酔っぱらって寝てしまったとか(これは大いにありうるので、更新は基本的に午前中にすることにしている)、そんな理由であろう。具合が悪くて更新できなかった場合は、後ほど一応言い訳するかもしれないが、自分の具合悪さを長々と書くというのもなんだかね。

「なまもの」として今アタマの中に浮かんだのは、「北朝鮮はしたたか」。なんとか無事にオリンピックを成し遂げない韓国をいいように手玉にとっている様子が毎日のように伝えられており、まったくけしからん国だがそのしたたかさには学ぶべきものもあるかもしれないなどと思ってしまう。

我がマスコミも「美女軍団」がどうのなどどうでもいいことを取上げ、相も変わらず情けないことである。もっとたいせつなことがたくさんあるというのに、もしかしてどうでもいいことを故意に選んでいるのか?と思うこともある。指摘するのも嫌なくらい。

大相撲の話題もいまだに取上げられている。理事長が挨拶で不祥事に触れなかったとか、なんだかんだと。「らしい」相撲をせよと窘められた横綱は「らしくない」手を封印したらしいが、内心なにを考えているんだか。「国技」なんだから、と「国技」にこだわる相撲ファンが相当数いるようだが、相撲を「国技」と決めたのは一体誰だ?なんとなーく「国技」だと思っているだけではないのか?それほど「国技」にこだわっているなら(日本という国が育んできた文化を愛しているなら)自分の国の現状をもっとしっかり見て、日本文化がどんどん廃れていっていることを真剣に考えてはどうか。ああ、だめだ・・・次々と文句が出てきてしまう。「なまもの」の味は苦い。

まだまだ苦い話題はあるのだが、それはまたそのうちに。たまにはカラリと笑えるような「なまもの」も欲しいものである。あ、ひとつあったな、馬鹿馬鹿しいくらいだけど。それは明日にでも。

| - | 08:23 | comments(0) | - |
隔世の感

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・・・1月も、もう半分終わっちゃった。ぎゃー!・・・

 

先日、フランス・ギャルやらフランソワーズ・アルディやらの動画を見ていたら、右側フレームに出てくる動画リストにどういうわけか「恋の奴隷」(奥村チヨ)が出てきた。うーん、どうしてだろうか。不思議だったがなつかしかったので見てみた。そして、なつかしさを感じつつ今この曲は歌うと問題視されるだろうと思った。タイトルもストレートだが、女が男の奴隷になりたいという歌詞(なかにし礼さんですねぇ)は、創作としてのものだろう。しかし、なにかにつけて「ハラスメント」という言葉が出てくる昨今、これはまずいでしょう・・・と思わざるを得ない。「あなた好みの女になりたい」という思いは共感できる人もいるかとは思うが。

「恋の奴隷」を皮切りに女性歌手による「昭和の歌」(昭和40年代かな?)ループにはまってしまい、次々と動画を見るハメになってしまった。

当時もかなり話題になったが、「どうにもとまらない」(山本リンダ)にはあらためて感心してしまった。“こまっちゃうな〜”と甘ったれた声で歌っていた山本リンダが大幅なイメージチェンジをした時はテレビの前でみんな口を開けて驚いたのではないだろうか。

プロポーションがいいことはもちろんだが、歌だって下手ではない。ラテン風のリズムに乗って踊る姿はエンターテイメントとしても十分見ごたえがあると思った。別の動画で「どうにもとまらない〜狂わせたいの〜じんじんさせて〜狙いうち」のメドレーがあるが、この時リンダさんおいくつだったのだろうか。かなりエネルギーを消耗しただろうが、見事に歌いきっている。今のアイドルたちとは歌に対する執念も人間としての根性も違うような気がした。それにしても、阿久悠さん、いい仕事しましたね、やっぱり。

もうひとつ印象的だったのが、「他人の関係」(金井克子)だ。クールな大人の関係を歌った曲だが、ダンスが本職の金井さんがほとんど動かさず、無表情で歌っていたが手を左右に動かすポーズが印象的だった。歌詞も「恋の奴隷」とは正反対で、内容としてはこちらの方が画期的であったように思う。まだ、男尊女卑の考え方が珍しくない・・・いや、男性の中にある潜在的な欲望が歌になる時代だったのだ。たぶんそれを念頭に置いた上で、女性の側からクールな「他人の関係」を歌ったところに新しさがあったと思う。一青窈がカバーしているが、全然問題にならない感じ。女としての器が違うような気がする。

二人の歌手の動画を見ていると、周囲あるいは背後で男性ダンサーが踊っている。昔はひとつの演出としてよくあることだったのを思いだして、またなつかしくなった。今見るとなんとなく笑っちゃうわけだが。

山口百恵さんなどが出てくる一時代前、まだまだ歌番組の視聴率が高く、また数も多かった時代。時代にもまれた歌手たちはあきらかに、今のアイドル歌手より格段に歌が上手い。プロダクションの力が今ほど幅をきかせていなかったのではないだろうか、個人の実力がものをいう時代であったと思う。最近はほとんどテレビを見ないし、歌番組そのものも少なくなり、固定ファンだけのものになっているような気がする。昔の動画を見て、隔世の感を感じるのは私だけではないだろう。

「どうにもとまらない」を見ていたらアン・ルイスを見たくなり動画を探した。私はいわゆる清純派のお嬢様歌手よりも、どこか突き抜けた感じがする人の方が好きだ。吉川晃司とからみあう「六本木心中」なんていいですなぁ。

| - | 08:39 | comments(2) | - |
ギャルとアルディ

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数日前、フランス・ギャルの訃報が伝えられた。70才だったという。失礼ながらもっとご高齢かと思っていた。それほど昔々の人という印象が私の中にあったのだろう。

フランス・ギャルといえば、日本ではかの「夢見るシャンソン人形」(なんだかなぁ、のタイトル)がとみに有名だろう。CMなどにも使われている印象的な曲だ。一度聞いたら鮮やかに記憶に残るこの曲を作ったのは、もちろん(!)わが愛するセルジュ・ゲンスブール。

ギャルは著名な作詞家の父を持つ育ちのいい娘だったようだ。無邪気で世間知らずだったらしく、母親が彼女の歌手活動に熱心だった、今で言うステージ・ママだったという話をどこかで読んだ記憶がある。しかし、そんなママがついていながらゲンスブールのいたずらにまんまとはまってしまい、「アニーとボンボン」を歌う。これは一応比喩的な表現をしているもののけっこう露骨に性的な内容の歌詞の曲で、ゲンスブールは悪意はなかったかもしれないが、それを無邪気なお嬢様のギャルに歌わせて内心ニヤニヤしていたのだろう。人が悪いとも言えるが、これだけ単純ないたずらに引っかかってしまう方もちょっと・・・ね。曲が発売された後でギャルはこの事実を知り、大いにショックを受けてゲンスブールとの関係を断ったというが、ひねくれ者の私は気の毒がりながらもニヤニヤしてしまう。

当時の動画を見ても、作られたお人形のようで歌手としての魅力は感じられない。ただ、当時の日本人にとっては非常にわかりやすい「シャンソン人形」として魅力的だったのだろう。まあ、彼女の魅力よりも曲の魅力によってヒットしたのだと私は思っているが。

私の中では、フランス・ギャルと対照的な存在としてフランソワーズ・アルディがいる。彼女もゲンスブールによる「さよらなを教えて」が日本でも大ヒットした。「X」の韻を踏む歌詞がとても印象的で、透明感のあるアルディの声とぴったりだ。つくづくゲンスブールはうまい!と思う。

あらためて当時のアルディのビデオを見てみると、ギャルにはない意志のようなものを感じる。同じくらいの年齢なのかもしれないが、理知的でありゲンスブールのいたずらにひっかるようなことはありそうもない感じだ。

事実しばらくしてアルディはゲンスブールを離れて独自の道を歩んでいく。だからといってギャルのように絶縁状態にはなっていなかったようで、のちにゲンスブールの妻になるジェーン・バーキンとも親しくデュエットをしたり、ゲンスブールのトリビュートアルバムに参加したりしているようだ。

一時引退宣言をしたようだが、後にカムバック。ミュージシャンであり俳優でもあるジャック・デュトロンと結婚しデュエット曲もある(2009年2月4日、同3月8日の記事で触れている)。

フランソワーズ・アルディは好きなミュージシャン(歌手というよりその方がいいと思う)で、以前は繰り返し聴いていたものだ。多くのミュージシャンに影響を与え、ユーミンも「私のフランソワーズ」という曲を作っている。しばらく聴いていなかったが、iTunesに入れてあるので久しぶりに聴いてみようかな?

 

*あの当時“おフランスの”歌は独特の魅力がありますなぁ。

*シルヴィー・バルタンの「アイドルを探せ」とか。

*邦題が・・・なにゆえに?っていう感じだけど。

| - | 06:18 | comments(0) | - |
最近とんと洋服を買わなくなった件

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・・・「ふくなんか、このじょうとうなけがわいちまいでじゅうぶんだもんね!」・・・

昨年末、なじみの美容院のスタッフにあげると約束していた洋服を袋に入れていて、そういえば最近とんと洋服というものを買わなくなったな、とくに今年は・・・と思った。一年間で買った洋服は何かと思いだしてみたが、下着や靴下などをのぞき長袖のTシャツ2枚だけだったのには我ながら驚いてしまった。

着るものに関する興味は子どものころからあって、小学生のころから自分が着るものについては親まかせにするのがいやだった。買う時は必ず付いていって、値段さえ折り合えば自分が欲しいものを買ってもらっていた。母が知人で機械編みをする人に私と妹のカーディガンを編んでもらうことにした時も、毛糸を買いに行くのに同行してグレーの糸を選んだ。でき上がってきたカーディガンに母が刺繍をするというので、そのための糸の色まで選んだ。臙脂色とサーモンピンクの細い毛糸で小さな薔薇がたくさん鏤められたカーディガンは長い間お気に入りだった。

そういうわけで、今までに洋服に費やした金はかなりのものになると思う。若いころはそれなりに流行を追いかけたし、デザイナーブランドのものもけっこう買った。失敗やら無駄やらも多かったが、それはひとつの授業料だと考え(半分は言い訳ですな)、懲りもせず洋服を買ってきた。

しかし、年を重ね、仕事もどんどん減ってきて気を張って人に会う機会も昔に比べたら格段に少なくなった。スーツを着なくてもあまり顰蹙を買わない職種だったが、それなりに「きちんと感」は必要だったが、そういった洋服も増やす必然性がなくなった。

それでも、子どものころから身に付け続けてきたデニムについてはそれなりにこだわりがあって毎年1本や2本は買っていたと思う。オーバーサイズの服が似合わなくなったので、冬の定番であるタートルネックのセーターもリブ編みのフィット感があるものにした。

買う枚数は少なくなったものの、かくのごとく毎年洋服を何枚か買ってきており、改めて見まわしてみれば1年か2年着ていない服が何枚もあるという有り様。これじゃいけない!と気まぐれに処分したり誰かに送ったりしたがその分増えるので全体数はあまり変わらないような・・・

しかし!ついに洋服を買いたいと思わなくなる時が来たのだった。長い間「増やしたくない」と思ってきた気持ちが飽和点に達しつつあったことに加えて、決定的なものが現れたのだ。そう、きものだ。

きもの地獄にはまって以来、洋服に対する興味が薄れた。全くなくなったわけではない。しかし、今持っているもので十分、増やす必要はないとごく自然に思うようになり、その結果買わなくなったのだ。

なにせ、きものは金がかかる。一枚数千円のTシャツのようなわけにはいかぬ。そして私は納得できるものでなくては嫌なので、妥協にも限度がある。洋服なんぞに金をかけている場合ではない!ということになったのである。

また、和箪笥を持たない私はきものや帯の収納場所を作らねばならない。そのためには洋服が占めている場所を空けなければならない。増やす事は絶対にあってはならないと相成る。欲しいと思っているのに買わない、買えないというのはつらいが、欲しいと思わなくなったので買わないことも、どんどん減らすこともあまり苦にならなくなってきた。

と、ここまで書いてきてまた新たな危険(!)を感じてきた。洋服に関する興味がきものに移っただけじゃないの?と。そして、きものは洋服に比べて「地獄度」が高いのでは?と。洋服を増やすのときものを増やすのでは経済的な負担がかなり違う。それがネックとなって思うように増やすことはできないだろうが、増えに増えた洋服の二の舞いにならないよう気をつけなければ、と思っている。

まあ、私の人生も三分の二はもう消化していることだし、あとどれくらい残っているかは神のみぞ知るわけだから洋服のように増やすことはないだろう・・・と言いつつ、今年欲しいものが頭の中でいくつもぐるぐる回っているのはどうしたわけか。まったくもう!

 

*最近ふくが我が物顔で部屋に入ってくる。

*トイレに入っている間に忍び込み、部屋に戻るとデスクの上に。

*悪びれる様子は全くなし。そこがいいところなんだけど。

| - | 10:40 | comments(0) | - |
ユージン・スミス写真展

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平年並の気温なのだろうが、昨日は風が強くて寒かった。長々と続くスカイウォーク(動く歩道)を経て横断歩道を渡り、東京都写真美術館に向かう道は北風ピューピュー!ペラペラの私は身をかがめてなんとか歩を進めたが、久しぶりに風の「力」を感じた日だった。

そうして向かったのは「ユージン・スミス写真展」だ。今年は生誕100年に当るらしいが、昨年水俣病についてあれこれ読んだり考えたりしていたことを思うと、なかなかのタイミングだと思う。昨年11月30日の記事でも少し触れているが、ユージンの「MINAMATA」は彼の仕事の中でも代表的なもので、水俣以前の写真も見たいと思っていたところだった。

ユージン・スミス〜水俣に捧げた写真家の1100日」という本を読んでいるので、水俣に至るまでの経歴はざっとではあるが知っていた。しかし、あらためて時代を追ってその写真を見てみると、この人は人が、とくに働く人が好きであり、労働や生活の場での撮影が多いことに気づく。

また、長年「ライフ」と契約していたこともあり、報道写真家としての一面も持っているわけだが、一般的な報道写真とはやはり違うスタンスを感じた。雑誌社と契約しているということは、撮る側の意図がすべて反映されることはない。撮る側と雑誌を作り販売する側との闘いが多かれ少なかれあるのは必然で、ユージンもまたかなり「ライフ」とはもめたようだ。

「ライフ」時代、ユージン・スミスが考えたのは組写真による「フォトエッセイ」であった。「エッセイ」とは普通「随想」「随筆」を意味し、書き手が思いのままに自分の意見や感覚について表現するものと捉えられている。写真によるエッセイ、ということは通常報道写真に求められる「客観性」と矛盾するところがあり、その辺りが「ライフ」との確執の原因だったのではないかと思われる。

彼はジャーナリズムから「客観」という言葉を省きたい、といつも言っていたという。それなら自らの主観のみに基づいて自由に伝えればいいのか、というとそうではない。ジャーナリズムの中に在る「客観」には「先入観」が含まれているが、その「先入観」に基づき取材すれば「真実」は見えてこないということだと思う。「先入観をもちながら、出来るだけ公平に正直に目撃する事実を見つめ、それを伝えていく、その姿勢が大切である」とかつての妻であり水俣で共に仕事をした相棒でもあったアイリーン・美緒子・スミスは書いているが、これはユージンの考え方そのものだろう。

印象的だった作品はいくつもあったが、たとえば「ライフ」の要請に従って取材した「カントリードクター」のシリーズ。コロラド州の小さな町で医者をしているアーネスト・セリアーニの日常を撮影したもので、往診に出かける様子、子どもを診察する様子などとともに患者を死なせてしまった時の様子が撮られていた。「分娩中に母子を死なせてしまったアーネスト・セリアーニ医師」というタイトルの写真は、白衣を着たまま左手に煙草、右手にコーヒーらしきものが入ったカップ&ソーサーを持った医師の様子を撮ったもの。放心したように視線を下に向けた医師の胸中が伝わってくるような作品である。

スペインの貧しい村を描いたシリーズもいい。貧しい暮らしの中で人々は懸命に働き、生き、そして死んでいく。「通夜」と題された写真は、亡くなってしまった男とその親族を撮ったものでとても絵画的な写真だと思った。意図した構図なのかどうかはわからないが、どこかキリストの骸を前に悲しみにくれる人々を思わせる。

展覧会はやはり「水俣」で締めくくられていた。昨年写真集を図書館から借りて見ているので、見た事のある写真ばかりだったがプリントされた写真を直に見るのはやはりいい。願わくばもう少し数が多いとよかったのだけれど。

美術館では、写真展開催期間中に限り4階の図書室でユージン・スミス関連図書コーナーを設けているようだ。ここの図書館は前から一度行こうと思いつつ写真展を見て帰ってきてしまっている。美術館も絵や写真を見るだけでなく学ぶ場でもあるということをもう一度頭に入れておかなくてはなぁ。次に行く時にはぜひ図書館にも行ってみたいと思っている。

まだ1月だが、今年は行きたい展覧会が盛りだくさんになりそうだ。すでにあと5つほど行きたいと思うものがある。そのうちの一つである「仁和寺と御室派のみほとけ」(トーハク)は混雑するのを承知で行こうと思い前売り券まで購入済み。横浜美術館に石内都を、国立近代美術館に熊谷守一を、日本民芸館に棟方志功を、ザ・ミュージアムに猪熊弦一郎を・・・すべて行けるかな?

*ユージンの組み写真によるフォトエッセイを見ていたら思いだした人がいる。

名取洋之助・・・この人の仕事もなかなかおもしろい。

| - | 09:58 | comments(0) | - |
晴れ着ね・・・

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成人式に着る晴れ着が当日になって着られなくなった・・・いきなり契約していた店が閉店してしまって途方にくれる若い女性たち・・・のニュースが盛んに取上げられている。まったくひどい話である。少しずつ状況が明らかにされつつあるようだが、業績不振は数年前からだったらしいから、これはもう計画的な行動、つまり詐欺であろう。被害に遭われた方々は本当にお気の毒だ。

それでもテレビでは成人式当日の振り袖姿が何度も映され、晴れやかな顔をした女性たちがインタビューに応じていた。足の先から頭までこれでもか!というほど飾り立てたその姿は、若いからこそのものだと改めて思いながら見ていたのだが、「さぞかし重たいだろうなぁ」「寒くないのかなぁ」などと思うことはひどく現実的。似合うかどうかといえば、うーん・・・人によるかな?(と、ごまかしておく)。

成人式の晴れ着といえばもちろん振り袖で、ピンからキリまでお値段はいろいろだろうが決して安いものではないだろう。そして着る機会は成人式の他一度か二度あればいいのではないだろうか。そういうものに金を払うのはもったいないということで、レンタルで済ます人が多いのも頷ける。

着付けとなると、これはもうよほど上手な人でなければプロに頼らざるを得ないだろう。とくにあの帯!あれは自分では決して結べないと思う。下手すると2人がかりでないと結べないのではないか。晴れ着一式のレンタル、着付け、へアセット(ヘアアクセサリーも)、メイク・・・「一生に一度」の思いでのために大変な金と労力がかかっているんだなぁ、と妙に感心してしまう。今回詐欺を働いた業者についても、2年前から契約していたとか60万円払ってしまったとか。いやはや。

以前にも書いたような気がするが、私は振り袖というものを着たことがない。当日はアルバイトをしていた。妹は大学進学をあきらめる変わりに着物を買ってもらう約束をしていたが、周囲のアドバイスにより振り袖ではなく付け下げを作ってもらっていた。淡いクリーム地のもので、「これなら30代、40代でも着られる」と言われていたと思う。帯を選べばたぶんその通りなのだろう。

ガリガリに痩せていた妹は山口小夜子ばりのボブヘアできっちりメイクをし、その着物を着て当時付き合っていたボーイフレンドと写真に納まった。父が写真を撮っているとき私も傍らで見ていたのだが、にぎにぎしい振り袖よりもずっといいと思ったことを覚えている。メイクが濃すぎるような気はしたが。

その着物は妹が一番好きだった伯母が亡くなった時に棺の中に入れた。もう着るつもりもなかったのだろう。帯はどうしたのだろう。どんな帯だったか全く記憶にないのだが、きものに興味を持ちはじめたら気になってきた。たぶん帯で若々しさを出したはずなので、もういらないとばかりに処分してしまったのかもしれない。今度聞いてみよう。

昔は子どものうちに命を落とすことが多かったから、20才を迎えることはたしかにめでたいことだったのだろう。しかし、今となっては成人を迎えるのは特別なことでもないし、本人もまだまだ子どもっぽい人が多い。単なるイベントにすぎなくなっている成人式のために、みなが一様に晴れ着を着る習慣もそろそろ考えてもいいような気もする。母親や祖母のきものが合えばそれを着てもいいし、着るもの以外に目を向けてもいいのではないだろうか。

とはいえ、娘を持ったことがない私が言っても説得力はないだろう。晴れ着は母親の楽しみでもあるようだから。今回のようなことがあると業界全体の信用度が落ちると懸念する業者もいるようだ。ネットなどで気軽に予約できるのもいいが、堅実に営業している店を自分で探して近くの美容院で着付けしてもらうなどの方法も見直してもいいかもしれない。いかがなもんでしょうかね。

*肩を出して「夜鷹」みたいな着方をしている連中がいるんだって!?

| - | 09:34 | comments(6) | - |
年賀状ね・・・

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年賀状を出さなくなって4年経った。それでも、徐々に数は減ってきているものの毎年賀状を下さる方々がおり、昨日はその返事を書いたりしていた。年々字を書くのが億劫になっているが、いただいた方々には必ず返事は出す。それが礼儀というものだろうし、年賀状だけの挨拶にしろ縁は縁だから。

今日から年賀ハガキを出すには10円切手を貼り足すことになっているが、それを知っている人はどれくらいいるかという話題を今朝のラジオが取上げていた。たしか昨年6月あたりに普通ハガキは52円から62円に値上げされたと思う。年賀状を送る人が年々減っているので、郵便局としては苦肉の策として年賀ハガキに限り52円で販売したのだと思う。が期間を限定したことが状況を複雑にしてしまった。

郵便局としては年内に買って年内に出す人を対象にしたのだろうが、年が明けてから返事を出す人もいる。年賀状は元旦にすべて届くというわけではないから、出すのが7日過ぎになるということはザラだ。しかも今年は7日が日曜、8日が祭日で配達がない。当然今日あたりに出そうという人が多くなると思うが、知ってはいても10円切手を買うのに並んだりしているらしい。

元旦に届くよう出すのが年賀状の基本ではあるが、様々な事情により出すのが遅くなる人もいる。郵便局の都合のみを考えた、ちょっとアサハカなもくろみだったようにも思う。ジャニーズ事務所のタレントを使ったキャンペーンも今ひとつ説得力がなかったし。

そもそも、若い人たちは年賀状などほとんど出さないのではないだろうか。LINEなどを使って気軽に新年の挨拶をするのが当然のことのようになっている。中年以降の人たちも、これだけネットが普及していればわざわざハガキを買って印刷して出す、ということをしなくなっているような気がする。また、これは個人的な考えだが、印刷しただけで手書きが全くない年賀状をもらうくらいなら、メールで新年の挨拶をしてもらった方が気楽である。

高齢になったため年賀状を欠礼するという人も増えていると思う。そろそろ、前の年のうちに翌年に届くことを前提として「旧年は・・・今年も・・・」と書いて出すのを義務的に考えるのはやめにしたらどうだろうか。本当に新年の挨拶をしたければ年が明けてから寒中見舞いをかねてゆっくり書いて出せばいいような気がする。実際に新年を迎えての所感もあるだろうし。

久しぶりに20枚程度のハガキを書いたら手が疲れてしまった(^^;) 字もだいぶ下手になっている。普段から文字を書かなくなってからは下手になる一方で情けないことだ。しかも縦書きが出来なくなってしまっている。

小学校中学年くらいから高校生まで近所の書道教室に通っていた。だから、20代前半くらいまでは縦書きがどちらかといえば得意な方だった。しかし、コピーライターの学校に通いはじめてから書体を大幅に変えた。横書きの原稿用紙の升目いっぱいに書く書体が「コピーライターらしい」書体だと教えられたのだ。当時はまだインターネットはさほど普及しておらず、原稿はすべて原稿用紙に手書きしており、原稿の書体でクライアントの印象が大きく変わると言われてしまっては、変えざるを得なかった。

そして、その「コピーライター」らしい書体は縦書きには馴染まず、以来ノートにしても手紙にしてもすべて横書きしかできなくなってしまったのだった。うーん・・・

心を込めて新年の挨拶を手書きするのなら、できれば縦書きで、流れるような書体で、と思う。古風でしょうかね。理想は筆を使ってすらすらと・・・なのだが、それはもう一度習い直さないと。近所のスナックのママさんが書道教室をやっているようで以前から気になっている。堅苦しくない教室で書道をもう一度はじめてみたいような気がするのだがいつになることやら(^^;)

年賀状にしろ暑中見舞いにしろ、私的な便りは自筆に限ると思っている。下手でも手書きの便りにはその人のぬくもりが感じられて嬉しくなる。億劫だ、字が下手だ、と言わず、機会をとらえて今年も書いていきたい。

| - | 09:08 | comments(0) | - |
ごく普通のチャーハン

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特定の何かをどうしても食べたくなるということがある。それは大抵、凝った料理ではなくごく普通のありふれたものだ。しかし、「○○○の」という店の名前が前に付く。カレーだったりラーメンだったり蕎麦だったり、そしてチャーハンだったり。

昨日は無性にチャーハンが食べたくなり、地元駅前の店まで行ってきた。中華屋というよりもラーメン屋である。そこのチャーハンが私は一番好きなのだ。ごく普通のチャーハンなのだが、気どった店で食べるチャーハンよりもよほどおいしい。そもそもチャーハンなどというものは(バカにしているわけではなくて)、気取る必要もなく、シンプルな具材と油の味でささっと仕上げるものなのではないかと思う。

入っているのは、ネギ、チャーシュー、ハム、そしてタマゴ。ご愛嬌に彩りを添えるグリーンピースがちらほら。ハムとチャーシューという肉類が2種類入っているところが個性と言えなくもないが、見た目はどこにでもあるようなチャーハンだ。

あのおいしさの要は油にあると思う。様々なものを炒めて味がついた油が、「ああ、これがチャーハンだよね!」と思わせる味になる。難しい料理だけでなく、こういったシンプルな料理の中にも家庭では出しえない味というものがあるということだろう。

チャーハン以外にも時々無性に食べたくなるものがある。一人前をすっきりと食べられなくなって久しいので、ラーメン屋などにはほとんど入らないが食べたくないわけではないのだ。麺類はさっさと食べないと麺がみるみるうちに伸びて悲惨なことになる。量だけでなく、ゆっくりしか食べられない家人にとってもラーメン屋は鬼門だ。とくに回転が速くて次から次へと客が入れ替わる店や人気があるため外に行列ができるような店は早く食べなければと急かされるようで気が気ではない。

葉山マリーナの近くに「あぶずり食堂」という店があるのだが、そこのラーメンがおいしい。本格的なラーメンではないと思う。厨房にいるおばちゃんたちが作っているシンプルな醤油味のスープがおいしいのだ。具はネギ、チャーシュー、メンマ、なるとくらいであっさりしている。魚の定食が人気のようだが、ラーメンもなかなか。

カレーのお気に入りは新宿のボンベイ。日本人はカレー好きでもあるので新宿でも数えきれないほどカレー店があると思う。あれこれ食べ歩いていないから何ともいえないのだが、かつて何度か通ったので愛着もある。新宿、カレーとえいば中村屋も有名だが、私はボンベイのインドカレーが好き。時々たまらなく食べたくなるが、わざわざそのために新宿まで出て行く気力はない。食べ物に関する私の執着はその程度なのだ。

チャーハン、ラーメン、カレー・・・どこにでもあるこんなものたちが実は奥深い食べ物だったりする。それにしても・・・満腹状態で食べ物のことを書いていたらちょっと胃がムカムカしてきた(^^;)。今日はここまで!ちゃんちゃん!

| - | 09:17 | comments(4) | - |
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